第8話 色彩
会いたい。
この気持ちを届けたい。
笑う横顔を、揺れる猫耳を、はやく見たい。
アオの待つ世界へ向かう。
どの時間軸にも属さない、ワールド間を移動するためだけにある緑色の空間。
無機質な音。
ゲームでいうロード画面。
焦燥する気持ちとは裏腹に、ゆっくりと流れる永遠のような時間。
今はこのワールドを読み込むロード時間すら惜しい。
最初からずっと、わたしの音楽を好きだと言ってくれたその声が聞きたい。
ただ、隣に居たい。
ロードがもう少しで終わる。
早く。
♢♢♢
目を開けると、そこは色の無い世界だった。
足元一面に広がる灰色の鏡面。
色の無い空と、色の無い月。
視界を覆うモノクロームの世界。
その何も無い世界の中心にアオは立っていた。
「アオっ!」
思わず叫ぶ。
そのまま中央へと走る。
視界に入るアオが段々と大きくなっていく。
手を伸ばせば届く距離まで近づく。
いる。アオがそこにちゃんといる。
一刻も早くその姿を見たかった。
何かあったのかもしれないと思うと、ずっと不安で胸が張り裂けそうだった。
たった少しの時間会えなかっただけなのに、こんなにも心が苦しい。
でも今、目の前に居る。
やっと会えた。
「アオ」
名前を再び呼ぶ。
猫耳を揺らして一歩アオが近づく。
「よるの」
名前を呼ばれる。
声を聞いただけで泣きそうになってしまう。
その声色はどこか寂しそうだった。
「ごめん」
アオが謝罪する。
「発表会行けなくて。本当にごめん」
「ううん。それはもういいの。返事返してくれてありがとう。連絡取れなくてずっと心配してた」
夜乃は首を振る。
アオは悲しそうにしたまま、その場から動かずに言葉を発そうとしては口吃る。
言葉を探しているように、何かを訴えかけるように夜乃を見つめていた。
その口をゆっくり開いて声を絞り出す。
「えっと…。よるのに会いたかったんだ。自分勝手でごめん。みんなに謝らなくちゃいけないのは分かってる。勝手な都合でチームに穴を開けてしまったこと。謝りたいけど、僕はみんなの前に顔を出す勇気も資格もない」
アオはそう言って俯く。
「ボクも、アオに会いたかった。それに、みんなも怒ってないよ。本当に心配してた。大丈夫。みんな待ってくれてるよ」
夜乃の言葉を受けてもアオはまだ俯いたままだった。
猫耳少女はデフォルトの表情のままうっすら笑っている。
アオはアバターの表情とは乖離した暗い声色で口を開く。
言葉を使うのを迷っているように見えた。
「違うんだ…。僕は勝手なんだ…。ごめん。ほんとにごめん。みんなには会えない。本当はもう誰にも会わないつもりだった。よるのにも、会わないつもりだった」
発された言葉を理解するのに時間がかかる。
その言葉を飲み込みたくないと体が拒む。
考えても意味が分からない。
「どういう、こと…?」
理解しようと考えることを脳が放棄している。
考えなくてもいいのではないかと考える。
アオは口を閉ざしたまま黙っている。
「ねえ、なんで?どういうこと?何があったの?わたしたち何かしたの?アオの気に触るようなことしたの?そうだったらごめん。でも思いつかないんだ。もしアオを嫌な気持ちにさせてしまっていたならもう絶対にしないって約束する。約束するから。だから何か、言ってほしい。言葉で言ってくれないとわからないよ」
また同じことを繰り返してしまったのだろうか。
そうだとしたらもう本当にわたしは分からない。
いつも何をどこで間違えているのかをわたしには理解することができない。
何回同じことを繰り返しても辿る結末が同じなのだとしたらもう何をしても無意味だ。
わたしはどうやっても人とうまく関わることができないのだろうか。
でも。
たとえそうだとしても。
それでも、まだ諦めたくない。
やっと気付けたんだ。
自分の気持ちに。
大切な人を失いたくない。
もう誰かが遠ざかっていくのは嫌なんだ。
「ねえ、アオーーーー」
「僕は」
夜乃の言葉を遮るように強く芯のある声が響く。
まるで夜乃の発言を許さないかのように。
「僕は、ダンスを辞める」
強く決心された言葉。
顔を上げて夜乃をはっきりと見ながらアオはそう言った。
違う。
そんな言葉が欲しいんじゃない。
そんな言葉なら要らない。
アオがそんな言葉を言うはずがない。
あれだけ好きだったはずなのに。
生きがいって言ってたじゃないか。
「なんで、突然そんなこと言うの…?あんなにダンス楽しいって、言ってたのに。冗談だよね?わたしもダンスの楽しさ、わかったんだ。アオのおかげなんだ。全部、アオが教えてくれたんだよ。また一緒に踊りたいよ。何があったの?何か理由があるんでしょ」
早口で言葉を紡ぐ。
嘘だと言ってほしい。
冗談だよ、と笑い飛ばしてほしい。
アオは真っ直ぐにこちらを見ている。
その目が嘘じゃない、という決定的な真実を告げている。
「いや、もう踊らない。よるのには、最後に会ってそれだけ伝えたかった」
アオは夜乃の質問には一切答えずに、強く自分の意思を主張する。
一方的だ。
聞く耳を持たない。
練習で一緒にダンスを踊っていたときのほうが、言葉を使っていなかったはずなのに会話ができていた気がした。
目と目での対話。
無言状態での気持ちの共有。
でも今のアオは会話することから逃げているように見える。
こんなのは対話じゃない。
「嫌だ。何で最後なんて言うの?わたしはもっとアオと踊りたい。みんなで一緒に踊れて楽しかった。今日だって、本当に楽しかったんだ。わたしはアオにダンスの世界を教えてもらえて心から良かったって思ってる。だから、会って感謝を伝えたかった。それなのに、」
息継ぎをする。
水を失った魚のように呼吸が苦しくなる。
それでも思いが溢れて止まらない。
「なのに、なんでアオはわたしたちの前から居なくなろうとするの?一緒にいて楽しくなかった?わたしたちは一緒のチームだよ。5人で一つのチームなんだよ。相談してよ。理由も分からないまま『はい、さよなら』なんて、わたしは納得できない。だからーーー」
「僕だって楽しかったよっっ!!!!!!」
突然の大声に身体が小さく痙攣した。
思わず身構えてしまう。
そんな大きな声が目の前の小さな猫耳少女から出ていることに違和感しか感じない。
アオのそんな声を初めて聞いた。
そして。
アオが泣いているところを初めて見た。
「僕も楽しかった!みんなと!よるのと!一緒に踊っている時間が何よりも大好きだった!!だからこそだ!何も出来ない自分に腹が立って、でも誰にもどうしようも出来ない。何もできないんだよ!!ただ、みんなと居るのが辛くなった!それが理由!もう僕はダンスをしたくないんだっ!!!!」
アオは小さな身体を震わせながらその場から微動だにせず泣き叫ぶ。
明確な拒絶に胸が締め付けられる。
立っている力を奪われたように足に力が入らず、後ろによろけた。
「わたしは、、っ、ただ、また一緒に、踊りたかった、だけなのに…。アオと一緒にいたかった、だけなの、に…っ」
気がつけば泣いていて、声を出すことさえできなくなっていた。
途切れ途切れの声に嗚咽が混ざってその場にうずくまる。
「…っ。お願いだ。僕にもう関わらないで欲しい…。これ以上自分に絶望するのは、耐えられないんだ。もうよるのには会いたくない」
上空から無慈悲な最終判決が言い渡される。
涙で視界が滲んで何も見えなくなる。
溢れた液体が目に映る世界の輪郭をあやふやにして、視界の先の猫耳少女の姿が幽霊のように霞がかる。
色の無い世界が更に色を失って透明になる。
「あ、ぁ、あお、わた、し…」
ピロン、と音がした。
ワールドからのログアウトを告げる音。
透明な世界から、アオが消えた。
その温もりも気配も何もかもが最初からなかったかのように、静寂なモノクロの夜空だけが夜乃を包んでいる。
これは悪い夢だ。
全部、何もかも夢で、起きたらまた普通にみんなで笑っているんだ。
今日も練習がんばろうね、と言って、汗を流しながら全員で立てなくなるまで踊り続けて、スタジオの床に転がりながら最高に気持ち良かったって、そう言うんだ。
みんなで色んなワールドを冒険して、星空を見に行って、温泉巡りもして、花火を見上げて、静かな冬のコテージで暖炉を囲みながらダンス動画をみんなで見て研究して、疲れたらみんなで羊を数えながら眠って、起きたらまた練習したり、何処かへ遊びに行ったりするんだ。
そして、わたしはちゃんとアオに言うんだ。
自分でもどうしようもないくらい抑えられない気持ちを、想いを、伝えるんだ。
ちゃんと言葉にして伝えるんだ。
「好きだ」って。
きっとそうだ。
目が覚めたらきっとそんな日常が待っている。
それなら。
この心臓の痛みはなんだ。
大きな言葉の爆弾で、わたしの心臓に大きな風穴を開けたまま去っていった猫耳少女の後ろ姿が脳裏に焼き付いている。
紛れもない現実。
夢じゃない。
仮想でも何でもない。
この痛みが現実の証拠だ。
痛くて、苦しくて、切ない。
「あ゛ああああぁあああぁあ!!!!」
自分のものとは思えない声が喉から溢れ出た。
ボロボロの弓で引っ掻いた時に出るヴァイオリンの不協和音のノイズのように。
アオが発した明確な拒絶の言葉がわたしの心を撃ち抜いて、今も血が止まらない。
言葉は武器だ。
使い方によっては簡単に人を殺せるだろう。
相手の心の奥底の思いも一切届かず、此方の願いも伝わらないのなら、言葉など会話の手段でも何でもない。
対話が出来ないのなら、言葉なんて無価値だ。
ただ人を殺めるだけの「道具」でしかないのなら、言葉なんてこの世からなくなってしまえ。
アオを失ったのなら、わたしはもう生きる意味などない。
うずくまったまま、ゆっくりと流れる時間とこの世界と一つになって溶けてしまいたい。
目を閉じて何もかも諦めてしまおうと思ったその時、足先に輝く一つの光が見えた。
下を向いた時にこそ輝く光。
ただ黙ってその光を見つめていた。
どれだけそうしていただろうか。
永遠のような時間にも思えたし、一瞬だったのかもしれない。
うずくまっていた身体を持ち上げゆっくりと立ち上がる。
足元に光るチャームを見る。
そうだ。あの時とは違う。
わたしには仲間がいる。
まだ出来ることがある。
迷わずにワールドの移動ボタンを押した。
再び目を開けると、居酒屋の匂いがした。
宴会場はまだ熱気を帯びている。
「よるっちー!どうだった?アオちゃんに会えた?」
「ちょうどみんなで話してたんだ!よるちゃんがアオを連れて帰って来てくれるんじゃないかって!」
「アオさん、無事でしたか?自分、心配でずっとそわそわしちゃってて…」
3人が夜乃に駆け寄る。
その隣にはアオの姿はない。
1人で帰って来て一言も発さない夜乃を心配してねくたーが小さく口を開く。
「つっきー…?だいじょぶ?」
「アオには会えた。でも、わたしの言葉は届かなかった。みんなにももう、会いたくない、って言ってた」
夜乃の言葉に皆が固まる。
それはそうだ。
そんなこと言われるなんて誰もが思っていないのだから。
「は?意味わかんねぇ。何だよそれ」
「アオちゃん、どうしちゃったの…?さすがに怒るんだけど」
「急になんでですか?説明もないのに、そんなの受け入れられるわけないですよ…!」
怒り。
ただただ皆が同じ思いだ。
わたしもそうだ。
納得など出来ていない。
だからやるべきことをやるために戻ってきたんだ。
まだ、諦めない。
絶望するのはまだ早い。
わたしが拒絶しても、逃げても、どこまでも追いかけて優しい言葉をかけてくれたあの人を、簡単に失うわけにはいかない。
今のアオは、一昔前のわたしと同じだ。
絶望して、居場所を見失って、もがいている。
拒絶の言葉で爆破された時は、立てなくなるほどの悲しみでいっぱいだった。
でも冷静に考えて、アオがそんな言葉を使いたくて使うはずがない。
『皆んなで踊れて楽しかった』とアオは言っていた。
踊りたくないのではなくて、踊らない理由があるはずだ。
うずくまったときに、確かにまだアオの足先にもチャームが光っていたのが見えたのだ。
ちゃんとした理由を聞くまで、わたしは諦めない。
わたしの居場所をアオが見つけてくれたように、アオが居場所を見失っているのなら、今度はわたしが、いや、わたしたちがアオを見つけにいくんだ。
踊りながらそう思ったはずだ。
わたしたちは5人で一つのチームだ。
わたしの想いが、
わたしの言葉が届かないのなら、
「お願いがあるんだ。4人でまた踊りたい。音楽はボクが作曲する。出来上がったダンス動画をアオに送る。見てくれるまで送り続ける」
音楽とダンス。
どちらも世界の共通語だ。
言葉が通じなくても想いを伝えることができる。
言葉が駄目なら、想いをのせた2つの弾丸でアオを撃ち抜くまでだ。
夜乃の言葉に3人は強く頷いた。
♢♢♢
PCの前に座る。
電源を入れて音楽編集ソフトを立ち上げる。
前に一度、VRバンドをやっていた時に使っていたものだ。
プロジェクトを作ると懐かしい編集画面がモニターに表示された。
MIDI鍵盤を接続して音を打ち込む。
心臓の鼓動のようなバスドラムのリズム。
スプラッシュシンバルの音をサンプリングする。
全身に血液を送るスラップベースの跳躍。
ギターのカッティングが音の手足を動かす。
グランドピアノの柔らかい音色が音の集まりを一つの「音楽」にまとめ上げて表情が出来上がる。
いくつもの音を重ねて音が曲になる。
もっといい曲を。
作っては音を消して、また別の音を入れる。
心地良い響きになるように各音量のバランス、音色を調整する。
調整してはまた消して、最初からやり直す。
ただそれを繰り返す。
より良い曲を作るために。
たった1人でいい。
たった1人の心に届けばそれでいい。
アオの心を撃ち抜くための音楽が出来ればそれでいい。
だからもっとだ。
色々な音を試して、消して、研究して、組み合わせて、悠久のような時間をひたすら音楽に向き合った。
わたしの、わたしたちの想いを音に乗せて届けるために。
♢♢♢
アオに最後に会った日から2週間が経過して、12月も中旬に差し掛かった。
ゆっくりと降り続ける雪がうっすら積もって、街並みを今も白く染めていく。
冬が来ていた。
カフェの飾り付けはクリスマス仕様になっていて、特別な限定メニューがSNSの口コミから人気に火がつき、訪れる客は写真映えを狙った若い人達が増えた。
「雪ふわパンケーキ、相変わらず人気だね」
仕事終わりに桃葉が呟く。
白色の生地の上に、メレンゲにたっぷり空気を入れて混ぜ合わせたふわふわの生クリームをふんだんにかけた冬限定のパンケーキ。
試食したが甘党の夜乃も大満足する美味しさだった。
「うん。こんなに人気が出るとは思わなかったけど。おかげさまでめちゃくちゃ忙しい。やりがいあるね」
夜乃がニヤリと笑うと桃葉も同じように口角を上げてたしかに、と言った。
「つっきーは、クリスマスどうするの?」
「ももちゃんも知ってるでしょ。うちのカフェ24日も25日も通常営業だから。むしろ稼ぎどきだから。わたしたちにクリスマスなんてないよ」
慌てて桃葉は首を振る。
「や、それは知ってるけど!仕事終わったあととかの話!彼氏とかとご飯行ったりとか…」
「わたしにそれ聞く?わたしの気持ち知ってるのに…?」
「あ、うん…ごめん…。そうだよね…。つっきーの好きな人はたった1人だけだもんね。ごめん…。ほんとに無神経だった…。あれから、何か連絡あった…?」
「ううん、何にも。たぶん動画は見てくれたとは思うけど…。返事も何もない。今夜、また送ってみようと思ってる」
夜乃は申し訳なさそうに肩をすぼめる桃葉に向かってそう言った。
夜乃の音楽に合わせた「toeL」のオリジナルダンスの動画は5日前に完成した。
全員で振り付けを考えて、全員でフォーメーションを何度も組み直した。
カメラワークにもこだわり、1人1人がよく見える位置から数回に分けて撮影し、音に合わせて動画を切り貼りした。
カメラの構図や画角などはK-POPなどを参考にねくたーが考えた。
4Kカメラ等を駆使してしおんが撮影を行った。
編集はDLGの告知動画などを数多く作成してきた湯葉が行った。
文字通り全員で一つのものを作り上げた。
完成した動画をアオに送ったが、返事はなかった。
ただ、夜乃は諦めていない。
あとは届くまで撃ち込むだけだ。
全員の想いを込めた弾丸を。
「そっか。アオちゃん、絶対に連れ戻そうね。またあたしは5人で踊りたい。あとさ、24日の夜、アオちゃんが来ても来なくてもみんなでクリスマスパーティーしたいね。クリスマスのワールド行って写真撮りたい。あ、あと事前にみんなケーキ買ってさ、同時に食べるの!」
「うん。絶対に諦めないよ。それに、絶対にアオを連れてくる。クリスマスパーティーやるなら、5人みんなでやりたい」
桃葉の言葉に同意する。
桃葉も夜乃の言葉に頷き返す。
「うん。そうだね、絶対そうしよ」
その笑顔から強い決意を感じて、夜乃は嬉しくなった。
わたしたちはみんな同じ想いだ。
外を見ると数日ずっと降り続いていた雪が止んでいた。
♢♢♢
帰宅して部屋の明かりをつける。
寒さで冷え切った部屋はどこか寂しさを携えている。
カーテンを閉めて、ストーブのスイッチを入れた。
熱が循環して次第に暖かくなっていく。
部屋に命が宿る。
冷蔵庫から余り物を寄せ集め、簡単な夕食を作って食べた。
シャワーを浴び、湯船に浸かる。
温かさで気持ちがほぐれる。
身体に命が宿る。
ドライヤーで髪を乾かして、肌を保湿する。
寝巻きに着替えて寝室へ移動した。
Bluetoothで繋がったイヤホンから流れる、ずっと真夜中でいいのに。の『Ham』のメロディと歌詞が身体に染み渡る。そのままベッドに横になりiPhoneのディスコードアプリを開いた。
大切な人の名前を指でなぞる。
今日も1日アオから返信がなかった。
再度アオへの言葉を打ち込む。
でも、この言葉は飾りだ。
伝えたい想いは全部、動画に込めた。
【動画見たら、返事して】
短文を動画に添付して送信ボタンを押した。
ここ数日の一連のルーティンワーク。
毎日同じものを送っている。
正直迷惑だと思う。
でも、それでも、やめない。
いつかアオの心に届くと信じて、祈りながら毎日気持ちを乗せて送り続けた。
そうすればいつか必ず想いが通じると信じて。
【会って、直接話したい】
iPhoneが通知を知らせる。
アオからの返信。
思わず飛び起きる。
短い文だ。
でも、きっと想いが届いたと思った。
文句を言われるだけかもしれない。
今度こそ最後かもしれない。
それでもこのチャンスを逃したくない。
今度こそ絶対にちゃんと話して離さない。
【この前のワールドで待ってる】
震える指で返信を打ち、すぐにHMDを被った。
♢♢♢
灰色の夜世界に降り立つ。
一瞬でセピア写真の風景画の中に取り込まれたような感覚に陥る。
色彩が剥奪された空間はそのまま何もかもを飲み込んで、自分自身の存在すら消し去ってしまいそうだった。
足元を照らすように光るチャームだけを見る。
大丈夫。心まで色を失ったわけじゃない。
想いはきっと届いたはずだ。
自分にそう言い聞かせてただ前だけを見つめていた。
しばらくして、その遠い視線の先の無の中に別の来訪者が現れる。
猫耳としっぽを揺らしながらこちらへゆっくりと近づく少女に向かって夜乃も歩き始めた。
果てしなく広い無の空間の中、ただ互いの姿だけを目指して距離を詰める。
「動画、見たよ。すごかった」
顔が認識できる距離まで近づくと、開口一番にアオがそう言った。
手を後ろに組んだまま首だけを傾げて話すアオの姿に思わず見惚れる。
「ありがとう。見てくれて。全員で真剣に取り組んだんだ。アオとまた踊るために」
「ううん、僕が居なくても大丈夫だよ。みんなちゃんと踊れてた」
夜乃は首を振る。
アオが不在でも踊れることを証明したかったわけじゃない。
前を見据えるための頭が無い状態で、もがきながら踊っていただけだ。
アオに送った動画は完成していたが、完成形ではなかった。
「違うよ。送った動画のフォーメーションは穴が空いてる。振り付けは最初から5人いる想定で、みんなで作ったんだ。だから、あのダンスは5人揃わないといつまで経っても完成しない。そして5人目はアオじゃなきゃ嫌なんだ」
全員がそう思ってるよ、と付け加える。
「toeL」は5人居なければ羽ばたくことができない。
「音楽は、よるのが弾いたの?」
「うん。ボクが作って、ピアノは実際に弾いて録音した」
「そっか。うん。だと思った。やっぱりよるのはすごいな。最初聴いた時泣いちゃったよ。あの音楽に一緒に乗れたら楽しいだろうな」
アオの声色は今にも泣き出してしまいそうな哀しみを帯びていた。
「アオのために作ったんだ。また一緒に踊るためだよ。曲名はまだ思いついてないけど、『toeL』のオリジナル曲なんだ」
夜乃の言葉にアオは静かに微笑んで上を仰いだ。
ただ黙って灰色の月だけを見つめている。
同じように夜乃も見上げる。
アオは月に向かって手を伸ばす。
「よるのに初めて会ったときも、綺麗な月がそこにあった。月の下でよるのが奏でたピアノの音がずっと忘れられなかった」
アオはそう言うとゆっくり後ろを振り返りそのまま歩き出した。
下半身は上半身の進みに引きずられる。
3点状態のアオは初めて見た。
ぼんやり眺めていたら、間に少し距離ができてしまったので、夜乃も慌ててその後を追う。
「このワールドさ、ギミックがあるんだ。ちょっと見て回らない?」
「え…?あ、うん。行こう」
こちらを見ることなく発言したアオの急な話題転換に一瞬面食らったが、短く返事をして同意を示す。
背を向けたまま移動するアオの後ろ姿だけを見ながら、その一歩後ろの位置を歩く。
インクや光の三原色が混ざって黒や白になったような無謬の世界に2人の息遣いだけが聞こえる。
お互いの姿と2つのチャームだけが淡く光って、床の鏡面にうっすらと反射していた。
方角もわからないまま、ただアオの背中だけを見ながら歩き続けると、やがて床面に碧色に輝く花が咲き始める。
それはまるで何処かへ先導するように、アオと夜乃の足元をひっそりと照らし、ただ真っ直ぐ前へ向かって順番に花弁を開いて、やがて1本の道ができた。
碧色の花でできたブルーカーペットみたいだ。
アオは未だこちらを見ることなくそのまま花の上を歩いて進んでいく。
思い返せばアオを後ろから見たことはあまりなかった。
腰元の大きなリボンとふんわり揺れる尻尾を目線に捉えながら歩く。
気がついた時にはもうその背中が見えなくなって何もかも手遅れになってしまいそうで、必死に後を追って手を伸ばした。
しばらくしてアオが立ち止まる。
2人の距離が再度近づく。
アオの背中だけを見て歩いていたから気が付かなかったが、前を見ると先ほどまで何もなかったはずの空間に突如として葵色の光を纏ったドーム状の建物が現れた。
扉も窓もない西洋のガゼボという建物のような造形をしていて柱や天井組みのひとつひとつが葵色に輝く光の線で出来ていた。
灰色の世界が徐々に青く染まっていく。
光の反射を受けて空も月も青く輝く。
「きれい…」
思わず声が漏れた。
御伽話の中でしか見ることの出来ない光景に目を奪われる。
ドームの中を見ると蒼色の光の球が中心でこっそり息をするようにふわふわと浮かんでいた。
この世界で幾度となく見てきた、可視化されたパーティクルという光。
その光を目指してドームの中に入る。
「じゃーん!」
アオはその光の球の側まで近づくと勢いよく振り返った。その手には乳白色の小さな箱が握られている。
「あれ、そんなの何処にあったの?」
「実は最初から持ってたんだ!隠しながら持つの大変だった〜」
「全然気がつかなかった…。だからこっち見ないでずっと歩いてたんだ」
「ごめんごめん!バレないようにするのに必死だったからつい」
そう言って笑うアオはいつもの調子に戻っていたように見えた。
アオは手に持った小箱を高く掲げた後、そっと夜乃に差し出した。
差し出された小箱を受け取る。
「えっと、これは…?」
「さっき言ってたギミックを発動させるためのキーってとこかな?真ん中にあるあの球に近づけてみて」
言われるまま小箱を側に寄せると、球の蒼色の光が一際強く発光してそのまま小箱の中に吸い込まれた。
箱に蒼い燈が灯ってあたりを優しく照らす。
「すごい…」
「ね、凝ってるよね。でもこれだけじゃないんだ!それ持ったまま最初のところに戻ろう」
頷いてから歩いて来た碧色の花の道を引き返す。
歩き出した夜乃の隣にアオが並ぶ。
肩が触れ合いそうな距離に少しだけ鼓動が速くなる。
手に持った小箱の蒼色の光は床に咲く碧の花をぼんやり照らして、目に映る風景が次第に青一色になっていった。
どちらも何も言わず、ただ互いの存在を確かめ合うように青色に染まった広大な世界を2人横並びでゆっくり、ゆっくりと歩く。
ゆっくり歩いていたはずなのに、気がつけば最初にいた中心の位置に辿り着いている。
もう少し隣を歩いていたかった。
アオの背中を追いかけて歩いた行きの道よりも
アオの隣を歩いて戻った帰り道のほうがずっと距離が短く感じるのは何故だろう。
「なんか帰りあっという間だったな。ちょっと残念」
アオは何も無い世界の中心でそう言った。
その言葉の意図はわからない。深い意味など無いのかもしれない。それでも、もしかしたら自分と同じように考えていてくれたのだと思うと飛び上がりそうなくらい嬉しかった。
「ボクもアオともっと一緒に歩きたかった」
「え、嬉しい!よるのも同じこと思ってくれてたんだ!僕ももっとよるのの隣歩きたい」
伝えたい。もう想いが溢れそうだ。
こんなにも愛おしくて堪らない。
その笑顔が、その声が、その仕草が、どんな時でも頭から離れてくれなかった。
今もずっとそうだ。
目の前の少女から目が離せない。
今すぐこの衝動に身を任せて「好き」と言ってしまえたらどれだけ楽だろうか。
覚悟を決めてアオへ向き直る。
口が自然と開く。
そのままの勢いで想いを伝えるための言葉を発そうとするが、言葉は喉を通過しなかった。
頭が冷静さを取り戻していく。
自分が告白することで今の関係性が崩れてしまうのではないかということを危惧して一歩が踏み出せなかったというのももちろんあるが、要因は他にあった。
そもそもまだちゃんと話し合えていないのだ。
アオはあの日の夜の会話などまるで無かったかのように表面だけを取り繕っている。
会いたくないと言ったはずなのに、今は隣を歩きたいと言ってくれている。それだけで充分すぎるほど嬉しいのは確かだ。
でも。
アオの気持ちもダンスを辞めると言ったあの時の言葉の真意もまだわたしは分かっていない。
だからそれをずっと聞きたかったはずだった。それなのに、今はその理由を聞いてしまったらいよいよもう元には戻れなくなってしまいそうで無意識に身体が震えている。
本心を聞きたいのにそれを聞くのが怖い。
ちゃんと言葉にして言ってほしいのに、言ってくれなければ分からないのに、言葉を聞くのが怖い。
送った動画を見てどう思ったのかを聞くのが怖い。
送った動画がアオの思考や行動を変えたのだとしたら、アオは再びわたしに会って何を伝えたかったんだろう。
聞きたい。
聞きたくない。
言葉が欲しいのに要らない。
矛盾する自分の気持ちに嫌気がする。
「よるの…?大丈夫?」
黙ったままの夜乃を見かねてアオがそう言った時だった。
眩しい光が辺りを一際大きく照らした。
見れば手に持った小箱の中の光が今にも溢れそうな勢いで光り輝いていた。
心の迷いをかき消すかのように、溢れてしまいそうな想いを代弁するかのように強く輝き続ける。
「開けてごらん」
アオに言われるがままに箱の蓋を開ける。
開けた瞬間に手に持った小箱は消失し、大きな光の球が目に見える形で再び顕現する。
その球は青く色付いていた世界の色を全て吸収しながら高く上昇していく。
花も、ドームも、空も、月も色を失っていく。
灰色に戻った世界で光の球だけが碧く、葵く、蒼く、青く輝きながらゆるやかに空を舞い、遥か上空で弾けた。
その瞬間、世界が本来の色を取り戻す。
それは今まで見てきたどんな景色よりも美しかった。
そこに輝くのは白、金、銀の幾千の星々。
その一つ一つが角度によって光を乱反射していて、まるでプリズムのようだった。
緋色の
天空から降り注ぐ光のシャワーを浴びた数多の花は虹色の絨毯に見えた。
そして、全ての色を統べるかの如く黄金色に発光する月が誰にも有無を言わさず美しく空に鎮座していた。
飲み込まれてしまいそうなほど、ただただ世界が壮麗に色付いたのだ。
言葉は何も出なかった。
網膜に世界が勝手に焼き付くのを感じながら呆然とその場に立ち尽くすことしか出来なかった。
アオもただ黙ったまま景色をじっと見つめている。
今は言葉は蛇足だ。
この感動を大切な人と共有できていること自体が何よりもの幸福だと思った。
言葉が要らないこの時間が永遠に続けばいいと祈った。
このまま時間が止まってしまえばいいとさえ願った。
そんな時間が続くはずがないことは分かっているのに。
「光のエネルギーを集めて解き放てば世界がこんなにも鮮やかに色付くように、努力して楽しんで継続していればいつか報われると、本気でそう思ってた」
アオが月光を見ながら呟く。
その声は夜乃の鼓膜を通って、世界全体の眩い光に取り込まれる。
「でも、僕は違ったんだ。何度も立ち上がれたと思っていただけで、実際は緩やかに転がり続けていただけだった。僕の世界はもう色付くことがないんだ」
完膚なきまでに照らし尽くす月光に声が飲み込まれる。
ただ一点を見ていたアオがこちらに振り返る。
夜乃もアオの目を見つめ返す。
何かを悟ったような、諦めたようなそんな表情だった。
静かに優しく口を開いてアオは言った。
残酷な真実を。
「身体が動かないんだ」
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