第5話 才能
今ある人間関係を
全てなかったことにできたら。
何もかもリセットしたい。
現実世界で何度もそう思ったことがある。
でも、環境を変えるのだって時間や準備がいるし、全ての人間関係をリセットするのは不可能だ。
それは分かっている。
分かっているからこそただ耐え抜くことしかできないのだ。
毎日必死に生きた。
親から教わったピアノだけが生きがいだった。
ピアノを弾いている時だけ、母親が寄り添ってくれているような気がした。
毎日毎日同じような日々の繰り返し。
朝起きて学校へ行く。
帰ってきてピアノを弾いて寝る。
成長しても同じ。
学校が職場へ変わっただけだ。
ただのルーティンワーク。
何をしているんだろう。
いや、何のために生きているのだろう。
生きがいだったはずのピアノがいつの間にかルーティンワークの一部になっていると気づいてから、全てがどうでも良くなった。
自分が存在しているのは親がいたからだ。
その親が生きていた証であるピアノになんの価値も感情も抱かなくなったのなら。
じゃあ、自分は何処にいるのだろう。
居ても居なくても一緒なら、居ない方がいいのではないか。
死んだ方が楽だと何度も思った。
そんな時、仮想現実のことを知った。
テレビの特集で取り上げられていた。
メタバース、という名前は聞いたことがあったが、自分には無縁だと思ってちゃんと考えたことはなかった。
食い入るようにテレビ画面を見る。
そこは異世界だった。
もう一つの世界で楽しそうに談笑している人々を画面越しに眺めて羨ましくなった。
年齢も国籍も性別も何もかも関係ない。
ありのままの自分を受け入れてくれる世界。
自分が知っている現実とは程遠い世界。
ここでなら自分の居場所を見つけられるかもしれない。
親も、親友もいない、ずっとひとりだった自分でも何かしらの「生きる理由」を見つけることが出来ると強く信じて疑わなかった。
すぐにヘッドセット、いわゆるHMDを購入した。
HMDと一緒にゲーミングPCも購入した。
食費や光熱費などの生きるために必要な生活費にしか今までほとんどお金をかけてこなかったから、まとめて買っても貯金はまだ残った。
購入したPCとHMDの初期設定を終えると、仮想現実へ行くために必要なアプリだけダウンロードした。
そして逃げるように仮想現実へ飛び込んだ。
そこはやはり異世界だった。
色々な世界を行き来するポータルという扉、可視化されているパーティクルという光、空中に文字が書けるペン。
何よりミラーにうつる自分の姿が、別物になっている。
新しい自分の人生が始まるかもしれないと思うとわくわくした。
色々な景色を見に行った。
壮大に広がるピンク色の花畑。
粉雪が舞い散る日本の温泉郷。
アイコニックなハートや貝殻が浮かぶナイトプール。
中でも綺麗な満月が浮かぶ静寂の夜の世界がお気に入りになった。
中央にひっそりと佇む誰からも忘れ去られたような白いピアノとどこまでも続く夜空が、自分のぽっかりと穴が空いた心を体現してくれているようで勝手な親近感を覚えた。
同じ名前なのに自分とは全く違う、美しく輝く夜の月に見惚れる。
降り注ぐ星のパーティクルに手を伸ばした。
ある日、SNSで「VR」と検索すると、たくさんの楽しそうな写真が出てきた。
あのテレビ画面で見た光景をそのまま切り取ってきたかのような、そんな写真が何枚もあった。
様々な人が自分の好きな姿で寄り添いながら写っている。
「#VRC初心者集会」
「#VRChatはじめました」
というタグが付いていた。
自分と同じように、VRChatを始めたての人が
たくさんいることも、「初心者集会」というものがあることも初めて知った。
自分もこの集会に行けば何か変わるだろうか。
自分の居場所を見つけられるだろうか。
自分が生きていい理由が見つかるだろうか。
次の週、初心者集会に顔を出した。
自分と同じく、落ち着かない様子の他の参加者がたくさんいる。
自分から話しかける勇気は出なかった。
イベントの主催者である人が様々なワールドを紹介する。
全員でワールドを巡る団体旅行のようだった。
ワールド巡りの最中、綺麗な景色を収めようとカメラを起動して写真を撮っていると他の参加者から声を掛けられた。
せっかくだから一緒に撮ろうよ、と。
緊張しながらシャッターを切った。
誰かと一緒に写真を撮ったのは初めてだった。
その人は嬉しそうにありがとうと言った後、せっかくだからフレンドになりたいと付け加えた。
嬉しかった。
初めてできたフレンドだった。
イベントの最後に、参加者全員で写真を撮った。
夢にまで見た光景の中に自分が居る。
この世界でなら息が出来ると思った。
イベント後も新しくフレンドになった何人かと話していると趣味について聞かれた。
聞いてきたのは最初にフレンドになった人だった。
趣味、といえるものが何もなかったが、唯一続けていたピアノのことを話した。
自分も音楽やってる、と言う人が何人か会話に混ざる。
意外にも音楽をやっている人が多く居た。
共通の話題からフレンドの輪がさらに広がった。
イベントの主催者が、今ちょうどVRバンドの演奏会がやっているから見てきたら、と言ってワールドを移動するポータルを出してくれた。
興味があった。
VRの世界の音楽がどういうものなのか。
そのポータルの扉は希望そのものに見えた。
くぐった扉の先は黄金の世界だった。
金色に光り輝く大聖堂。
高い天井の隅まで響き渡る大勢の観客の熱狂。
そして、中心には4人の演奏者。
最初に耳に入ってきたフュージョンサウンド。
SQUAREのOMENS OF LOVEのカバーだった。
ふわふわと舞い上がりながらどこまでも突き抜けるようなサウンドに心が揺さぶられた。
年齢も国籍も性別も生い立ちも地位も名誉も何も関係ない世界で、この音楽をたくさんの人と共有できることにただただ感動した。
涙が流れた。指が動いた。
そうだ。自分にはピアノがある。
親から貰った大切な技術だ。
それこそ自分のいる意味だ。
ルーティンワークじゃなく、本当の「音楽」を奏でてみたい。
楽しかった。この世界が。
仮想現実が。
自分が今まで生きてきた意味はちゃんとあったんだ、と思えるほどに。
それから現実で弾くピアノはルーティンワークではなくなった。
ちゃんとした音楽が、人の心に届く音楽が、どうやったら出来るか研究して、勉強して、練習した。
寝食を忘れて没頭した。
仮想現実では、新しく出来た数人のフレンドと音楽の話をするようになった。
そして、いつしか一緒にVRバンドをやってみようという話になった。
メンバーを募集し、自分を含め4人のVRバンドが結成された。
毎日一緒に練習するのが楽しかった。
YAMAHA製のSYNCROOMを導入して、離れた人とリアルタイムで音を合わせる。
時代と技術の進歩に感謝した。
初めて全員で一つの音楽を完成させた時は何よりも嬉しかった。
個人練習をして、合わせをする。
毎日のルーティンワークに花が添えられた。
現実世界の嫌なことも、好きなことをやっていると忘れられた。
ピアノは自分の大好きな趣味になった。
小さなフレンドインスタンスで演奏する機会が増え、演奏後に声を掛けられることも増えた。
母親から貰ったものが自分の世界を少しずつ広げてくれる。
初めて曲も作って、メンバーと一緒に演奏した。
自分の人生の中で一番今が充実していた。
生を実感出来た。
毎日が楽しくて浮かれていた。
浮かれていたのだ。
だから、気が付かなかった。
周りとの温度差が出来ていることに。
比較的大きなイベントに出られることになった。
初めてVRバンドを見たあの黄金のワールドで開かれる音楽イベントだ。
自分たちの出番は一番最初だった。
緊張する。
たくさん練習した。
だから大丈夫。
MCのスタートの合図とともにイベントが開始した。
大勢の観客の前に出る。
ドラムがゆったりとしたスイングビートを刻む。
うねりながら進むウォーキングベース。
カッティングギターの心地良いリズム。
そして、3人の音の上に重ねるようにピアノを弾いた。
静かに始まりを見守っていた観客も次第に身体を動かして熱狂していった。
楽しそうな顔が見える。
熱気の反応を示す絵文字が飛んでくる。
声が聞こえる。
楽しい。楽しい…!楽しい!!!
今ならどこまでも飛んでいけそうだった。
自由を謳歌するようにメロディを奏でた。
それに応えるように観客のボルテージも上がる。
演奏者側から見る黄金の世界は以前見た時よりもずっと輝いて見えた。
最後の曲を弾き切る。
初めての大きなイベントは大盛況のうちに幕を閉じた。
「あの!ピアノすごい素敵でした。感動しました…!」
終わった後に誰かに声を掛けられた。
灰色のアバター。VRChatの初期のロボットのアバターだ。VRを始めたての人だろう。
「ありがとうございます!そう言ってもらえてわたしも嬉しいです!また聴きに来てくださいね。」
そう言って手を振ると、その人はまだ慣れてない操作でぎこちなく手を振り返してくれた。
それだけなのに舞い上がってしまうほどに足が軽やかに踊った。
誰かに自分の音楽が届いたのが嬉しかった。
ずっと浮かれていた。
楽しくて楽しくて仕方がなかった。
だから勝手にみんなもそうだと思っていた。
だって、何も言われなかったから。
気がつけるはずがなかったのだ。
「解散したい」
演奏を終えて、別のワールドへバンドメンバーと一緒に移動した後、唐突にそう言われた。
「え。?」
意味がわからなかった。
こんなに大成功したのに、何故。
「ずっと言おうと思ってた。メンバーの総意なんだ」
何度考えても意味がわからない。
何かしてしまったのだろうか。
「なんで…?わたし何かした…?」
感情がジェットコースターのように振り回される。
先ほどまでの楽しかった気持ちが遠くへ置き去りにされる。
「何かしたなら謝る…!わたしはまだみんなと音楽続けたいよ…!ちゃんと言って欲しい!」
「じゃあはっきり言うけど」
言葉は時として武器になるのだとそのときに初めて知った。
「つまんないんだよ、君の音楽」
何を言われたのか理解出来なかった。
それはそうだ。
さっきまで楽しいと思っていて、みんなも楽しいと感じていると思い込んでいたのだ。
脳が理解することを拒む。
心が言葉を否定している。
「な、んで…。わたしは、いっしょに、でき、てたのしかっ、たのに」
心に感情が追いついて涙が溢れる。
楽しいと思っていたのは自分だけだったんだ。
いつからそう思われていたのだろう。
どうして言ってくれなかったんだろう。
「勝手なんだよ、君のピアノは。そんなに自由に弾きたければ1人でやればいい。俺たちはチームでやってるんだ」
「ほんと合わせるのに苦労したよねー」
「音楽性も僕たちとは違ったし。そもそもそんなに好きじゃなかったんだよお前のピアノの音」
やめて。やめてよ。
何で一度にそんなに言われなきゃいけないの。
わたしが悪かったのかもしれない。
周りが見えていなかったのは事実だ。
でも、わたしにだって感情はある。
ゲームのNPCじゃないんだ。
そんな言葉、傷つかない訳がない。
それでも。
「ごめ、ん、ごめんなさい、。勝手な演奏ばかり、して、ごめんなさい。直すか、ら、改善する、から、またいっしょに演奏、した、いです…」
途切れ途切れの声で必死に懇願する。
それでもまだ音楽がやりたかった。
けれど、言葉の槍は容赦なく突き刺す。
「悪いけど、もう次のピアノ担当に声掛けてあるんだ。だから君とはここまで。最初に言ったけど、全員の総意だから」
やだ。やだよ…!
やっと見つけたんだ。
ここにいてもいい理由を。
生きていてもいい理由を。
まだ待って欲しい。
頑張るから。嫌な部分を直すから。
待ってよ。
行かないで。
「待って!!」
大声で手を伸ばす。
伸ばした先にいた3人の姿が唐突に消えた。
目の前から音もなく消えた。
ワールドを移動したのではない。
ブロックされたのだ。
現実世界では出来ない、はっきりとした「目に見える拒絶」。
自分の存在などまるで最初から無かったかのように相手の認識が一切出来なくなる。
フレンド欄からも3人の姿は消えていた。
仮想現実では目の前でこれが出来てしまう。
心無い言葉でシャットアウトして、簡単にその存在を消してしまうことができる。
今まで自分がしてきたことは何だったんだろうか。
3人に不快な思いをさせてきた自分が悪いんだ。
でも、だからと言って、わたしの生きがいだったピアノを否定されて、存在を否定されて、そこまでの仕打ちを受けなければならなかったんだろうか。
まだ、何も話せていなかった。
対話さえ拒まれた。
言葉にしてくれないとわからないのに。
楽しかったはずの世界でも結局人間関係が原因で、一瞬で崩れ去る。
現実世界と何も変わらない。
いや、現実よりもタチが悪い。
夢見たはずの世界に急に現実を突きつけられて、行き場のない感情は彷徨い、代わりにどうしようもない途方感が押し寄せて来る。
「ねぇ、まって、よ、、、」
誰もいない部屋に声が響く。
声というよりは悲壮感のある音のようだった。
誰にも届かない音は、音とは呼べない。
それから現実での自分の生きがいは無くなった。
あれだけ楽しかったはずのピアノも、人に聴いてほしいとは思わなくなった。
VRChatにもログインはしたが以前のような楽しさを感じることは一切ない。
初めてフレンドになった人をフレンド欄で見つけ、joinするか迷ったがやめた。
その人のいるワールドには他に5人、人がいることになっている。
すでに出来上がっているコミュニティに入る勇気も、元気もなかった。
どうせ向こうもわたしのことなど覚えていないだろう。
そうだ。
最初から分かっていたはずだ。
いくら外側を変えたって、中身は変わらない。
現実世界で人付き合いがうまく出来ない自分が、そもそも仮想現実でうまく出来るはずがなかったのだ。
そんな単純なことにも気づかずに、浮かれて、わたしはバカだ。
今ある人間関係を
全てなかったことにできたら。
何もかもリセットしたい。
現実世界で何度もそう思ったことがある。
そして、仮想現実ではそれが出来る。
見た目も、名前も、ステータスも、アカウントも何もかも捨てて、まっさらな状態からやり直すのだ。
自分を知っている人がいない世界への転生。
現実では決して出来ない前世の記憶を引き継いだ生まれ変わり。
ゲームでいう攻略法を知っている状態での
“はじめから”。
もうわたしは間違えない。
次は自分のためだけに時間を使って、自分のためだけにピアノを弾こう。
母親に教えて貰ったピアノを聴かせてあげるのは、自分自身だけで充分だ。
迷わずにアカウントの削除ボタンを押した。
これからわたしは生まれ変わるのだ。
♢♢♢
「ボクは、転生者なんだ」
見た目も、名前も、ステータスも、アカウントも何もかも捨てて生まれ変わった夜乃少年がそこにいた。
夜乃は転生前の忘れたかった過去を話した。
アオは終始黙って夜乃の話に耳を傾けていた。
「そう、だったんだ…」
夜乃が話し終えるとアオは静かに口を開いた。
「ごめん、僕、ずっとよるのを傷つけてた。君のピアノが聴きたいって無責任なことばかり言って…。本当にごめんなさい」
夜乃はふるふると首を振る。
「ううん、ボクのほうこそごめん。言葉にしないと伝わらないって知っているはずなのに、対話をきちんとしようとしないでずっと逃げてたんだ。でも、これがボクがピアノを弾かない理由。まさかボクのことを知っている人がいるなんて、思ってもみなかった」
「もう絶対に聴きたいなんて言わない」
アオは強い言葉で意思を示す。
「ボクには才能がなかったんだ」
音楽の才能も。
人を楽しませる才能も。
「それは、違うよ…」
アオは優しい声でゆっくりと否定する。
「違わないよ。才能があったのなら、あのまま音楽を続けているはずだった。ボクの音楽には何の価値もないんだよ」
アオは悲しい表情をしたまま肯定も否定もせずに突然その場で踊り始めた。
ゆっくりとしたスロウステップ。
月光を受けて光るフリルリボン。
手を大きく広げて、空を舞うようにはためかせる。
音のない世界で、聞こえない無音の音楽に乗って、アオは踊り続ける。
「何してるの…?」
唐突に踊り始めた理由が分からない。
「よるのはさ、」
アオが踊りながら言葉を発する。
「僕にはダンスの才能があると思う?」
唐突にそんなことを言った。
「それはもちろん…」
誰だってアオのように踊れる訳ではない。
自分には一生かかってもアオみたいに踊れないだろう。
「じゃあさ、才能って何だと思う?」
次に来た質問には答えられなかった。
確かに、才能って広く不確定な言葉だ。
自分で言っててもその意味を問われると、答えに行き詰まる。
アオはゆるやかに舞いながら続ける。
「僕はさ、才能って『好きなことを続けられる情熱』のことだと思うんだ」
「好きなことを続けられる情熱…」
オウム返しでそのまま口にした。
「うん。僕だって最初から踊れたわけじゃない。挫折も、辞めたくなったときも何度もあった。でも、それでも楽しくて、ずっと楽しくて続けてきたんだ。それが今の僕を形作ってる」
この人は。
「よるののピアノもさ。初めて聴いたときから心が掴まれたんだ。あの音はよるのがずっと楽しくて、熱中して、没頭したからこそ生まれた音だ。音楽が大好きだったから生まれた音だよ。だから僕はよるのに音楽の才能がないなんて思わない」
なんでこんなにも。
「だからよるのの音楽を否定した人達は何も分かってない。こんなにも自由で飛び立てそうな音が出せる人は、他にいないよ」
わたしが欲しい言葉をくれるんだろう。
「僕はよるのの音楽に価値がないなんて思わない」
涙が溢れる。
止まってくれない。
わたしはずっと苦しかったんだ。
大好きなものを否定されて、存在価値を失ったガラクタのようにただ転がっている毎日を送り続けることが。
羽をもがれて地面に横たわる蝶のようにどこへも飛べなかったのに。
この人はこんなにも簡単に掬い上げてくれる。
「アオは、。アオはダンス、楽しい?」
震える声で問いかける。
アオは踊り続けながら、満面の笑みで答えた。
「もちろん!僕の生きている意味そのものだもん」
ふと桃葉の声が蘇る。
『つっきーがそんなに会いたいって思う人ってどんな人なんだろ〜。あ、もしかして好きな人?』
やっと分かった。
わたしがアオに抱いている感情が。
こんなにも惹かれる理由が。
好き、なんかの一言では言い表せない。
ずっと、アオが羨ましかったんだ。
好きなことを心から楽しんでいるアオが。
アオのように生きられたら。
アオのようになりたいとずっと願っていたんだ。
「わたしも、好きな音楽、続けていいのかな。ピアノ、弾いて、いいのかな」
涙はもう止まらなかった。
ただただアオのダンスを見続けた。
心から楽しんでいるアオのダンス姿からもう、目が離せない。
その顔が、その声が、その踊りがわたしを捉えて離さない。
そして、そのダンスに合わせて音楽を奏でたい、と思った。
導かれるように、白いピアノへ向かう。
現実世界のピアノを繋いで、音を奏でた。
ゆったりとしたスロウステップに合うスウィングジャズ。
グレン•ミラーの『ムーンライト•セレナーデ』
メロウなサウンドで聴く人に夜空の月を思わせる小夜曲だ。
「ほら、やっぱり、君のピアノは綺麗だ」
アオは目を閉じ静かに鳴り始めた音に合わせてゆっくり宙を舞った。
手を伸ばして夜空の月を捉える。
夜乃も一緒に空を見上げた。
視界を覆い尽くすような白色の月に目を細める。
1人で生きていくと決めた世界に輝く月が、夜乃とアオ、2人を優しく包み込む。
「ねえ、よるの」
「うん」
月を見ながら音を奏でる。
横にはアオがいる。
アオのダンスに合わせてピアノを弾く。
「写真、映画、演劇、絵画、工芸、書道、この世には数えきれないほどの芸術の分野がたくさんあるけど」
「うん」
それだけで充分過ぎるほどに、楽しい。
心の底から楽しいんだ。
「『楽しい』っていう文字が付いているのは、音楽だけだよ」
そう言ってアオは優しく笑いかけた。
「うん。うん…!」
その笑顔を、ずっと近くで見ていたい。
そう思った。
「この音は、君が音楽を心から楽しんできた証拠だ。僕はこの音が大好きだよ。
これこそ、君の音楽の才能そのものなんだ」
緩やかに終わっていくような終焉の夜世界に鳴り止まない優しい音楽が響く。
自分で奏でている音のはずなのに、
それはまるで、ここに居てもいい、生きていてもいいよと言われているような音だった。
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