第3話 無邪気な怪物

(もう勘弁してくれ)


 俺の頭上はるかを悠々と飛んでいく何度目かの打球に、泣きたくなってくる。

 まだ4月だというのに止まらない汗は、嫌に冷たかった。


 今俺の球を打っている、俺をこんな目に合わせている一年生は涼しい顔で、でも奥に楽しげな光を宿した目を俺に向けて、急かすようにバッターボックス内で佇んでいた。


 監督の評価は正しかったんだな。


 マウンドの上にいるというのに、数日前に監督に呼び出されたときのことを、つい思い出してしまう。



 

「今年、築城悠ってやつがうちの部に入る」


 入学式を間近に控えた3月の練習中、なぜか俺一人を部室に呼んだ監督が、開口一番にそう言った。


「はあ……」


 それに対して俺は、気の抜けた返事しかできなかった。


 なんなんだろう、突然。

 わざわざ俺だけを呼び出してまで、そんなことを言うなんて。


 そんなにすごい選手なのだろうか。それとも何か問題のあるやつだったりするのか。

 だから一応、キャプテンを任されている俺に先に伝えておこうとか、そんな感じか?


 監督の口から出た答えは前者だった。


「まだはっきりと決めたわけではないが、そいつに四番を任せようと思う」


「は?」


 流石に困惑した。

 四番?まだ入ってきてもいない一年生に、四番?

 レギュラー確約どころの話ではない。


 困惑したまま、何から聞けばいいか分からない俺に対して、監督が逆に尋ねてきた。


射水いみず、今チームに足りないものはなんだと思う?」


「えっ、と?」


「お前という投手を中心に、守備は徹底して鍛えた。打撃の方も、日に日にコンタクト率は上がってきた。試合での出塁率も、そこまで悪くない。そんなうちのチームに足りないものはなんだ?」


 そこまで言われてしまえば、頭が回らないままの自分でも分かる。今言われたことを引いていって残った答えは。


「長打力、でしょうか?」


「そうだ」


 監督が頷き、話を続けた。


「特にホームランを打てるバッターが、うちのチームにはいない。長打率という意味では、高岡たかおかがチーム内で一番良いが、あいつもホームランを量産する、というタイプではないしな」


 高岡か。


 監督の口から出た、うちの元四番候補の姿を思い浮かべる。


 鋭いスイングから強い打球を量産する強打者だが、打球がフライよりライナー性のものになりやすいラインドライブヒッターで、確かにそこまでホームランをポンポン打てるタイプではない。

 それでもうちのチームの中では、最も優れたバッターだと言っていい選手ではあるのだが。


「それで、なんでそんなことを俺に、俺だけに?」


「他のやつに話していないのは、全員に話してもチームを混乱させるだけだと判断したから。話したのがお前だったのは、単純にお前がチームをまとめるキャプテンだから。あとは」


 監督が一度言葉を区切り、言った。


「お前が投手、言い換えればうちのエースだからだ」


「……ポジション、関係あります?」


「ある。というかそれがメインだ」


 前置きが長くなってしまったがな。監督が自分の口下手を恥じるようにそう言って、話を続けた。


「新入生が入学してきたら、お前には一年生全員にバッティングピッチャーをしてもらいたい。一年生の力試しという名目でな」


「名目?」


「ああそうだ。本音は……」


 そこで一度、監督が言いづらそうに口を噤んだ。


「言われて気分のいいことではないと分かっているが、言わせてくれ。射水」


「はい」


「築城には、仮に打たれたとしても気にしなくていい」


 監督の口から出た、投手にとっては屈辱としか言えない内容に、口元が歪みそうになった。

 なるほど、確かにこれは気分が良くない。


 だが監督がわざわざそう言うってことは、それだけのバッターなのだろう。


「そいつは、そんなにすごいんですか?」


「シニアでの試合を見た限りでは、な。140キロ近い速球でも苦もなく打ち返していたし、変化球も測ったようなタイミングで捉えてスタンドまで運んでいた。中学生であそこまで簡単に変化球を打てるバッターもいないだろう。ただそれが、高校レベルでもいきなり通用するかは、俺にも分からん」


「そのための試験石として俺に投げさせると」 


 俺の言葉に、監督が困ったような苦笑いを浮かべる。


「意地の悪い言い方だが……そうだ。お前を相手にして打ち返せるようなら、高校野球でも活躍が見込める」


 それはそれで、ずいぶん俺を評価してくれている。

 打たれるのを期待しているようだから、あまり嬉しくはないけれど。


「仮に俺が完璧に抑えてしまったら?」


「それはそれで構わん。いきなり通用するほどの選手ではないと判断するだけだ。思惑は狂ってしまうがな」


「監督は」


 咄嗟に口を挟んでしまう。

 言い出してしまったからには、止まらない。止められない。


「監督は、俺が打たれると思っているんですね」


 一瞬の間が空く。

 だが、誤魔化しても仕方がないと思ったのか、監督は頷いた。


「そうだ。少なくともそうなり得るとは考えている。それだけの素材だとな」


「そうですか」


「射水」


 監督が、改めるようにして俺の名を呼ぶ

 俺は無意識に背筋を伸ばした。


「はい」


「俺はな、今年、どうしても勝ちたい。甲子園に行きたい。なにせ……」


 監督が一瞬、目を逸らす。

 次に出てくる言葉は、意識して耳を立てないと聞き逃してしまいそうな、呟くような声で吐き出された。


「首がかかっているからな」


「えっ……?」


 思いがけない言葉に、唖然とする。

 だが監督は、そんな態度は望んでいないと言いたげに軽く手を振って、言った。


「今のは念のため、他の部員には言わないでくれ。変に動揺されても困る」


「……分かりました」


「それとバッティングピッチャーの件、お前に、エースに投げさせてまですることかと思うかもしれないが、頼む。今後どうやって戦っていくかは、この日の結果で決める。そのくらいには大事なんだ」


 監督が俺に向かってそう言い、頭を下げた。

 でも、そんなことしないで欲しい。


 だって、俺がこの人の言うことを断れるわけがないんだ。

 それは、この人が監督だからってだけじゃない。


 この人のおかげで、エースになれたから。

 この人がいなければ、自分は投手足り得なかったから。

 だから。


「分かりました」


 俺はこの人の頼みを、断れない。


 


 入学式の翌日、部活説明会も終わり、後は新入部員を待つのみとなった放課後。

 さっそく野球部にやってきた一年生たちに対し、一種のオリエンテーションとして1人十球限定でバッターボックスに入ってもらうと、俺自身の口から説明する。


 入部してきたのは5人。

 そのうち打席に入った最初の3人は正直、ほとんど相手にならなかった。


 1人は全球空振りか見逃しで一球も当てられず、残りの2人も当てるのがやっとという当たりのゴロかファールのみだった。


 でも、自分で言うのもどうかと思うが、それも仕方ないと思う。


 俺は一応、本気で投げれば140キロ前後のストレートが投げられる。

 今の高校野球では飛び抜けた球速というわけでもないが、この前まで中学生だった選手には、生身の人間が投げる140キロは未体験のやつも多いだろう。

 中学の野球部や硬式クラブでも、全国レベルの選手なら稀に、140キロ超えの速球を投げる投手もいるが、そんな投手と何度も対戦するようなレベルの選手は、わざわざこの学校に入らないはずだ。


 だが、4人目の小柄な新入生には、何球か当てられたし、ヒットゾーンにも運ばれた。


 2球ほど変化球も投げたが、それにも食らいつかれた。

 ただしクリーンヒットという当たりはなかったから、そこまで打たれたという衝撃はなかった。


 そして5人目、監督の話していた一年生、築城が左打席に向かった。左打ちか。


 お願いします。と、妙に丁寧な動作で頭を下げ、バッターボックスに入ってくる。


(こいつが築城悠か……)


 マウンドから見る築城からは正直、そこまで迫力のようなものは感じなかった。


 本当にすごい打者というのは、打席に立っただけでも投手を威圧するオーラのようなものがあったりするのだが、築城からは特にそういったものは感じられなかった。


 マウンドを軽くならし、キャッチャーの船橋から出たサインに頷く。

 だが初めに投げるボールは、サインを出される前から決めていた。


 胸元への、ストレート。


 以降の球を生かすための、仰け反らせるためのボール。


 だが船橋の出したサインは球種こそストレートだったが、コースの指定は外角低めだった。


 はなからサインを無視するつもりでいることに内心、申し訳なさを覚える。

 だが船橋なら、構えたところと逆のコースに来ても捕球ぐらいはしてくれるだろう。


(本気で投げろって言ったんだから、これくらいはしてもいいですよね? 監督)


 築城の胸元へ目掛け、投げ込む。狙い通りのコースへと、ボールは突き進んでいく。

 それを築城は、身体を少し逸らすことで避けた。船橋が慌てた様子でボールをキャッチする。


 どうしたんだ?


 やや緩い船橋からの返球が、俺にそう聞いているかのようだった。


 なんでもない。ちょっと手が滑っただけだ。


 そう伝えるために、帽子を取って船橋と築城の間くらいの空間に向かって軽く頭を下げる。築城に対しても謝っているのだと見えるように。


 だけど本心では、築城に対して謝る気分にはなれなかった。


 あいつは俺の初球に対して、どこか不満そうな表情をしていた。

 それもボールが身体に当たりそうだったことにではなく、そのボールが打てるところに来なかったことが不満だと言いたげに、ボールが通った場所とストライクゾーンの間あたりに視線が行き来していた。


 ストライクゾーンに来れば打てたのに。


 そう言っている声が、ここまで聞こえた気さえした。


 ふざけんな。


 怒りに支配されそうになる気持ちを、意識的に息を吐き出すことでなだめる。

 力みやそれに繋がる感情は、投球において悪影響しかない。これも監督の教えだった。


 改めてキャッチャーへと向き直る。船橋からのサインは……さっきと同じ、外角低めへのストレートだ。


 了解。今度こそちゃんと、ミットの構えたところへ投げるから。


 頷き、投球動作に入る。

 体重移動は上手くいっている。リリースポイントも問題ない。

 力がちゃんとボールに伝わって、指から離れていく感触があった。


(これなら、大丈夫)


 体重は乗った。コースも悪くない。だから打たれるような球じゃないはずだ。


 そのはずだ。それなのに。


 目の前のスイングが、行方を阻む。


(えっ?)


 緩いのに、速い。

 築城のスイングを前にして、そんな矛盾した感想が、脳裏を過ぎった。


 金属音が耳に突き刺さる。思わず後ろへと振り向いた。


 打球はいつの間にか右中間の、外野の定位置近くまで飛んでいた。でもそれだけだ。外野フライ。


 当てられたことには驚いたけど、凡退は凡退。でも今回初めて外野の定位置まで飛ばされたな。


 センターが後ろに下がる。打球が思ったより伸びているらしい。


 結構飛ばされたな。そう思いながらボールを目で追う。苛立たしいほど対空時間の長い打球だった。


 外野手がついにフェンスまでたどり着いた。グラブをはめた左手を思いきり伸ばす。


(ちょっと、待て)


 白球が、グラブの先を通り過ぎた。


 自分の打席を終えた一年生たちが沸き立つ。

 二、三年は逆に、ほとんどの者が呆気に取られたように口を開けたままだった。


 なんで、今の球がスタンドまで飛ぶんだよ。


 打球を放った本人は大きく表情を変えずに、それでも満足そうに小さく息を吐き出していた。




 その後はほとんどバッピ扱いだった。

 いや、バッティングピッチャーをしていたのだから今更だが、文字通り打たれるために投げているようなものだった。


 初球を除いた九球のうち、六球がスタンドイン。打ち損じはたったの三球だけ。それもそのうち一球は、外野深くまで飛ばされた。


(なんなんだ、コイツ)


 さっきから汗が止まらない。なのに身体はむしろ冷たく感じた。


 俺は築城に目を向ける。見たくもないのに。


 視線を向けられた本人は、慌てた様子で頭を下げていた。


 何か言っている?ああ、ありがとうございましたって言ってるのか。律儀なやつ。というかまだ何か言ってるか?声があまり大きくないせいでどうにも聞こえづらい。


 その様子が向こうにも伝わったのか、先ほどより少し大きな声で発せられたあいつの言葉が耳に届く。


「打つの、すっごい難しかったです!」


 …………。

 ………………はい?

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