第70話 俺の思い

 「・・・」


 俺は何を言い返せば良いのかわからなかった。このオーディションに参加したモデル達は、夢を掴むためにあらゆる努力を積み重ねた結果このオーディションに参加している。それに対して俺は鼓さんに言われるがままにこのオーディションに参加したのである。オーディションにかける思いが全く違う。俺は一体ここに何しにきたのだろうか?俺はオーディションに参加してもいいのだろうか?いっそこのまま上限坂のようにオーディション会場から出て行った方がいいのだろうか?俺は自分自身に問いかける。

 もちろん答えなんて出てこない。俺にはモデルになりたいという熱い思いはない。だから、自分の中で葛藤するほどの気持ちがないのが本音であった。


 「何も言い返せないのね。自分の立場をわきまえているなら、潔くここから立ち去るのが賢明よ」

 「私もそう思うわ。この場に立つことが出来るのは、この場に立ちたいという熱い気持ちがある者だけ。あなたにはその気持ちを感じる事ができないわ」

 「1人で会場を出る事が出来ないのなら五月雨さんに手を引いてもらって出て行くといいわ。誰もあなたを見たいなんて思わないの」

 「モニターを見ろ。お前が退場することを視聴者様が望んでいるぞ。今、お前に出来る事はその姿を見せる事ではなく、その姿を消し去る事だ。視聴者様もコネで参加したお前に興味はないのだ」


 モニターのコメントも俺に出て行けと催促するコメントで埋め尽くされる。


 人はなぜこうも攻撃的になれるのだろうか?オーディションに参加しているモデル達がライバルを蹴落とす為に、俺に対して攻撃的になるのは当然だ。それがこのオーディションの趣旨だからである。でも、視聴者が参加者に対して攻撃的になるのはなぜなのだろうか?俺達のやりとりを黙って見ている事は出来ないのだろうか?答えは出来ないだ。匿名で意見を自由に書き込むことが出来るこのシステムは、人々の心を掌握した。人は陰口・悪口を言うのが一番楽しいと言っても過言ではない。

 職場でも学校でも、一番盛り上がるのは陰口・悪口である。人は誰かに対して怒りや苛立ちを感じながら生きている。その怒りや苛立ちを誰かと共有することで満足感を得る事が出来る。ここで大事な事は満足感を得ることである。怒りや苛立ちを感じる相手など本当は誰でも良い。ただ、誰かの悪口を言って満足感を得たいのである。この満足感は欲望の一つでもあるので、満足感を得ると気持ちが良く心を爽快にしてくれる。

 職場や学校での陰口・悪口は匿名でないので規模は小さくなってしまう。しかし、ネットでのコメントは違う。匿名で書き込みができるので多くの人が書き込んで大規模になってしまう。しかも、同じように同調してくれる仲間が大勢いてくれるので書き込みにも熱が入る。自分のコメントに誰かが賛同してくれれば、自分がヒーローになったかのような満足感を得る事が出来る。そして、自分のコメントを見て失望した人を見ると、その満足感は得体のしれないくらいに気持ちが良い。この快感を覚えた者は、二度と匿名のコメントを辞める事は出来なくなる。それほど匿名のコメントは中毒性の高い危険な薬のようなモノである。

 

 俺はこのままこの場から逃げた方が楽だと思った。俺はここに集まったモデル達と違って【大阪エボリューション】に出たいわけではない。嫌な思いをしてまで口舌バトルを続ける理由はない。だが、ここで逃げ出すのは少し違うとも俺は感じた。この場から逃げ出せばつまらない口舌バトルに参加しなくても良いし、視聴者からヘイトを投げかけられる事もない。しかし、俺が逃げ出せば参加者•視聴者の思うツボであり、敗者の烙印を背負う事になる。それには俺は納得がいかない。


 「俺はシルバー事務所から推薦をもらってこの場所に来た。動機が不純だと思う人も多いのだろう。でも、俺はその考えは間違っていると思う。俺をこの場に薦めてくれた事務所の方は、俺に期待をしているからこの場に送り込んだのだ。俺はその期待に応える義務があり、その義務を果たすこそが仕事だと思う。俺は与えてもらった仕事を一生懸命にやり遂げる」


 俺をモデルにスカウトしてくれた鼓さんや銀さんの為にも、ここで逃げだすわけにはいかない。勝負に逃げたら何も得るモノは無い。逃げずに戦ってこそ何か得ることが出来るはずだ。


 「その考えは間違っているわ。この場所に立てる者は、自分の意思で自分の夢を掴みたい者だけが立つことが出来るのよ。あなたのような他人の為にがんばるなんて素人の浅はかな考えだわ」

 「私達は自分の為でもあるけど、事務所の期待も背負っているのも確かよ。全ての事務所に推薦枠があるわけではない。推薦されていなくても事務所の期待は背負っている。それを戦う理由にあげるのは間違っている」

 「義務とか言っている時点であなたは終わっているわ。私達は義務じゃなく強い意思で仕事をしているの。モデル業界を舐めないで」

 「俺からは何も言う事は無い。お前は余りにもレベルが低すぎる。口論する意味がない」


 モニターにも俺の考えを批判するコメントで埋め尽くされ、俺の合格は絶望的となった。

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