第2話 世界
音が鳴っていた。
空気を震わせて心臓に届く。
黄金の世界。
温度を感じないはずの空間。
でも確かに熱気を感じた。
うねるようなベース。
大地を揺らすバスドラムのビーター。
煌びやかに天を舞うギターリフ。
自由を象徴するようなピアノのメロディ。
音が交差して弾ける。
世界の色が変わる。
暗かった世界に光が差した。
現実の何もかも諦めていたはずなのに。
心が揺れる。
いや、心が踊る。
そうだ。ぼくはずっと自由なんだ。
鳥のようにどこまでも飛んでいける。
魚のようにどこまでも泳いでいける。
自然と足が、腕が、指が動いていた。
動けずに止まっていた身体が動いていた。
確かに動いていたのだ。
♢♢♢
朝起きて時計を見る。
9時30分。
今日はバイトの面接に行く予定だ。
面接まではまだ時間はあるがゆっくりはしていられない。
MMDワールドでアオと一緒にダンスの楽しさを体感してから3日が経過したが、夜乃はまだあの日の興奮を抑えきれなかった。
昨日の夜も1人でワールドに訪れては、ずっと自分のアバターがダンスしているところをうっとりと眺めていた。
思い出してはついニヤけてしまう。
「早く帰ってまたあのワールドに行きたいな」
自分のアバターが軽やかに踊るところを想像して、また心が踊った。
「とりあえず今日の面接がんばろ…!」
完全に心はもう一つの現実の方へと引っ張られていたが、今はこちらの世界でまず最低限のことをしなければ。
急いで支度を済ませ、家を出た。
今日も太陽が照りつける歩道を歩く。
時折吹き抜けるそよ風が髪を撫でる。
平日の昼間にもかかわらず大通りはたくさんの人で溢れかえっていた。
普段は歩かない時間帯に見る街の風景は新鮮で、なんだか知らない世界のように思えた。
大通りを抜け、駅前のコンビニでパンを買ってイートインスペースで食べる。
面接の時間までまだ時間があったので、カバンから事前に送られてきた書類を出し、再度目を通した。
あれだけ嫌がっていたバイトの面接を受けようと行動できたのはアオのおかげだ。
今だって正直あまり乗り気ではないのだが、これも全部VRでダンスするため、と自分に言い聞かせると気持ちが楽になった。
あの日、アオに会わなければきっとまだ引きずっていただろう。
仮想現実の世界で知ったあの高揚感が、夜乃の生きる意味になっていた。
どちらの世界も自分の現実には変わりがないことは実感したが、だからと言って現実世界での不安が消えることはない。
ただ現実がどん底でも、バーチャルの世界なら生きることができる。
綺麗な世界をたくさん冒険して、自分の知らない世界をさらに知りたい、と思った。
仮想現実に帰るために、今この瞬間の現実を生き抜くのだ。
あの日の出来事が夜乃の現実世界での在り方を変えた。
…帰ったらアオに会えるかな。
最後に一緒にMMDワールドに行ってから、アオとは会っていないし、連絡も取っていない。
関わるな、と言ってしまった手前、自分から連絡するのは気が引けた。
酷いことを言ってしまったのにまた会いたいと思ってしまう自分の浅はかさが嫌になる。
…そういえばアオって普段何してるんだろ。
まだ出会ってから数日しか経っていないのに、気がつけばアオのことを考えていた。
ダンスがめちゃくちゃ上手な猫耳美少女、ということくらいしか知らない。
あとインストラクターをしていること。
中性的な声で穏やかに話すから、男性か女性かも夜乃には分からなかった。
でもリアルでの年齢や性別が知りたいか?と言われたらそういう訳ではない。
出逢いを求めてるわけではないし、アオが男性だろうが女性だろうが関係ない。
夜乃の世界を広げてくれた人には変わりはないからだ。
ただ、アオという人間がどういう生き方をしてきたのかが気になった。
あの人柄がどうやって形成されたのか。
普段何をして、どうやって生きているのか。
…もっと知りたい。
たった数回しか話をしていないはずなのに、
そう思ってしまうのはなんでだろう。
アオへの興味が尽きない理由を知りたかった。
「あ、時間…!!」
考え事をしていたら結構時間が経過していたようだ。
夜乃は急いでコンビニを出て面接先であるカフェへと向かった。
♢♢♢
「あの、面接をお願いしていました原田です。
今日はよろしくお願いします!」
「原田さん。待ってたわよ〜。店長の海川です。今日はよろしくお願いします。荷物置いてこちらへどうぞ」
カフェに着くと、柔らかい雰囲気の中年の女性が出迎えてくれた。
左胸のネームプレートには海川和代と書かれている。
「人手が足りなくて困ってたの。本当に助かるわ〜。原田さん、接客業の経験は?」
「いいえ、ありません…!
ですがこれから一生懸命勉強して少しでもお役に立てるように頑張ります!」
「大丈夫よ〜。参考程度に聞いただけだから。それにそんなに畏まらなくていいのよ。
面接とは言っても軽く自己紹介して業務内容の説明をするくらいだから」
「え…?」
思わず声が出てしまった。
そんな簡単でいいのだろうか。
「わたし、ちゃんとお役に立てるかどうかわかりませんが…
経験もないですし…
こんなんでもよろしいんでしょうか…」
不安になる。
そもそもやったことのない職種だ。
人間関係だって上手くいくかわからない。
ふと前の職場のことが頭によぎった。
嫌な想像が頭を巡る。
たとえ仕事ができるようになったとしても、また人付き合いで失敗するのではないか。
夜乃の不安そうな空気を察したのか、海川は穏やかな表情で
「もちろん!最初からなんでもうまくできるだなんて思ってないわ。さっきも言ったけど本当に人手が足りないの。前いた子がやめちゃってね。私ともう1人の子の2人でなんとかやってきたのよ。
だから本当に少しでもいいから力を貸して欲しいの。
正直、原田さんみたいな若くて可愛い子が来てくれて助かるのよ〜!」
と言った。
“最初は誰だって初心者”
アオの言葉を思い出した。
その通りだ。
最初から臆してどうする。
「それに、もう1人の子もね、原田さんと同世代だからきっとすぐ仲良くなれると思うわよ。
お、噂をすれば…」
カラン、と音が鳴ってカフェの入り口から1人の女の子が入ってきた。
白色のカットソーとサロペットを合わせたモノトーンコーデ。
差し色で持っているネオンピンクのミニマルバッグが彼女のモードな印象を引き立てている。
…綺麗な人だ。
思わず息を呑んだ。
同性なのに惚けたようにまじまじと見てしまった。
夜乃の視線が気になったのか、彼女も飴色の瞳で夜乃を射抜いた。
じーっとこちらを見つめられて思わず緊張してしまう。
彼女はセミロングのさらりとした髪を揺らしながら、視線の向きを海川にずらして口を開いた。
「海ちゃん、この人って…」
「そう!この人が原田さん。
今日からこの店を手伝ってくれるのよ。
原田さん、こちらは茅野さん。さっき言ってたもう1人の子よ」
茅野、と呼ばれたその女の子はすっと身を乗り出すと夜乃の目と鼻の先までいきなり近づいた。
そのまま夜乃の全身をゆっくりと眺める。
何かしてしまっただろうか。
「め…」
…め?
「めっっっっっちゃ、タイプなんですけど!!!!え、やばーー!!ちょーぜつ可愛いーーー!!
てっきり来るの男の人だと思ってた!もー海ちゃん、女の子なら先にちゃんと言ってよ!!しかもめちゃくちゃ可愛いじゃん!どこでこんな子見つけてきたの?!海ちゃんのセンスまじやばい!!」
女の子はさっきまでのクールな印象からは想像もつかない勢いで早口に話し始めた。独り言なのか店長に話しかけているのか正直分からない。
あまりの勢いに夜乃は一歩後ずさる。
「うわ、めっちゃ髪の毛サラッサラ!羨ましーー!肌白っ!まつ毛もめっちゃ長いじゃん!超絶美女!え、モデル?モデルさんなの?
こんな人と一緒に働けるなんて、この店に来てから一番嬉しい出来事なんですけど!というか生まれてきて良かった!!!もう一生推す!推し確定!」
…何この人!怖い!怖いよ!
それに可愛い子に可愛いって言われても疑っちゃうよこっちは!
身の危険(?)を感じ、思わず縋るような目で海川を見る。
「茅野さん、原田さん困ってるでしょ〜!
ごめんね、原田さん。茅野さんはね、可愛いもの大好きな子なの。
原田さん可愛いから絶対仲良くなれるとは思ったんだけどまさかここまでとは…」
あまりの勢いに海川も苦笑していた。
「茅野さん!原田さんにちゃんと挨拶しなさいね。」
海川の一言ではっとしたのか、茅野は夜乃から距離を開けてごほん、と軽く咳払いをした。
「ごめんごめんごめんなさい!取り乱しちゃった!あたし、茅野桃葉って言います!歳は25!好きな食べ物はえーっとナポリタン!3年前からこの海ちゃんのお店でお世話になってます!趣味は身体を動かすことです!あと、なんだろ、えーっと、やばい、推しがこっち見てる、鼻血出そう…!じゃなくて、これからよろしくおねがいします!推します!仲良くしてください!!!」
茅野は深々と頭を下げて勢いよく手を差し出した。
夜乃ではなく茅野のほうが今日面接に来たのではないか、というほど見事な自己紹介だった。
というかこれほど早口のまま一呼吸で喋り切る肺活量が単純にすごい。
「えっと、バイトの面接で来ました、原田です…。よろしくお願いします」
「声まで神!爆死!!」
夜乃の挨拶を聞いた茅野はそう叫ぶと、天を仰いだまま動かなくなった。
…アニメのキャラクターみたいな子だな。
最初のイメージとは正反対の言動に驚きはしたが、悪い気はしなかった。
純粋に会ったばかりなのにここまで慕ってくれるのは嬉しい。
仲良くやって行ける気がした。
ぱん、と音がした方を見ると海川が手を合わせていた。
「それじゃあ全員揃ったことだし、これから頑張っていきましょ〜!
あ、原田さん、さっそくで申し訳ないのだけれど、今日は午後からシフト入ってもらいたいのよね。大丈夫かな?」
「もちろんです!全力で頑張ります!」
「あはは、肩の力抜いて気楽にね!
楽しくやっていきましょう!これからよろしくお願いしますね!
ほら、茅野さんも!開店準備するよ!!」
茅野はまだ1人でありがとうございます神様…などと呟いて天井を見上げている。
その姿を見て自然と笑みが溢れた。
♢♢♢
「それじゃあ、原田さん、今日はお疲れ様。
初日とは思えない仕事ぶりで助かったわ。明日からもよろしくお願いしますね」
「仕事も出来て可愛いとかやっぱり神ですか??!」
午後から始まった初めてのカフェでのバイトを終え、制服から着て来た服に着替え終わったタイミングで2人に声をかけられた。
「事前に送っていただいた資料を参考にできたおかげです。至らぬ点もまだたくさんありますが、明日からもよろしくお願いします」
2人に向かって頭を下げる。
「明日からも一緒に働けるとか幸せで吐きそう…」
茅野がぼそっと呟いた。
大袈裟だなぁと思いながらもつい顔が綻ぶ。
「ありがとうございます茅野さん。
こちらこそまたよろしくお願いします」
夜乃が反応してくれたことが嬉しかったのか、茅野はきゃーきゃー言いながらその場で小躍りしていた。
午後からのバイト中も茅野は終始こんな感じで、夜乃に対しては常にオーバーリアクションだった。
最終的には夜乃の方が疲れてしまって微妙な反応しかできていなかったほどだ。
ただ、そんな茅野も仕事をしているときはピカイチで、一つのミスもなくテキパキとオーダーを取りながら、思いやりのある言葉遣いで丁寧に接客をこなしており夜乃はすっかり感心してしまった。
小さなカフェながらも、着々とリピーターを増やし続けているのは、茅野が店を活気づけてくれているおかげだろう。
「今日は本当にありがとうございました。
それでは失礼します」
「また明日ね〜。気をつけて帰るのよ」
「明日も尊いお顔を拝ませてくださいね!おやすみなさい!」
夜乃はもう一度礼をして、カフェを後にした。
♢♢♢
すっかり暗くなってしまった夜道を歩く。
初バイトは自分でも思ったより上手くいった。
もちろん業務内容は初めてのことだったので出来ない部分はあったのだが、海川と茅野、2人の人柄に支えられた。
前の職場とは大違いだった。
こんな温かな雰囲気で仕事ができるとは思ってもみなかった。
…本当に知らないことばっかりだ。
少し前まで傷付くのを恐れてバイトをすることさえ躊躇っていたのが嘘のようだ。
あれだけ現実に絶望していたはずなのに、今は新しい環境を楽しみにしている自分がいる。
明日もまた2人に会える、と思うとなんだか嬉しくなった。
自分でも単純だなと思ったが、こういった小さなことでも一喜一憂してしまうのが夜乃という人間なのだ。
現に、仮想現実の世界に帰るために現実を生き抜く、という考えはもう夜乃の中から消え去っている。
現実世界での自分の居場所を見つけられた気がした。
空を見上げると月が出ていた。
現実世界で空を見上げるのなんていつぶりだろうか。
家々の明かりが徐々に消え、街は静かに眠って行く。
優しい光で街を包み込む月は、いつもVRで見る絶景の月にも劣らないほど美しかった。
「さーって、帰ってVRしますか!」
腕を思い切り上に伸ばす。
今なら月に手が届きそうな気がした。
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