第9話 月虹

美しい世界に月明かりが差していた。

爛漫に咲き乱れる七色の花畑の中で少年と少女が向かい合っている。

夜空の星は2人のためだけに輝き、その出逢いを祝福してくれているようだった。

希望に満ちたような世界の中で、1人の少女が残酷な真実を告げた。


意味が分からなかった。

聞き間違えたのだと思いたかった。

いや、薄々勘付いていたけどその可能性はないと自分の中から考えを排除していただけなのかもしれない。

踊らないのではなくて、踊りたくても踊れなかった理由があるのだと頭のどこかでは理解していたはずだ。

だって、アオがダンスを辞めたくて辞めるわけがないのは明白だったのだから。

誰よりもダンスが好きで、心の底から楽しんで踊っていたことは誰が見ても分かる。

あんなにも美しいアオのダンスに自分は心から惹かれたのだ。

だからアオの言葉を真実として受け入れるにはまだ時間も勇気も足りなかった。

何かの間違いであってほしかった。


「動かないってどういうこと…?だって今は、動いているようにわたしには見える」


慎重に言葉を紡ぐ。

信じたくない真実が自分の言葉によって現実味を帯びていく。

聞いてしまったら、アオの言葉をしっかりと脳が認知したと認めてしまうことになる。

心だけが抵抗し、まだどこかに嘘の要素があるのではないかと必死に探す。

しかし些細な抵抗も虚しくただ偽りのない正しい解だけが淡々と返ってくるだけだった。


「ううん、動かないんだよ。病気なんだ。よるのに出会うずっと前から」


絶句する。言葉が出てこない。

何を言えばいいのか分からない。

言葉は伝えたいその時に自分の意思を持って出てこないと意味がない。

そんなことは痛いほどわかっている。


「そんな…。え、、だって、」


動揺が隠せていないのが自分でも分かった。

言うべき言葉が見つからない。

何かを発そうとして口を開いても脳の思考機能がうまく働いておらず、声を出すための口はただ空気を垂れ流すだけだった。

静寂が流れる。


「よるのが言いたいこと、わかるよ。今動いてるし、この間までも普通に動いてたから信じられないよね」


静寂にアオの声だけが静かに反響する。

その言葉に無言で頷いた。

アオが続ける。


「身体が急に言うことを聞かなくなるんだ。突然麻痺したように重くなったと思ったら、次の日には何事もなかったかのように動き出す。でも、今回もダメだった。手足の感覚がなくなって、一切立ち上がることすら出来なくなった。

ここまでひどい症状が出たのは初めて。でも回数を重ねるごとにどんどん動かなくなってる。身動きができない時間が伸びてるんだ。発症と回復を繰り返しながら緩やかに悪化していってる」


アオは定期報告のように淡々と事実だけを述べる。ずっと全てを諦めたような表情のまま、あらかじめ発する台詞が決められているNPCのように口を開く。

月の光だけがその真実を照らし続けていた。


「今は足は立っているだけで精一杯。手は問題なく動くし、コントローラーも持てる。でもまたいつ突然動かなくなるか自分でもわからないんだ。どんどん一切動けなくなる瞬間が訪れるスパンが短くなっていってる。今まで必死に隠してたけどそれもできなくなるくらいに。ずっと生きていくだけで必死だった。隠しててごめんね」


身体が固まってしまって声を発することができない。

何かを言わなければ。せっかくアオが勇気を出して教えてくれたんだ。とても言い出しにくいことをわざわざ会ってまで教えてくれた。

ちゃんと対話をしようとしてくれているのに、どうして今度はわたしが何も言わないんだ。

何か言葉を。話さないと。


「あ…」


かろうじて口から出たのは平仮名の1番最初の文字だけだった。その後に続く言葉を脳をフル回転させて考えるが何も出てこない。

言葉が口から出るより先に、涙が目から溢れ出た。自分が泣いても困らせるだけなのに延々とそれは流れ続けた。

そして涙が出たことでようやく理解した。

自分の行動がアオを傷付けていたことに。

自分勝手な考えで今までずっとアオを苦しめていた。踊りたくても踊れない人にダンスの動画を送り付けるなど正気の沙汰じゃない。

知らなかったから、は理由にならない。

知らなかったら何をしてもいいのであればこの世から犯罪はなくならないだろう。

それに出会った当初の頃もそうだ。

職を失ってどん底にいたあの頃、VRの世界で知り合ったアオに言ったのだ。

あなたと違って暇じゃない、今を生きるのに必死なんだ、と。

その時からすでにアオは今を必死に、懸命に生き抜いていたのだ。

わたしなんかのレベルとは比べ物にならないほど生と死の狭間をリアルに彷徨っていたのだと思うと、あの時の自分の発言に吐き気がした。

取り返しのつかないことをしてしまったと思うこと自体がもう遅い。

何もかも手遅れだった。犯してしまった罪にただ涙を流すことしかできない。


「ごめん…ごめんなさい…。わたし、アオになんて言ったらいいか…、ごめんなさい…」


赦しを乞うように謝ることしかできなかった。

謝って済むものではないと分かっているのに、ただ謝罪の言葉だけがオート機能をオンにしたかのように出続ける。


「どうしてよるのが謝るの。むしろ僕の方こそこの間はごめん。心無い言葉でよるのを傷付けた。今だってよるのは何も悪くない。ずっと隠してた僕が悪いんだ。分かるわけないもん。だから泣かないでよ。謝る必要もない。むしろ今日は感謝しにきたんだ」


「わたしは、感謝される、ようなこと何一つもしてない…。アオを、傷付けてた、だけだった…」


感謝をされる要素など一つもない。

お前のせいで、と罵ってくれたほうがどれだけ楽だろうか。

そしてこのような考えに至っている時点で結局自分のことしか考えてないということに気づいて反吐が出そうだった。

大切な人でさえ傷付けてしまうこんな自分は生きている価値すら無い。

下を俯くと価値の無い涙がHMDの画面を静かに濡らした。


「ううん、違うよ。よるのが送ってくれた動画、毎日見てたんだ。動かなかった身体が少しずつ動いたんだ。動画越しの音楽だったけど、確かに少しずつ手足に力が入ってくるのを感じた」


顔を上げて前を見る。アオは真っ直ぐこちらを見つめていた。


「よるのに初めて会ったときもそうだった。あの時も実は全然身体が動かなかったんだ。VRも辞めようかと思ってて最後に景色が綺麗そうなpublicのワールド選んで行ってみたんだ。そしたらそこで君がピアノを弾いてた。しばらく陰でこっそり聴いてたんだけど、そのうち自然と手足が動いた。信じられなかった。声を掛けに行ったときはもう踊れるくらいに身体が動いてた。だから、ずっとありがとうって言いたかったんだ。この世界に僕を繋ぎ止めてくれたのは間違いなくよるのなんだよ」


そう言ってアオは満面の笑みで笑った。

こんなどうしようもない自分に価値を与えてくれる言葉だった。


「なんでそんなにやさしいの…?わたしはアオを傷付けたのに…」


「だから傷付けられてないんだって!傷付けてしまったのは僕のほうだ。会いたくないなんて言ってしまったけどほんとはそんなこと思ってなくて。ずっと会いたくて、よるのの音を聴きたくて。でもこんな何もできない僕がよるのの側にいる価値なんてないって思っちゃって。それで怖くて突き放しちゃった。言ってしまってから、ずっと後悔してた。ひどいこと言ってごめん。自分勝手でごめん。それでもやっぱり僕は、」


アオが一歩近づく。

手を伸ばせば触れられる距離になる。


「よるのと居たいんだ」


暖かい言葉が心を優しく包む。

心が温まっていくのに涙は止まらない。

アオの口からそんな言葉が聞けるとは思わなかった。


「わたし、アオ、に」


必死に声を出そうとして絞り出した言葉は単語の羅列。涙で前が見えずに少女の姿がどんどん透明になっていく。


「こんなこと言われても迷惑だよね。ダンスもできない僕は生きてる意味も価値も何もない」


アオの表情が曇る。

そうじゃない。そうじゃないんだ。

そうじゃないと思っていることを伝えなければ。伝えたいことは伝えられる瞬間に言わないとずっと後悔する。心がそう訴えている。

ずっと心に閉まっていた溢れそうな想いを伝えたい。感謝を伝えるべきなのはわたしだ。


「や、違くて、この涙はうれしくて止まらないだけ…。わたしのほうがアオにたくさんありがとうって言いたかった。ずっとずっと言いたかったの」


想いを口にする。今言葉にするんだ。

そのときに自分に必要な言葉を。そのときに相手に必要な言葉を。わたしが伝えたかったのは、自分の人生を鮮やかに色付けてくれたこの人への精一杯の感謝と、それから。


「アオがわたしを見つけてくれたんだよ。この世界で彷徨っていたわたしを繋いでくれたのはアオのほうだよ。大好きだった音楽をやっていいって思えたんだ。アオが居なかったら、きっとわたしはずっと自分の殻に閉じこもったままだった。あのままずっと1人で過ごしていたと思う。アオが居たから、わたしは今ここに立っていられる」


アオを真っ直ぐ見つめる。

その顔にまた笑顔を取り戻したい。

わたしが救われたように、この人を救ってあげたい。


「わたしの音楽を出会ったときから好きだと言ってくれてありがとう。生きてもいいって思えたのは全部アオのおかげ。今も、会いに来てくれてありがとう。わたしもずっとずっと会いたかった。アオに存在価値がないなんて思わない。だってわたしはアオが側にいないとこんなにも苦しくて胸が締め付けられるんだ。だからアオのために何か力になれるなら何でもする。ピアノも弾く。もしかしたらまたダンスができるようになるかもしれない。それにダンスができなくても関係ない。わたしもただずっとアオと一緒に居たい」


真っ直ぐ前だけを見ながら一歩近づく。

もう身体が嫌でも触れてしまう距離だ。

そのまま手を回して猫耳少女を抱きしめる。

その胸に顔を埋める。

もちろん現実世界では感触も温もりも何もない。ただ何も無い無の空間にコントローラーを持った左右の手が大きな輪を作るように浮かんでいるだけだ。それでも確かにアオの息遣いや呼吸の際の胸の振動が伝わってくる。同じように自分の心臓の音まで伝わってしまいそうだ。

怖い。

でも伝えないほうがもっと怖い。

そしてこの想いはもうきっと止められない。


「1回しか言わないからちゃんと聞いててね」


胸に顔を埋めたまま言った。

頭上からうん、と声が聞こえた。

アオの腕が自分の身体の後ろに回された。

感触はないがその熱が伝わってくるようだった。その熱を受けた身体から自然と言葉が滑り出た。


「わたし、アオが好き」


あぁ、やっと言えた。

ずっと言いたかった言葉が。

この人のことが心の底から好きなんだ。


「アオが好きなんだ。ずっと一緒に居たい。ずっと好きって言いたかった。出逢った時からアオのダンスが、アオの声が、アオの仕草が、アオの全部が大好き。アオが…」


「ちょっとストップ!」


抱きついたまま上を見上げる。

照れたように顔を逸らしている少女が可愛くて、愛おしくてさらに力強く抱きしめた。


「ねえ、1回だけじゃなかったの…?めっちゃ恥ずかしい…」


「…いやなの?」


アオは全力で首が捻じ切れそうなくらいぶんぶんと振り回す。身体が動かないと言っていたのが嘘のような勢いに少し笑ってしまった。


「嫌なわけない!嬉しい!僕も…よるののことがす…、うわめっちゃ恥ずかしいな、よくよるの何回も言えたね…。僕もよるのが…っ。…よるのと一緒にいたい…」


最後のほうは消えてしまいそうなほど小さな声だった。恥ずかしがっているアオを逃さないようにぎゅっと抱きしめてその顔を見る。


「だって好きなんだからしょうがないじゃん」


「開き直ってる…。マジで見習わなきゃ…。自分が不甲斐ない…。でもそんなこと言われたの初めてで、どうしたらいいか…」


「わたしだって言ったの初めてだよ。言われたこともないし。今もどきどきしてる」


「嘘だあ。ベテランの言い方だったよ…」


「だってずっと言いたかったから…。言わずには居られなかったの!」


「もしかしてよるのって結構肉食系…?」


「こんなこと言うのアオにだけだよ。それで、わたし、告白…したわけなんだけど、その…返事は…?これで無理って言われたら泣くどころじゃ済まないんだけど…」


そう言ってアオを今一度しっかりと目に焼き付けた。その猫耳も、フリルのリボンをつけたお人形みたいな衣装も、ゆらめく尻尾も、全てが愛おしい。

そしてアバターの向こう側にいるアオのその人柄そのものに最もわたしは惚れたのだ。

この人のただ隣に居たい。それだけでわたしの生きがいだ。同じようにアオが思ってくれるなら、わたしの存在がアオの新たな生きがいになってくれるなら、こんなに嬉しいことはなかった。


「うん。なんかよるのに告白させちゃってごめんね。僕もちゃんといつか言うから待っててほしい。だからせめて今はこれだけは言うね」


そう言ってアオは深呼吸した。

そして慎重に、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「僕と付き合ってください」


「うん…!」


2人で笑い合ってお互いをまた抱きしめた。

想いが通じたことが嬉しくてまた涙が流れた。

今度こそは正真正銘価値のある涙だった。


美しい世界に月明かりが差していた。

爛漫に咲き乱れる七色の花畑の中で少年と少女が向かい合っている。

夜空の星は2人のためだけに輝き、その出逢いを祝福してくれているようだった。

希望に満ちたような世界の中で、わたしたちは恋人になった。



          ♢♢♢


『もしもしつっきー?どうしたのー?』


アオとまた次の日会う約束をしてVRの世界からログアウトした後、すぐに桃葉に電話をかけた。桃葉にはすぐに報告したかった。


「ごめんね、ももちゃんこんな遅くに。どうしてもすぐももちゃんに伝えたかったの。アオに会えたんだ」


『え、ほんと?!やったじゃん!どんな感じだった?アオちゃん戻ってきそう?』


あの後、アオには病気のことはまだみんなには言わないでほしいとお願いされた。

みんなには自分からちゃんと伝えるから心の準備ができるまで待ってほしい、と。

だからこの件に関しては桃葉にも夜乃の口からは言えない。


「ううん、それはまだちょっと難しいみたい。ごめん…」


『そっかあ…。何か事情があるんでしょ?仕方ないよ。あたしはいつかアオちゃんが戻ってきてくれるって信じてるから。でも、つっきーがアオちゃんに会えて良かった』


「うん。付き合うことになったんだ。ももちゃんにはそれを報告したかったの」


電話の向こうでガタンと大きな音が鳴った。

直後に『ぁ痛ったあ…』と可愛い声がする。

勢いよく立ち上がって机に足でもぶつけたのだろうか。

電話口の桃葉の声色は先ほどとは比べ物にならないほど明るくなった。


『待って待って、めっちゃいい話じゃん!!えー!普通にめちゃくちゃ嬉しいんだけど!良かったね!おめでとーー!いや、でもあたしは絶対2人はくっつくって思ってたからね!むしろ今までが遅すぎたくらい?それで、どっちから告ったの?』


「わたしから。ももちゃんが背中押してくれたからだよ。ありがとう。ちゃんと自分が想ってること伝えられたんだ」


『あたし何もしてないけどね!思ってたこと言っただけだし!全部つっきーが自分の想いを信じて行動した結果だよ!あー!自分のことみたいに嬉しいんだけど!クリスマスはちゃんと2人で過ごすんだよ〜!』


「え、でもせっかくみんなでクリスマスパーティーやりたいって言ってたのにいいの?アオはまだ難しいかもだけど、せめてわたしだけでも行くよ」


壁に掛けられたカレンダーをちらりと見る。

あと1週間でクリスマスだ。

夜乃はクリスマスパーティーへの参加の意思を示したが、電話の向こうの桃葉に強く反対された。


『なーに言ってんの!せっかく付き合ってすぐに世の中の恋人の一大イベントがあるんだから、そこは絶対2人で過ごさなきゃダメ!アオちゃんだってつっきーと居たいはずだよ!それにもともとクリスマスパーティーやりたかったのはつっきーとアオちゃんをくっつけたかっただけだったから、結果的にOKなの!あたしとゆん兄としおたんで、パーティー中につっきーたちが付き合うかどうか賭けようって話になってたから、恋人になったって言ったらきっとみんな喜ぶよ!』


「待って?最後の方なんか聞き捨てならないセリフが聞こえたんだけど?え?っていうかみんなわたしがアオのこと好きなの知ってたの?」


『おっと、つい口を滑らせてしまったぜ…。いや、知ってるもなにもつっきーわかりやすすぎだからね!普通にバレバレだよ!あたしだけじゃなくてみんな気づいてたんだから!』


火が出そうなくらい顔が火照ったのが自分でも分かった。バレないように冷静に行動していたつもりだったが周りから見れば決してそうは見えなかったらしい。その事実にどんどん体温が急上昇する。


「ぅう…。めちゃくちゃ、恥ずかしい…。そんなにわかりやすかったんだ自分…。気をつけなきゃ…」


『別に気をつけることないじゃん!むしろみんな知ってるんだから堂々とイチャイチャしても誰も文句言わないよ!逆に動きやすいじゃん!だからクリスマスパーティーのことはほんとに気にしなくていいからね!』


「たしかに…。いや、まあでもさすがにみんなの前ではイチャイチャはしないからね?でも、そう言ってくれてありがとう。やっぱりももちゃんに話せて良かった」


『あたしも話聞けて良かった!色々冗談言ったけどほんとに心から嬉しいよ。てかつっきーと付き合えるなんてアオちゃん幸せ者すぎるでしょ。これからも色々話聞かせてね〜!』


「うん!ほんとにありがとう!何か進展あったら、すぐ報告するね」


夜乃がそう言うと、桃葉は嬉しそうに笑った。

その笑い声に夜乃も思わず笑顔になる。

心から信頼できる親友に相談できたことが何よりも嬉しかった。

しばらくすると電話の向こうでピロンと音が鳴った。その後は無音の時間が続く。


「…どうしたの?」


夜乃が問いかけると電話の向こうから可愛らしい小声が返ってくる。


『録音してるから、今言ってもいいよ?ももちゃん、好きだよって』


まだ諦めてなかったのか。その行動に思わず笑みが漏れる。小さな囁き声で電話の向こうに聞こえるように声を出した。


「大好きだよ、アオ」


『あーーー!ちょっと!今はあたしのターンでしょ!もうーーっ!アオちゃんばっかりずるいー!』


「だって、好きなんだもん」


『惚気やがってー!まあ今度あたしも直接言ってもらうからいいもん!つっきー意外といじわる!』


「あはは、ごめん。ももちゃんが可愛くてついいじっちゃった。じゃあまた今度ね!話聞いてくれてありがとう。おやすみ」


『そんなこと言っても誤魔化されないからね!次こそ言ってもらうんだから!また今度会う時色々楽しみにしてる!アオちゃんのこと、よろしくね。おやすみー!』


「うん」


ぶつぶつと文句を言っていた桃葉だったがすぐにいつもの調子に戻っていた。そのころころと切り替わる言動が可笑しくて思わずまた笑ってしまう。電話の向こうの可愛らしい親友に再びおやすみ、と小さく言って電話を切った。

時計の針は午前2時を指している。すっかり遅くなってしまったのに電話に付き合ってくれた桃葉に心の中で感謝した。

ベッドから起きて立ち上がり、寝室のカーテンを少しだけ開けて外を見る。ぽつぽつと灯るまだ眠っていない家の明かりと白い世界の背景と化した消灯した家々をぼんやりと視界に入れながらゆっくりと舞い散る雪を眺めた。

世界から取り残されたような静寂を感じるこの時間が夜乃は好きだった。

今、アオは何をしているんだろうか。ぐっすりと眠っているんだろうか。ふとした瞬間にアオのことを考えてしまう。その姿や、声や仕草を思い出しただけでこんなにも胸が高鳴る。

寝て起きればまたアオに会える。

はやく会いたくてたまらなかった。

アオのことを考えながら、寝室の明かりを消して静かに眠りにつく。

雪の降る白い世界が夜乃の家をゆっくりと背景に同化させた。



          ♢♢♢


街灯が優しく灯り夜の訪れを知らせる。

歩道に等間隔に並んだ木々には電飾が施されており、黄色や青色に点滅を繰り返しながらゆっくりと光り輝いて周囲をカラフルに照らした。

北ドイツのリューベックを思わせる煉瓦造りの建物の壁には夜空の月や街灯や電飾の光が反射して、寒さを感じさせるような冬景色をどこか暖かく包み込んでいるようだった。

イルミネーションで彩られた街並み。

舗装された道をアオと一緒にゆっくりと歩いてクリスマス色に染められた大通りへと向かう。


「きれい…」


「ほんとに。まさかVRでイルミネーションが見れる日が来るなんて思わなかったよ」


隣を歩くアオは目を輝かせながらイルミネーションに見入っている。その姿を横目に見ながら夜乃も色彩豊かな景色を目に焼き付けた。

明日はクリスマスイヴ。今日はどうしてもイルミネーションが見たかった夜乃のわがままでアオに付いてきてもらったのだ。

アオと恋人になってからほぼ毎日のように冬を感じることができるワールドへ遊びに行った。アオの身体の調子もだいぶ良くなったみたいで、自宅を不自由なく歩き回れるくらいには回復したと教えてくれた。

ただまだ外出するのは難しいらしく、家にいながら綺麗な景色をたくさん見られるVRのありがたさを改めて感じたとアオは言っていた。

ここ数日はお互い行ってみたいワールドを探して順番にワールド巡りをしている。

ガス灯の明かりが揺らめくノスタルジックに雪化粧した温泉街。幻想的にライトアップされたかまくらを見ながらゆっくりとお酒を飲んだ。

その次の日はショッピングモールのワールドへ行き、ガラス張りのアトリウムの中心にそびえる巨大なクリスマスツリーの前で一緒に写真を撮った。肩が触れ合う距離にどきどきしながら様々なポーズでシャッターを切る。お気に入りの写真はすぐにiPhoneの待ち受けに設定した。

また別の日にはスノーボードができる雪山のワールドを訪れた。お揃いのスノーウェアをboothで購入してアバターを着替えさせる。足が全然動かなくても滑れる!と言って感動していたアオは、テンションが上がって何度もゴンドラを往復していた。夜乃は現実でも滑ったことがなかったので頂上から下を見下ろしたときは足がすくんだが、よく考えたら転倒することは絶対になかったのでアオの後ろをついてゆっくりと滑り降りた。何度も一緒に滑っているうちに現実世界では動かずに止まっている身体と視覚情報から流れるスピード感溢れる下降景色に三半規管が悲鳴をあげて、2人して酔いでダウンした。これもいい思い出だね、と言い合って、ふかふかの雪の上に寝そべりながら一緒にゲレンデの星空を見上げた。

飲み込まれそうなほど広大な海を覆い尽くす流氷も見に行った。太陽光を受けてキラキラと輝く流氷の上を自動操縦されている大きな船が滑る。2人きりで乗り込み、流氷を削りながら進む景色を見ながら談笑した時間はかけがえのないものだった。船が停止したころにはワールドの景色が夜に移り変わっていて、デッキに出ると銀世界を埋め尽くすオーロラが2人を出迎えた。

流氷を虹色に照らすオーロラの下で、初めてのキスをした。3Dモデルのデータで出来た身体が直接触れ合うことは不可能だが、それでもしっかりとした感触が記憶に残るほどにアオの存在を感じた。想いが溢れて止まることを知らずに、いつまでも口付けを交わし続けた。


記憶の海を泳いで思い出を掬い上げながら目の前のイルミネーションを網膜で捉える。隣に佇むアオの左手にそっと自分の手を絡ませた。アオもそれに気づいて手を強く握る。現実世界ではコントローラーを持っているだけの右手もその熱と感触を認知する。大通りのベンチに2人で腰掛け、煌めく光に溺れた街並みをただ黙って眺めた。ワールド全体に『サンタは中央線でやってくる』のBGMがうっすらと流れている。ソフトシンセの切ないメロディとエモーショナルに動くベース音。時折遠くから聞こえてくるスレイベルの音色が贈り物を届けるそりの到来を彷彿とさせた。視覚と聴覚を冬色に染め上げ、手のひらの触覚が横に座る恋人の存在を確かなものに変える。ふと横を見るとアオもこちらを見つめていて、ゆっくりと近づいてくるその可愛らしい顔を一目見てから静かに瞼を閉じて唇を委ねた。しばらくしてから口を離すと、呼吸を忘れていた身体が急に空気を取り込んで思わずむせそうになった。心臓が煩いくらいどきどきと鳴っている。


「僕、今すごくドキドキしてる。よるのと一緒にイルミネーション見られて良かった」


「ボクも。心臓がずっとうるさいもん。わがままに付き合ってくれてありがとね。どうしてもアオと一緒に見たかったんだ。明日のクリスマスもアオと一緒に居たい」


お互いの心音が重なり合ってハーモニーを奏でそうなほど強く響いているのがわかる。夜乃の言葉にアオは笑顔で頷いた。


「もちろん!僕もずっとよるのと一緒がいい」


アオの言葉の一つ一つが心に棲みついてもう離れなかった。脳が壊れてしまうくらいの愛しさが込み上げてどうにかなりそうだった。それほどまでにアオの存在が自分の生きる理由そのものになっていく。


「好きだよ」


「僕も」


再び口付けを交わす。涙が溢れてしまいそうなほど感情が昂って、そのまま強くアオの身体を抱きしめた。同じように自分の身体に回されるアオの腕の温もりを全身で受け止める。


「次、僕が行きたかったワールド一緒に行かない?綺麗そうだったからお気に入りしておいたんだ」


「行きたい。アオと一緒ならどこでもいいよ」


2人で笑い合ってベンチから立ち上がる。イルミネーションの街並みをバックに何枚か写真を撮ってから次のワールドへのポータルをくぐった。


次に目を開けた瞬間に飛び込んできたのは紺色の夜空。ゆっくりと降り注ぐ雪のパーティクル。銀白に覆われた針葉樹の林の丘の上に夜乃とアオだけがぽつんと立っている。遠くには時間が止まった細長い時計台と荒廃した家の群れ。誰からも忘れ去られた街は息を引き取っているはずなのに時計台の上に輝く三日月が街をオレンジ色に染めていて、夕焼けにも似た不思議な煌めきを帯びていた。


「ここから降りられるみたいだね」


綺麗な景色に感動していると、アオがすぐ近くの小道を指さしながら手招きしていた。

慌ててその後を追って緩やかな傾斜の小道を下っていく。しばらく下っているとやがてひらけた広場に辿り着いた。広場の奥は崖になっていて落下防止のための手すりが施されている。それ以外には何もなく、ただ目の前の時計台とその上で全てを照らす三日月の存在感だけが強い印象を放っていた。暴力的なほどにその存在を主張する時計台にただ目を奪われる。停止した時間が世界そのものから2人だけを切り取ったかのように錯覚させた。広場の中心に2人で腰を下ろす。時計台を見上げながらアオが口を開いた。


「やっぱりきれいだね、このワールド」


「うん。荒廃しているはずなのにとてもキラキラして見える」


「ね。写真撮っとこ。あ、そうだ!ちょっと待っててくれる?」


夜乃の返事を待たずにアオがAFKモーションに入る。VR空間上にアバターの身体を残したまま現実世界の身体だけログアウトしている状態だ。何かを取りに行ったのだろう。しばらく魂の抜けたアバターを眺めていたがアオはすぐに戻ってきた。


「じゃーん、どう?」


そう言ってアオは足をゆっくりと動かした。ぎこちなかったが確かに動いていた。どうやらトラッカーを装着しに行っていたようだ。


「あんまり、無理しないでね?」


「大丈夫!最近ほんと調子良いんだ。よるのと一緒にいられて嬉しいからかも」


「そう言ってくれて嬉しいけど…。あ!じゃあ、今度はアオがちょっと待ってて!」


「うん、分かった〜!」


アオの声を聞き届けてからHMDを外す。目の前の時計台やアオの姿は消え失せ、代わりに現実の自分のリビングのソファだけが視界に入る。

急いで電子ピアノの電源を入れて、オーディオインターフェースに接続する。PCのディスコードアプリを起動してから再びVRChatの世界へと帰還する。


「お待たせ!ディスコード開ける?」


「うん、良いけどどうしたの?」


「ピアノ繋いだんだ。自分で言うのもおこがましいけど、もしかしたらアオの足に多少の変化があればいいなって」


夜乃がそう言うとアオは嬉しそうに腕を高くあげた。その仕草が可愛くてつい微笑んでしまう。


「え、いいの?うわ、めっちゃ嬉しい!よるのの音楽を特等席で聴けるなんて!」


「大袈裟だよ…。じゃあ弾くね?」


そう言ってからマイクをディスコードへ切り替える。荒廃した街並みにピアノの姿はない。だが現実世界で夜乃が弾き出したピアノの音がディスコードアプリを介して、雪の上に座っているアオの耳元へと直接流れ込む。ゆったりとしたバラード。Fメジャーのコードの響きの上に子守唄のようなどこまでも優しいメロディがそっと添えられた。三日月が照らす夜空に音が溶ける。アオはしばらく黙って座って耳を傾けていたが、やがて立ち上がりゆっくりとステップを踏んだ。確かに音に乗せて動いている。ぎこちなかった動きがだんだんと滑らかになっていってフィギュアスケートのように雪の上を軽やかに滑っている。三日月が静かに見守る中ピアノとダンス、2人だけのステージが完成した。アオが踊っている。ちゃんと踊れている。その事実に胸が熱くなった。静かにバラードを弾き終えるとすぐにアオの胸に飛び込んだ。


「アオ!踊れてる!踊れてるよ!」


勢いよく飛び込んだ夜乃の身体はアオの身体をすり抜けて白色の雪の上へ無様に着地した。アオは信じられないような表情でただ立ち尽くしている。


「…やっぱり、よるのの音楽はすごい。本当に自然と足が動いた。今も自分の足じゃないみたいに動いてる。君の音は特別だよ」


「良かった…!ほんとに良かった!わたし、アオのためなら何回だって、何千回だってピアノ弾くよ!アオの力になれるならなんだってする!」


アオの身体が動いたことが嬉しくて、その後も何度もピアノへ向かった。その度にアオは身体を滑らかに動かして華麗に舞った。ひとしきり弾き切った後もアオは無音の空間で踊り続けた。その姿は初めて見た時と一緒で月光を受けて艶やかに輝いていた。目はもう離せなかった。やがてアオが口を開く。


「すごい、ほんとにすごい。ねえ、よるのはまたステージで弾かないの?」


「いつか戻れたら、とは思うけど、今はアオのためだけに弾けたら充分かな。きっとボクの音楽はまだたくさんの人には受け入れてもらえないだろうし」


「そんなこと絶対ないと思うけどな」


「アオがそう言ってくれるだけで充分嬉しいよ。でも、いつかアオがまたステージで踊る日が来るのならその時は一緒に出たい。ダンスで一緒にも出たいし、アオの後ろで、一番の特等席でそのダンス姿を見ながらピアノを弾きたい」


夜乃がそう言うと、アオはニヤリと笑って首を縦に振った。


「いいね、それ。絶対楽しい。いつか一緒にまたステージに出よう。よるのが一緒なら僕は無敵だ」


「うん。いつか必ずアオがステージで踊るところ、見せてね」


「おっけー!約束!」


静かに約束を交わした後、また2人で時計台の前に座った。進まない時間が本当にいつまでも2人を一緒に居させてくれる魔法のように思えた。


「さっきの曲、一番最初に弾いてくれた曲、なんていうの?」


横に座ったアオが夜乃の手を握りながらそう言った。その手を握り返しながら答える。


「『地球をあげる』っていうはるまきごはんさんの歌。メロディも優しくて好きだけど、歌詞の世界観が素敵なんだ」


「どんな歌なの?」


「この世界はもしかしたら誰かが作った作り物かもしれなくて、それは私たちに贈られたクリスマスプレゼントかもしれないっていう歌」


「ロマンチックだね。あとで聴いてみよ」


「ボクの大好きな歌なんだ。絶対オススメだから聴いてみて」


笑顔でそう答えて手を上に伸ばす。

手を伸ばすと月があった。

このVRの世界は人の手によって作られた作り物で、街並みも月も夜空の色でさえもパソコン上で作られた架空のデータ世界に過ぎない。それでもそこに住んでいる人々は紛れもなく現実世界を生きている人間で、その1人1人に大切な人生があって、それぞれが色々な思いや悩みを抱えながら今を必死に生きている。現実の疲れを癒すためにこのデータの世界に身を置いたり、現実とは別の生き方をしてみたいという理由でこの世界に足を踏み入れた者もいるだろう。そして、現実の自分の人生がひっくり返ってしまうほどの出逢いがこのVRの世界にあるのだと思い知らされた。たとえ3Dデータで出来た仮想空間であっても、そこで過ごす時間は紛れもないほどに現実なのだ。現実世界での出会いと何も変わらない。わたしはそこで出逢った1人の少女にどうしようもないほどに恋をしてしまった。ずっとこの世界で1人で見上げてきた夜空は美しかった。淡く光る月にずっと見惚れていたんだ。でも今はその大好きな月を、大好きな人と一緒に眺めている。たったそれだけで自分の世界が鮮やかに色付くほど幸せだった。わたしに贈られたクリスマスプレゼントは作られたデータの世界でアオと出会えたという事実そのものだ。


「ボクは、」


時計台のさらに上へと右手を高く掲げる。月が掴めそうな気がする。


「アオに出逢えて良かった」


横に座るアオを見ながらはっきりとそう告げた。心から思っている今自分が伝えたい言葉だった。


「僕もよるのに会えてほんとに良かった。自分の人生で今が一番輝いてる。これからもずっと一緒に居たい」


そう言って笑ったアオの笑顔を一生忘れることはないだろう。手を強く握り直してその肩に頭を乗せた。このまま本当に時間が止まればいいと思った。データで出来た世界には存在しないはずの大気中の水滴が月光に反射して、小さな虹を作った。月虹が肩を寄せ合っている2人を照らし、その影が一つの塊となって白色の雪の上を黒く染めた。



このままログアウトしてしまうのが名残惜しくてもっと一緒に居たいと言ったらアオもそれに同意してくれた。今日はそのまま一緒にV睡をすることに決めて、そのロケーションとなるワールドを探し、一つのワールドに辿り着いた。

スイッチ一つで部屋の色全体が変わる可愛らしい部屋。中央には大きめのベッドがあり、ベッドに仰向けに転がって天井を見上げればそこにはスクリーンのような動画プレーヤーが浮かんでいる。その動画プレーヤーはプレイリストの中から自律神経を整えることで有名な528Hzのα波BGMを流していて、まさに睡眠をするために作られたワールドだった。


「よるのはV睡したことあるの?」


アオはベッドの横のリモコンで部屋の明かりのスイッチをカチカチと弄りながら夜乃に問いかけた。パステルピンク、ライトブルー、ウォームオレンジ、バイオレットパープルの順番に部屋の色が切り替わる。どれも目に優しい淡い色で睡眠導入にはうってつけだ。


「それはもう何度もしてきたよ。でも誰かと一緒にしたことは1回もない」


「ほんとかなぁ〜?」


「ほんとだってば。今もめちゃくちゃどきどきしてるからね。ちゃんと寝れる気がしないよ…」


アオはおどけたように笑って、手に持ったリモコンで部屋の色をバイオレットパープルに固定した。夜乃もその色がいいなと思っていたので、同じような感覚を持ち合わせていたことに勝手な親近感を覚えた。


「僕はV睡したことないから色々教えてね、先輩」


「景色を見ながら寝るだけだよ。あんまりボクに期待しないで…」


今までしてきたV睡は綺麗な景色を見ながら寝るだけだったから具体的に何をすると言われてもいまいちピンと来なかった。とりあえず2人でベッドの中央に横たわり天井の動画プレーヤーを眺める。隣で横になっているアオと手を繋ぎながらただ上を見上げているだけの時間が流れる。2人以上のV睡をしたことのない自分の初心者感が露わになっていくようで必死になにか話題を考えるが急には何も出てこない。


「僕がこんなこと言うのは失礼だし自分勝手だとは思うんだけど、最近ダンスの調子はどう?みんな元気?」


先に口を開いたのはアオだった。天井の動画プレーヤーを見つめたまま呟くように話している。


「全然勝手なんかじゃないよ。うん。みんな元気にしてるよ。年末にtoeLでダンスイベント出ることになったんだ。アオがまた戻ってくるまでアオの場所は死守するから。だからさ、アオの気持ちと身体の整理ができたらいつでも戻ってきていいからね」


「優しいね、みんな。僕はほんとに自分のことばっかりだ。申し訳ないよ」


「そんなことないから。自分を責めないで。それに戻らなくてもいいの。ボクはアオのどんな意思も尊重する。ずっと傍にいるよ」


夜乃がそう言うとアオは身体をぐっと寄せてきた。甘えるような仕草が可愛らしい。


「よるのにそんな風に言ってもらえて僕は幸せ者だ。ありがとう。でもいつかまたみんなで踊りたい。どれだけ時間がかかっても、これから病気が悪化していつか動かなくなる日が来るとしても、身体が動き続ける限りはダンスを続けたい」


「うん。動けなくなってもずっと一緒だからね」


ぴたっと身体を密着させてくるアオの方に向きを変え、その頭をゆっくりと撫でた。落ち着く〜と言っているアオの頭を静かに撫で続ける。


「イベントで踊る曲はもう決めたの?」


「うん、前アオに送った動画の曲だよ。曲名が全然思いつかなくて、とりあえず夜空を見ながら作ったから『よぞら(仮)』って言う曲名で主催者に申請した」


「ひねりも何もないネーミングだね」


「お?軽くディスってる?ボクのネーミングセンスの無さを舐めないでよね。じゃあアオがなんか名前付けてよ」


「そう言われると何も出てこないんだよなぁ。じゃあイベントまでに考えておく」


「期待してるね」


抱き合ったまま会話のキャッチボールをひたすら続けるこの時間が心地良かった。お互いの呼吸音と睡眠用のBGMが流れる空間にただ身を委ねた。しばらくそうしていたが、アオは思い出したかのように急にコントローラーを操作して、動画プレーヤーにURLを貼り付けた。α波が止み、代わりに別の動画の読み込みが始まる。読み込みが終わると静かで切ないピアノのイントロから始まるバラードが流れ始めた。どこかで聴いたことがあったような気がしたが名前が思い出せない。


「これは…?」


「さっきよるのの好きな曲教えてもらったから次は僕の好きな曲を聴いてもらおうと思って。秦基博さんの『鱗』。だいぶ前の曲だけど、初めて聴いたときからずっと好きなんだ。メロディも歌詞も歌い方も全部が心を締め付けてくる。今聴いても泣きそうになるもん」


そう言ってアオは流れている動画を見つめる。夜乃もその音楽に耳を傾けた。心がすっと洗われるような繊細なメロディ。強い意思が読み取れる力強い高音の伸びと声の揺らし方が確かに心臓を直接掴んでくるようだった。歌詞が鼓膜を震わせて心に届く。お互い黙ったまま曲が終わるまでじっと動画に見惚れていた。


「良い曲だね」


アオの言うとおり、そのメロディや歌詞、歌い方全てが心を掴んで離さなかった。アオのおすすめという加点が加わりすぐに夜乃の大好きな曲の一つとなった。黙って動画プレーヤーを眺めていたアオは身体の向きを変えてじっと夜乃の目を見つめてきた。手を強く握ってはっきりとした声を出す。


「僕、よるのに会ってみたい。VRじゃなくて現実世界で。よるのに会いたいんだ」


思いがけない言葉に身体が固まる。でも、夜乃自身もアオに会ってみたかった。世界の垣根を超えて、その身体や唇に直接触れてみたかった。その声を直接聴いてみたかった。


「えっと、ボクも会ってみたい。でも、現実のボクを見たらアオががっかりするかもしれないって思ったらちょっと怖いけど…。声だって今はボイチェンで変えてるし、性別も伏せてる。見た目だってアオの好みじゃなかったらって思ったら…」


「よるのは僕の見た目が気に入らなかったら嫌いになるの?」


「いや、それは絶対ないよ!見た目とかじゃなくて、アオの中身そのものが好きなんだ。だからどんなアオでもアオはアオだよ。そんな簡単に嫌いになったりしない」


「それと一緒だよ。僕もよるのがどんな見た目だったとしても絶対に嫌いになったりしないよ。あ、でも以前ねくさんに、よるのってどんな人なの?って聞いたら、『超絶美人のめちゃかわだよ!アオちゃんには渡さないから!』って言われたよ?」


「いや、何言ってんのあの子!ねくちゃんわたしのこと補正フィルター入った目で見てるから!信用しちゃだめ!」


「あとほら、よるの今みたいにけっこうテンパったときにすぐ自分のことわたしって言っちゃってるし、ボイチェンかけてても中身は女の子なんだろうな〜って前々から思ってた。」


「嘘…。全然気がつかなかった…。確かに今言ってた気がする…。うわぁ…」


自分で作った設定のガバガバさに自分でドン引きしてしまった。アオはそんな夜乃を見てクスクスと笑っている。せっかく理想の少年像を作り出したのにずっと現実の自分に引っ張られていたという事実が簡単に露呈してしまった。ボイチェンがもはや何の仕事もしていない。

自己管理の甘さに呆然としている夜乃にアオが再び声をかける。


「でもね、僕はよるのの性別がたとえ男性だったとしてもきっと好きになってたよ。よるのも言ってたとおり、この世界は見た目じゃないんだ。アバターを通り越してその先の本人そのものを見ているんだもん。誰が何と言ってもその事実だけは変えられない。だから、」


話している途中でアオはその唇を夜乃の唇に重ねた。アオの想いがアバターを通して直接流れ込んでくる。


「よるのの現実の見た目も関係ない。見た目より先にその心に惹かれているんだから、VRで会う時と何も変わらないよ」


その口から発せられる優しい声色が夜乃を包んだ。今すぐに会いたくてたまらなかった。


「明日、クリスマスイヴの夜、アオに会いに行ってもいい?アオはまだ外出できないだろうから、わたしがアオの家に行く」


「え、いいの?迷惑じゃない?」


「わたしが会いたいんだもん。明日仕事終わりに向かうね」


「やった!嬉しい!」


「わたしも。はやく明日になってほしい」


おでこをくっつけながら笑って再びキスをした。触れ合えない身体を無理やりくっつけてその温もりを脳内で補填する。明日会ったら、その身体を直接強く抱きしめてもう離さないだろう。


「ねぇ、手、繋いでもいい?」


「うん。よるのと手を繋ぐのはこれで33回目だ」


「えっ、全部覚えてるの?」


「それはそうでしょ。一つ一つ全部、大切なよるのとの思い出だもん」


そう言ってアオは少し恥ずかしそうに満面の笑みを浮かべる。


「あー、好きだなあ…」


「僕もよるのが好きだよ。ねえ、よるのちゃんって呼んでいい?」


「もちろん。アオが好きなように呼んでよ」


3Dモデルの身体同士が重なり合った状態で何度も何度も溢れてくる想いを伝えあった。明日が待ち遠しくて、遠足前の子どものようにいつまでもいつまでもお互いが話し続けた。会話が楽しくて、2人とも言葉が止まらなかった。やがてどちらが先に寝たかもわからずに夢の世界へと同時に誘われた。2人の寝息がワールド内に静かに響く。触れることのできない手を絡めながらイヴの夜に思いを馳せるように。




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