存在しない人間

三鹿ショート

存在しない人間

 不慮の事故で愛する妻がこの世を去ってから、私は毎日のように枕を涙で濡らし続けていた。

 目に見えて憔悴しているらしく、多くの人々が私を心配するような声をかけてきたが、何の意味も無い。

 愛する人間が存在しない世界で生きたところで、何が楽しいというのだろうか。

 そんなことを考えながら瞑目し、夢の世界で妻と再会しようとしていると、不意に何者かが声をかけてきた。

 だが、そのようなことはありえない。

 この家に住んでいる人間は私だけで、施錠したことを確認していたからだ。

 ゆえに、何者かが侵入してきたということなのだろう。

 しかし、早鐘を打つことはない。

 ここで盗人に生命を奪われたとしても、愛する妻が待っている場所へ向かうことができるのならば、それで良いのだ。

 相手の姿を確認しようとしたところで、私は目を疑った。

 寝ている私の顔をのぞき込んでいる人間が、化物のように見えたからだ。

 顔の半分は爛れたような状態で、頭髪がほとんど存在していない。

 私に向かって振っている手の指は中指と小指のみで、吐き出す息は気絶してしまうほどの異臭を放っていた。

 あまりの姿に言葉を失っている私に、彼女は困惑したような様子で、

「食料が無くなってしまったのですが、追加してもらえますか」

 一体、彼女は何を言っているのだろうか。


***


 聞くところによると、彼女は妻が入室を禁じていた部屋の住人らしい。

 妻が要求を口にしたことはほとんど無かったが、その中で唯一ともいえることが、くだんの部屋への入室を禁じたことだった。

 察するに、妻は彼女の存在を私に隠しながらも、生き長らえさせていたということなのだろう。

 彼女は一体、何者なのだろうか。

 それを問うと、彼女は両親の名前を口にした。

 私は、即座に理解することができなかった。

 何故なら両親の名前が、私の妻と、妻の父親だったからだ。

 つまり、彼女は禁忌を破ったために誕生した子どもということになる。

 私と妻が出会った年齢と彼女の年齢を考えると、我々が出会うよりも前から、彼女は存在していたということになるのだ。

 それほどの長い間、彼女の存在を隠していたとは、想像もしていなかった。

 だが、誕生した経緯を考えれば、秘密にすることも仕方が無いだろう。

 同時に、彼女は罪の結晶だが、彼女がそれを認識して誕生したわけではない。

 ゆえに妻は、彼女をこの世から放逐することに抵抗を覚えたために、秘密裏に育てていたのかも知れない。

 しかし、妻は私にそれを告げることなくこの世から去ってしまったため、彼女がこうして姿を現すことになったというわけだ。

 私の眼前で食事をとっている彼女を眺めていると、確かに妻の面影があった。

 妻が父親以外の相手との生命を宿していたのならば、妻に似て美しい見目の子どもが誕生していたことだろう。

 そして、堂々と外の世界を歩くことができていたはずだ。

 だが、彼女がそうすることはできない。

 彼女いわく、その外見ゆえに、他の人々が普通の人間として扱ってはくれないのだと妻から教育されていたことが理由だった。

 ゆえに、彼女は外の世界に興味が無かった。

 本人がそう考えていることが救いではあるものの、私は彼女が不憫で仕方が無かった。

 妻が秘密を抱えていたことは残念だが、いわば彼女は、妻の忘れ形見である。

 せめて彼女は大事に育てようと、私は考えた。


***


 彼女を育てるという使命を得てから、私の生活は元に戻りはじめた。

 誰かのために生きるということが自分を支えることなのだと、思い出したからだ。

 しかし、そのような生活が長く続くことはなかった。

 上司の失敗を押しつけられ、私は会社を首になってしまったのだ。

 彼女との時間が増えたことは喜ばしいが、生活は段々と苦しくなっていく。

 やがて、私は彼女に手をあげるようになってしまった。

 そのたびに、私は謝罪を繰り返したものだが、改善することはなかった。


***


 彼女を眺めているうちに、私はあることを思いついた。

 彼女は誰にも明かされることなく誕生したため、彼女という存在を証明するものは何も無い。

 つまり、彼女に何が起ころうとも、公的には無風であるのだ。

 そのような人間を使えば、人々が抱える劣悪な欲望を満たすことができるのではないだろうか。

 これは良い商売になるに違いないと、笑いが止まらなくなった。


***


 立ち行くまで時間がかかったものの、私の商売は大きな利益をあげるようになった。

 それほどまでに、人々の欲望というものが害悪であるということの証明になるが、私にはどうでも良いことだ。

 私と彼女の生活は楽になり、もはや一日中寝ていたとしても問題は無いほどだった。

 だからこそ、私は彼女に提案した。

「きみの身体を常人のそれと同じように治すことも可能だが、どうする」

 だが、彼女は首を横に振った。

 彼女は自身の顔に触れながら、

「私が誕生してはならない存在だったとしても、この顔を見る度に、私は母親の愛情を思い出すことができますから」

 彼女のように気軽に外を歩くことができない人間が、存在を公に認められながらも、汚れた欲望をぶつけ続ける人間たちよりも正常な判断をすることができるとは、皮肉なものである。

 私は彼女が愛おしくなり、抱きしめた。

 彼女は恥ずかしそうに笑っていた。

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存在しない人間 三鹿ショート @mijikashort

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