第2話

 淡い光が差し込むアパートの部屋で、ユージはPCに向かって椅子に座っている。

 部屋の片隅には、ベッドを兼ねたカプセルが設置されている。そのカプセルは、全身没入型のメタバースである『ヘヴン・クラウド』にダイブするためのものだ。

 百年近く前にリリースされたヘヴン・クラウドは、いまでは人間文明を乗っとるかに思われるほど社会に溶けこんでいた。まるで現実はさびれた駅のプラットフォームで、そこからダイブした先のリゾート地であるヘヴンに、だれしもが陶酔していた。


 そのときインターフォンが鳴った。PCの画面でアパートの一階の集中ロックの映像を見ると、緑色の宅配ロボットが見えた。ランチの宅配だった。ユージがPC上の承認ボタンを押すと、「お部屋までおうかがいしますので、少々お待ちください」という機械音声が聴こえた。

 三分もすると玄関のインターフォンが鳴った。ユージは玄関に行ってランチの容器を受け取った。蓋のついた薄茶色の大きな容器にすべてが詰まっている形式だった。

 それからキッチンにある小さなダイニングテーブルに容器を広げた。

 近所の中華料理屋の回鍋肉ホイコーローのランチセットだった。


 そのとき、家事用ロボットのシロが近づいてきた。まさに真っ白の外観で、細い頭部には横長の黒いアイカメラがついている。背丈は百五十五センチメートル。一通りの掃除や片付けを任せられるやつだ。

「ユージ。換気扇をまわすことをおすすめします」

「ああ。頼むよ」

 すると、窓の方とキッチンの上部で電子音が鳴り、換気扇がまわりはじめた。回鍋肉の脂ぎった食欲をそそる匂いは換気扇に挑戦するように、ユージの鼻腔を刺激した。

 ユージは右手で箸を操りながら、左手でスマートフォンのニュース通知を見る。


 ――N区で交通事故が発生。AIの状況判断システムで異常か。


 詳細を見ると、ユージの住んでいる住所と非常に近い場所で、交通事故が発生していた。いや、アパートの正面と言ってもよかった。ユージはシロに言った。

「自動運転の車同士で事故が起きたんだってよ。しかも、うちの真ん前で」

「そうですね。起きていますね」

「それにしちゃ、静かだよな。ぶつかった音もしない」

「バンパーや、緩衝機構が七十六・四%の衝撃を吸収するようです」

「そんなもんかな。いや、それと人だよ。人の声もしない。野次馬とかの」

「興味がないんでしょう。ユージは事故があったら行きますか?」

「ん、いや、わざわざ行かないかな」

「でしょうね」

 シロはそう言って、キッチンの片付けをはじめた。本当は自動車事故を見に行きたくない理由があったが、そこまでシロに言う必要はなかった。

 ユージは次のニュースを見た。


 ――WHOの発表によると世界人口は来年で三二億人を下回る模様。


 ユージは思案した。

 たしかに、徐々に人口が減ってきている。生活が安定し、安全に暮らせるからこそ少子化に加速がかかっているとも言われている。世界中でベーシックインカムが導入されて、働く必要がない人間が大多数となった。貧困と争いが減った現代は、かつての地球に比べればユートピアと言えるだろう。それなのに、いや、だからこそ人が減っている。平和は生殖本能をうばうのだ。

 事実、ユージが暮らすエリアは東京都N区の住宅地のはずだが、商店街の方に行っても人は少ない。街を歩くのは買い物中のロボット。店が開いていると思えば、店員もロボットだ。

 人類は現実世界に飽きた。それが明白だが、責任のある人間はそれを言わない。それが正解だろう。真実を言う者は迫害されるし、その伝統は古代から変わっていない。


 そんな人々がヘヴン・クラウドに意義を求めるのは自然なことだろう。人間の中の原初的な感情――刺激や快楽や闘争を求める動物的な感情を満たすのもまた、テクノロジーだった。


 ランチを平らげたユージは、音楽を聴きながらしばらく街を歩き、夕方になってから家に戻ってきた。

 ミオに逢いにいく時間である十七時になっていた。

 ユージは体をほぐし、ヘヴン・クラウドへダイブするためのカプセルに体を入れた。

 HMDヘッドマウントディスプレイを装着し、目を閉じる。徐々にカプセルの中の温度が下がり、薬剤のガスが流れこんでくる。重たくぬるい幻惑と眠気が意識をつつむ。

 いつものように、耳鳴り――細波さざなみのような音が聴こえる。

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