#12 『聖女の魔法』




 ■




 僕は、生まれてこの方、ルケ領から出たことがなかった。

 だが。この世界のある程度の地理については知っている。

 家にある本の地理の説明に付属の地図があったため、あまり興味は無かったが、記憶として残っているという感じだ。


 極端に抽象化して言うならば――この世界の地図は、白い画用紙の真ん中に鉛筆で丸を描き、その外側を黒い絵の具でガーッと塗りつぶしたような形である。


 その丸の中に、北にシルリア王国、南にウィス帝国――面積や人口で大国と呼べるのはこの二か国であり、あとはいくつかの小国家が点在している感じだ。


 ――これだけだ。


 細かく言えばキリがないが、これ以上説明すべき部分はあまりない。

 というよりそこまで細かくは知らない。


 この世界にはそもそも海がなく、大陸もない。

 空気の成分や分子の構造が違うかとかまでは確かめられないが、地球とはそもそも何もかも違う世界だと認識すべきだろう。


 大雑把に、画用紙に描いた白い丸が人間が活動できる範囲で、その外側の黒く塗りつぶされた部分には、人類の敵である『夜』そのものがある。


 空の星々が地球と似た感じで観測できるため、地動説に従う世界だとは思うのだが、何せ魔力がある世界だ――地球平面説や別の解釈があるかもしれない。


 宇宙がどうだ、世界がどうだという話は、これまでの僕には関係なかった。


 しかし、地図の話をしたのは、この場所がその地図において重要な場所だからだ。


 今、僕の目の前に、夜の闇が――巨大な壁のように聳え立つ。

 ウォール・マ〇アみたいな感じで、黒い壁があると思ってもらえば良い。


 人類が活動可能なのは、あの黒い巨大な壁に囲まれた内側だけ。


 『夜そのものが在る』という、本の記述がイマイチ理解できていなかったが、自分の目で見れば、なるほど確かにあの壁はそうとしか表現できない存在だ。


 巨大な『夜』の恐怖が、世界を睥睨し見下ろしている。


 その巨大な黒い影の壁を見上げていると――、


「あぁあああ!」「がああ!」「いやああああ!」


 苦しむ人たちの絶叫が聞こえてきた。


「……!?」


 驚いて周りを見渡すと、そこには僕と同じように地面に転がされた真っ黒な人型の塊があった。


 間違いない。

 僕と同じく『ルナティック』に罹った者たちだ。

 それが10人位いる。


 彼らは縛られて無造作に転がされている。

 喉を掻きむしったり、血の涙を流したり、状態は様々だが、その様相はまさしく『狂人』と言ったところだ。


「何なんだ……これ」


 ついそう呟く。

 『ルナティック』を集め、何かをしようとしている?

 病人を何に利用できるんだ?

 

 ……だめだ。頭が働かない。


「ふむ……。貴族の子供が一人来ると聞いていましたが、この子でしょうか? まだ正気を保っているのかな?」


 いつの間にか先ほどまで僕が乗っていた馬車は周りに見当たらない。

 周りには聖教の修道士やどこかの国の騎士と思しき人たちが十数人ほどいた。


 その中でも眼鏡をかけた頬のこけた白い髪の男。

 その男が、僕の表情をのぞき込んでくる。


「他と違って、お行儀よくして、良い子ですね?」


 小さい子供をおだてるように言う。


「……」


 僕は何も答えない。


 ……もう流石に僕にもわかる。

 僕や、父さん、母さんは聖教の連中に嵌められたのだ。




 ■




 聖教。

 この世界ではほぼ唯一と言っていい宗教だ。


 父も母も、僕が治ると信じて聖教に僕の身柄を渡した。

 だが、生憎そう簡単にはいかなそうだ。


「もっと速く歩け」


 そんな言葉を掛けられながら、修道士たちにけん引されながら、夜の廃街を歩く。

 四つん這いになってる人や、引きずられている人もいる。


 周りの様相はまるでスラム街だが、犯罪が起こっていたり、汚物で道が汚れていたりはしない。


 ここで生活している人はもういないのだろうと思わせる。


「ここは約10年前までは人が住んでいたんですよ。教会が炊き出しもしていたんだ。懐かしいですね」


「……」


 僕は何も答えるつもりは無いが、眼鏡の修道士は話しかけてくる。


「人も多くいたし、決してこんなスラム街みたいな街でもなかった」


「……」


「だが、この街から人は消えたのです。――何故か? 分かるかね?」


「……」


 知らないよ、そんなの。


「奪われたのだよ。王国の強欲にッ!」


「……?」


「王国が聖女をさっさと寄こさないから、強欲にも聖女の力を貸すのを拒んだから、だから、この街は滅んでしまったんです」


 どういうことだろうか?


「聞けば――君は、王国の貴族だと言うではないですか……。ああ、さっきから黙ってるけれども、君が正気を保ってるのは分かってる。無駄ですよ」


 その表情をみて、それがただのブラフでもないと悟る。

 ……王国憎しか。

 僕に当たらないで欲しいな。




 ■




「ここが帝国の最南端……今はですが」


 帝国か。

 護送は王都に向けたものだと嘘をつかれていたのか。


 だが、帝国に『ルナティック』を送ることのメリットは未だ分からない。


「我々聖教の目的の1つ。それは聖女のみが成しえる【浄化】の魔法にて、世界を飲みこむ影の厄害【黒影の壁<ブラックカーテン>】を後退させることだ」


 修道士の一人がそう言う。

 目の前には、巨大な黒い壁があり、星や月の明かりさえ通さない暗闇が広がっていた。


 聖教がそういった目的を持っているのは初めて聞いた。

 てっきり貧乏人から金を巻き上げるのが仕事だと思っていたくらいだ。

 人の役に立つこともしているのか……。


 僕は『聖女』が回復系の魔法を使える、という程度しか知らなかった。

 この巨大な闇を払えるというなら、それは、聖女という存在がこの世界であれだけ重視されることも理解できるというものだ。


 だが、それは聖女がいればできる話。

 僕らの存在はいよいよもって分からなくなってきた。


「では皆さん。彼女の到着前に、準備をしておきましょう」


 修道士の男はそう言うと、僕の首と手首に、ガチャ、と首輪と腕輪を取り付けた。




 ■




 しばらく待つと、物々しい大きな馬車が現れた。


 豪華な装丁で、僕が乗っていたものの数倍もの大きさだ。

 引いている馬も上等なものを3頭も付けている。


 僕がそんな風に馬車を観察していると――、


「嫌だって、何度も言ったでしょう!」


 そんな風に、キリキリとした声が聞こえた。


「空けますよ」


 眼鏡の修道士が馬車の扉を開ける。


 すると中から、見るも麗しい女性が出てきた。

 供にしている騎士は強引に手を引いて外に出そうとしているようで、女性は怒りに恐怖を混ぜたような表情だ。


 見た目は20台後半くらいの女性だろうか?

 彼女は、僕ほどではないものの、その体の一部を縛られている。


 彼女は僕たちの方を見ると――、


「嫌よ! やりたくないッ!」


「もう何回もやったことでしょう。こちらも「やれ」と何度も言ったはずです。だから、分かっているはずです。やる選択肢しか、あなたにはないのですよ」


 眼鏡の修道士は、面倒くさそうに言う。


 僕らができるのは、ただ目の前の状況を見るだけだ。

 ただ受け流すのではなく、観察をする。

 この状況をひっくり返す方法が思いつくかもしれないからだ。


 頭がむしゃくしゃして、うまく働かないが、それでもわかることもある。


 女性は、嫌がっている。

 女性は、体内に強力な魔力を持っている――それは、今の僕と比べてもそうそう見劣りしないほどだ。


 そして女性は、何かをさせられそうになっていて、それを嫌がっている。


「うぁ……」


 うまく言葉が操れない。

 今自分が何を言おうとしたのかさえ、頭にこびりつかない。

 相当おかしくなっているようだ。

 狂人になる病と聞いて、その印象通りとでも言えようか。


 男が女性を縛る首輪に魔力を籠めだした。


「うぐ、うああああ!!」


 女性は、痛みを感じ、その体を強く痙攣させる。

 体中が弾け、血が飛び出て内側の肉が見える。

 惨い、拷問のような痛みだろう。


 あの腕輪が魔道具だろうか?


「この痛みに、いつまで耐えられるでしょうねえ?」


 男は嫌な笑みを浮かべながら言う。


「やる! やるッ……か、ら! 止めてぇ!」




「アンタら、絶対許さない!」


「許す、許さないの話ではないのですよ。主導権を握っているのはこちらです」


 僕はその時、あの女性の自由を奪っている首輪を破壊すれば、こちらの味方に付いてくれるかもしれない、と思い至る。

 でも、実行に移せるタイミングがないと……。


「では、さっさとしてください。キリエ様」


「ぐ」


 キリエと呼ばれた女は、悔しそうな顔をする。

 そして思い出したかのように、体の痛みに顔を引き攣らせる。


「ああ、体の傷はご自分で治癒してください。できますよね?」


「……【治癒<キュア>】」


 キリエは何も言わずに、自分の体を治癒し始めた。

 治癒に属する魔法を使えるのは、『聖女』だけである。

 つまり、彼女は――。


「――聖女様、準備はできています。それではお願いします」


 男の呼称が示す通り、彼女はいわゆる『聖女』と言われる人間だ。


 しかし、聖女が誕生した『赤い満月』は実に100年も前のことだと聞いた。

 普通であれば先代の聖女は寿命を迎えているはず。

 1人が存命だとされているが、その先代の聖女なのだろうか?

 しかしそれにしては余りに若すぎるように思える。


 そうこう考えている間に状況が動く。


 1人の修道士が、厳重な黒い箱の中から、一本の『白い剣』を取り出す。


 間髪入れず、キリエはその男から剣を受け取った。


 よく見てみると、その剣に向かってそこらかしこにある自然の魔力が吸い寄せられているのが分かった。

 僕の体につけられた腕輪や首輪からも、魔力が吸い取られていく。


 体から魂でも抜かれているかのような剥離感を感じる。

 周りにいる僕の同類の罹患者たちも、苦しそうに蠢いている。


 吸い取られるごとに『白い剣』の魔力は膨張し――、たちまち巨大な魔力が『白い剣』に集まった。


「我らが聖女様――闇を、お祓いください」


「【浄化<ピュアリファイ>】」


 キリエがそう言うと、剣から放出された巨大な魔力が魔法を形作っていく。

 さながらそれは芸術品のように、美しい魔法だった。


 だがその魔法を行使する本人は辛そうだ。


「……ぁあ! あああああ!」


 大量の魔力が放射され、白い光となって、目の前にあった巨大な影の壁に飲みこまれていく。


 すると次の瞬間――、


「これが、聖女の力……」


 旧約聖書でイスラエルの民を連れエジプト軍から追い詰められたモーセは、海を割ったという。

 まるでその寓話を再現するかのように、聖女は、闇を割った。


 なるほど、もし目の前でこんな現象が起きたら、神を信じたくもなる。

 聖女という存在を畏れたくもなる。


 もし、こんな状況でなければ。


「うぅ……」


 口の中に、血が混じる。


 体に限界を感じてきた。

 僕が持ってた魔力は他の人と比べても膨大だ。

 それが無くなったときの痛みや疲労、体への負担もまた、他の人と比べ物にならないのかもしれない。


 魔力がすっからかんになって、僕はその場に崩れ落ちた。


「ゲホ……、ゲホッ」


 吐血が止まらない。

 何度もえづいて、ドバドバと出ていく。


 聖女キリエは僕の方を見た。

 そして、間髪入れずに次は眼鏡の聖職者の方へと顔を向ける。


「なんでその子はそんなに強く『魔封』を掛けてるの!? 腕も足も、首からも魔力を吸い取るなんて、そんなことしたら死んじゃうわ!」


「『ルナティック』に罹っているのですよ。よってソレは消費財として扱われます。人間ですらない。別に彼らが死のうが、我々は困りません……これはあなたも知ってることでしょう?」


「う……。でも、この子たちが、たとえ、死んじゃうとしても……、私たちが徒に苦しめていい訳がない!」


 眼鏡の聖職者はそれを意に介さずに、嘲るように言う。


「聖女キリエ、何を言おうと、あなたも共犯ですよ。知っててやってるんですから。……ほら、もう大半の者たちは死んでる。我々とあなたで殺したんです」


「……それはッ――アンタたちが!」


「我々があなたに強制させているのは事実です。ですがそれが死んだ者たちの救いになる訳ではない。彼の救いにもならない」


「……ぁ」


「その子に【浄化】でも試してみますか? 王国の研究では、あらゆる症状が緩和されるとか。……どうぞやってみたらいいでしょう」


「……浄化、する……【浄化】」


 キリエがそう言うと、僕は、頭の働きが少し回復し、狂気がほんの一瞬薄れたのを感じた。


「はぁ、はぁ……」


 キリエは息を荒げる。

 先ほど巨大な魔法を使った時に比べても辛そうだ。

 魔力の消費量は少ないのに。


 先ほどと違い、白い剣を持っていないからか、同じ魔法でも先ほどのように闇を払う程の威力は込められて無かった。


 先ほどの白い剣は恐らく増幅器。

 周囲の魔力を吸い取って聖女の魔法を増大する魔道具だ。

 父さんが持っていた指輪とは、また原理が違うものだとは思うが、魔法の行使を簡単にするという点では同じ。


 キリエの浄化が少しずつ効いてくると、僕は全力で左腕に力を籠める。


「ぐッ!」


 この世界の僕は前世と違い、かなり強い鋼の体を持っている。

 それでも鋼鉄を破壊できるほどではなかったと思う。

 【シャドウ】に体を侵されるまでは。


 ――今の僕は【シャドウ】に乗っ取られ、魔力も筋力を増している。

 体中の痛みが集中力を遮らなければ、相当に強い魔力で【身体強化】を施すこともできるだろう。


 キリエに浄化され、今ならそれを少しならコントロールできる。


 めり、と金属がひしゃげる音がする。

 僕は、左腕に付けられた魔封の枷を、筋力だけで破壊した。


「何ッ!」


「がああッ!」


 続いて左手も同じように破壊する。


「クソッ。おい、抑えろ」


 男が騎士たちに命令すると、騎士が近寄ってくる。


「放せ!」


 精一杯抵抗したが、無駄だった。

 騎士に抑え込まれ、魔封の腕輪が再度付けられる。


「ち、危なかった。何だこいつは」


 構わず僕は、もう一度同じように腕輪を破壊しようとした。

 だが、体の制御は再び【シャドウ】に奪われる。


「くそ……またか。……ゲホッ」


 体の痛みがまた戻ってくる。


「ふざけるなよ、狂人が! 逆らいやがって!」


 蹴られ、殴られる。


「やめてッ!」


 聖女キリエが聖職者や騎士たちの行為を止める。


「すいません、聖女よ。少し熱くなってしまいました」


「ごめんなさい……。ごめんなさい……」


 僕の手を握りながら、彼女は顔をそむける。

 僕を殴った騎士は加減と言うものを知らないみたいだ。


 血を失い過ぎた。

 地面にはべとべとと大量の血が染み込んでいる。


 体はほとんど動かない。

 僕、ここで死ぬのかな?


 死んだあとは、どうなるんだろう?

 誰かが悲しんでくれるかな?

 次も転生するのかな?

 父さんや母さんは……。


 ……。


 死にたくない。


 一度死んだ命だった。

 生まれ変わっても、どこか自分のことをどうでも良いと思ってた。

 でも、嫌だ。僕は、死にたくない。


 消えて無くなって、それでいいなんて、もう思えない。

 父さんも、母さんも、死んじゃったギースさんも、みんな僕に期待してくれて、想ってくれている。


 だから――、僕は、死にたく、ない。


 でも――瞼が閉じていく。

 永遠に冷めないような、昏い眠りが、訪れる。




 ■




 ――『イスト』は起きる。


 本来、この世界に存在しない筈の魂の呼び声に応えて、イストならぬ『イスト』として、ソレはイストの体をもって覚醒する。


 イストと『イスト』は記憶を共有している。

 だからこそ、分かることがある。


 【治癒】と【浄化】。

 聖女が使っていた2つの魔法――その発動時の魔力の使い方だ。


 魔法は『イメージ』『魔力』『適正』『技術』から成る。

 聖女のみが使える聖魔法は、この『適正』の点が他の魔法使いのネックとなっている。

 だから、聖女以外にこれらの魔法を使うことはできない。


 しかしながら、『イスト』はなんとなくの感覚で、この魔法がこの男の体でも起動できるのではないかと感じた。

 聖女がかつて男だったことはなく、通常であれば明確に不可能だと断じられるだろう。


 確かに気のせいかもしれない。

 でも、試してみる価値はある。

 血を失ってただ死ぬより、抗うべきだろう。


 イスト・ルケの記憶によれば、彼の前世は地球という世界の日本という場所で生まれたのだと言う。

 前世の記憶は、雑多で引き出しにくかったり使いにくいものもあるが、科学技術が進んだ世界の知識だ。

 その有用性は計り知れない。


 今必要なのは、人体の構造や医療技術、化学合成などの知識だ。


 寄り分け、必要な知識を抜粋し、深めていく。

 それらの知識が与える『イメージ』は、【治癒】の魔法に抜群に相性が良い。


 人体の構造が分かれば「どの部分がどうなると死ぬか」あるいは逆に「どこをどうすれば延命できるか」の理解につながる。


「【浄化】」


 魔法はいともたやすく発動した。


 しかし、発動させて身体に一時のゆとりを与えただけでは、聖女キリエがやったのと同じだ。


 身体に起こっていることを解析する。


 体細胞が『ルナティック』に侵襲されていく――【シャドウ】が身体に干渉している。


 身体を強引に作りかえていくような意味の分からない侵襲で、身体が滅茶苦茶になっているのだ。


「【浄化】」


 今度は、身体の体細胞を一気に入れ替えるくらい攻撃的に、【シャドウ】に侵された体を浄化していく。

 壊れた細胞を【治癒】で無理やり回復させていく。


 身体に大きな痛みが走る。

 だが、意に返さない。

 ここで気絶でもすれば、そのまま即死だ。


「【浄化】」


 治療は一晩にも及んだ。



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