第3話 君とあたし3

 一階への階段をゆっくりと下りて、保健室へと向かう。

 宮原はあたしの腕を肩に回して、それで体を支えていてくれた。

「後、もう少しで保健室だから。それにしても、樋口。手が熱くなってる。もしかして、風邪でもひいたのか?」

 あたしの顔をのぞき込んで、尋ねてくる。

 近い、近いですから、顔が。

「…風邪はひいてないよ。ちょっと、微熱はあるかも」

 とっさに、そう、ごまかした。

 宮原はふうんといいながら、無言で歩くのを再開する。

 しばらくして、保健室にたどり着いた。あたしの体温は宮原に触られたせいもあって、よけいに高くなった気がする。

 人のせいにしてはいけないのだけれど。 戸を開けて、中に入ると、養護教諭の田中先生が出迎えてくれた。

 ちなみに、三十歳ほどの女の先生だ。

 顔立ちはふつうだけど、明るく、朗らかな性格で生徒たちに人気がある。

「…あ、宮原君。樋口さん、どうしたの?体調が悪くなった?」真っ先にそう訊いてくる先生は、いかにも、保険の先生だ。白衣は着てないけど。

 あたしの代わりに、宮原が手短に答えた。

「その、熱が出たらしくて。顔も赤いし、僕が保体委員の代わりに連れてきたんです。一人では行けなさそうだったし」

 すると、先生は驚いたらしく、あたしをまじまじと見てきた。

「そう。体温計を出すから、宮原君は樋口さんをベッドに寝かせてあげて。熱が高いようだったら、早引けできるように、担任の先生に言っておくから」

 てきぱきと指示を出すと、先生は棚の扉を開けると、体温計を取り出してきた。 近くにあった椅子に、宮原が座るように言ってきたので、その通りにする。

 ケースから、体温計を出して、あたしに先生が渡してきた。 制服のセーラー服の襟元をゆるめて、脇に挟んだ。

「樋口さん、あなた、前にも熱があるっていって、保健室に来たことが何度かあったよね。一年生の入学式の時とか、確か、月に二、三度は倒れていたような」

 あたしはそれを聞いて、よく覚えているなと驚いた。

「…え。樋口、そんなに頻繁に熱を出してたんですか?」

「そうなの。樋口さん、もしかして、昔から、体が弱かったの?私は昔のことはわからないけど、もし、学校で倒れたりしたら、大変だから。ちゃんと、病院に行くのよ?」

 あたしはとりあえず、肯いておいた。

 そして、ピピッと電子音が鳴り、あたしは体温計を引っ張り出した。

 小さな画面を見てみると、三十七度五分という数字が表示されていた。

 それを目にした田中先生と宮原は、途端に厳しい表情になった。



「…これは、いけないわね。確実に熱があるじゃないの」

 田中先生がぽつりと呟いた。

 朝方は何ともなかったのに。

 一体、どうして、こんなに熱が出ているんだろう。

「樋口。先生の言うとおりだ。休んでおいた方がいいんじゃないか?」

 真剣な顔で宮原も言ってくる。

 仕方なく、肯いておいた。

 よろよろと立ち上がり、ベットまで向かう。

 宮原が慌てて、あたしの背中に手を添えて、一緒に歩き出した。

「今日は早退しなさい。無理して、症状がひどくなっても、困るし。宮原君、担任の先生に知らせてきて」

 宮原はわかりましたといって、あたしから離れて、保健室を出ていった。

 あたしは自力で、ベットまで歩くと、上履きを脱いだ。

 布団をどけると、中に潜り込んだ。

「じゃあ、樋口さん。私は職員室に行くから、しばらく、休んでなさい」

 田中先生はそう言うと、カーテンをしゃっと引いて、同じく、保健室を後にしたらしかった。

 足音が遠ざかると、あたしは深く息をついた。

 熱は宮原が直接、触れてきたからだ。

 そのせいで、上がったのだとはとてもじゃないけど、言えない。

 本人目の前にして、熱が高くなったのはあんたのせいだとはさすがに、口にできない。

 言ったとしても、頭がおかしいか変態扱いされるか、どっちかだろう。

 あたしだって、面と向かって、男子から、「熱が高くなったのはおまえのせいだ」と言われても、ぴんとこないし、なに言ってんの、こいつくらいしか思わない。

 たぶん、宮原も一緒だろうし。

 あたしは火照った体を持て余しながら、目を閉じた。


 眠ったのは、三時限目だったので、午前十一時頃だった。

 それから、目を覚ましたのは、午後十二時。

 一時間ほど、寝ていたらしい。

 だが、保健室には誰もいなかった。

 あたしは職員室にいるらしい田中先生に、目を覚ましたことを知らせにいこうとベットから、出た。 戸を開こうと歩き始めた時だった。

 がらりと戸がいきなり、開かれたのだ。 あたしは驚いて、小さく声をあげてしまった。

「…あら、ごめんね。樋口さん、もう目が覚めたの。よかった」

 戸を開けたのは、田中先生だった。

 ひとまず、胸をなで下ろした。

「田中先生だったんですか、男子じゃなくて、よかった」

 そう言うと、田中先生はおかしそうに、笑った。

「私は男子みたいに、寝ている女子にちょっかいをかけようとは思わないわね。まあ、そこは安心して」

 あたしもつられて、笑ってしまったのであった。


「…とりあえず、担任の先生には言っといたから。樋口さん、早退していいからね」鞄は友達が持ってきてくれると思うわと言いながら、田中先生は事務机に備えつけてある椅子を引いて、座った。

「もう、熱は下がったみたいですから。自分で帰ります」

「そう。だったら、いいわ。気をつけてね」

 笑いながら、手をひらひらと振る。

 あたしもさようなら、失礼しましたと頭を下げて、保健室を出た。



 玄関まで歩いていると、ばたばたと走る足音がして、振り返った。

 そこには美佐があたしの後を追いかけていたのだ。

「どうしたの、美佐。廊下を走ったら、先生に注意されるよ?」

 声をかけると、美佐はあたしのすぐ近くで止まる。

 ぜいぜいと息を荒げながら、美佐はあたしに片手で何かをずいっとつきだしてきた。「…あんた、早退するっていってたじゃない。今、お昼休みになったから、田中先生に伝言を頼んだの。聞いた?」

「うん。聞いたけど」

「そう、なら、よかった。後、これ、鞄ね。机の中の教科書とかノート、プリントとかを入れといたから。おかげでお昼、食べる時間がなくなりそうだよ」

 あたしは慌てて、ごめんと言った。

 美佐は気にしないでねと言いながら、鞄を渡してくれた。

 受け取って、下駄箱に急ぐ。

 まだ、微熱があるためか、足下はふらふらとしている。

 あたしは自分の棚に入れてある革靴を取り出して、床に置いた。

 履き替えていると、美佐が教室に戻る後ろ姿が見える。

 それを眺めて、上履きを入れたのであった。家へ自力で帰っていると、また、めまいがしてくる。

 我慢して、ゆっくりと歩く。

 そんな時に、ふいに後ろから、声をかけられた。

「樋口。やっぱり、足下がふらふら、千鳥足だな」

 笑いを含んだ声であたしは振り返った。 そこには、独特の茶色の髪と瞳をした宮原がたたずんでいた。

 顔はにこやかに笑っていて、どこか、悪戯っぽい表情だった。

「…何で、宮原がいるのよ。もしかして、早退してきたの?」

 聞き返すと、宮原はへえ、ご名答といった。

「そうだよ。俺、担任に「自分も調子が悪いので」て、言ったんだ。そしたら、嘘だろって、笑いながら、言い当てられちまった。まあ、意外とあっさり、早退を許可してくれたけど」あたしは正直、素で女子を送っていこうとする宮原は良い奴だと思った。

 他の男子だったら、こんなことをしようものなら、後で見返りを求めてくるだろう。

「…宮原、あたしのこと、心配してくれるんだね。ありがとう」

 じんときながら、礼を言った。

 すると、宮原は顔を赤らめながら、良いよといってきた。

 意外とかわいい反応するじゃないか。

 あたしは自分まで、顔が熱くなるのがわかった。

 うんと返すのが精一杯だった。



 そして、しばらく歩いていると、家まで後もう少しの所に来た。

「もう、いいよ。鞄、持ってくれて、ありがとう。送ってくれたから、助かったよ」

「…どういたしまして。今日はゆっくり、休めよ」宮原はぶっきらぼうにそう言うと、背中を向けて、帰っていった。

 あたしも宮原に背中を向けて、歩き出したのであった。



 家に帰ってきて、玄関で靴をのろのろと脱いだ。

 鞄は手に持ってはいるものの、体がだるくて、力が入らない。

「ただいま。お母さん、いる?」

 熱がある割には、元気な声で呼びかけてみた。

 だが、しいんとしていて、人の気配がない。

 中に上がって、キッチンやリビングを見て回った。

 よろよろとしながらも一歩ずつ、踏みしめながら、お母さんを探してみた。

 けれども、見つからない。

 仕方なく、探すのをあきらめて、二階の自分の部屋へと向かった。

 ドアを開けて、部屋のカーペットの上に突っ伏した。

 鞄を放り捨てて、大きく、息を吐き出した。

 顔や体が熱くなり、額からは汗がにじみ出ているのがわかる。

 あたしは立ち上がり、制服のスカーフをはずして、上着を脱いだ。

 そして、スカートも脱ぐと、クローゼットを開けた。

 下の引き出しから、薄い黄色のシャツとズボンを手にとって、もそもそと着込んだ。

 今は五月のはじめ頃だから、昼間はまだ、ひんやりとしている。

 服を着替えたら、ドアを閉めて、ベッドに潜り込んだ。

 あたしはすぐに、目を閉じた。

 けれど、頭がぐるぐると回る感覚に、めまいがする。

 視界がぐにゃりと曲がって、変な気持ちになった。

(うう。お母さん、早く帰ってきて!)

 胸中でそう、叫んだ。

 辺りは耳が痛いくらいに、静まりかえっていて、人の気配がない。

 あたしは目を閉じて、布団を頭から、被ることでやり過ごした。



「…可奈。起きなさい」

 聞き覚えのある声で、あたしは重たいまぶたを開けた。

 顔を横に向けてみると、心配そうにのぞき込んでいるお母さんの姿があった。

 椅子に座って、あたしの側にいてくれていたようだ。

「…お母さん」

 かすれた声でそう言うと、お母さんはあたしの額にそっと、触れた。

 ひんやりとした手が火照った部分に当たって、心地良い。

「こんなに熱があるなんて、思わなかった。もし、朝方に気づいてたら、あんたを休ませてたんだけど。無理させて、ごめんね」そう言いながら、涙ぐむお母さんにあたしは首を横に振ってみせた。

「ううん、お母さんは悪くないよ」

「…可奈」

 あたしは幾分か、すっきりした頭を働かせた。


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