第12話 闇に堕ちる
南田総合病院の集中治療室の前で、長椅子に横たわっていた七海がふと小さな声を出した。
「お母さん…」
隣で見ていた道貴が気付いて声を掛ける。
「七海。目が覚めたのか」
「お父さん…お母さんは?」
「え?」
道貴がガラス越しに亜由美の顔を確かめた。うっすらと目が開いて頭が少し動いている。
「あ!目を…看護師さん!亜由美が!」
道貴は治療室の中で作業をしている看護師に向かって声を挙げ、同時にナースセンターに急いだ。
「…これで良かったのか?水姫」
亜由美達の魂を見送ってから輪我は聞いた。
「はい。では、架室様と兄様は儀式が終わるまで扉をお守りください。お願いします」
「分かった。任せろ」
架室が言う。水姫は霊廟に向き直り、中に入ろうとしたが、足を止めて輪我に聞いた。
「兄様」
「なんだ?」
「…地界とはどんな所なのですか?」
「そうだな。真っ暗で何もない、咎者の身体を引き裂き続ける妖と叫び声が常に聞こえる世界だった…七人で堕とされたから耐えられたかな」
「そうなのですね…」
輪我が厳しい顔をした。
「お前まさか…」
彼女は何も言わずに小さく頷くと中に入り、扉は閉められた。
輪我は不安げな表情で扉を見つめた。架室が言う。
「輪我。俺たちは仕事をしよう。それが今の彼女の願いだ」
「…はい」
彼らは霊廟の扉の前の台の上に向かい合わせに立ち、それぞれの長い杖を構えて交差させた。
扉の前に巨大な『封』の文字が現れた。
水姫は狭霧の前に正座した。
そして覚悟を決めた真剣な顔になり、唱えた。
「我が
彼女の詠唱と共に数十体の魂が狭霧の身体から現れた。
そしてそれぞれが叩きつける様にまた彼の身体の中に入って行く。
狭霧の身体には魂が命を落とした時の姿が再現される。
病気と闘い、骨と皮ばかりになった者。
突然の事故で身体が裂け、無念の内に亡くなった者。
火災に遭い、逃げ遅れて焼け焦げてしまった者。
人生を悔やみ、自ら死を選んだ者。
…不幸な運命により殺められてしまった者。
中には穏やかな死を迎えた魂もあったが、嘆き悲しみ、苦しみ、断末魔の叫びを挙げる者もいる。
狭霧はその全ての声を聞き、激痛や絶命の瞬間を体験し、身代わりを引き受ける事により彼等の魂を浄化する。
水姫は彼の前で変貌する恐ろしい魂の様子を見つめる。どんな姿であっても、決して目を逸らさない。
『精魂の儀』とはその様な儀式であった。
――狭霧に入っていた魂の全てが浄化されるのにはどれぐらいの時間が過ぎたのだろう。
やがて最後の一つが、美しく輝きながら常世へと消えて行った。
水姫はその様子を見送ると、視線を彼に戻した。
「終わったよ。…狭霧」
しかし狭霧は動かない。身体を護っていた神代文字の環も消え失せた。
程なく陰に籠った重苦しい気配が彼の周りに現れた。
「あ…」
彼の身体は、闇に包まれようとしていた。
その闇はまるで墨が染み込んで行くかのように下から上に向かって侵食して行った。やはり魂が足りなかったのが赦されない事だったのだ。
「嫌…逝かないで…ここまで来たのに…もう少しだったのに…」
水姫は堪らず狭霧に縋り付いた。闇はもう彼の腰の辺りまで来ている。
「…我が…魂…依代に
彼女はそう言うと、胸元から自分の魂を取り出した。それを狭霧の胸の前に掲げる。
「狭霧にはここで生きていて欲しい…今日から…貴方が水神だよ…」
その言葉と共に彼の胸には水姫の魂が吸い込まれて行った。
『
何処からか声がした。
「水姫?」
意識が戻った狭霧は目の前で倒れている水姫を見た。
彼の身体は輝き、命を受け新たな水神となっていた。
「そんな…」
彼は慌てて彼女を抱き上げようとした。しかし既に次元が違うのか、身体を捉える事が出来ない。
「え…?」
水姫の身体が闇に飲まれ出した。ジワジワと黒く染まって行く。同時に床から黒い渦が立ち上り、彼女の身体を引き摺り込んで行く。
「待ってくれ!嘘だろ?水姫!」
「儀式は終わったのか?どうしたんだ!」
扉の封印を解除した輪我が飛び込んで来た。同時に目の前の事態に気付く。
「黄泉の国に捉えられた…やはり身代わりになったのか…」
彼はかつて自分達が堕とされた闇の国の名を言った。
「やめろ!連れて行くな!…でないと…俺は何の為に…」
狭霧が苦悶の表情で尚も水姫の身体を捉えようとするが、その指は虚しく床を掻きむしる。
やがてその美しい瞳を閉じたまま、彼女の全身は沈んでしまった。
「水…姫…」
呆然として彼が呟いた。渦が残る床に置いた両手が細かく震えている。
架室も輪我もどうする事もなく見ているしかなかった。
――ゴウゥ!!
その時、霊廟の前に暴風と共に一人の神が現れた。神衣を纏い、猛々しく威厳に溢れたその神は静かに言った。
「…そこを避けなさい」
「ボス?」
「
架室と輪我が彼を見て驚き、左右に分かれた。
その神は霊廟に入り、狭霧の前にしゃがむと立ち上る闇の中に両腕を入れた。
「貴方…は?」
彼は狭霧の問いには答えずゆっくりと腕を持ち上げた。その中には気を失っている水姫が捉えられていた。
「水姫!」
狭霧が声を上げた。神は彼の腕に彼女を渡した。
「…もう堕とすんじゃないぞ」
「は…はい!ありがとうございます!」
狭霧は水姫をしっかりと抱きしめた。
しかし彼が顔を上げると、神の姿はもうそこにはなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます