第18話 得点圏

 当たりが良すぎた。

 

 三回裏の先頭打者、築城が放った打球は、右中間を抜け、フェンスに直撃した。

 だが打球スピードが速すぎたことが裏目に出た。一打席目よりさらに深く守っていたセンターが、フェンスから跳ね返った打球を素早く処理し二塁へ送球したせいで、築城は一塁で止まらざるを得なかった。

 

 守備位置も、配球も、明らかにシングルヒットならOKというものだった。

 そういう意味では、相手の思惑どおりに事が収まったと言えるかもしれない。

 

 とはいえノーアウトからランナーが出た。こちらのチャンスであることに変わりはない。

 次打者の輪島が打席に向かい、俺もベンチを出てネクストに入る。

 

(……ん?)

 

 ネクストに向かう途中、監督がサインを出していることに気づいた。

 

 監督が攻撃中にサインを出すのは珍しい。

 基本的にこの人は、どんな形でも出塁することが一番大事だと考えるタイプだ。

 そのせいか、打球方向の指示も、バントの指示もあまり出さない。上位打線に限っていえば、今のところ一度も出していないかもしれない。

 それなのに五番の輪島に対してサインを出した。

 ……いや、あのサインは輪島に対してじゃない。あのサインは、

 

「ランナー走った!」

 

 相手ベンチの選手が叫んだ。

 監督が出したのは盗塁のサインだった。

 うちのチームはこれまでの試合、小矢部を除いてほとんど盗塁を仕掛けなかった。それは築城も例外ではない。相手にとってこの盗塁は予想外だっただろう。意表を突いたこともあってか、盗塁は難なく成功した。

 

「おい、築城のやつ盗塁したぞ!」

 

「初めて見た。盗塁のサイン出てたのか、珍し。ていうか足速くね?」

 

 この盗塁成功にうちのベンチが沸き立つ。築城の盗塁は俺たちにとっても予想外だった。当の本人は走塁に、というかバッティング以外にはあまり関心がなさそうだったから余計にだ。築城自身にその自覚があるかは知らんが。

 

 とにかくこれで無死二塁。チャンスが広がった。

 

 この盗塁に、相手投手は少なからず動揺したのかもしれない。次球のストレートが甘く入った。この球を輪島が捉える。

 

「でかいぞ!」

 

 誰かがそう叫んだとおり、打球はあわやホームランという当たりだったが、フェンスに阻まれた。

 

 それでも築城がホームヘ帰ってくるには十分すぎる。三塁を蹴ってホームヘ。

 左翼手からのバックホームは正確だったが、明らかに築城のホームインの方が早かった。当然判定はセーフ。

 

「ナイバッチー‼︎」

 

 この得点に、うちのベンチが盛り上がる。

 なおも無死二塁。打席に向かう途中で監督の方へ目を向けると、バントのサインが出ていた。

 

(だよな)

 

 一死三塁の状況さえ作れれば、次打者の朝日は内野ゴロや外野フライでも当たり次第では一点入る。スクイズという選択肢もある。

 六番以降、つまり俺からはあまり打撃に期待できない選手が続く。うちがバントを多様しないとはいえ、この場面ならば俺が監督の立場でもバントのサインを出す。

 幸い、相手投手の小浜はバントすることさえ難しいボールを投げる投手じゃない。

 

 初球、小浜が投じたボールはスライダーだった。

 ストレートの軌道から途中で曲がっていくが、追いきれないほどの変化じゃない。

 当てたボールは一塁方向にうまいこと転がった。もちろん俺はアウトになったが、二塁ランナーは三塁へ進む。

 次のバッターは……

 

『七番、ショート、朝日くん』

 

 ワンナウト三塁。ゴロや外野フライでも一点入るが、ここはたぶん、スクイズだろう。

 もちろん相手だってスクイズを警戒している。だから監督から朝日へは、一球見逃せのサインが出ている。


 相手投手が投じたその一球目は案の定、大きく外されるボールだった。もう一球外すか?


 監督もそう思ったらしい。二球目も見逃せのサインが出る。

 そして実際に投じられたその二球目も、大きく外された。

 次が問題だが、三球目、どう出る?


 一塁は空いている。始めから敬遠のつもりでボールを続けるのはありだが、朝日を抑えることを前提にするのなら、さすがにそろそろストライクが欲しいところだろう。三球目、入れてくるか?

 監督のサインは……スクイズだ。

 

 監督の予測どおり、相手投手の小浜はストライクゾーン周辺へとボールを投じた。

 バットの届く範囲内。当然朝日はこの球をバントする。


 ボールは一塁へと転がっていくが、当たりが少し強い。

 前進守備をとっていたファーストが猛然とダッシュする。素手で補給し、そのままホームへと素早く送球した。

 ホームへと滑りこむ輪島と、ボールを受け取ってタッチするキャッチャー、どっちが早かった?

 

『アウト‼︎』

 

 ギリギリ、タッチの方が早かったらしい。

 これで二死一塁。

 

 続くのは八番の滑川だが、小浜が初球に投じたスライダーを引っかけ、セカンドゴロでアウトになってしまう。

 

(くそっ、一点か……)

 

 せめてあと一点、欲しかったところだが騒いでも仕方がない。

 

「いくぞ、射水」

 

「うん」

 

 ※

 

 四回の表、先頭の二番打者をセカンドゴロに打ち取ったが、続く三番、安福への初球がわずかに甘く入った。

 その初球を、安福は見逃してくれなかった。バットとボールが衝突する音が、痛いほどに耳に響く。

 

「サード!」

 

 思わず叫ぶが、明らかに取れる打球じゃない。高岡の真上、思いきり飛び上がっても届かないだろう空間を、白球が過ぎ去っていく。打球を放った安福は、巨体を揺らして一塁を蹴り、二塁まで到達した。

 

(ちょっと甘く入っただけでこれかよ……)


 しかも次は、

 

『四番、レフト、敦賀くん』

 

 前打席ではこいつに、ホームランを打たれている。

 さて、どう攻めようかね。

 

 初球、俺は外角低めへの速球を要求した。

 無難も無難な配球だが、初球はこれでいい。この球がコースに決まれば長打は難しい。

 ランナーを溜めたくないのも事実だが、一発を喰らうよりマシだ。一塁も空いている。シングルならくれてやる。

 とにかく低めに来い、ミットを下げるジェスチャーでマウンド上の射水にそう伝える。

 

 その初球が、いい具合にアウトローへと決まった。

 敦賀はこのボールを見逃し、ストライクになる。

 

 まず1ストライク。

 このコースに決まればそうそう打たれない。二球目、同じコースに同じ速球を。

 

 要求どおりのコースに、要求どおりの速球が来た。

 このボールに、今度は敦賀が手を出す。

 

 外よりのコースからさらに外角の低めへと沈んでいく速球を、敦賀のバットが捉えた。地を這うような低い弾道のライナーが、ライト方向へ駆け抜ける。

 わずかにライト線の外側に逸れてファールになったものの、フェアゾーンに入れば長打コースだった。


 とはいえ、ファールはファールだ。心臓にこそ悪いがこれで2ストライク、追い込んだ。


(さっさと決めるぞ)


 遊び球はいらない。三球で決める。

 一、二球目と同じ外角低めのコースから落ちるフォークボール、こいつで三振に仕留める。


 頷き、投じられた射水のフォークは、完璧といってよかった。

 ストライクゾーンの低めからボールゾーンへと落ちていく、要求どおりの球。

 並の打者なら空振りは必須。上手く当たったとしてボテボテの内野ゴロが関の山だろう。

 だが残念ながら水見の四番は、並の範囲に収まる打者ではなかった。


(捉えた⁉︎)


 スイングの途中でバットを泳がされながらも体勢を立て直し、ボールを真芯で捉えられた。

 引っ張った打球は三遊間へ。ヤバい、抜ける。


 そう覚悟していた打球の行方を、ショートの朝日が阻んだ。

 三遊間を抜けるはずだった打球は、サード方向へと飛び込んだ朝日のグラブの先に収まっていた。審判のアウトの判定がグラウンド内に響く。


「ナイス、ショート!」


 射水の言葉に、朝日は少しはにかんだような笑顔で歯を見せながら、親指と小指を立てて掲げて見せる。ツーアウトだ。


(マジでナイス、朝日)


 あれが抜けていればおそらく一点入っていた。このアウトは本当にでかい。

 

『五番、キャッチャー、窪田くん』


 とはいえ今だにランナー二塁で迎えるのは五番バッターだ。油断はできない。

 もっとも、水見の打線はもともと気の抜ける瞬間などほぼないのだが。


 前打席は速球でゴロに打ち取った。

 だからこそ初球、フォークを要求した。


 射水の速球は沈む。

 それゆえに、落ちる変化のフォークと軌道が似ていて、速球との見極めがより困難になる。

 このフォークに手を出してくれれば、上手くいけばボテボテのゴロ、もしくは空振りだ。最悪見逃されてもこのフォークに惑わされて速球の見極めが難しくなるはずだ。

 初球からはあまり要求しないボールだが、射水は特に戸惑う様子もなく首を縦に振った。

 

 そのフォークはストライクゾーンを通る高さに投じられたが、問題ない。初見で、狙ってもいないのに打てる球じゃない。ましてわざわざ初見の初球で狙うボールじゃない。


 だから、ボールを捉えるドンピシャのタイミングで、ドンピシャの位置を通る銀色の物体が何なのか、理解することを一瞬、脳が拒んだ。


(は?)


 何なのかもクソもない。今目の前を通るものはバットに決まっていて、俺のミットに収まるはずだった白球は、左中間を真っ二つに割った。


 狙われた? わざわざフォークを? 嘘だろ?


 インプレイ中に混乱する間なんて、グラウンドは与えてくれない。

 二塁ランナーの安福が三塁を回る。レフトの上市からバックホームが来るが、無理だ、間に合わない。


 それでもバックホームに備えてブロックの姿勢をとるが、安福が滑り込んでくるタイミングの方が早い。当然のようにタッチは間に合わず、判定はセーフ。


 これで2対2、追いつかれた。

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