第10話 再会の指切り
家に帰ると野井のおじさんが来ていた。
「ただいまー」
「あ、お帰り」
「いらっしゃいませ」
「やあ、こんにちは。もうそんな時間か〜それじゃあ早いほうが助かるんで、明日にでも一度寄って下さい。」
「はい、わざわざありがとうございました」
三人で、笑ってるかと思うと、深刻そうな、真面目な話をしているみたいだった。
「どうしたの?なにかあったの」
「何も、父さんが野井さんとこで働くことにしたのよ」
「野井さんところって、豚、豚飼うの?」
「うん、とにかく身体動かす仕事がしたいって父さん言うから、役場に相談に言ったの。そうしたら……野井さんとこ人手が足りないって連絡もらってね……」
野井さんとこってかなり体力使う仕事だよね。大丈夫なのかな?
「へえ~父さん。野井さんとこで働くの」
「何でもやってみないとな」
と、晴れやかな顔で父さんが答えた。
「そ、そうだね」
母さんが喫茶店を始めるって言った時より数倍驚いていた。驚きで言葉にならないって感じだった。
父さん、もうサラリーマンには復帰しないのか?ため息を付きながら目を落とすと、冬の間枯れていた庭のハーブが少しづつ芽をふき始めていた。母さん一人で植えあぐねていた畑も、父さんが手伝うようになってから、能率が上がって、畑らしくなってきた。私は部屋に行くのに縁側を伝いながら足を止めて畑を眺めていた。
「あ、木も増えてる……」
「ゆすら梅を植えたんだ。美味しいって、お客さんが言うから」
父さんが返事をした。私はうなづいて自分の部屋に入った。
「ゆすら梅か……」
迷ってる暇なんか無かった。受験勉強も追い込みでみんな自分の目標に向かって最後の仕上げをしている。この期に及んで私はどうしたらいいかわからない~なんて悩んでる場合じゃ無かった。
なのに……情けないな……
私はどうにも滅入っていた。母さんと二人三脚で生きてきた。その片方が無くなってガタガタになってるみたいで。原因はわかっていてもどうしたらいいのか困ってた。
そんな時、なぜか馨のお父さんと話てみたい気がした。自転車に乗って畑に向かうと、いつも通りおじさんはお茶畑の中で作業をしていた。
「こんにちは」
「珍しいねえ、今日は畑へ直行か?」
「ちょっとおじさんと話がしたくて……」
「へえ、俺は嬉しいけど馨に妬かれちゃうなあ~」
「あ、仕事して下さい。邪魔にならないようにしてます」
「なに話って?」
「お父さん帰ってきてから、なんか家に居づらくて、何処かって思っても行くとこ無いなあって思ったら、なんか此処に来たくなって……」
「そうか、お父さん元気になったんだ。咲ちゃんほっとしただろうね。身内に病人が居ると心配だからな」
「ねえおじさん、今何の仕事してるの?」
「木の手入れだよ。肥料をやったり、枯れた葉をどかしたりして、新芽の出る準備をしてるんだ」
「私にも出来る?」
「そんな、誰にだって出来るよ」
「私もやってみよー」
落ち込んでいると切りが無い。そう思うと茶畑の中に飛び込んでいた。そういえばこの頃勉強ばかりで身体を動かして無かったな……。この気だるさの半分は運動不足か〜
おじさんが軍手を貸してくれて、私は日が暮れるまで茶畑の手入れをした。
「まったくよく働くよ。好きなんだなあ。動くのが」
「おじさん、ありがとう。明日もまた来てもいい」
「いいけど、学校の勉強は大丈夫か?」
「うん、大丈夫!」
次の日学校に行くと思った通り馨に呼び止められた。
「お前うちの仕事手伝ったんだって?」
「そんな、手伝いになんかなって無いよ。おじさんに頼んでやらせてもらっただけ」
「今日も来るとか言ってたって、親父が…」
「うん、しばらくやらせて欲しいなと思ってるんだけど……」
「何で、なんか企んでるわけ」
「いやだ、これは私とおじさんとの約束で、馨には関係ないでしょ。もう、絶対畑に来ないでね」
「なんだよ。俺ん家の畑だぞ!」
「何やってんのよ」
「あ、泉、馨が変なこと言って来るのよ!」
「あ、きたね。すぐそう言ってはぐらかす。やな奴だよな~」
「まったく仲がいいね。やってて……」
私は馨に追い掛けられて逃げながら走り回っているうち、廊下の柱に頭をぶつけた。
「痛ったー、こんなとこに……」
と柱を叩いてやろうと手を上げた時。柱に刻み込まれた相合傘に気が付いた。此処は…あの時、三者懇談の時、母さんが足を止めた場所だ。もう一度おそるおそる目を上げて相合傘を見ると、
『寛治・咲子』
と書かれていた。追い掛けてきた馨に。
「馨、お父さんなんて名前?」
と聞くと、馨も何事かと柱をのぞいて、
「寛治」
と答えた。
「これ、馨のお父さんと、家のお母さんだ。母さん、懐かしそうに寛ちゃんって呼んでたもん。おじさんも私のこといつも咲ちゃんに似てるって」
「親父が彫ったのかなあ」
私達は、授業が終わるのも待ちきれず校門を飛び出していた。馨が前に乗って勢いよくペダルをこいで私は振り落とされないように馨にしがみついていた。心がはやって色んな事が頭を駆け抜ける。
茶畑の前で自転車を降りると、私はおじさんを探した。かがんでいたおじさんが腰を伸ばして私に手を振った。でも、制服を着たまま、血相を変え走ってくる私にびっくりして、黙って近づくのを待っていた。
「おじさん本当のこと教えて欲しいの。私の母さんの事、好きだったの?」
私は、おじさんの困惑など考えられなくて、涙声になって高ぶった気持ちをぶつけた。
「親父、ちゃんと話してやれよ」
おじさんは、
「ああ、」
と言って、帽子を脱いで、石垣に腰を下ろした。
「子供の頃は良かった。お互い好きでもみんな笑って見ていてくれた。咲ちゃんも明るかった。いつも元気で、なにしてても楽しそうで、一緒にいて気持ちが良かった。
中学に入った頃からお互い意識するようになった。好きって言うのが子供の頃とは少し違ってきた。それでも仲良かった。お前達みたいに自転車の後ろに乗せて走ったりもした。もともと咲ちゃんの家は小作農家だったから身分が違うとか言う奴もいたんだ。二人とも気にして無かったけれどね。
そのうち親父が村会議員に立候補した。
選挙のこととか力関係が色々有って、わしは中三でいいなずけを決められた。馨の母親だ。すぐ結婚と言う話では無かったけど、婚約した以上もう咲ちゃんとは付き合うなと言われた。咲ちゃんも同じ祭那高校に進むことになっていた。咲ちゃんはこの村が好きだったからね……。
田舎が好きだった。この土の匂いや、草の匂いが好きだった。みんなから色々言われて、それこそ親からも、担任からも、それで泣く泣く咲ちゃんは都会の学校に行くことにした。わしは絶対諦めないって、咲ちゃんの前であそこに相合傘を彫ったんだ。
あれを見付けるとは奇跡だね。そんなに分かりやすい所じゃないから。
お前達が一緒にいるのを見てあの頃を思い出していた。いいなあと思った。全部、本当だよ」
おじさんは、悔しそうでも、悲しそうでも無く、懐かしそうに話していた。ただすごく懐かしそうに。
「母さん子供の頃は田舎は嫌いだったって、私に言った……だからおばあちゃんの家に行こうともしなかった。あれ嘘だったんだ」
「咲ちゃんは校庭の草引きも大好きだったよ。たいてい一番大きな竹みを持っていって黙々とやっていた。子供の頃はなーんにもなくて、誰が金持ちでも、貧乏でも関係無かった」
「親父、母さんは、おばさんの事を知ってるの?」
「さあ、噂で聞くことは有るかも知れんが、もう昔話だからな……結婚すると、好きとか嫌いとかよりもっと違う関係ができる。信頼とか積み重ねとか、これはこれで奥の深いもんだ」
「好きな人と結婚しなかったからって誠実じゃ無いってことではないんだね」
「そりゃあそうだ。好きな人と結婚出来ない人なんて、この世に五万といるからな……」
おじさんと話をしていて、私はほっとしていた。おじさんは今でも、母さんの事を好きなんだなあと思った。母さんがどうしてこの村に帰ろうと思ったのかはわからないけど、よくこの村に帰ってこようと決心したなって思うと、えらいなと思って、馨が言ってた。
「大人は子供より苦労してる」
って言うの思い出して又涙が出てきた。
「お前、泣き虫になったな。来たばっかの頃は、強情で気が強そうだったのに」
「私だって少しは苦労してるんです」
「おっかないな。親父、辛かったろうな。お前の母さんと別れて、こっちに残って、ああしてずっと茶畑守って」
「おじさんは村会議員にならなかったの?」
「絶対嫌だって、それだけは引き受けなかったよ」
「私達と反対だね。今度は、私がこっちに残ってあの茶畑……本当に手伝おうかな~」
「なんで?」
「好きなのよ。一面の茶畑。奇麗でしょ。それだけ…馨は……東京に何しに行くの?」
「お前が言ってた、ビルとか屋根とかで、輪郭が角、角になってる空を見に行くの。
同じものを見たいだろ。
素直、三年したら絶対帰ってくるから、誰も好きにならないで待ってろ!」
「また、命令口調になる」
「な、素直、約束しよ。指出せ!親父の横に俺も相合傘彫ろう」
「止めなよ、もう、あ!」
強引に、馨に腕を握られて、私達は、指切りをした。
私は此処で、何処までも続く青く寒い空の下で馨を待っていようと思った……。
卒業式の日、寒さに凍える体育館の中で、私はこの村に帰って来てからの事を考えていた。私にとって初めてやって来たこの村が、帰ってきた村にいつしか変わっていた。
母さんの村だった筈のこの村が、私にとっても意味のある村になっていた。この村の奥深い懐に抱かれて、母さんの歴史も一緒に、暮らしていこうと何時からか思うようになっていた。しがらみと感じる人もいるかも知れないけど、私にはもっと違う大切な物に思えていた。
馨と約束をした。三年待ってまたこの村で一緒に過ごそうと、本当にそうなるかはわからない。お前を諦めないと母に言った。馨のお父さんが馨の母と結婚したように。
時間を超えて、距離を超えて、意識を超えて人の心を縛ることはとても難しい。
ただ、今、馨の心を信じてみようとそう思っている。自分の心に素直に生きてみようとそう思っている。
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