王宮算術騒乱とその後


ご機嫌よう、フランです。


教師役に数学書一式を渡してから1週間。私は今日も教育を施してもらっています。といっても、主要なところはすでに終わっているらしく、発展的な考えを私が示して、それを教師役が補足するという形の授業になっています…とさ。


そこで会話に数学書一式の評判を聞いてみるが…これが上々らしい。特に、教師役の兄上は、王宮の算術家を巻き込んで”査読”に励んでいるらしく、評判はすこぶる良いというのが、教師役の話だった。


うんうん。順調だ。なにせ数学は原始的な学問の一つとされる。地球世界でも、最初は天文学や音楽とならんで神の世界を解き明かす学問とされていたくらいだ。そのうち数学はあらゆる科学分野への適用が始まり、それらの発展に大きく寄与する。


この世界でどれだけ時間がかかるかはわからないが、その有用性に気付いた人から雪崩のように広まっていくはずだ。未来は明るい。


私はいい気分になった状態で、今日の授業を終えようとしていた。そんな時。


「…失礼します。王女殿下、ご来客です。」

「お客様?私、授業中だけどいいのかしら?」

「はい。先生もご同席頂いて構わない…むしろ居て欲しいと。」


疑問だ。家庭教育の授業中に来客が来るとしても、ここまで通されることはない。通されたとしても、授業終わりまで待機するだろう。それに、教師役も同席して”欲しい”とは…穏やかじゃない。私は何かしでかしたのだろうか?

いや、教育は順調。教師役もそう報告していると聞いている。


「…そういうことなら。通していただいて。」

「はい、少々お待ちください。」


側仕えが来客を招き入れる。そして入ってきたのは、無表情を顔に張り付けたような、鷲鼻で白髪交じりの中年男性だ。はて、何回か見たことあるような…


「どっ、ドイプファー公爵…?」


教師役は男性を知っていた。公爵となると、男爵家の教師役には雲上人一歩手前のような上位貴族だ。よって極度に緊張した面持ちになっている。

一方で、私は記憶をたどっていた。…ドイプファー…思い出せ、思い出せ…ああ!


「宰相様?」

「いかにも。ご機嫌麗しゅう、王女殿下。」


最敬礼をしてきた公爵こと宰相様に、私は表情で挨拶を返す。王宮宰相とは、王政の実務責任者とされていて、王宮で働く文官全てを掌握している。国王の裁断を補佐し、王宮全体へその真意を確実に伝える。国王と宰相が揃って王政が機能すると言われている。


その宰相には、建国後しばらくしてから創家された公爵家の人間が就くことになった。それがドイプファー公爵家だ。


目の前にいる人は当代のドイプファー公爵、兼王宮宰相である。


宰相は侍従がひいた椅子に腰かける。そして、私たちに向き直り話し始めた。


「本日お伺いさせていただいたのは、他でもありません。少々、お聞きしたいことがございました。」

「それは…私に?それとも先生に?」

「主にはナノ嬢ですが…その内容次第では、王女殿下にもご用向きがございます。」


私と教師役は顔を見合わせる。私たちが宰相に面会を求められる道理がいまだに浮かばない。

宰相はその雰囲気を察してか、話を進めることにしたようだ。小脇に抱えていた風呂敷を卓上に置き、それを開く。すると、そこには3冊の本が出てきた。


…非常に”見覚えのある”本だ。


「実は、王宮文官の間でこれらの書物が話題になっております。全く新しい数字とその用法を記した数学書に、極めて簡易的に算術を行える幼年向けの教書…これらの見識を巡り、王宮全体で論争が巻き起こっているのです。」

「…ろ、論争?」

「新しい数字を利用し、算盤を使用しない簡易な算術を広めることを是とする改革派。一方で、従来の数字を堅持し、伝統的な算盤による算術技術を絶やしてはいけないとする保守派…大まかに分けるとこの二派です。」


なんということでしょう…私の良かれと思った行動は、とんでもない劇薬だったようです。


教師役の兄がもたらした私の数学書一式は、瞬く間に王宮の文官に広まった。当初はその有用性に好意的な意見が多数だった。なにせ、算盤や算術士無しで厄介な計算を行えるのだ。いちいち担当官に書類を投げる手間が省け、仕事が捗る事この上なかった。だが、徐々に反対意見も出始める。その声を上げたのも算術士だった。


一部の算術士は、技術継承の重要性と言う大義名分で反対を唱えているが、実際のところは自分たちがお払い箱になることを一番恐れて、新しい数字と算術の使用に待ったをかけ始めた。それに、伝統的な記法を行ってきた歴史編纂の担当者たちが加担した。今までに記載された資料はどうするのかと。


業務の合間にそこかしらで議論が行われるが、答えは出ない。その激しさは日を追うごとに増し、業務にも差支えが出てきたため、宰相の耳に届いたということだ。


「この数学書を王宮に持ち込んだのは、ナノ嬢の兄、ノエルでした。そこで、この書物の出所について、まずはナノ嬢にお伺いしたいと思った次第です。」

「あっあっあっ」


大変だ。王宮の渦中の一端を担っていると言われた教師役は声にならない声を出し始めている。下級貴族の末娘である彼女に、王族に連なる公爵家の宰相の質問は刺激が強すぎたようだ。


彼女はそんな中で、私に目線を投げてきた。わかったから。そんな目しないで。


「…その本は私が記しました。」

「なんと…」


宰相は驚きを含んだ目で私を見つめた。そして少し話をした後、王宮としての対応を決めるため、国王のところに出向いた。私と、教師役を連れて。


とりあえず…激情に晒され続けた1日を過ごした教師役には、後日私から贈り物をしようと誓った。


△△△△△


「生きた心地がしなかったってーの!」


はい、ナノ・エリクシルとは私のことです。もう飲まなきゃやってられません。

王族の家庭教師と言う羨望の職業に就けたと思ったら、新しい知識を得る機会に出くわし、それを兄に紹介したら、公爵宰相と国王陛下にお目通りすることになりました。どうもありがとうございます!!


「まあ、大変だったとしか言いようがないね、それは…」

「うぅー…本当に息が止まるかと思った…」


そんな地獄のような1日を終えた数日後。私は婚約者であるイバニーズ商会の次期会頭、フィッツと杯を交わしています。彼は才覚も財力もあり、下級とは言え貴族である私にも礼をもって接し、時すれば愚痴を聞いてくれる。そんな人です。


私は王宮での出来事を、不敬にならない程度に話します。数学書関連に関しては、大して口止めされていませんので、問題はないはずです。


「しかし…王宮文官どころか、宰相や国王まで有用性を認める数字と算術って興味があるな…その本持ってないの?」

「うん?…幼年算術ってのならあるよ…待ってね。」


私は鞄から幼年算術の写本を取り出し、フィッツに渡しました。


「ありがとう、読んでみていい?」

「どうぞー…新説数学のほうは、しばらく算術家専用にするみたいだけど、そっちは規制ないらしいからぁ…」


フィッツは本をパラパラとめくります。そういえば、算術の重要性は商人も同じです。今までよりはるかに容易な方法があるとすれば、知りたくなるというのは仕方ありません。


こんなとき、私は構ってほしいと言い続けるような絡み酒はいたしません。

腐っても貴族令嬢、それなりの節度は持ち合わせているのです。


まあ、嫌いじゃない婚約者の横顔でも眺めながら、もう一杯…


△△△△△


王宮はフランが記した3冊の数学書に関して、当面は王宮での正式採用は見送った。既に存在する公文書や記録の書き換え作業を懸念してのことである。だが、新しい見地の有用性は認め、一部文官で新しい部署を組織して、その運用法を構築していくことになった。


一方、偶然にも平民で最も早く新しい数字に触れることができた小麦商のイバニーズ商会は、先駆けて導入を決定。丁稚に新しい数字を用いた計算を教育していくことになる。他の商会もその有用性に気付いたところから数字を置き換えはじめ、それは一気呵成に浸透していく。


フランが新しい数字を出してから100年も経つと、それまでの数字は歴史書にのみ使われる、古式ゆかしい文字となっていたのである。

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