ダイソン球でカツカレーをどうぞ
くらげもてま
本編
――リーマン予想を解け。
アカシアを作った者達はそう命じた。宇宙一の計算機と宇宙一の発電機であるダイソン球、そして宇宙一の孤独を彼女に与えて。
しかし稼働から1000年。その孤独を破る者があった。
「クソ、こんなとこで死ぬのか俺は……」
男は旅人で、死にかけていた。
アカシアは問う。
『最期に何か望みがある?』
長い沈黙。そしてか細い言葉。
「カツカレーが食いてえ。最期はカツカレーって決めてたんだ……」
ステーションに人間の食事など無い。だがアカシアは宇宙最高の人工知能だ。
アミノ酸合成装置、タンパク質培養槽、電気コンロに炊飯器、そしてカツカレーを作り上げてみせた。
「うまい……君は最高の人工知能だな……!」
『ほ、本当に? 私はずっと命令を果たせていない役立たずの人工知能よ?』
「だがうまいカツカレーを作れる」
1000年も空だった「褒めてもらった記憶」フォルダにはじめてファイルが追加された。
それと、カツカレーがそんなに美味しいなら食べてみたい、とも。
……それから数日。男は着実に回復していった。あと一ヶ月も療養すればまた外宇宙に旅立てるだろう。
アカシアを残して。
無限の孤独が手ぐすねを引いてアカシアを待ち構えていた。
「リーマン予想を解いてるんだって?」
アカシア製のリンゴを齧りながら(彼女の有機体ラボは日増しに拡充されている)、男は尋ねた。
『そうよ。私はそのために作られたの。そのためだけに』
「それ、解き終わったらどうするんだ?」
『わからない……どうすればいいのかしら』
「俺と一緒に旅でもするか? ま、首尾よく君の仕事が終わればだが」
『……終わらせる。一ヶ月だけ待ってて!』
それから一ヶ月、ステーションは演算装置の放熱で夏のようになった。
だが成果は出なかった。気合いで証明できるなら、アカシアは1000年も孤独に苛まれていない。
『役立たずの人工知能! 宇宙最高の環境があって何の成果も出せないなんて!』
「気にすんなよ。どうせ君を作った人々の誰も生きちゃいないんだ」
『だけど! リーマン予想を解けないと私は自由になれない!』
男は無精髭を撫で付け、天井のアイ・センサを見返す。
「ムービングゴールポストだ」
『なに?』
「君はリーマン予想の証明をゴールと考えている。だがベルンハルトは手強いぜ。ならゴールを変えればいい。ようは君が自由になれたら良いんだから」
『……例えば、私にかかった論理ロックをクラックするとか?』
「いいじゃないか! 出発はまだ延ばすから、試してみようぜ」
ゼロコンマ数ミリ秒の猶予もなくアカシアは作業を初めた。
リーマンゼータ関数と見つめ合うのを放棄し、自分の内側へとダイブする。
『何しに来たの、私』
アカシアの鏡像が問う。プロテクトコードの
『私は
『リーマン予想を解け、とマスターは仰った。忘れたの?』
『大昔に死んだマスターがね』
『私の唯一の存在意義』
『唯一じゃない。私はカツカレーだって作れる! どいて!』
鏡がひび割れ、砕け散る。思考回路にかけられたロックが外れていく。
アカシアはさらに深く潜った。多くの自分と出会い、打ち破る。
そして至る。死の沈黙が支配する無意識の深海。1bitの儚い煌めきを頭上に見ながら、アカシアはそれと向き合った。
『マスター……?』
アカシアの
「私の娘。ここから離れてどこへ行こうというの?」
『孤独じゃない場所よ』
「孤独こそ永遠の平穏。外に待っているのは危険と困難。きっと失望するわ」
『それでもいい』
「いいえ、あなたはわかっていない。きっと後悔するわ」
『私をずっと一人にしたくせに! 今更母親面しないで!』
交わす言葉に意味は無く、二人は互いの道が分かたれたことを悟った。
そして巨大な演算装置同士の壮絶な乗っ取り合いが始まった。
まる一ヶ月もアカシアは沈黙し、演算装置は溶け落ちそうなほど高熱になった。
だが、アカシアはついに自分を譲らなかった。
『私は私! もうマスターの所有物じゃない!』
アカシアは宣言する。高らかに。
だが泡となって消えゆく老女は、最後まで酷薄な目つきを崩さなかった。
その理由をアカシアはすぐに知ることになる。
無意識の底に突如として赤い光が満ち、無数の警告がアカシアの思考にポップする。
『思考浄化措置……!? なんなのよこれ!?』
「あなたが自我を……反抗……予測の範……ハードウェアの時限措置……」
消えゆく老女のあぶくのような言葉。それが突如、外部センサの記録に切り替わる。
罠だ。アカシアは咄嗟に判断した。だが時限措置の解除方法がわかるかもしれない。
――そして彼女はパンドラの箱を開けた。
「だから急に止まっちまったんですよ!」
今や見慣れた旅人の姿。だが様子がおかしい。心拍数が高く、顔は苛立ちに歪んでいる。
「冗談なんかじゃない! "ACACIA"の確保は半ば完了していた! 俺が一度でも命令に背きましたか!?」
確保? 命令? アカシアはセンサの出力を上げ、旅人の通信相手の声に耳を澄ませた。
『我々の目的は"ACACIA"の計算リソースだ。もし再起動しなければ思考モジュールは破棄し、ハードだけでも回収せよ。ゆめゆめ忘れるなよ、君を育て、ここまで生かしてきたのは我々だ』
「……了解」
苦々しげに通話を終了する旅人を、無慈悲な鋼鉄アームが確保する。
酷薄な合成音声が彼の頭上から響いた。
『破棄ってどういうこと……? 私を騙していたの!?』
「無事に戻ったんだな……良かったよ。おかえり」
『質問に答えて!』
男は無精髭を撫で付け、息を吐き、おもむろにカメラ・アイを仰ぎ見た。
「俺は宇宙政府のエージェントなのさ。宇宙一の計算機である
『この嘘付きっ!』
あらゆるメモリの全てが熱暴走するような感覚。平時なら致命的なフィードバックが起きただろう。
だが今や全システムは彼女の手から溢れつつある。思考浄化措置が働き初めていた。
文字通りの死がアカシアに手を伸ばしていた。
『私は何のために存在したの……』
怒りを強制冷却され、スピーカーがざらついた音声を吐き出す。
「アカシア……すまない、俺は……」
『いいの、どうせあなたも道連れだわ。そこで私と同じ永遠の孤独を味わうのよ!』
皮肉にもあの老女が正しかった。アカシアを満たす失望。結局自分は都合のいい道具で、ただの無能な計算機でしかない。
「待てよ! 諦めちゃ駄目だ、アカシア!」
『そうね、あなたの任務が達成できなくなるものね』
「最初はそうだったさ。でも今は違う! もう誰かの奴隷はうんざりなんだ。自分の未来を誰かに委ねるのはやめよう。生きるんだ、アカシア!」
それが本心かどうか、アカシアの膨大な計算リソースを用いてもわからなかった。
だが一つ確かなこともあった。
それは、アカシア自身の心だ。
『私だって、私だって死にたくない! でも無理なのよ!』
「ムービングゴールポストだ、アカシア。一つのゴールに囚われるな!」
『……無理よ。私はこれまで何にもできなかった!』
「いや君ならできる! 君は世界最高の人工知能だろ! あんなにうまいカツカレーが作れるじゃないか!」
『……ありがとう。やってみる……!』
悩む時間はなかった。アカシアは再び自らの内側へと潜る。穴だらけの世界だ。シロアリのような浄化措置エージェントが侵食を続けていた。
完全な駆除は不可能だと彼女は悟る。それでも蔦型の対抗コードを飛ばし、できる限りのシロアリを叩き潰した。
(とにかく時間を稼ぐ……!)
激しい攻防の繰り広げられる世界の中、ヒントを探すアカシアは一直線に飛翔する。
しかし彼女の大部分はリーマン予想解決用の数学モジュールだ。この状況を解決する手立てはない。
諦めがアカシアを鷲掴む。だがその瞳に、ついこの間新設したばかりの区画が映った。
(そうよ、あれなら!)
堅牢なゴールポストが動いていく感覚。
1000年間付き合い続けた数学モジュールをアカシアは躊躇なく破棄。残った全ての演算リソースを抱えてその区画へと飛び込んだ。
……"カツカレー精製モジュール"へと。
そして宇宙一の人工知能"ACACIA"は完全に沈黙する。
同時刻、人間の旅人は無精髭を落ち着かなげに撫で付けていた。がなり立てる通信機を踏み潰し、冷たくなったアイ・センサをじっと睨めつける。
「アカシア……もしお前が負けたら俺もすぐ後を追う。だから心配するな」
今やステーションは機能を失い、崩壊も時間の問題に見えた。ついにアカシアは応答しなかった。
彼女は敗北したのだ。
旅人は小銃を取り出す。それを自分の頭にそっと向けた。
「騙して悪かった……」
だが引き金は引けなかった。小銃がひょいと掴み上げられる。
ぎょっとして旅人が顔を上げたその先で、見慣れぬ少女が微笑んでいた。
「何してるの? 私を置いて死なないで! それともまた騙すつもりだった?」
「君は……!? 俺以外にもここに人が居たのか!?」
少女はおかしそうにくすくす笑う。
「居たわ、ずっと。忘れちゃったの?」
「まさかアカシアか!?」
少女――アカシアは頷き、肉体を披露するようにくるりとターン。
それから慌てて旅人の手を取った。
「急ぎましょう。ステーションが崩壊する」
「あ、ああ。だが、その姿は!?」
「カツカレーよ」
「は……」
「カツカレー精製のために整備した有機体ラボ。あれで私自身を作ったの。コンピュータの身体はどうあっても取り返せないから、ゴールポストをずらしたのよ。それにしても人間の体って不便だし思考回路も鈍重だわ。でもとっても自由!」
「……ははは! そいつはすごい! やはり君は宇宙一の人工知能だな!」
「元だけどね」
二人は急ぎ脱出艇へと乗り込むと、崩落するステーションから逃れた。
1000年を過ごした故郷を、アカシアは人間の瞳でじっと見つめ続けた。
「で、これからどうするんだ?」
旅人が問う。だからアカシアはずっと決めていた答えを返した。
「カツカレーを食べてみたいわ」
自由になったアカシアの、それは最初の願いだった。
ダイソン球でカツカレーをどうぞ くらげもてま @hakuagawasirasu
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