第9話 円花

「うう……重……」


 朝、あまりの苦しさに目が覚める。


「……アキ……」


 見ると、ぽろぽろと涙を流す円花。彼女はお腹の上で馬乗りになっていた。


「円花!? どうしたの、何で泣いてるの?」


「いま、重いって……」


「いや、寝てるときに馬乗りになられたら重いでしょ、普通」


 ただ、確かに彼女のお腹は少しだけぽっちゃりとしていた。別に構いはしないんだけど、おそらく円花的には許せないんだと思う。


「こうやって起こすの、ちょっとやってみたかったの……」


「円花はさ、付き合ってた時に言ってたよね。男子はエッチなことしか考えてないから嫌いって」

「まだ別れたつもりは無いんだけど……」


「とにかく……言ってたよね?」

「はい……」


「円花は、自分のやってることちゃんと省みて」


 円花はしゅんとしていた。ちょっと言い過ぎたかもしれない。

 彼女を受け入れられないわけでない。別にエッチなことに興味を持っていてもいい。

 だけどちょっとした苛立ちが言葉に出てしまった。



 ◇◇◇◇◇



 その後、四人で朝食を食べた。ただ、貴島が居ないこともあってとても静かな食事だった。


「あら、みんな揃って。おはよう」

「母さん、戻ってたのか」


 三人とも、小さな声でおはようございますと返す。


「夜遅くにね。お邪魔だったらどうしようかと思っちゃったけど」

「そんなことにはならないから」


「で、どうしたの? 元気無いね皆」

「円花がその……勝手に俺の部屋に入って起こしに来た」


「いいじゃない。恋人でしょ?」

「う……」


 否定したかったが、円花がさらに落ち込むのは見ていられなかった。

 土曜日だったのでそのまま安静にしていて、母も食事は三人に任せたみたいだった。

 料理は円花と咲枝ちゃんが得意らしい。七海はまあ、お察しだった。


 その後、貴島がやってきて少しマシにはなったが、帰る頃になるとまた三人とも静かになった。



 ◇◇◇◇◇



 日曜日。朝起きるとベッドの傍に七海が正座していた。


「……ぁ、先輩おはようございます……」


 元気のない七海。もうふた月は彼女の元気な声を聞いていない。

 そしてせっかくの日曜日なのに、三人とも買い出しに行く以外は家の中に居た。

 何もこんな休みまで俺の面倒を看なくていいのにと思う。



 ◇◇◇◇◇



 夜、部屋に居るとノックの音。皆はたぶん部屋で休んでるはずだけど……。


「アキ、今いい?」


 母の声だった。


「いいよ、どうぞ」




「ふぅ。女の子が家にいると息子の部屋はドキドキするわね」

「いや、誰も隠れてないから」


「明日、早いから今、話しておこうと思って」

「また長く空けるの?」


「そうね」


「――その、お父さんのことなんだけど。アキは私がお父さん嫌ってるの知ってるわよね」

「ああ、うん。……浮気でしょ」


「まあ半分くらい正解かな」

「半分?」


「そう。半分。――私も最初はね、お父さんとの復縁を考えてたんだ」

「えっ?」


「――お父さん、昔はすっごくかっこよくて、才能もあるし、アキと同じで努力家だったのよ」

「え……」


 母が自分の努力をちゃんと把握してくれていたことに驚いた。


「だからもうぞっこん? だったの。お父さんも一途だったし」


「――でもね、魔が差したのか、調子に乗ったのかわからないけど浮気しちゃったのよね、あの人。理由なんていくらでも後から付けられるけど、本当のところはわからない」


「――男の浮気と女の浮気が同じには考えられないかもしれないけど、あの頃の私は、まあ謝ってきたら許してやろうかなくらいには考えたりしてたの。そりゃあ最初は滅茶苦茶怒ったのよ?」


「――でも、復縁は無かった。お父さんは帰ってこなかった」


「――私はずっと未練があってもやもやしてた。だからある時……一年ちょっとくらい後かな、アキの養育費が滞ってるのを理由に文句をつけに行ったのよ。そしたらあいつ、何て言ったと思う?」

「や、さあ……」


「『なんだまだ怒ってたのか』だよ? その時思ったの。ああ、こいつとはダメだって」

「それで吹っ切れたの?」


「まさか! 全力で潰してやったわよ。アキの養育費も追加の慰謝料もまとめてぶんどって」

「はは……」


「だからね、アキ。怒ってるうちは未練があるし、お互い未練があるうちはやり直してみる方が後悔しないと思う。ほんとにやり直せないのは興味も何もなくなった時だから。みんな、いつまでも待っててくれないわよ?」


 俺は俯いて礼を言った。

 未練はある。だけどどうすればいいのかがわからない。

 みんな申し訳なさそうにするばかり。

 怒ればいいのか泣けばいいのか。



 ◇◇◇◇◇



 月曜日。眠っていると下唇を引っ張られるような感触で目を覚ます。


 目を開くと咲枝ちゃんがキスをしていた。


「んんんん!?」


 唇を塞がれたまま身をよじる。


「――ぷは」

「咲枝ちゃん!?」


「アキくん、ファーストキス、なかなか貰ってくれないから」

「いやでも寝込みを襲うのはどうかと!」


「二人とも、ファーストキスはアキくんだったって自慢するから」

「そんな話してたの!?」


 咲枝ちゃんがようやく笑ってくれていた。

 朝食でもニコニコしていたので、昨日、一昨日の消沈はこれが原因だったのか。


 ただ、咲枝ちゃんの食が細いのは変わらないようだった。脅されてた間は食事がほとんど喉を通らないか、食べても戻していたと言う。


「咲枝ちゃん、朝はもっと食べよ」

「でも……」

「ちゃんと食事できないならお母さんとこ帰って貰うよ、心配だし」

「うん、わかりました」



 ◇◇◇◇◇



 久しぶりの登校。俺の歩く横には咲枝ちゃんが並んで歩いていた。

 円花と七海は連れ立って前を歩いていた。今日のご飯は何にするかとか話してる。


 教室までは円花と咲枝ちゃんがついてきた。七海は別棟なのでさすがにここまでは来なかったけど、円花の教室は結構離れている。2-Aには貴島が既に居たので二人は挨拶して少し話をすると、自分の教室へと帰っていった。



「タカノン、お前、さっきの子助けたんだって?」

「えっ、ああ、うん」

「名誉の負傷か。カッケーなおい」


 咲枝ちゃんのことはあまり詳しく話が回っていなかった。彼女の情報が出回らないように配慮してくれたのと、学校側もあまり公にしたくなかったのもあって、咲枝ちゃんの悪い噂は無さそうでほっとした。


 まだ包帯を巻いてた俺はクラスメイトに囲まれて色々と話を聞かれたが、あのアホの罪状が色々ありすぎてあまり話せないんだと適当言っておいた。


 担任が来て当日のことを説明する。辻村が咲枝ちゃんを脅して乱暴しようとしていたところ俺が助けたって話になっていた。詳細やそれ以前のことについては触れられなかった。咲枝ちゃんが俺と親し気だったのもあって、ヘイトは辻村に集中していた。



 ◇◇◇◇◇



 一時限目の休み、大樹が話しかけてくる。


「そういやお前、さっきもうひとり女の子連れてたよな」

「ああ、円花か」


「もう名前呼び捨てかよ。あの子も割とかわいかったよな」

「ハァ!?」


 割とかわいい――そんな言葉を聞いて俺は頭に血が上ってしまった。俺が中学の一年半をかけて手に入れた高嶺の花をそんなふうに言われた。彼女はもっとすごいんだぞ。勉強だってできるし、運動だって、見た目だっていちばんに美人だった。大樹には理不尽な怒りかもしれないが。


「いやすまん、彼女だったか?」

「いや、こっちこそごめん。けど、円花は本当はもっとすごいんだ……」


 話を聞いていたのか、貴島が声をかけてきた。

 俺はあとでちょっと相談があると、次の業間に貴島を誘った。



 ◇◇◇◇◇



「手短に話すけど、俺、円花を昔の円花に戻そうと思うんだ」

「はぁ、やっとその気になってくれたの」


「だから中学からの円花、どんな感じでどんな生活してたか教えて欲しい」

「いいわ、教えてあげる。ただし、私の恨み節も一緒に聞いてよね」


 貴島は何度も俺を頼ってきていた。

 無理強いはしなかったが円花を助けて欲しかったんだ。


 そしてその日、何度かの業間を使って以前の円花の話を聞いた。



 ◇◇◇◇◇



 昼休みには円花と咲枝ちゃん、それとわざわざ別棟から七海がやってきた。

 七海とのことは東中の連中になら割と知られていたので彼女だけなら別に驚かれもしなかっただろう。けれど今日は円花と咲枝ちゃん、そして2-Aには当然貴島までいる。


「タカノン……お前、ハー――」

「やめろ、その言葉を出すな!」


 わなわなと震える大樹。


「アキ、学校でハーレムとか夢が広がりんぐね!」

「貴島よ……」


 俺は居たたまれず、吹き曝しの渡り廊下まで逃げた。


「ベンチあるしここでいいんじゃない? アキにしては気が利く」

「そうね」


 俺の心を無視して四人がてきぱきとお弁当を広げていた。ちなみに俺は弁当を渡されていない。つまり三人のうちのだれかが持ってると――咲枝ちゃんだった。咲枝ちゃんは俺の分のお弁当を広げ、あーんとかされたので恥ずかしくてひと口目以外は弁当箱を奪って食べた。


「……せ、先輩、ポテサラどうでした?」

「うん、おいしいよ。七海が作ったの?」


「……はい。よかった……」

「皆で下準備を分担したからすぐにできたわ。ね」

「私はハンバーグを頑張りました」


 咲枝ちゃん、そんな細腕で……。


「……こ、こねるのは手伝いましたっ」


 なるほど、分担ね。七海もできることをがんばったのだろう。



 食事を終えた俺は円花に声をかける。


「あの円花。後でちょっと円花に話したいことがある」

「わかったわ」


「だから放課後、ちょっと残って欲しい」

「家でいいんじゃない?」


「え、自分ちに帰らないの?」

「必要なものがあれば取りに帰るけれど今のところないわ」


「泊りって週末とかだけじゃないの!? 親、怒らないの?」

「みんな住み込む許可は取ってあるし、私は恋人で恩人とも言ってある」


「恩人って……何もしてないよね」

「捕まった辻村に脅されてたって言ってあるわ。あのままだとあのクズの慰み物にされてたのを助けてくれたって」


 うわー辻村、罪状が増えていくなあ……。ちなみにこの罪状、円花の虚言ではあったのだが、親に警察へ連絡されたうえ、辻村のスマホやパソコンから中学の頃の円花のアレな写真が見つかったため、真実味を帯びてしまったとか。



 ◇◇◇◇◇



 俺は四人掛けのテーブルで円花と二人、向かい合っていた。

 貴島と七海はリビングのソファーで仲良く雑誌を読んでいた。

 咲枝ちゃんは今日は家でお泊りと言っていた。いや、そっちが実家だよね!?


 まあとにかく、円花と対峙していた俺はおもむろに椅子から立ち上がり、彼女を見下ろした。


「俺は顔だけの女に靡くつもりはない。俺が好きだったのは中学のあの頃の円花だ」

「は?」


「……あ、いや、上から目線でしたすみません……」

「いえ、うん、わかった……」


 円花はそう言うと、俯いてテーブルを見つめたまま微動だにしなくなった。


 やがてポタポタと音がするほど大粒の涙をテーブルに零し始めたかと思うと、グスグスと泣き始めた。何事かとリビングから二人がやってきた。俺は席を離れて円花に寄りそうと、背中を擦ってやった。


「ごめん、そんなに泣くとは……」

「あだし、あんなかんじだった? うえからっ、めせんでっ」


 嗚咽を漏らしながら円花は続けた。


「あなだにっ、ひどいことっ、いっだときもっ、あんなだっだ。ごべん、ごべんねぇ」


 俺は円花をこちらに向かせて胸を貸してあげた。


「……俺はもう許してたんだ。円花が頭を下げたとき。でも、申し訳なさそうな顔ばかりしてるのに苛ついてた」


 抱きしめて背中をトントンと叩いてあげると大声で泣き始めた。


 貴方の初めてを他の女に盗られたことが悔しかった、去っていったことが辛かった、貴方に巡り合えたことこそが自分の全てだと思っていたのに、失った自分が惨めだった――と、今まで体裁を保って言えなかったことを息も絶え絶えに吐露した。何もかも溜め込んで、本当にバカだ。




 少し落ち着いてきた円花。


「あのね、わたしもがんばったの。でもね、ぜんぜんできないの。いちど楽なのに慣れるとダメなの。こんなすがた、はずかしくてあなたの前に出られなかったの」


「クラスの友達に言われたんだ。円花を割とかわいいなんて。割となんて無いよな。円花はすっごくかわいいんだから。円花なら大丈夫だよ。俺だってゲーム三昧からあれだけ頑張れたんだ。一緒にがんばろ?」


 円花は声を詰まらせて、代わりに大きく頷いた。


 その後、貴島に連れられて円花は部屋に戻った。しばらく話し込んでいたようだったが、やがて貴島が戻ってくる。円花は眠ったみたい。



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