第九話 葛藤

 それから、二、三日して父さんが病身を抱えて帰って来た。父さんはアメリカで猛烈に働いているうちに精神的疲労が重なって、起き上がれなくなっていたらしい。母さんの顔を見てホッとして、日本へ帰りたいと思ったって。離れ離れで別々の人生を送っていたように見えても何処かで支え合ってたと言うことなのか…

 今まで突っ走って来た分、当分は家でゆっくりしてと母さんは言っていた。

 いない間も店を開けていたってお客さんから聞いてびっくりしていた。

「父さんどう?」

「身体の方はともかく、あれだけ頑張ってた人が仕事しないというのは痛手が大きいんだろうね。心の張りが無いっていうか、そういうのは、中々女ではわかってやれないなあって思うよ」

「そう……お店一緒にやるなんてだめか」

「でも、びっくりしたって、母さんがお店始めたの。何も知らせてなかったから凄いなって」

「空気はいいからね。すぐ元気出るよ」

「ゆっくりやっていこうね」

「病院とかは?」

「特に治療は無いって言われた。ただ、精神的にまいったり、鬱病になると注意しないといけないってアドバイスされたよ」

「お店は私もやるから、母さん父さんの事、気にしててよ」

「でも、ずっと一緒にいられても息が詰まるだろうから適当にね。素直も勉強あるしね」

「そうだね」

 母さんは普段どおり、感情の起伏が安定していて見てて安心だった。


 二学期の終わりに三者面談があって志望校の確認をした。

「素直さんから第一志望は祭那高校と聞いているんですが、それで間違い無いですか?」

「はい、そう聞いております」

「特に学校に問題があると言う事ではないんですが、進んで地元の学校でと言う子が少ないものですから、一度親御さんに確認したいと思っていました」

「家は今年になってから引っ越してきましたから、本人も都会の学校へ行きたがるんじゃないかと思っていたんです。でも、此処が気に入ってるようです。本人の希望どうり、このまま、此処でやれたらと思っています」

「素直さん、本当にそれでいいですか?」

「はい、そうします」

「それじゃあ、特に問題はありませんね。今まで通り頑張ってください」

 私達は教室を出た。廊下に馨と、馨のお母さんが次の番を待っていて、私が手を振ると、お母さんが丁寧に頭を下げた。

「あの人何処の人?」

「え、馨。高畑馨のお母さん」

「へえ、あの人が寛ちゃんの奥さん。奇麗な人だねえ」

「可笑しいよ。馨が神妙な顔してたね」

「あ、この廊下……」

 と言って母さんが足を止めた。

「…………」

「何?」

「ううん、何でも無いよ。懐かしいなと思ってさ。ちっとも変わって無くて、よく昔のまま残ってるなあって」

「お母さん、どうして地元の学校へ行かなかったの?そんなに田舎が好きなのに」

「子供の頃は今ほどここが好きじゃなかったんだよ。都会に出て、いろんな人に会って、土の無いところで暮らしたり、陽の当たらない部屋にいるうちに、やっぱり田舎は良かったなあって思うようになったんだよ」

「ふーん、私の方が進んでいるね。この歳で田舎の良さに気づいてるんだから」

「はいはい上出来でございますよ」

 この時…母さんは何も言わなかった。廊下に彫刻刀で彫られた相合傘のことも、本当は地元の高校に進みたかったのに、回りに反対されて寮のある都会の高校に行ったことも。

 娘が母親の子供の頃の事なんて、知らないで過ぎていくのが当たり前かも知れないけれど、私はいつか知ることになった。そして母さんの悲しい歴史の分も幸せになろうと思った。

 父さんの調子は日進月歩。少しずつだがだんだん良くなる兆しを見せた。もっと長期戦になるんじゃないかと覚悟してたけど、冬休みが終わる頃には、何かが吹っ切れた様に外に出るようになった。

 でも、父さんとゆっくり話をしたことの無い私は、家の中に父親のいる生活にとても戸惑っていた。身体が疲れているせいなのか言葉の少ない父さんに、どう声をかけていいのかわからない。テラスに腰掛けてボーとしているのを見ても、話を切り出すのにいつもタイミングを測っていた。

「だめだ、父さんとうまく話せない」

「どうしたの?」

「父さん畑をずっと見ていて、寂しいんだか懐かしいんだか、わかんない顔してるんだ。でもなんて言ったらいいのか私にはわかん無くて、様子見てたけど、ダメ、お店見てるからちょっと行ってきなよ」

「そう。じゃそうしようかな……あ、素直、暇だったらテラスにお茶持ってきて、ケーキも二つね」

「ちゃっかりしてるよな。母さんえらいよ」

 って軽口を叩きながら、本当にえらいなあと思っていた。母さんは自然に父さんの横に座れる。夫婦ってなんなんだろう。理解できないけど良いなあって思った。

「あ、ありがとう。あら?ケーキ三つあるじゃない」

「邪魔じゃなかったら一緒に飲もうかなっと思っていい?」

「いいわよ。お店いいの?」

「うん、ちょっと人が途切れたから」

「素直、明るくなったな」

「そう?」

「そうでしょ、明るくなったし、腰も軽くなって、娘らしくなったって、私は自画自賛してるの」

「自画自賛ってなにそれ」

「私が産んだんだから、私の作品でしょ」

「冗談じゃないわよ。レモンケーキとかと一緒にしないでよ」

「素直も母さんも元気だよな、アパートにいた時の百倍位パワーを感じるよ。父さんもそろそろ働かないと、このままじゃ、しぼんでしまいそうだ」

「もう?又、外国へ行くの」

 私は驚いて聞いた。

「いやあ、此処で身体動かして何かやってみようかな」

「此処でって、父さん此処で仕事するの?」

 私には考えの及ばない境地だった。父親のいない母子家庭まがいな生活。それが家の基本設定だった。母さんも何も答えないで黙って父さんを見ていた。

 母さんの気持ちは多分違うけど、私の中には『此処は私と母さんの場所』と思っている気持ちがあるんだと思った。父さんが一緒に暮らすなんて考えにくかった。それほど私の生活に父さんの場所は無かった。気づいたら無くなってた。そのことに気づいて、改めて私は驚いた。

 とうとう母さんの横の席は私の場所では無くなった。それは…かなり寂しい事だった。

 今まで母さんの畑仕事だって全然手伝ってなかったし、土いじりだって嫌で素手で触ることは無かった。そんな私が、母さんの横で鍬を持つ父さんを羨ましく感じていた。

「さあて、お店に行こうっと」

 私は自分に勢いを付けて立ち上がった。

 今年の冬は雪も少なく、大雪が積もることも無く過ぎた。私がお店の手伝いをしている間、馨達は居残り勉強に励んでいた。

 三学期に入ると、教室に空きの席が目立つようになった。私立の高校受験のためにそれぞれの学校の日程に会わせて、みんな出かけていった。早々と学校が決まったのは、川田正平だった。去年の暮れには推薦が決まって、今年になって面接、作文の試験を受け、野球推薦で山梨の学校に行くことになった。

 一人一人学校が決まる度に歓声が起こった。みんな自分の事のように同級生の合格を喜んだ。私立の寮のある学校へ行く子が圧倒的に多かった。

 一人、一人、決まっていく姿を見ながら私は少し焦りを感じていた。

「どうしたんだよ何か足取りが重いな……」

「ああ、馨。素直じゃないのが私なんだって私らしくしてるのよ」

「何か有ったのか素直じゃないって?」

「あ、じょ、冗談よ。元気元気この通り……なんて馨にはわかるか~」

「まあな、親父さん調子悪いのか?」

「ううん、母さんと仲良くやってる。何か私の居場所が無くなっちゃった感じ……。

母一人、娘一人で頑張ってきたって、父さんいなくてもやってこれたって、そういう気持ちになるの」

「なんだよ。そんなの初めっから無駄な抵抗だぜ。どうせ子供は旅立っていくんだよ。居場所なんて元々無いぜ」

「馨も、泉もそう思ってたの?」

「ああ、ただ旅立つのが、この村を出る事かどうかで少し悩んだけどな……」

「私……いつも母さんが一人だって思ってたんだ。父さん帰って来た時も、なによ、 ずっと一人でほっといた癖にって、心の中で父さんに言ってた。一人だと思ってた母さんをほっとけないってずっと頑張ってきた……。

 だけど、母さん父さん帰る前と、帰ってからと全然変わらないの。もともと一人じゃなかったのかなあって最近思う、そう思ってたの私だけだったのかなあ?」

「大人はわかんねえよな。やっぱり子供より苦労してるしな」

「何か泣けてくるね。そういう言い方」

「そうか?」

 私は黙って歩いた。話をすると涙が出そうだった。馨も黙っていた。自転車のタイヤが小石を踏む乾いた音と、馨の立てる少し引きずったような足音が静かに響いていた。

「馨、あさって試験だね。受かったら、東京か、遠くなるね」

「だろ、寂しくなるよな。素直に会えなくなるなんて、早まったな、もう三年待って、大学で行けばよかったって、向こうに行って泣くぞ俺」

「また、そんな事ばかり言って。本当にそう思うんなら試験受けなきゃいいじゃない、変な奴」

「お前には俺の気持ちは一生わからないよ。

 片時も離れたくない愛する人を一人残して、それでも東京に行こうと決めた俺の気持ちなんてな」

「どうわかれって言うのよ」

 馨は、私の顔を見ると、いつも同じような事を言っていた。本気か冗談かそれさえわからない。馨の言うように、私に馨の本心は一生わからないんだろうか。


 

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