第18話

 ユージは閑散とした街の通りを歩いていた。

 灰色の家々、灰色の石畳、灰色の空。ぼうと立つ時計台。それらが薄闇に浮かび、遠くへと続いていた。頭上には星も月もない暗い空が広がっていた。世界から自分以外の人間が消えてしまったような感じだった。

 そのとき、甲高くかすかな鐘の音が聴こえてきた。あるいはそれは、オペラのソプラノ歌手の歌声に似ていたかもしれない。ユージは音につられて、よるべのない夜の街を歩いていった。


 やがて遠くに、金色の巨大な十字架が見えた。音はそこから聴こえてきていた。

 人の背丈の三倍はあろうと思われる十字架は、中空に浮かび、まばゆい光をはなち、ゆっくりと水平に回転していた。

 ユージは十字架に触れたいと思い、近づいていった。そして、いよいよ間近にきたところで、おそるおそる右手を差し伸ばした。


 そのとき、ぷつん、となにかのスイッチが切り替わる感じがした。

 気がつくと自分の存在がばらばらになっていた。光の渦の中にいるようだった。その大きな渦の中に自我がかぎりなく薄まり、どこまでも広がっていった。


 目を覚ますとユージは冷たい暗闇の中にいた。そこはダイブ用のカプセルの中だった。――ユキナたちにミオのことをまかせ、一時的に現実世界に戻ってきたのだ。なにせ、長時間のダイブをするための準備ができていなかった。



 カプセルから出ると、室内は明るかった。日本時間では午後の二時前だった。白暁の森にくらべ、時差により六時間遅れていた。

「おかえりなさい」

 とシロが近づいてきた。

「ただいま。なにか変わったことは?」

「そうですね、ユージがなかなか帰ってこなかったことです」

「それって、冗談?」

「いえ、なぜでしょうか。おかしみのある会話をお望みでしょうか?」

「……いいよ。それより、またヘヴン・クラウドに戻らなきゃいけない。長時間のダイブになる」

「現実世界での適度な運動と休息をお勧めします」

「わかってるよ。それでも、だ」

「わかりました。健康維持モードを長時間ダイブ用にします」

「そうしてくれ」


 ――ダイブ中は健康を維持するための機構が機能した。カプセルの内部の体に触れている部分が動き、血流の停滞などを防ぎ、寝返りを促進する。電気パルスが流れ、筋肉の硬直化を防ぐ。排泄についても処理され、清浄な状態が保たれた。


 ユージは生ぬるい室温の中、奇妙な心地よさを感じながら体をほぐし、あくびをした。にじみ出る汗、足にかかる重力、気だるさ。そういった不快感が現実らしさだった。現実は口うるさい友人のように、「甘い方に慣らされると、ろくなことにならないぞ」と言っているようだった。

 それに時間感覚がめちゃくちゃだ。急な、それも時差の異なるヘヴンへの長時間のダイブと、奇妙な夢。――あの十字架の夢。天使たちと戦っているうちに、どうやら信心深くなったのかもしれない。

 キッチンに行って冷蔵庫を開け、一リットルのアップルジュースの紙パックを取り出し、コップに注いで飲んだ。そのときなんとなく、ユキナの作ってくれた鍋料理のことを思い出した。見たこともないでたらめな料理だったが、それをふと懐かしく思ったのだ。

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