第5話 二番手投手の先発マウンド

 先発としてマウンドに上がるのは、人生を通しても今回が初めてだった。


 緊張は、どうしたって抜けきらない。少しでも身体の力を抜こうと思って一度、大きく息を吐き出した。

 吐き出して、正捕手である船橋さんのサインを覗き込む。

 

 先頭打者への初球、船橋さんの出したサインは、インハイへのストレートだった。どくんと一度、心臓が大きく跳ねる。

 

 もう何度も投げたコース、もう何度も投げたボール。


 だというのに、まだ慣れない。心臓が高鳴る。

 高揚ではなく、恐怖で。

 

 インハイ、というか高めにストレートを投げるようになったのは高校に上がってから、ここの監督から指導を受けるようになってからだ。

 ふと、去年に、この野球部に入ったばかりのときに監督から言われた言葉を思い出す。




柏崎かしわざき、だったか。お前、いいストレートを投げるな」

 

 監督にそう言われたのは、入部して初の投球練習中だった。

 

「はっ?」


 そんなことを言われたのは人生で初めてで、だからつい、素っ頓狂な声を上げてしまった。


 今になって振り返っても、監督に対する反応ではない。

 だけど、とっさにそんな声が出てしまうくらいには、監督の言葉が不思議に思えて仕方なかった。

 

 少年野球の頃から、大して球は速くなかった。

 それは中学に上がってからも大して変わらず、それなのに俺が投手を続けていたのは、続けられたのは、サウスポーだったからというのが大きいと思う。

 

 中学のとき、当時の野球部には俺よりずっと球の速いやつがいて、チームのエースは常にそいつだった。

 

 こいつがいる以上、このままだと俺は、二番手投手にさえなれない。

 

 俺がフォームをオーバースローからサイド気味に変えたのは、そんな危機感からだった。

 

 幸い、サイドスローは俺に合っていたらしい。球速も大して落ちることなく、コントロールが以前より乱れる、ということもなかった。

 フォームを変えてからは、ボールを低めに集めやすくなって、スライダーが以前より少し大きく曲がるようになった。

 

 そういうところを中学時代の監督、というか部活の顧問教師は評価してくれたらしく、試合にも少しずつ出してもらえるようになった。

 といってもせいぜい二番手以降の、リリーフとしての登板だけだったけど。 

 

 だから高校に上がって、キャッチャーの後ろで俺の投球を見ていた監督が突然、お前の球を直接受けさせてくれ、などと言い、マスクやプロテクターを着けてミットを構え出したときは意味が分からなかったし、その一球目に投じたストレートが褒められたときも、嬉しさよりも困惑する気持ちが勝った。

 

(なんなんだ? この人)

 

 中学時代の俺は、最速でも120キロを超えたこともないような、剛腕とは程遠い平凡な投手で、球速はよく出ても110キロ半ばほどだった。

 春休み期間中にハードなトレーニングをしていたわけでもない。高校に入って急にスピードが上がった、などということはないはずだ。

 

 だから監督が、俺の球を受けて興味深そうにミットの中のボールを見つめ、なにかつぶやいた後の返球とともに言った、いいストレートという言葉に、ただただ困惑するしかなかった。

 

「ど、どうも」

 

 とはいえ、監督に褒められて何のリアクションもとらない、というわけにはいかない。帽子をとってぺこりと、小さくお辞儀した。

 

「今の球、高めに投げられるか?」

 

(はっ?)

 

 口から出そうになった困惑は、なんとか喉の辺りに留まって、霧散してくれた。

 

 狙って高めになんて、投げたことはない。

 意図せず高めに抜けてしまうことはもちろんあるけれど、わざと高めに投げたことなど一度もなかった。

 

「えと、意識して高めに投げたことはないです」

 

 正直にそう言うと監督は一言、そうかと呟き、続けて、

 

「ちょっと投げてみてくれ」

 

 そう言って再度、ミットを構えた。

 

 なんなんだ、そう思いながら投じたストレートは、だいたい監督が構えていたミットの周辺へ向かっていってくれた。

 

 監督はボールを捕まえるとまた何かを呟き、俺に返球した。

 もう二、三球ほど投げさせられた後、監督はマスクを脱いでミットを外し、小走りでこちらに向かってきた。

 

「ありがとう。悪いな、邪魔をして」

 

「いえ。……あの」

 

「いい回転のストレートだ」

 

「はっ?」

 

 なんだったんですか? いいって、いったいどこがですか?

 俺がそう尋ねる前に、監督が回答を口にした。

 

「サイドスローなら普通、球の回転がもう少し横になるんだが、お前の場合はそれよりもオーバースローの回転に近い。ややサイドよりのスリークォーター、くらいの回転かな」

 

「は、はぁ」

 

「もうちょい磨けば、お前の武器になるかもな」

 

「…………」

 

 変な監督だと思った。

 その後の俺に対する指導も、あまり一般的ではなかったと思う。

 

「ストレートを高めに、変化球を低めに集められるよう、練習してみてくれ」

 

 なんて、普通はサイドスローの、それも球速が120キロも出ないような投手に対する指導方針ではないと思う。


 そのことがどうしても気になって、その指示を受けてからしばらくしたある日、練習の休憩時間中に隙を見計らって、監督に尋ねた。


「監督」

 

「ん?」


 俺から声をかけたことなんかなかったからだろう、監督は少し不意を突かれたような顔をして、こちらを振り向いた。

 

「なんで、高めにストレートを投げる練習なんてしているんですか?」

 

 監督は一度目を瞬かせ、困ったように笑って言った。

 

「お前、疑問に思ったならそのときに聞いてくれりゃいいのに」

 

 いやまあそうなんだけど、なかなか監督に直接は聞きづらかった。


「まあ確かに、直接俺には聞きづらいかもな。野球部なんて、ちょっとした擬似軍隊じみたチームも多いし、そういうのは染み付くか」

 

 いや、それが分かるなら説明してくれてもよくないか……?

 

「それでも疑問に思ったことは今後、すぐにでも聞いてもらいたいがな。まあ、それはともかく、お前はVAAって言葉を聞いたことはあるか?」

 

 知らない。俺は首を横に振った。

 

「いいえ」

 

 そうか、監督は一度そう呟いた後、説明するための言葉をまとめるためか、少しの間を空けてから再度、口を開いた。

 

「ヴァーティカル・アプローチ・アングル。ピッチャーが投げた球がホームベースを通過するときの角度のことなんだが、この角度が低い方が、ストレートの空振り率が高いってデータがあるんだ」

 

 初めて聞いた。要はリリースポイントが高いか低いか、ってことになるのかな。

 だとしたら、

 

「なんかイメージと逆でした。長身でフォームがオーバースローのピッチャーが投げたボールのことを、上からの角度がある投球だ、なんて言ったりしますし」


 監督も俺の言葉に頷いた。

 

「まあ、ストレートの空振り率だけに焦点を当てたデータだからな。それだけで総合的にも角度が無いほうが良い、という証明にはならない。例えば縦に落ちる変化球なんかは、上からの角度があった方がいいかもな。それに、これはメジャーリーグでのデータで、高校野球でもそのまま採用できるかは、正直なところ分からない。球速とかほかの要因もあるし、実際に高校野球で、サイドスローの投手がストレートでバンバン空振りを奪っているかというと、そうでもないしな。でも」

 

 でも?

 

「前も言ったが、お前の場合はストレートの回転が、サイドスローとしてはやや特殊だ。元々空振りを奪いやすい球質で、かつアームアングルの低いフォームから投げているのだから、試してみる価値はあるだろ?」

 

 なんて言われて、まあ、もともと自分の投球スタイルにこだわりがあったわけでもなく、反発する理由もなかった。

 

 実際、練習試合とかだと相手打者が俺の高めのストレートを空振りしたり、内野フライを上げたりすることが結構あって、使えるかも?という実感は少なからずあった。球速が少しずつ上がってきていたのもあると思う。

 

 今思い返しても、監督が俺に指示する筋力トレーニング系のメニューは、他の選手より少しハードだった。いや、単純に投手用のメニューというだけだったのかもしれないけど。射水先輩も似たような、というかもっときつそうなメニューをこなしていたし。

 

 そのトレーニングの効果もあったのか、翌年の春頃には、俺の球速はかなり上がっていた。

 とはいえ130キロを超えられれば上々、一試合の平均は今でも120キロ台に収まることが多い。いや、昔に比べればずいぶん上がってはいるのだけれど。



 

 なんて、そんな一年前のことに頭を巡らせていたのは、ほんの一瞬だったと思うけど、それでもマウンドの上で、いつまでも呆けているわけにはいかない。それ以上間を置かないようすぐに首を縦に振って、投球動作に入った。

 

 投じたボールは、だいたい狙った場所にいってくれたけれど、高さが少し中途半端だったかもしれない。相手打者がこのボールを打ちにいった。

 そのスイングは、鋭い。

 

 まともに当たったら、少なくとも内野は抜かれるな。

 

 そう思って、だけどバットは空を切った。ひとまず1ストライク。けど、心臓に悪い。

 

 俺の球は特別速いわけではないから、打ちにいけると判断すれば思いっきり振りにいく打者が多い。

 だから、一球投げるごとに精神を削られる。

 

 とはいえマウンドに上がった以上は、アウトを3つ取るか降ろされるまでは投げ続けないといけない。

 

 俺は小さく息を吐いてから、船橋さんの出す二球目のサインを覗き込んだ。

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