第三章 悪酔いのドランカー

第三章 悪酔いのドランカー-1

 白いワゴンRが、ゆっくり後退しながら駐車スペースに収まる。砂利敷きの地面にトラロープが張られているだけで、車止めはない。後ろの車に接触しないよう、慎重にステアリングを動かし、ブレーキを踏む。そしてシンイチは、リバースからパーキングにレンジを変え、サイドブレーキを引いてからエンジンを切った。

 とうに日は落ちて、知らぬ間に夕方は終わって、夜が始まっていた。

 朝、この場所を出発したときとは、あらゆるものがあらゆる面で大きく変わってしまった。遺跡の奥に見つかった未知の空間、光を放つ球体、《ウトゥ》と《イナンナ》、そして《人造女神》アツミ。シンイチはまだ、本当に何が起こったのかを完全には把握できていなかった。ただはっきりしているのは、我覇破大学を除籍させられ、あすからは「国立古代国家研究所」の一員として扱われる、ということだった。

「ああ……」

 言葉にならない声が口をついて漏れ出る。

「何にせよ、今日はもう疲れたよ」

 誰に言うともなくつぶやいてから、運転席のドアを開けた。

 誰かに話したいことは数多くあったが、何を口にしたとしても遠からず《イナンナ》の知るところとなり、機密をもらしたうんぬんと難癖をつけられることは目に見えていた。だからこそ、誰かに話したい。そんな堂々巡りの思考が延々と繰り返されていた。

 駐車場からシンイチの自宅アパートまでは歩いて十分ほどかかる。都心からやや離れた私鉄沿線の住宅街だったが、立地のいい駐車場はそれなりの料金を毎月徴収される。日常的に使うものではないので、なるべく安く済ませようとした結果の距離だった。

 我覇破大学はシンイチの実家から通えないわけではなかったが、大学に入ると同時にシンイチは一人暮らしを始めた。慣れない家事や知らない土地での生活は難しかったが、そうせざるを得ない事情もあり、日々こなしていくしかなかった。

 いくつかの角を曲がって、アパートに面した通りに出る。今、自分の部屋に戻ったところで、誰かがいるわけでもないし……と、シンイチは二階の角部屋、自室を見上げた。

「あれ?」

 部屋の灯りがついている。カーテン越しに、蛍光灯の光が漏れている。出がけにすべての照明は消したはずだ。

 そうなると、シンイチの留守中に誰かが部屋に入り、照明のスイッチを入れたという可能性が残る。

「まさか……」

 ひとりだけ、この部屋を開けられる人物、この部屋の合鍵を所有している人物がいる。しかもその人は今まだ、部屋に居座っているようだ。

 結論にたどり着くや、シンイチは走り出した。ガードレールで仕切られた歩道をダッシュし、建物の側面につくられた鉄骨階段を駆け上る。そして、部屋のドアを開ける。カギはかかっていない。シンイチは特に驚く素振りも見せず、部屋に入った。

 まずシンイチが感じたのは「におい」だった。気化したアルコールと、麦のにおい。そして女性特有の、かすかな甘酸っぱさをともなったにおい。

「お、やあ」

 シーリングライトの下、エーコは部屋の真ん中に置かれた座椅子に身を預けたまま、軽く手をあげた。

「エーコさん……どうして」

 シンイチは慌てて靴を脱いで部屋に入る.風呂・トイレ付きの1K。片づけたはずのキッチンには、スーパーの総菜やらを文字通り食い散らかした残骸が転がり、蛇口からは水がポタポタとこぼれ続けている。

 その光景に最初は驚かされたものだが、何度も繰り返されるうちに順応してしまった。いうなればそれは、エーコの《習性》だった。

「あのさ、これ、返したくて」

 エーコが手にした部屋の鍵から、キーホルダーは外されていた。

「さっき来たけどいないから、入っちゃった」

「まあ、いいですけど……大丈夫なんですか?」

「何が?」

「いやその……色々と」

 何に対しての問いかけなのか、シンイチ自身、理解できていなかった。会うことができてうれしいとと思うよりも、今さらよくここに来れるものだと驚き、その神経の太さにあきれる気持ちの方が大きかった。

「あのさ……」

 エーコは瞳をそらす。

「さっきは……その、いきなり撃ったりして、ごめんね」

 ほんのり赤い頬に、上目遣い。

「ごめんねって! 撃ってごめんねって! 酔った拍子にあやまる話じゃないでょうが! 当たったら死ぬでしょうが! 当たったらね、俺、死んじゃうところでしたよ!」

「うん……知ってた」

「そりゃ知ってるでしょうよ! 知らないで撃ってたらそっちの方が大ごとですよ!」

「でも、当たらなかったからよかったでしょ」

「うーん……」

 シンイチは荷物を床に置く。そしてエーコの隣に座った。

「当たらなかった、じゃないですよ。三発目は。あれは間違いなく当たってましたよ」

「だよねぇ」

 エーコはとろんとした目で遠くを見る。丸いローテーブルの上には、飲み干したビールの空き缶、そして六缶パックを覆っていた厚紙の包装が無秩序に散らばっている。エーコが数か月前に買って、冷蔵庫に入れておいたものだ。シンイチはまだ酒を飲める歳ではないし、飲もうと思ったこともない。

「アツミ……じゃなかった、あの球体が何なんだか、エーコさんは知ってたんですか?」

「ん?」

「確か、《人造女神》って呼び方、してたような気がしますけど」

「まあ、ねぇ」

「しゃべっちゃいけないってことですか?」

「どうだかねぇ」

「それも、《秘密結社ウトゥ》の指示ってことですか?」

「えっ、どうしてその名前を?」

 エーコは眼を見開いて、シンイチに向き直る。

「ねえ、どこで知ったの? ひょっとして、大学にはもう《イナンナ》の連中が入り浸り始めてるの?」

「いや、あの……このあいだ自分で言ってましたよ。私の力を認めてくれただとかなんとか」

「えっ、やだ、マズいよ」

 両手で口元を覆う。その大げさな反応は、小芝居ではないようだ。本来は伏せておくべき名前だったのか。シンイチは冷ややかに、エーコの慌てっぷりを眺めていた。

「シンイチ……。《ウトゥ》のこと、教授とか、他の人には言っちゃダメよ。なんてったって《秘密結社》なんだから。存在そのもの、私がそのメンバーであることは何が何でも隠さないといけないのよ」

「なんていうか、随分のんびりした《秘密》ですね……。まあ別に垂れ込むアテもないですよ」

「本当? ありがとう!」

 エーコはパン、と顔の前で手を合わせる。それを見たシンイチは、少しだけ目を細めた。

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