朝倉の木下には

@maestro7399

第1話

その日朝倉が樹の下からこちらを見ていた。そう聞くと人は何かの比喩かと思うかもしれない。或いは、シュールレアリストが書いた現代ポエムの類かと思って眉を顰めるだろう。でも、それらは全て間違い。樹の下は喫茶店の名前だ。彼女は樹の下から悲しそうにこちらを見ていた。


おとなしい奴だな。隣の席に座る彼女にそんな感想を抱いた。女性にしては短い髪を指先で弄る姿に、かつてのあの人と面影が重なり必死で振り払う。転校初日、まだ5月だというのにセミが鳴き始めていた。リノリウムと制服の、焼ける匂いが充満する教室。初めて座る椅子。こちらに突き刺さる好機の目、目、目、目。何らかの事情で、教室にミッキーマウスが訪ねて来たとしても、今の僕よりはまともな人間扱いするだろう。高校3年生の5月、それも東京から田舎への転校。贔屓目に見てもよくある話とは言い難い。いや、僕が知らないだけで世間ではこのようなことは日常茶飯事なんだろうか。そんな中、彼女はじっと窓の外を見ていた。彼女の顔は色白で、短い髪はマットな黒色。口元は無個性な白い不織布マスクで覆われていた。眼鏡のフレームの赤だけがこの世界に色というものがあることを思い出させてくれる。窓の外に目を向ける彼女の顔は大人びていて、セーラー服と右手首に付けたピンクのシュシュが彼女が高校生であることをかろうじて主張していた。


ねぇ、東京から来たって本当?ホームルームが終わった途端、話しかけてきたのは校則的に絶対アウトだろ思えるほど、髪を脱色したクラスの女子だった。「私、サキ。今日の授業終わったらクラスの奴ら何人か集めて一緒にカラオケ行こうよ。親睦も兼ねてさ。」そう言いながら、サキは周りのクラスメイトに声をかけ始める。「いや、歌はちょっと」あまりの強引さに圧倒される。というか、この御時勢に大人数でのカラオケなんてNGだろ。「ん?梶君は他に呼びたい人とかいるかな?」サキは僕の発言など聞いてなかったみたいで、話を進める。というか転校初日で誰が誰かも分からないのにそんな相手居るわけないだろ。僕がサキの言葉を逃れるように目をそらすと、彼女と目が合った。(嘘、さっきまで外を見てたはずなのになんで。)僕は驚きで目が離せないでいた。彼女も驚いた表情で固まっていた。「お、朝倉さん!?いいね、入学して以来全然絡んでないから、私も朝倉さんには興味ある」朝倉さんと呼ばれた彼女は、サキの言葉になんと返していいかわからず明らかに困った顔をしている。「じゃ!そういうわけで、放課後カラオケね!ヨロシク!」彼女はそう言って一方的に席に戻っていく。一時間目の予鈴が取り残された僕に鳴り響いた。


その日の授業のことは殆ど覚えていない。とにかくその日はとてつもなく暑かったことだけは覚えている。田舎はもっと涼しいものだと思っていた。照り付ける暑さはないものの、鬱蒼と熱が体を這うような熱気は都会の数段不快だった。


両親は、豊かな自然の中で暮らせば気分も変わるだろうと言っていたが、どこまで本音だったんだろうか。もし、心から言っていたならあまりにもお気楽すぎる。生活する場所を変えたくらいで、逃げれるはずなんかないのに。


結局カラオケは6人くらい集まった。サキやその友人たちがアイドルの曲や、ドラマソングなんかを順番に歌っていく。「梶君も入れなよ、アニソンとかニッチなのとかでも全然いいからさ。」サキはしきりに僕に歌わせようとしてくる。「この曲なら知ってるでしょ」サキが入れた曲は小さい頃に流行ったアニメソングだった。無理やりにマイクを押し付けられて仕方なく声を出す。


「ほーらぁ」一音目から思いっきり音を外してしまった。思わず口ごもる俺を無視して音楽は流れていく。慌てて続けようとするが声が出ない。その時だった。彼女の声が響いた。朝倉サクラ、さっきまで隅で小さくなっていた彼女の声は妖艶で。まるで人でないナニカが歌っているようだった。恐らくこの時だった。僕が彼女に好意を抱いたのは。


俺は結局1曲も歌うことなく、その日はお開きとなった。さっきの出来事から気を使っているのか、周りも僕に無理やり歌わせようとはしなかった。カラオケから出てライン交換を済ませると僕らは解散することになった。朝倉さんとは帰り道が途中まで同じで僕らは並んで歩いた。今日知り合ったばかりなので話すことも特になく、気まずい緊張がキリキリと僕らの間を這い回る。「歌、うまいんだね」耐え切れず僕は彼女に声をかける。彼女はおや?っといった顔で斜にこちらをみる。垂れ下がる髪が風に揺れる。「ありがとう」僕は意を決する。「あのさ、LINEさ、交換してもいいかな?」「ああっと、んー」彼女は声にならないような微妙な声をだした。それから暫く無言で歩いた。10分ほど歩くと道が三つに分かれる。「梶君の家はどっち?」彼女は分かれ道の前で立ち止まる。「こっち、だけど。」僕は真ん中の道を指さす。「私こっちだから」できるだけ、言葉と吐く息を節約するように彼女は言った。「危ないから送っていくよ」「大丈夫。私、視力いいから」見当違いな返事の反力で歩き出すように、左の道へと歩き出す彼女。その後ろ姿は、嫌悪感の中に恐怖孕んでいるように見えた。やってしまった。数時間後、枕に顔を埋める自分がいた。アンプルが割れて飛び散った液体がジクジクと布に染み込んでいくような鈍い罪悪感に襲われる。ああ、きっと数年後も今日のことを思い出してこんな気持ちになるのだろう。いっそ、このまま消えて存在ごと無かったことにしてしまいたい。「入るわよ。」母さんの声とともに部屋のドアが開く。絶望の淵に居ても、世界は勝手に動きつ続けるのは残酷だ。慌てて体勢を整えて顔を上げる。「ごめん、なんかしてた?」母さんは何にもしていないみたいに笑う「いや、なんだった?」「お姉ちゃんから電話よ」母さんは笑顔で自分のスマホを突き付けてくる。その顔は笑っているが有無を言わせないものがあった。湧き出したどす黒い瘴気が、僕の喉の奥をふさいでいくようだった。母のスマホは電源が切れていた。


「まあ、しゃあない」初日から仲良くなった聆音(れもん)は軽く流すみたいに言った。「サクラちゃんガード固いから、よっぽどイケメンじゃないと難しいよ。」そういって笑う聆音の顔は、クラスでもかなりイケメンの部類に入る。恐らくバレンタインにはチョコレートを大量にもらっているはずだ。しかも、昨日知り合ったばかりの俺ともすぐ打ち解けられるこのコミュ力。間違いない。コイツモテる。「悪いことは言わないから、あの娘だけはやめとけ」「ところで、もうクラスには慣れた?」僕の嫉みもどこ吹く風といった様子で、聆音は僕に水を向ける「いや、さすがにまだだよ。名前も殆ど覚てない。」「あー、うちの地区は特に似たような名字が多いからね。」「ほんとそれ、てか出席番号が10番台だったのは生まれて初めてだよ。」「あー、確かに梶って50音でいえば最初の方だもんな。そう考えるうちの地区って結構変なのかな」「いや、変っていうか。そんなこともないと思う…けど」僕は慌てて聆音の言葉を打ち消す。「えー、どっちなのさ」聆音はおどけたように笑う。聆音の端正に整った輪郭はやっぱり綺麗だ。その線の細い体系や、糸目に筋の通った鼻の顔とは裏腹に、ダイナミックに笑う姿はどこかアンバランスで不安定に見えた。内側に爆弾を隠していて全てをいつか破壊してしまうかのように。「そもそも、聆音がいった話じゃん」僕はそんな胸騒ぎを抑え込むために聆音と一緒に笑った。「名前と言えば、聆音ってキラキラネームだよね、最初なんて読むのかわからなかった。」「いや、どの口が言うのさ、君のほうがキラキラネームだろ。」「確かに、初見で当てられたこと一回しかない。」「その一人スゲーな、その字だとバキとしか読めなかった。」「よく言われる。」「なんていうか、周りから名前負けとか言われたりしない?」「いやいや!むしろ僕は名前勝ちっていうの?かなり名前通りの人間だと思ってるよ。」聆音とそんな馬鹿話をしてると不思議と昨日の失敗も大したことないような気がしてくる。こいつとは結構うまくやってそうだ。時間が経てば、僕も朝倉さんも昨日のことなんて忘れる。マテ貝のように地味な学校生活を粛々と送っていこう。そう思った矢先だった。朝倉さんからLINEが来たのは。


-昨日はごめん、放課後空いてる?


喫茶樹の下大木をスライスした風の看板。そのいびつに歪んだ姿に整った毛筆風の文字で店名が書かれている。学校とは駅を挟んで反対側にある住宅街。その住宅街に姿を潜ませるように樹の下はあった。佇まいは普通の住宅を少しお洒落にした程度で、看板が無ければ喫茶店とは気づかないだろう。朝倉さんが待ち合わせに指定したのはこの店だ。ドアに手をかけてたっぷり2秒は頭を巡らせる。


なんだろう、昨日のことかな。というか、なんで僕のLINEを知ってたんだ。もしかして、朝倉さん僕に好意があるのかも。いや、逆に朝倉さんの彼氏にボコボコにされるとか。


胃の奥の方から重たい閉塞感がのぼってくる。僕はゆっくりと木製のドアハンドルに手をかける。手前に引くと隙間から見える店内の景色が広がっていく。間口の狭さに反して広い奥行きに木目調の家具が並ぶ。左手にカウンターがあり店員も大学生くらいの男性がやっている。恐らくバイトだろう。奥の厨房にはもう一人店員がいるのがわかる。店の外装から家族経営のような店を想像して身構えていたのが、ほんの少しだけ安心する。


奥のテーブルに座る彼女と目が合う。どうやら一人のようだ。「ごめん、遅くなって」そう言いながら向かい側に腰を掛ける。彼女の表情は昨日とまるで違っていた。昨日のことなんて、何も覚えてないみたいにつるりとした表情で、口の端に笑みを湛えていた。彼女の後ろの窓には大きな木が見える。ちょうどそれが自然のブラインドとなっていて、ルノワールの絵画のように彼女の輪郭を鮮明に照らしていた。「こちらこそごめんね、急に呼び出しちゃったりして」言葉尻が弾んでいる。どうやら怒ってはいないみたいだ。「ええっと朝倉さん、昨日のことなんだけど…」僕は慌てて昨日の非礼を詫びようとする「サクラでいいよ」後ろめたさから伏し目がちになっていた僕の頭頂部に、その言葉は降り注いだ。僕は慌てて顔を上げる。朝倉さんの後ろの木漏れ日がほんの一瞬だけ強くなる。「サクラでいいよ。名字だと呼びにくいでしょ?」普通のこと言ってるだけなのに。ここまでの緊張と目の前の光景に泣いてしまいそうになる。彼女のことを明確に好きになったのはこの時だったんだろう。


「それで?その後はどうしたのさ」聆音は少し興奮気味に語る僕に冷ややかな目を向ける。「いや、なんていうか特に…」「進展無し?」「でも、その後も仲良く話せたし」「はいはい、うまくいくといいね」聆音は昨日とは打って変わって薄情だった。「まあ、早目に次のデート決めちまいなよ。サクラちゃん人気なんだから」そういって自分の机に戻る。「デート…」僕は一瞬だけ聆音の言い捨てた言葉の意味が捉えられずに口の中で繰り返した。


結局次の約束に誘う勇気もないまま週末がやってくる。金曜日の深夜11時。自室でLINEのトーク画面を穴が開くほど見つめる僕がいた。


こういう時、どこに誘うのが無難なんだろうか?こんなに早く誘っていいのか?もっと間をあけるべきじゃ?というか彼女は僕のことを何とも思ってないんだし、誘ってもウザいだけなんじゃ?蜷局を巻く蛇のように同じような言葉が脳内を這いまわる。それはジリジリと身を捩りながら牙をむく。僕の人格を、意識を、尊厳を体内の暗闇に吞み込まんとゆっくりと口を開く。「蛇のように聡くあれ、鳩のように素直であれ」聖書の一節。なんでそんな言葉を思い出したのかも分からない。そもそも、聖書なんて読んだことがあったかも曖昧だ。ただその言葉でソイツに深く突き刺さったようで、僕の中に迷いは消えた。心の聖書を高く掲げ、僕は彼女にLINEを送る。そう、あくまで素直に、そして狡猾に。何もやましいことなんてない。さっき迄の邪な葛藤を脇に置いて、僕は心の聖書高く掲げた。


…来ない深夜さっきまでの興奮は冷めやり少し冷静になると背筋の方からぞっと寒気のようなものが襲ってくる。LINEのトーク欄には返信どころか既読も付かない。僕は馬鹿だ。僕の掲げた聖書はどこにいったのか。敬虔な信仰心がみるみる失われていくのがわかる。このペースだと一時間後にはゾロアスター教徒になっているかもしれない。まさかと思い振り向くと、やはり蜷局を巻いたソイツがいた。クネクネと動きながらにじりよってくる。マジかよ…今夜は眠れなさそうだ。


-この前行ったお店とかどな?明日とかもし暇ならそこでランチでもしようか?サクラさんからそんな返事をもらったのは翌日の夕方だった。


相変わらずその店は住宅街に身を潜ませるように建っていた。以前と同じように、ドアハンドルに手をかける。以前と同じように、奥に座る彼女と目が合う。


以前と違い、ルノワールの絵画のような窓は依然と違い少し曇っていた。


彼女は僕を見ると嬉しそうに笑った。


「ごめん、迷惑とかじゃなかった?」サクラさんは笑う。「全然!私も梶君とまた話したいなって思ってたの。」店員さんにメニューを返しながら彼女はそう言った。僕は心の中でガッツポーズをする「そうなんだ、迷惑じゃないなら良かった。そうなんだ…」「前の時もそうだったけど、いつも何か隠してるみたいな話し方するよね。なんていうか影があるっていうの?」「そうかな?」「そうだよ、だいたいなんでこんな中途半端な時期に転校なんてしてきたの?」「ああ、それは…」僕は何か答えようとするが、次の言葉が出てこない「前の学校で何かあったの?」彼女はほんの数インチ体を前に乗り出す。「君は何を隠しているの?」上目づかいで此方を見る目。それと僕の視線がぶつかる。サクラさんの目こんな綺麗だったんだ。この前視力が良いと言っていたから裸眼だろうか。こんな状況で僕はそんなことを考えていた。「ごめんね、困らせるようなこと言って。深読みしすぎちゃった。」そう言って本当に困っているのは彼女のようだった。それから僕らの席だけ水を打ったように静かになった。「人を刺したんだ…」僕は乾いた空気にヒビを入れるように声を絞り出した。彼女の表情が少し変わった。ゆっくりと目の焦点を合わせるように僕の顔を見る。「僕には5歳年上の姉がいる。本当だったら今年で大学を卒業して社会人になっているはずだった。」「はずだった…」彼女は入ってきた言葉を、目の前の空間に置くように声を出した。「姉は大学を退学になった。今年の三月ごろナイフで人を刺して今も拘置所にいる。それで、僕も両親も居たたまれなくなって遠くへ逃げ出した。」「刺されたのは知っている人?」「知らない人だった。両親は知ってるのかも知れないけど、姉より年上の男性ってことしか聞いてない。」「恋愛関係のもつれみたいなこと?」「恋愛もあったと思う。」「ごめんなさい。興味本位で聞きすぎてしまって。」「いや、僕も誰かに聞いてほしかったから大丈夫だよ。」ちょうどその時、注文が運ばれてきた。「こちら今日のアイスティーのセイロン・オレンジペコになります。」ウェイトレスは無機質な声でアイスティーを僕らの前に置く。話が落ち着くまで待ってくれていたんだろうか。少し申し訳ない気持ちになった。「私の話もしていいかな?」サクラさんは運ばれてきたグラスにストローを刺しながら言った。「僕に気を使ってるのなら無理しなくていいよ。」「そういうのじゃなくて、私も話したいの。」サクラさんはストローに口をつけずに指先でいじりながら少し黙る。「校庭に桜の樹あるじゃない?」そういえば、教室から校門の方を見ると、大きな広葉樹があったのを思い出す。「あれ、桜の樹だったんだ。」「確かに桜って花を見ないと何の木分からないよね。」サクラさんはやっとアイスティーに口をつけた。「ちょうど去年の2月ごろあの桜の樹の下で自殺した娘がいたのしってる?」初耳だった。どう相槌を打てばいいかわからず僕が薄ぼんやりしていると彼女は話を続ける。「小中で何度か同じクラスになったことのある娘だった、名字が同じだったこともあって席も近くてすぐ仲良くなった。高校も同じ学校に行こうって約束して、それで今の学校に一緒に通ってたの。それがあの日急に彼女は私の世界からいなくなった。カミソリを使ったリストカットだったらしい。その日は満月で右の手首からダラダラ垂れる血液を月影が照らして、神秘的な光景だったって都市伝説もあるくらい。それくらい綺麗な娘だった。」「自殺の動機はなんだったの」「それも分からずじまい。失恋とか、将来の不安とか色んな話をする人がいた」大切な友人の話をしているはずなのに、サクラさんはやけにケロッとしている。「でも、今思うと私への当てつけだったのかもね。」サクラさんは表情を変えずに続ける。「あの桜、私の名前の由来なんだ。私が生まれた日に病院の庭にも同じ桜が咲いていて。だから、サクラ。安直だよね。彼女はそのことを知っていたからあの木の下を選んだ。」「何か恨まれるようなことしたの?」「そんなつもりは無かったんだけど。そうみたい。」サクラさんは明るい口調のまま、またストローに口をつける。グラスの中身はとっくに空になっていて、ジュゥという情けない音が響いた。辛い記憶を話すときはみんな明るい口調になる。サクラさんの口調は店内の他のお客さんよりずっと明るい。でも僕らが座る席だけ言葉の温度が冷え込んでいた。それなのに僕の頼んだアイスティーの氷はどんどんと溶けていく。慌てて一口飲む。口に入った液体は灰色の味がした。それから何度も灰色の冷たい空気に、ジュゥという音が響いた。何か話さなくてはと思うほど、正しい言葉が見つからない自分が不甲斐なくて、惨めだった。「サクラさん……」僕はやっとの思いで話し始めた。でも、言葉が続かない。頭が真っ白になりそうだった。


「無理しないで」


それはサクラさんの声だった。本当は僕が彼女に言うべき言葉。同時に僕が望んでいた言葉。「大丈夫、全部過去になる。いつか、きっと。」彼女は笑っていた。身体の中にある栓が抜けたような気がした。さっきのアイスティーが喉に上がってくる。僕は声をあげて泣いた。それはもう店員さんが引くくらいに。彼女はその間黙ってアイスティーを飲んでいた。


「ねえ、私たち付き合ってみない?」そう言われたのは樹の下からの帰り道だった。既に日は落ちて、家々から夕飯の匂いが漂っている。思わず僕は聞き返そうとしたが、泣き疲れた喉からはッブェという空気の音が出ただけだった。「決まりね!」サクラさんはそう言って僕の額、眉間の少し上あたりにキスをした。キュッと油性ペンを机に滑らせたような音が響く。僕は彼女の白い手を掴んで指先を絡める。大きな世界の小さな僕らは、小さな声で大きく足掻いて何かを探していた。


額からゆっくりと唇が離れる。彼女はいたずらっぽく言う。白く大きな手で僕の手首を掴むと彼女は歩きだした。肩透かしにあったようにキョトンとした僕はまだ、彼女の毒気にあてられたまま。手を引かれて歩いた。街灯がポツポツと点線のように立っている。


「私達の関係クラスのみんなには内緒にしとこうね。二人だけの秘密。」分かれ道の前で彼女は言う。そして僕のことをなど構わずに歩き出した。街灯の明かりに僕だけが残った。


家に帰ってもその晩はボーっとしていた。そこにはもう、聖書も蛇も居なかった。ただただ、明日が待ち遠しかった。「二人だけの秘密」そんな子どもっぽい言葉の一つ一つが嬉しかった。


でもそんな日々は長く続かなかった。「梶君のこれってほんとなの?」いつになくサキが申し訳なさそうに話しかけてきた。「なんか、クラスの奴がネットで調べたら出てきたって騒いでて。」2月〇日東京都のアパートで30代の男性が知人の女性に刺され病院へ搬送されました。容疑者の女は「私は神の祝福。奇跡と喝采の道を行く。」と意味のわからない供述をしており…


「これ、梶くんのお姉さんって本当?しゅんせい?って名前のかんじも似てるし。」サキはスマホのニュースの画面を突きつけた。こういう無邪気な暴力はときに鋭利だ。サキが知ってるなら、クラス中に広まるまでそう時間は掛からないだろう。少しフラフラする。目の前の景色が、グニャリグニャリと様相が変わっていくような気がした。クラスの陽キャ男女がコソコソ話している。オタクっぽい奴がこちらをチラチラ見ながらスマホをいじっている。…メロ、ヤメロ、ヤメロ…ヤメロッヤメロそれは雨後のタケノコの様に湧き出した感情が、間欠泉を探す。声とも慟哭ともつかない音が、自分の内側から風のように吹き抜ける。僕は無言で教室を飛び出してトイレに逃げこんだ。


暫くして、ズボンのポケットからティンという電子音が響いた。サクラさんからのLINEだった。


-急に飛び出していったけど、なにかあったの?


無機質なスマホのブルーライトが妙に心を落ち着かせる。


-いや、大丈夫


指でOKマークを作ったクマのスタンプを送ると、徐に便座から腰をあげた。個室から出て、男子トイレのドアに手をかける。目の端に移る尿の色のカラーチャートが自分への警告のように見える。正直少し、いやかなり恐い。僕は初めて樹の下に入ったときを思い出す。あの日扉を開けると、そこにサクラさんが居た。今回もきっと大丈夫。扉を開ける。ゆっくりと視界が開ける。扉を開けた先。そこにいたのは聆音だった。僕が出てくるのをじっとそこで待っていたかのような体制で、壁にもたれ掛かってこっちをみている。「大丈夫?」聆音はまっすぐ僕の目を見る。「うん、多分大丈夫」「サキちゃんに大体のことは聞いた。その状態だと、次の授業は休んだほうがいいんじゃないか?」いつになく優しい落ち着いた声だった。「いや、大丈夫。落ち着いた。」さっきまでの嵐が嘘のように、心は凪いでいる。「そっか、あとでサキちゃんにも話したほうがいい。彼女、涙目だった。」「わかった。ありがとう。」教室に戻ると、先が申し訳なさげにこちらを見ているのと、サクラさんが心配して声をかけてきてくれた以外は、以前と変わらない光景が広がっていた。


「ごめん!」放課後誰もいなくなった教室は風通しが良く、ひんやりとしている。深々と下げられたサキの頭の髪を風が揺らす。「いや、こっちこそ取り乱しちゃってごめん。」そんなに謝られるとかえってばつが悪い。「朝倉さんにも迷惑かけちゃった。」「サクラさんに何か言ったの?」「ん??サクラさん?」サキは驚いて聞き返す。「いや、朝倉さんに何か言ったのかなって思って。」僕らの関係はサキにはまだ知らせていない。「ふーん」さっき迄のしおらしさはどこへ行ったのか、彼女は訝しげに僕を見る。当分はクラスで彼女の名前を出す時は、気を付けたほうがよさそうだ。


「結局ここになるのか」「でも、個々の紅茶美味しいでしょ」サクラさんとの幾度目かのデート、僕らはやはり樹の下に居た。サクラさんは人込みが苦手だった。電車に乗るのも嫌いだ。必然的に行動範囲は絞られる。煩わしくはなかった。今のサクラさんとの秘密の関係がずっと続けばいいと思った。


樹の下の入り口付近には、僕の背丈の半分ほどの小さな本棚が置いてある。小説や絵本なんかが並べれていて、好きに読んでいいようだ。トイレから席に戻るとき、そのうちの一冊に目が留まった。へぇ、こんなのあるんだ。


「ソウ君、それどうしたの?」この頃サクラさんは、僕のことをあだ名で呼ぶようになってた。「いや、そこの本棚にあったから。」『花言葉辞典』僕は持ってきた本を机の上で開いた。「へえ、こういうの好きなんだね。木とか草にも花言葉ってあるんだね。梶の木の花言葉は謙遜だって。ソウ君らしいかもね。」「自分に自信ないだけだよ。」僕は苦笑しながらページをめくる。うん、やっぱりあった。「バラの花?」「好きなんだ。」「へー、バラって色とか柄で花言葉が変わるんだね。」「そう、だから同じバラでも1つ1つが特別で、全然違うものだって思えるんだ。」「なんだか『星の王子様』みたい。」「『星の王子さま』って蛇に殺されちゃう話だよね?」「一番最初に話すところそこ!?」「昔から蛇が苦手なんだよね、見た目が結構無理で。だからあの本も、そのシーンが印象的だった。」「確かに蛇は嫌いな人多いよね。聖書でも悪役だし。でも、象を飲み込んだ蛇のおかげで飛行機乗りは王子様と仲良くなれた。アダムとイブも蛇がいなかったら、互いを思いあうこともなかった。私は好きだな。蛇」「でも、やっぱり嫌な奴だよ。キツネはいい奴だったけど。」「キツネは私も好き。『星の王子様』だと一番好きなキャラクターかも。でも、私はバラよりも桜が好きかな。自分の名前だし花言葉も気に入ってる。」サクラさんはそう言いながら、春の花がまとめられている辺りからソメイヨシノを見つける。花言葉は高貴と清純と書かれている。「へえ、確かにサクラさんって感じするかも。」そう言って顔を上げるとサクラさんは困った顔をしていた。「ソウ君。もし、もしもの話だけど、私がソウ君の前から姿を消したら、私の花言葉を思い出してほしい。一人にしないで欲しい。」「それってどういう……」お!サクラじゃん!い終わる前に声が響いた。背筋がビクリと痙攣して後ろを振り返ると、ガタイのいい大学生くらいの男が立っている。DQNだ!見た瞬間そう思った。竜のような模様が全体に入った長袖のシャツにダボっとしたガウチョパンツ。左右の手には悪趣味な指輪を幾つもはめていた。緩んだ口元にはピアスを空けていて、センターパートにツーブロックの入った髪からは僅かに整髪料の匂いがした。「だれ?その男。」男は僕のほうに顎をシャクリながらサクラさんに聞いた。「友達」サクラさんは俯いて言う。男は僕の顔を眺めながら値踏みをするような仕草をした。そしてこちらに手を差し向ける。「俺、御林(みはやし)。よろしく。」「梶です。」僕はジャラジャラと指輪のついた手を握り返した。


「あいつとはどういう関係なの?」林が帰った後、僕は彼女を問いたださずには居られなかった。「ただの友達だよ。正確には友達の友達?みたいな感じ。」サクラさんは明るく答えた。「元カレ…とか?」その質問に彼女は答えなかった。


その晩は眠れなかった。彼女の大きく白い手が悪趣味な指輪と絡み合う姿がなんども脳裏をよぎる。家の玄関が騒がしくなったのはその日の深夜1時ごろだった。ベッドから起きて様子を見に行くと、両親が言い合いをしていた。「いい加減にしろ、深夜に騒いだら近所にも迷惑だろ」「でもお姉ちゃんを、お姉ちゃんを迎えに行かないと、途中で迷子になって家に帰れなくなってるのかも。」父さんは何か言おうとするが、苦虫をかみつぶした顔になって黙った。母から目を背けた父さんと目が合った。「おまえ、居たのか…」僕はこちらを見る父さんを無視して歩き出した。そしてうずくまる母さんを無視して靴を履く。家を飛び出すと後ろから父さんの声が飛んできた。しばらく走ると、その声も聞こえなくなくなる。僕はそのまま、あてもなく走った。


どれくらい走っただろう、僕は疲れて立ち止まり、うずくまっていた。急にワッと感情がこみあげてくる。苦いものが喉から上がってくるような感じがした。

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