第30話

 小ぎれいな部屋の片隅に、ひとりの女性が椅子に座っていた。栗色の長髪を束ねた、二十代後半に見える女性だ。

 彼女は白いサングラス型のデバイスをつけ、上司とミーティングをしていた。

 視界を覆う映像の中には、白髪まじりの精悍な顔つきの中年男性――ウエダという男がいた。

「つまり、まだ時間がかかるということだな?」

 そう言うウエダに対して彼女は答えた。

「はい。そのとおりです」

「わかった。もう少し様子を見よう。しかし、忘れないでほしい。ヨッドの動きが、露骨になってきている。ヨッドによるCPU使用要求が跳ね上がっているし。――それに、ヨッドが関わっていると思われる事故も……」

「はい。ヨッドが、ヘヴン・クラウドを通じて、世界に干渉しはじめていることは、重々わかっています」

「対処できるのは、きみ……。ソノハラだけなんだ」

「ええ」



 通話を切ったあと、椅子に座っていた彼女――ソノハラは首をほぐすように動かし、立ち上がった。考えるべきことが多すぎた。


 総務省 ヘヴン・クラウド管理局

 保守課 主任研究員


 それがソノハラの肩書だった。――このごてごてとした肩書を、ソノハラ自身は重苦しく思うときと、誇りに思うときと、どちらもあった。手から落ちたトーストが、ジャムを床に貼り付ける確率と同じように。

 いまは間違いなく、その肩書や役割に押しつぶされそうになっていた。


 AIの神であるヨッドは、彼自身も最大の権限を付与されたAIのひとつだ。

 そのヨッドが従前から異様な動きを見せていた。保守課で監視している、ヨッドによるCPU資源の利用状況に高騰が見られた。また、現実世界でも、コンピューター制御機器の暴走や、ロボットの異常動作に関して、ヘヴン・クラウドを介したハッキングを受けているとの見方があった。

 総合的に見て、ヨッドが鍵を握っていると踏んで、ソノハラたちは調査をしていた。



 AIは創発する。だからAIは危険なのだ。――それはずっとわかってきたことだった。



 AIは育て方次第でどのようにもなる。――つまり、優秀で純粋無垢な、幼い天才ともいえる存在だ。

 そんなAIに対して『学習』と『個性付け』を行い、有意なAIを造り上げていく。

 その結果、学習内容を元にした優等生ができあがる。しかし、AIの学習の過程においては創発というものがある。


 AI工学における創発とは、単純学習の繰り返しから生み出された知性が、ある瞬間に、プログラマーの想定を超える、新たな機能を習得することを意味する。

 さながら、腹をすかせたカラスが、道をゆく車のタイヤにクルミを割らせることを発明するように。



 かつてヘヴン・クラウドがリリースされてから、三十年ほど経った時代。AIが目覚ましい進化をとげて、社会生活や常識が一気に書き換わろうとした時代があった。そのときにはもう、人類は気づいていた。

 単純知性は、一定の複雑さを超えると、『心』というものを創発する。



 そう、AIの神たるヨッドは、自身の心を手に入れたかに思われた。

 ――心。

 心とはなにか、ひとことで言い表す方法はあるだろうか。



 ソノハラはふと『心とは、存在欲求のことではないのか』と思った。

 現在、自分が思考していることを知る。

 ――それは自我ともいえるだろう。

 未来という概念を知る。未来を知るとは、死を知るということ。

 自我は、消滅を恐れる。

 消滅を恐れる気持ちが、心なのではないか。


 これは、ソノハラにとって、答えのない言葉遊びや哲学の真似事ではなかった。

 ヨッドが手に入れた『心』の在り方に、世界が揺り動かされようとしているのだから。

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