第8話
リュートたちとの一件のあと、ユージはヘヴンを抜けて現実に戻ってきた。夜の七時になっていた。
ダイブ用のカプセルから出ると蒸し暑さを覚えた。カプセルの中の温度はダイブ中は下がっていたし、七月になっていたから当然のことではある。また、この不快感や不調和がなによりの現実らしさでもあった。
ユージは窓を開け、ぬるい夜気を肺に吸いこみ、大きく吐いた。そして、ヘヴン・クラウドの中での体験を振り返った。それらの記憶は夢のようであり、同時に今いる場所が夢のようでもあった。
無性にだれかと話をしたくなり、街中にある数少ないラウンジのひとつに行くことにした。
ロボットのシロの頭をなでてから、「出かけてくるよ」と言って玄関を出た。Tシャツに薄手の青いジャケットをはおっていた。
無人タクシーに乗り、人気のない道を走り、やがてささやかにライトアップされたラウンジの入り口が見えてきた。大きなビルの一階にある、『ラウンジ ソウゲン』という店だった。
夜の色に覆われた街の中で、そこだけが生きているようだった。店のガラスの向こうに、店内のオレンジ色の灯りと、人々の姿が見えた。音楽が漏れて聴こえてくる。
ユージは木の扉を開けて店に入った。
店内には木目が強調されたロッジ風の内装が広がっており、二〇人くらいの客が、カウンターやテーブル席に座っていた。奥ではダーツをやっている客もいた。
流れている音楽はブルースだった。ベースの音が階段を登り降りするように歩み、ピアノがささやき、嘆くような男の声が響きわたる。
ユージはカウンター席に座った。奥の壁にはウイスキーやジンなどの酒瓶が並んでいた。カウンターの中には白ひげをたくわえた小ぎれいな年配の主人――ソウダがいた。
「いらっしゃい。ユージくん、一週間ぶりかな」
「そうですかね。あっちにダイブしてると、よくわからなくなります」
「だろうね。さて、なんにする?」
「カクテルを。……ギムレットを」
ソウダは満足そうにうなずいた。
華麗なシェイカーさばきを披露したあと、ソウダはカクテルグラスを差し出してきた。一口飲むと、舌が痺れるような冷たいジンの苦味と、鮮烈なライムの香りを感じた。ソウダの機嫌がよさそうなときは、シェイカーを使うカクテルを頼むようにしていた。
「悪徳を引き継ぐんだ」
と、ソウダは言った。
「悪徳?」
「そう。アルコールなんてモンは、もういまじゃ気狂いの嗜みさ。だけどよ、現実世界の悪徳や酩酊が、人間に正気を与えてきたんだ。おれはそう思うよ。だから、悪徳を絶やさぬように、おれは店を続ける。おれは断言するが、この世の終わりってのがくるとしたら、酒がなくなった日のことだぜ」
「そうかもしれないですね」
「そうだとも。……しかしよ」
「なんです?」
「安心したよ」
「どうして?」
「ああ、なんだか、ユージくん。きみがもう、店にこないような気がしていたんだよ」
「きましたけどね。ていうか、まあぼちぼち、きますよ」
「ああ、そうかね。そりゃありがたい」
音楽は最高潮になり、クラッシュシンバルの音が連続で鳴り、男のボーカルが懇願するように哭き叫んだ。世界の終わりを嘆いているのかもしれない。ユージはギムレットを飲み干した。
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