「さらば我が灰色の青春」2

 終礼の時間を過ぎてもなお、宮守は机に向かっていた。


「ネッコっちーん、この後暇? 暇だよね? カラオケ行こー」

「え、何、またー? こないだ行ったばっかじゃん」

「え、じゃあ行かない?」

「行く(笑)」


 体育系、文化系、次いで帰宅部。いずれも競うようにして教室の外へと繰り出していった。ダムの放水のように学生たちをひとしきり吐き出した後の教室は静まりかえっていた。

 生徒は二人。宮守と早瀬である。

 鳥肌が立つほど効いていたエアコンはすでに切られており、その代わりに窓が開け放たれていた。


(別にすぐに開けなくたっていいだろ)


 宮守は滲み出る汗が垂れる側からタオルで拭いつつ、担任に対する文句を心の中で漏らしていた。

 窓越しにも煩く感じていた蝉の声が爆圧を伴って室内になだれ込む。先程の授業時と比べても陽が傾いており、外気温が幾らか下がった関係で蝉も夕刻より本格的に鳴き始めたようだった。


「終わった」

「あれっ、もう?」


 早瀬は読んでいたラノベを閉じて面を上げた。


「うん。今日一日ほぼこれやってたしね」

「だなあ。英語の小嶋、すげえ睨んでたぜ」

「なるほど、だから三回も当てられたのか」

「ちげえねえ」

「出してくるよ。荷物、見といてくれる?」

「あいよー」


 教室を出た宮守を襲ったのは灼熱のと、鋭角に彼の目に差し込む西陽だった。


「はあ、なんだって夏はこうも熱いんだ」


 宮守は誰に言うでもなく呟いた。むしろ彼は一人の時こそ口数が多くなる性分だった。

 廊下はさらに蝉の声が大きくなって響いていた。細長い箱の中を蝉の声が乱反射している。西陽に炙られた肌が汗を含んで不快指数はさらに上がっていく。


「……あれっ、こんなところで何を?」


 階段の踊り場で、宮守は学内で少数派の友人と出会った。杉浦春乃という女子生徒である。彼女とは小学校以来ずっと学校が同じだったが、話すようになったのは高校に入ってからのことだった。

 宮守としては面白くもない自分なんかよりももっと他の学友に時間を割いて欲しいというのが本音であり、彼の方から声をかける事は滅多になかったが今回は少しばかり事情が違った。


「ん、ああ。宮守くん。ちょっと、階段の掃除をね」

「慈善活動?」

「ううん、当番だから」

「君しか姿が見えないけど。トイレ休憩かい?」

「……ちょっとね」

「いいよ、手伝ってあげる」


 宮守は事情が分からないほど察しの悪い男ではなかった。

 彼は踊り場にあるボックスから箒とちりとりを取り出すと、柄の部分で階段を指し示した。


「ここから下が私の持ち分だ。だから杉浦さんはこの階のゴミを一箇所に集めておいてほしい」

「大丈夫? 何か用事がない?」


 ここで宮守はチラリと教室に待たせてある級友のことが思い浮かべた。


「大丈夫、大丈夫だ。アイツは人助けに顔を顰めるような男じゃないよ」

「そうじゃなくて、宮守くんが」

「私は大丈夫だから」


 そう言うと宮守は階段を駆け降りていった。

 そして五分ほどの時を経て、彼は薄く埃の溜まったチリトリ片手に駆け上がってくる。


「ありがとう、宮守くん」

「別に気にする必要はないさ。杉浦さんも嫌なことがあったら断った方がいいよ」

「ううん、大丈夫、ごめんね」

「なんで謝るの。まあいいや、それじゃあね」


 宮守は足早にその場を去っていった。

 杉浦の鼓膜を蝉の声が震わせる。否、先ほどからずっと蝉の声は彼女の鼓膜を震わせ続けていた。ただ今まではその蝉の声が気にならないほどの出来事があっただけの事であり、この蝉の声はその出来事が終わったことを告げていた。


「失礼します。数学の美山先生はいらっしゃいますでしょうか」


 職員室の中は冷たい空気で満ちていた。一部の先生などは乾燥を防ぐためか喉にマフラーを巻いている人すらいる。宮守の汗を吸った制服が急速に冷えて宮守の体温を急速に奪っていく。


「宮守か。時間ちょっと過ぎてるぞ」


 宮守は呼ばれる前に件の教師の席へと馳せ参じた。


「過ぎちゃってましたか」

「うん。過ぎてる。だからこの課題は受け取れない」

「そこをこう、なんとかなりませんか」

「……」


 美山は呆れたような目で宮守を見ている。対する彼は、その相好を崩さないまま背筋だけを伸ばしていた。


「今回が初めてだとか、一回目だからとかそういうんなら受け取る。だが何度目だ? いつも忘れてくるじゃないか」

「はあ。不出来なものでして」

「テストの点数が悪いんだから、こういう課題関係くらいはしっかりしないと、留年だよ?」

「ですか……」


 相も変わらず宮守の相好は崩れない。が、その口角には僅かばかり彼の緊張が反映されていた。


「この課題を受け取らなきゃ、君は追試だ。そして、それに落ちれば留年だ」

「はあ……」


 なんとも気のない返事に美山はため息をついた。


「だがそれは私も不本意だ。普段ならば喜んで追記をやるが、今回ばかりは事情が違う」

「……!」

「はあ……。サッカー部の試合日程が追試期間と被っている。まさか顧問が出ないわけにもいかんからな」

(それは教師としてどうなんだろうか)

「だから受け取ってやる。だがタダでは受け取らん」

「……課題ですか」


 宮守は嘆息した。ようやく課題から解き放たれると思った矢先の出来事に目に見えて消沈する。


「そんなわけないだろ。課題を用意するのもこちとら手間なんだ。頼みたいのはこの課題を出していない生徒から回収してくること」

「私以外にも誰が?」

「アイデンティティにしてるんじゃないよ。それに君と違って、普段からしっかりと課題は出しているし、君と違ってテストの結果もいい」

「はあ。耳が痛いですね」


 美山の眉がピクリと動いた。何か言いたげな表情を作って、そして言葉を留めるように首を振った。


「清水から、課題を受け取ってきてくれ」

「清水、と言いますと、私と同じクラスの?」

「そうだ。早く行ってこい。なる早で頼むぞ。今晩には成績を残してしまいたいからな。……ここだけの話、清水は指定校を狙ってるからな、俺も協力してやりたいし、お前も協力してくれるなら、ある程度融通を効かせてやってもいい」

「善処します」

「本当か。お前ならきっとそう言ってくれると信じてたぞ」

「はあ」

「早くしろ、行ってこい」

「し、失礼します!」


 宮守は急かされるようにして退室した。


「あんなに急かさなくたっていいだろ」


 彼は扉の前でひとりごち、それから宮守は夏に熱された空気を胸一杯に吸い込んだ。

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