「ラダ街道の戦い」終

 ナオ、と猫が鳴く。

 長閑な風景だった。葡萄畑が続き、地平線を縁取るように遠くに森があった。

 規則正しい蹄鉄の音が続く。馬上の者も引かれた荷車にジャガイモのように詰め込まれた者たちの数名ばかりが、呻くとも囁くともつかない声でボソボソと口を動かしていた。


「フッ、フッ、フッ……」


 馬に引かれた馬車の上で、男の上に跨り一心不乱に上下に動いていた。


「無駄だよ」

「無駄じゃねえ。コイツは不死身なんだ」

「首の骨が折れてたんだ。脈も取ったし瞳孔も開いてた。生きてたら人間じゃねえ」


 金髪碧眼の整った容姿に、長く尖った耳、彼女はエルフの特徴を備えていた。


「俺は弟から聞いたんだ。コイツはどんな外傷からも復活する不死身なんだって。白百合の役に立つから助けてやれって、頼まれたんだよ。だから、死なすわけにゃいかねえ」

「だから死んでんだって」


 男たちは呆れながらも彼女に構うことはやめなかった。一同、視線はただ一点のみに集中している。体のラインが出にくい軍服の上からでも分かる豊かな乳房だった。


 彼らは死に慣れすぎている。

 故にこそ、人の死を目の当たりにしても己が生の本能に従順であり続けた。


 ゲホゲホと、エルフの股下にいる大きく咳をする。


 エルフの表情が華やぐ。絵物語などに描かれる、高貴さや可憐さとは程遠い、泥と機械油に汚れた作業着に痛むに任せた髪を無造作に纏めた格好だったが、それでもなお当人の美しさが損なわれる事はなかった。


「嘘だろ。確かに首が折れてるって……」

「あれっ、おっかしいな。軍医も瞳孔が開いてるって」

「嘘つけ。そもそもコイツだけ死体を持って帰るってのがおかしな話なんだ。他のはみんな置いてきたってのに」

「ばか言え。アイツは我らがルフェーヴル大佐の愛人だからだよ。死体すら持って帰られませんでした、じゃ俺たちの立つ瀬がねえだろ」

「コイツ、やけに重用されてるなと思ったら、あの老エルフの愛人だったのか。なんだか俺たちの命に価値なんてねえって言われてるみたいだ」


 兵士たちの談笑は当人たちを前にしているとは思えないほど、どこまでも呑気かつ無神経なものだった。彼らを怒気混じりに見つめるものがあったとしても、その鈍感さ故に気付くことはなかった。


「すまないが、私からどいてくれないか」


 ただ一人、その怒りを察していたのは他ならぬ当事者その人であった。あえて彼女の怒りを遮る様に、声を怒る当事者へと投げかけたのである。

 その股下の男は、他ならぬ先ほどまで死体であった不死身のルフェーヴル少尉であった。


「なっ……おめ、誰が助けたと思って」

「ああ、それは」


 エルフの視線は射抜かんばかりのものであり、股下にいるルフェーヴルはその様子こそおくびにも出さなかったが、内心では体がすくむ思いだった。

 その実、ルフェーヴルに向けた彼女の視線は外野に向けるものよりも幾分かは穏やかなものだったが、この唐変木にはそれを察するのはあまりにも難しかった。


「すまない、助かったよ、シャルル中尉」


 ルフェーヴルはエルフの名を呼んだ。

 このエルフこそ、逃げ足のシャルルとして名を馳せる、白百合のトップエースである。

 整った容姿に男好きのしそうな体型、背の低さもまたかえって彼女のスタイルの良さを強調しているため、一見すると戦闘員には見えない。またエルフという種族もゴール人やコルチェスター人、捕虜にしているフェルクス連邦のアレマン人と比較しても異彩を放っていた。


 シャルルは立ち上がるとほらよ、と手を差し出した。ルフェーヴルはその手を取って立ち上がる。

 ルフェーヴルは極度の世間知らずであったが、それでも彼女が何か訳ありだということは理解できた。

 そして彼女もまた彼にとっては大切な戦友の一人である。彼は彼女から差し出された手を見た。黒く汚れ、また乾燥で肌は荒れているが元は美しかったであろう。ルフェーヴルはその美しさを夢想しながら手を取った。


「しっかし、不死身ってのも強ち間違いじゃなさそうだな」

「どうだろうね。私にはさっぱりその自覚はないんだけども」


 ルフェーヴルは嘘が下手な男だった。嘘そのものも白々しいものであったが、彼の顔もまた強張っていた。彼がこの嘘を突き通せるのは単に彼の能力ではなく、彼の隠す嘘が現実的に考えられない荒唐無稽なものでしかなかったためだった。


「さっきまで心停止してた人間がこうもピンピンしてるとは思えないんだが」


 シャルルはルフェーヴルの頭から爪先にかけて、視線を一巡させた。呼吸脈拍共に正常、ふらつきや意識の混濁もなし。彼女の言う通り、先ほどまで死にかけていたのにも関わらず異常が見られない事は、明らかに異常だった。


「そんな事より、被害は?」

「あら真面目なこと。さっきまで死にかけてたってのに。そんなんじゃせっかく拾った命も無駄になっちまうぜ」


 冗談とも本音ともしれないシャルルの言葉にルフェーヴルは乾いた笑みで応じた。


「で、どうなんだ?」


 シャルルは嫌な顔をした。その様に真面目に返されては、彼女も真面目に答えざるを得なくなってしまうからだ。


「はあ。ま、はっきり言ってかなりマズイ。お前も分かるだろ。お前の鉄騎は完全にお釈迦だし、マルタンのもやられた」

「あの人が……そうか。すまない」


 二人の間にしばし沈黙が流れた。ルフェーヴルはしばし目を瞑って悼み、それをシャルルはニュートラルな表情で傍観していた。

 ピエール・マルタン大尉は、この小隊を率いる小隊長だった男だ。ゴール人には珍しく、差別意識のない公平な人物として知られていた。


「第一、俺は反対したろ。俺たちの戦力を消耗するだけだって」

「軍隊の決定権は、民主主義に委ねたわけでも現場にあるわけでもないのさ」

「お前のそういうとこ、ほんとに嫌いだ」

「よく言われるよ」


 シャルルには、そんな事は言われなくとも分かっていた。それをあえて口に出して諌めるルフェーヴルに、煩わしさすら感じていた。


「問題は、戦力の消耗具合が想定よりも大きいことだ」

「そうだな。小隊を構成していたパトリエは半分が撃破された。それに……」

「ああ、俺のパトリエも戦闘不能だ」


 シャルルは自らの背後を歩く鉄騎の方に顎をしゃくった。その肩越しに、ルフェーヴルは彼女の乗騎を見る。

 酷いものだった。塗装は至るところが擦り傷によって塗装が剥げており、膝より下は泥跳ねで乾いた白と新たに跳ねた泥の黒で彩られていた。

 左肩に至っては汚損防止用のカバーが外れて関節が剥き出しとなっており、それが陽光を浴びて金属のパーツ部が白い光を照り返していた。

 胸の装甲板は擦過傷の他、いくつか大きなクレーターを生じている。アドラー小型鉄騎に装備されたカメラ同軸の3.7センチ機関砲によるものだった。


 パトリエ歩兵鉄騎は他国の鉄騎と比して本体にも厚い装甲が施されている。断片防御はおろか、中口径の対鉄騎砲の至近距離からの砲撃にも堪えられる。

 無論、鉄騎の主砲となる12.8センチ砲には無力だが、少しでも鉄騎の生存性を上げるための戦略は比較的有効に働いている。

 これらの装甲は純粋に騎体重量に直結するため、パトリエの鈍重さに拍車をかけているとの評価もあるが、少なくともここにいる者にその不満を抱く者はいなかった。


 だが、これらの傷は先の戦いによるものではなく、また即座に戦力喪失に直結するものではない。


 ルフェーヴルは左腕に懸架された19センチ砲を見た。同規格の鉄騎が5から6インチ規格の主砲を装備するのに対し、約7.5インチと文字通り規格外の巨砲である。

 ただでさえ規格外のうえ、旧式戦艦の中間砲や装甲巡洋艦の主砲として、半世紀前に設計された砲を転用しているため、取り回しこそ悪いがその威力は絶対的なものだ。


 そのパトリエの象徴たる主砲だが、ルフェーヴルの目には随分と小さく見えた。

 それは目の錯覚ではなく、本当に小さくなっていた。より正確に言えば、短くなっていたのである。砲口は工業製品らしからぬ荒々しい断面を見せていた。


「……腔発か」


 砲弾が正常に砲口より放たれる前に、何らかの理由で砲身内部で炸裂してしまったのである。


「すまん。だがやたらめったら撃ったわけじゃねえぞ。牽制一発でこれだ」


 シャルルはばつが悪そうに言った。


「君が謝らないでくれ。君が砲なら私は騎体全てだ。それに、戦闘中でなくて良かった。君を欠いていては、全滅も免れることはできなかったはずだ」

「そんなんじゃないさ……」

「それに、最早砲身も限界が近いのはみんなが知ってたことだ」


 パトリエの傷は、その表層に見えるものばかりではない。むしろ、そちらの方が深刻だった。

 寿命を迎えつつあるパーツは主砲だけではない。事実、先の戦いにおいてもルフェーヴル騎も大破前は右足を故障している。

 今前を歩いている二騎のパトリエも、次の瞬間にはどのパーツが寿命を迎えて、否、とっくに寿命を迎えていたパーツに負荷がかかり、次の瞬間には脆く崩れ去るのかもしれなかった。


「元々避けては通れない道だったさ。今日まで何事もなく乗れていたのは、整備班の尋常じゃない努力の成果で、我々はその上に胡座をかいていたのかもしれないな」

「そろそろこのウスラトンカチにも慣れて来た頃合いだったんだがなあ」


 シャルルは口では言うが本気で惜しんでいる様だった。言うまでもなく、開戦劈頭時からの一番の戦友は、このパトリエ歩兵鉄騎だった。


「次はもうないのか?」


 シャルルは困惑を隠せない。戦闘とならば、即座に判断を下す歴戦の勇士も、この幕切れは未だに飲み込めない様子だった。

 またそれ以外の生きていた戦友たちもまた、このパトリエを棺桶とした者たちも多い。自分もまた、この鈍重で融通の効かない、大火力を備えたこの鉄騎の中で人生を終えるものだと信じて疑わなかったからこその困惑だろう。


「それは、大佐次第だ」


 たぶん、無理だろう。そんな言葉をルフェーヴルは喉の奥にしまい込んだ。


『通信傍受、前方に複数の鉄騎、騎種不明!』


 戦況とは、常に空気を読むことはない。

 殿を務めていたガンベッタ少尉の音割れ気味の報告が戦場に響く。


「前からだと」

「たぶん友軍だ」

「だといいが」


 シャルルは荷車を飛び出すと、パトリエに備え付けられた梯子を身軽に登ってコクピットの中に吸い込まれていった。

 パトリエの騎体が一度脱力し、程なく精悍な所作で構え直した。


 無論虚勢である。

 今やこの小隊の火力は19センチ砲が一門ばかりである。それが例え一撃で敵を撃破できたとして、火力の差は絶望的だった。

 鉄騎が現れたのがコルチェスターの大陸側根拠地、ダカークの方向からであっても油断はできない。


 白百合共和国を短期間で敗北に追いやったのは、連邦の優れた機動力によるものだった。

 彼らは機動力を持って防御の薄い地域より浸透し、防御を固めた拠点を孤立させて包囲殲滅を行う。時に彼らは予想外の方向から現れもした。

 この戦争で負け続けの共和国軍兵士には、痛すぎる経験をもってその脳裏に刻まれていた。


『鉄騎視認、リヴェンジ歩兵鉄騎四騎、国籍マークを確認。コルチェスター国旗に白い百合の花、友軍騎だ』


 その言葉に二騎の鉄の巨人たちはゆるりと脱力した。ルフェーヴルは上体を起こし、進行方向に目を凝らす。

 ほどなく土煙を上げて駆けてくる鉄騎の姿が目に止まる。未舗装の街道ゆえに路面状況は良くないが、鉄騎は等間隔を保ちながら駆けていた。練度の高さと、連携の深さが窺える。


『おい見ろ、ルフェーヴル、師団長閣下のお出ましだぞ。お前のご主人様だ』

「本当か」


 近くで私物らしき双眼鏡を覗いていたコルチェスター兵が、ルフェーヴルにそれを手渡した。ルフェーヴルは短く礼を言いながらそれを覗き込む。

 双眼鏡のレンズには、大きく友軍の姿を映していた。


「どこだ」

『奥だよ、さっさと見つけてやんねえとご主人様が怒るぞ』


 シャルルは茶化すように言った。

 ふと双眼鏡の中に一際光を放つものがある事に気づいた。

 先導するリヴェンジ二脚鉄騎の後ろをのろのろとついてくる一両の偵察者の、開け放たれた天井から顔を出す少女の姿である。

 たわわに実る黄金色の秋穂を思わせる金色の髪が、双眼鏡のレンズ越しであってなお、アサヒの光を瑞々しく照り返していた。手入れのよく行き届いた金髪の髪は戦場に長くいるルフェーヴルの目には眩しく映る。

 一度姿を目にすれば、主人を見紛うはずがなかった。彼女こそがシャルルが茶化す、ルフェーヴルの「ご主人様」である。


 フェルディナン・ド・ルフェーヴル大佐。

 白百合共和国軍時代からの上司であり、現在ルフェーヴルにその名を与えた老エルフだ。

 長命種のエルフであるがその中でも極めて長い間軍属にあり、その期間は一世紀を優に超える。その時代と言えば白百合がまだゴール共和国という名前で、ちょうど絶対王政を倒した頃合である。

 混迷を極める近代ゴール史と共に生きてきた文字通りの生き字引である。


 エルフは将官に就いてはならないという慣例に基づき、彼女は階級こそ大佐であるが、現在白百合軍として残存している唯一の戦力たる第四師団の師団長に就任しており、その職権と地位は一介の大佐ではなく、実質的には最低でも中将の座にあるものと考えてよかった。

 この慣例は革命の立役者、共和派貴族であり、エルフであるエルキュール・ド・モンカルム元帥が、少将としての座を辞退した故事に基づくものである。無論、彼女の軍歴の初期と言えばその頃であり、彼女がそれに倣うのは当然とも言えた。


 その名が示す通り、ルフェーヴルの名は彼女からもらったものである。これは彼が彼女の庇護にあることを示すものであり、シャルルの茶化した「ご主人様」とはこのことを指していたのである。


 彼女を含む一行がルフェーヴルらのもとにたどり着いたとき、陽は高く昇り東の空の縁をわずかに黄色く彩るばかりであった。友軍のリヴェンジ二脚鉄騎の背負う空は胸のすく青さで晴れ渡り、夕べまでの雨天はすでに忘れて久しい様子だった。

 その巨人らの足元を這うようにして偵察車がルフェーヴルの前に横付けされる。続いて、ドアサッシが前後したかと思うと、


「お久しぶりです、フェラン様」


 ルフェーヴルは自らの主人に対して恭しく一礼をした。それに対して彼を頭上から見下ろす少女、フェランは一瞥をくれたかと思えば眉をひそめた。


「フェルディナン様だ。公の場で愛称を使うなど言語道断だぞ、馬鹿者が。ゴール語は上手くなったが、マナーは全く至らんな」


 威厳たっぷりの、古風な言い回しが幼い風貌から放たれる。何もおかしくはない。齢百を優に超える人物が古風な喋り方をするのは至極当然だった。外見が年齢に追いつかないのは彼女らエルフという人種の特徴である。

 だが世界とは理不尽なものであり、彼だけでなく周囲の人間たちには不思議な光景に見えた。


「申し訳ありません」

「こればかりは貴様のせいではあるまいさ。戦争がなければ、いずれ私の愛人として教育も仕込んでやるつもりだったんだがな」

「はあ」


 愛人のなんとも気の抜けた返事に、さしもの長年を生きたエルフも仏頂面を崩す。

 彼女の乗る車は装甲板そのものを構造材とした無骨なフォルムだった。重量物の装甲を貼り付けつつ、小型のエンジンで軽快さを保つためにずいぶん小さい。特に高さは身長165と平均よりやや小柄なルフェーヴルの首元までの高さしかない。

 信じられないことに、この車には身長180以上の大男であったとしてもこの中に詰め込まれるのである。


「お手を」


 とは言え彼の主人の体躯では不安になる高さでもあった。

 彼は咄嗟に自らの善性に従って、主人へと手を差し伸べた。


「いらんよ」


 主人は差し伸べられた彼の手を毅然と制した。しかしながら、思わず手を差し伸べる原因となった体躯こそが、皮肉にも彼女の威厳を損なっていた


「この程度のことで部下の手を煩わせたならば、私は敵味方双方から笑い物にされてしまうからな」


 ここでルフェーヴルは、彼女が言葉通りの理由で拒んだわけではないことに思い至った。彼女はかつて、歩兵として従軍していたが、それ以前には騎兵を志していたことを思い出す。騎兵と言えば、当時はまだ有効な兵科であった。小銃や火砲の存在が脅かしてこそいたが、機動力に優れた兵種であり、何よりもその見た目には大変華があった。在りし日の老将がその戦場の花に憧れていたとしても、何らおかしい事はない。

 ここに至って、ルフェーヴルは自らの察しの悪さに気づいた。気づきはしたが、それを深刻ぶって改めるほど彼は気を効かせる性分ではなかった。


「マルタンが逝ったそうだな」

「はい」

「優秀ではなかったが、戦場で喪うにはあまりにも惜しい男だった」

「はい」

「シャルルの事を目にかけてやれ」

「……何故です?」

「あの小娘が奴と懇ろだったからだ」


 ルフェーヴルは目を見開いた。


「しかし彼女はいつも通りで」

「貴様はもっと他者に関心を持たんといかん」


 流石に他者のこととあっては、彼の主人もその鈍感さを咎める他なかった。


「すみません。苦手なんです、そういうの」

「知っている。だが、いつまでも苦手だとして放っておくわけには行くまい」

「疲れますよ」


 ルフェーヴルの弱音は、風に流されてかき消されたのか、あえて主人が言葉を拾わなかったのか。とにかく、その言葉にフェランが反応することはなかった。


「ところで、大佐自らどのような用件で」

「お迎えに上がったのさ」

「はあ。誰をです。……あ」

「そう、その通り。貴様を迎えにきたんだ」

「なぜです」

「その理由よりも先に、貴様は済ませねばならない用事がある」


 主人は振り返り、一騎のリヴェンジを手招きする。その鉄騎は居住まいを正して敬礼すると、地響きを立ててやってくる。


「私が君を迎えに行くと知るや否や、おっとり刀で私に護衛を申し出てきたんだ。積もる話もあるだろう。同郷者同士水入らずでやってくれ」


 リヴェンジは跪くと背中のドアが開いて一人の兵士が降りてくる。


「久しぶり」


 その言葉が耳朶に触れた時、ルフェーヴルの目は見開かれた。


「ああ……久しぶりだ。この言葉は。もう、話すのも聞くのも、全部懐かしいよ」


 フェランは自らの愛人が打ち震える姿を見て、そっとその場を離れた。

 彼女には、最早彼らが何を言っているのかは理解できない。白百合からは遥か遠く、彼らの生まれ育った国での言語だった。

 ルフェーヴルと相対するのは、彼とそう年齢の変わらない少女だった。

 ルフェーヴルの頬を涙が伝う。


「いや、ごめ、これは……」


 彼はそれに気づき、恥じるように涙を拭った。そこへ腹から胸にかけて柔らかな感触が飛び込んできた。少女兵は彼を抱擁したのである。

 先ほどまで鉄騎に乗っていたからだろう、少女の体温は高く、汗とそれから何やら苦味のある匂いが鼻腔をくすぐった。


「大変だったね、宮守くん」


 ルフェーヴルと名乗っていた少年兵の目尻から涙が溢れた。そして空を掴むように力なく持ち上げられた両手が、ゆっくりとその存在を確かめるかのように少女の背中をなぞる。

 そして半信半疑のままにゆっくりとその手が少女兵の体を囲っていく。男性として小柄な彼の体に、より小柄な少女の体はすっぽりと収まっていった。


「ごめ、杉浦さ……私、は」

「いいよ。今は泣いていいから。辛かったね。よく頑張ったよ」


 杉浦と呼ばれた少女は幼子にする様にその背中を優しくさすった。あまり頼り甲斐のない痩せた背中になで肩の、小さな背中だった。

 少年は何も答えなかった。ただ歯を食いしばって、子供と呼ぶには大きすぎる肩をしばし振るわせるだけだった。


 ナオ、と猫が男女の間を通り抜ける。その鳴き声はどこか不満気ではあった。

 二人はそれでようやく、随分と長い間抱擁したままだったことに気づく。


「おいで」


 少女はリヴェンジに目で合図を送ると右腕が差し出された。二人と一匹はそこに腰をかけた。


「落ち着いた?」

「情けない姿を見せてごめん」


 二人は足を空中に投げ出して、掌をベンチ代わりにしていた。リヴェンジが歩行すると生じる振動が起きるたび、それらが力なくゆらゆらと揺れる。


「ううん。宮守くんはずっと一人だったもんね。私にはみんながいてくれたから」

「長野さんに、鶴野さん?」

「うん。二人ともすごく強いからさ。それにギンヌメール隊長も、ゴール人だけど私たち異世界人には優しくしてくれるから」


 二人の距離は少し遠かった。宮守は気恥ずかしさからか、膝元の猫を撫でながら、目も合わせずに項垂れるばかりだった。


「色々あったって聞いたよ、宮守くん。多分全部じゃないと思うけど」

「話そうか?」

「嫌ならいいよ。宮守くんがこうして生きてくれているだけで」

「杉浦さんは優しいね」


 シュッ、と音が鳴り、マッチ棒に火が灯る。


「杉浦さん、タバコを吸うんだね」

「……ごめん、嫌だった?」

「嫌じゃないけど。……でもダメだよ。未成年の喫煙は」


 杉浦はしばし逡巡したのち、戻しかけていたタバコを口に咥えた。


「異世界人の人権は認められてないんだよ。未成年とか関係ないよ」

「だけど、日本に戻った時、きっと苦労するから」

「そっか。まだ日本に帰るつもりなんだ。懐かしいね、その感じ。私はもう、割とどうでも良くなっちゃったかな」


 二人の間を紫煙が漂い始めた。

 宮守は先程彼女から匂った苦味の根源を知る。


「私だけじゃないよ。白百合に残ったみんなはもう、

「幻滅しちゃった?」

「それっぽっちで、するはずないよ」

(幻滅したのは、君の方だろ)


 宮守の気持ちを感じ取った猫がナーンと鳴いて杉浦に頭を擦り付けた。


「この子、まだ一緒にいたんだね。宮守くん以外に懐かなかったから、人間が嫌いなんだと思ってたんだけど」

「ネコちゃんは気分屋だからさ」

「ネコちゃん?」

「そう。名前」

「変なの。でもいたよね、ネコちゃんって呼ばれてた子。その子が関係してるの?」

「全然、そんなのじゃないって。そもそもそんな人いたっけ。連邦側に寝返った人?」


 杉浦は宮守の目をじっと見据えた。舐め回すようにじっと彼の表情の変化を観察している。彼女は向こうを向いてタバコの煙を吐き出すと振り返って言った。


「違うよ。この世界に喚ばれなかった人。清水さん」


 猫の耳がぴくりと動いた。


「清水さんね、ネコちゃんなんて言われてたんだ。知らなかったよ」

「清水寧々子、ネネコでネコちゃんなんだってさ」

「そうなんだ」

「宮守くん、あんまり他の人に興味なかったもんね」

「そんな事ないよ」


 宮守は言葉を重ねるごとに、杉浦が随分と遠い人物になってしまった事を否応なく理解させられた。


(いや、遠かったのはあの日々か)


 そこから先は言葉は彼の頭に入ってくることはなかった。ただ話を合わせるように愛想笑いと趣向のみが続く。その間、彼の意識に入ってくるのは、つまらそうに身じろぎをする膝の上の猫と、時折風に吹かれて鼻腔をくすぐる紫煙のみだった。


 その、途方もなく退屈で気の遠くなる時の中、彼は遠くの日々を幻視する。

 目にぎらつく太陽、全身にへばりつく酷暑、蝉の声、黒板を跳ねるチョークの音、教室の端で聞くクラスメートの話し声。


 呪うほどに退屈だった日々が、今ここに来て羨望に代わる。あの日々の中ならば、目の前で二本目のタバコに火を点けている彼女と分かり合うことが出来たかもしれない。

 全てが口惜しいだけの時間が、まるで氷河の如く知覚できないほどに緩慢に流れて行く。そして振り返ると、自分の立つこの場所が取り返しの付かない場所にあるという惜別の念だけが渦巻いている。

 そんなやり場のない感情が、タバコの煙のように踊りながら産まれては、やがてタバコの煙が空気中に融けるように、彼の内面の中に溶けて消えていった。

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