第10話 死にたくないです

「ああ…すみません、嫌です」

 亜由美は答えた。

 水姫は驚いて彼女を見た。

「だって、いくら本当は貴女は死にかけなんですとか、実際にそういう所見せられたりしても、じゃあ諦めてハイハイ死んじゃいましょうって事にはなりませんよ。第一、水姫さん?でしたよね、貴女がどうしてそこまでして私に死んで欲しいのかの詳しい話も聞いていないし…納得出来ないまま死にたくないかな」

 更に彼女は七海に向かって言った。

「私が轢かれそうな時に引っ張ってくれたのが七海なの?」

「うん…私、授業中だったんだけど、なんだかとても嫌な予感がして、こっそり身体から心を離してお母さんを探してたの…そしたら轢かれそうになったからつい…」

「そうなんだ…」

「でも私も意識体だったから、お母さんの意識しか避けれなかった…ごめんなさい」

 先日の七海の『ごめんなさい』はそう言う意味だったのか。

「謝る事ないよ。ありがとうね」


 水姫は黙って二人の様子を見ていた。

 まさか自分があんな姿になっている人間が死を拒むとは考えていなかった。大抵の人間は事故死の場合、自分の身に何が起こったのか知ることもなく死んで行く。人とはそういう場面では生を諦めるものだと思っていた。

 亜由美が死なないというのならば、空虚な魂が入ってしまった狭霧の身体はどうなってしまうのだろう…条件が満たせなかった人間に神格を与えるのは禁忌とされている。六華が言う様に地界に堕とされて永遠に会うことは出来なくなってしまうのか。

 嫌だ。狭霧を無くしたくない…


 …六華もこの人も神界の決まり事も、どうして私と狭霧を離れ離れにさせようとするの…?


「死んでは…もらえないのですか…?」

 呆然としたまま、水姫は呟いた。

「あ…」

「水姫さん?」

 ふと彼女を見た七海と亜由美が声を上げた。

 水姫の大きく見開かれた瞳に涙が溢れ、零れそうになっている。それはやがて艶のある頬を玉のように流れ、パタタとテーブルの上に落ちた。

「…」

 水姫も驚いた。私は泣いているのか…自覚した途端、大きな悲しみが湧き上がって来て思わず両手で顔を覆った。

「ああ~ごめんなさい、水姫さん」

「お、お姉さん泣かないで…」

 亜由美と七海が慌てて宥める。

「あの、私が言うのもなんだけれど、良かったら事情を話してみて。ね?」

 亜由美が優しく話し掛ける。


 …水姫は今まであった事を、噛み締めるように二人に話した。

 自分が白蛇の水神である事。

 未熟で幼かった時に狭霧に救われた事。

 狭霧を正式な神に昇格させて共に暮らすために、彼の身体を傀儡にして魂の浄化をさせており、その最後の試練の日が今日である事。

 狭霧の中に入れてしまった亜由美の魂が、彼女が死んでいない為に不適合となり、彼の試練が越えられそうにない事。それを知って姉が襲撃して来た事。

 思っていたよりも次々と言葉が出て来る。


「襲撃?…六華…えっと、お姉さんはどうして狭霧さんを憎んでいるの?お姉さんも…へ、蛇なの?」

 亜由美が聞く。

 水姫が説明する。

「私達きょうだいは元々、褐返かちかえし色の大蛇の水神でした。でも七つ子で生まれたきょうだいの次に八番目の末子として生まれた私は、異色の小さな白い蛇で、大きくもなれずに一人隠れて過ごしていました。時に大河と化して氾濫し、人々を大量に犠牲にしながらも土地を育てる兄や姉は、生贄と称して献上された多くの人間も食しました。やがてきょうだいは高位の神に罪を問われて首を落とされ、地界で千年の責苦に遭ったのです。私も責任を問われたのですが、人々を苦しめず、食すこともしなかったので時を止められ祠に千年閉じ込められた後に赦され、大御神の命により改めて白蛇水神になったのです…」


「ええ…?」

「きょうだいは魂の番人という仕事をする事になり、私は出来損ないで弱かったのに水神の仕事をする事になった。けれど狭霧という大切な人に巡り会って彼を救いたくて…姉は反対していて…ただでさえ少ない神力を彼に使うことになる、狭霧がいるからお前がいずれ死ぬかも知れない程疲弊してしまうのだと…以前喧嘩になりました。今日は本当に姉が彼を殺しに…まだ人間の身体なのに…酷い怪我で、もしかしたら…」


 言葉が途切れた。…もう出て来なかったのだ。


 こういう場合、どう声を掛ければいいのだろうか。

「それぞれにいろんな想いがあってすれ違ったのね。今までずっと一人で抱え込んで来て辛かったでしょう」

 亜由美はそう言う他に思い付かなかった。


「でも…」

 水姫の話を黙って聞いていた七海が口を開いた。

「それでも、お母さんを死なせないで。凄い怪我をして…もう歩けないかも知れない。目が見えなくなってたり、耳が聴こえなくなってたりしてるかも知れない。頭を打って、私の事も忘れちゃってるかも知れない。でも、私にはたった一人のお母さん。どんな姿になっても私が支えるから。お母さんの足や目の代わりもするから!もしも私の事が分からなくても、ずっと…ずっと側に居るから!だから!連れて行かないで…」

 七海の目からポロポロと涙が溢れだした。

「七海…」


 水姫は何かを考え込むように視線を落とした。


 突然、ぐにゃりと空間が曲がり出した。

「あっ!」

 七海が叫んだ。

 水姫が言う。

「そろそろ七海さんに限界が来たのでしょう。何日も亜由美さんの為に精神世界を維持して…ここに私が干渉するのももう難しい…」

 そして急に視界がフワッと開けた。

 亜由美は病院のフロアの椅子に座っている水姫の近くにいた。もう身体がある意識体ではなく、本当に人には見えない程の薄い存在となってしまっている。


 診療時間外で誰も居ないので、水姫が密かに水鏡を出し、七海の様子を写してみせた。

 見てみると椅子に座っていた七海の肩がガクンと揺れ、横に倒れてしまった。意識体が身体に戻って疲れてしまったのだろう。道貴が何事かと慌てて近寄って彼女を抱き抱えた。

「七海…道貴さん…」

 亜由美は不安気に呟いた。

 途端にグイっと引っ張られる感覚がした。水姫が急いで亜由美を抱き支える。しかし暴風に巻き込まれるかの様な引っ張る力は収まらない。

「七海さんの庇護が消えました。…私にも予想外でしたが、貴女の魂が囚われている狭霧の元に引っ張られてしまうみたいです…捕まっていてください」

「ええー?」

 水姫と亜由美はなす術もなく飛ばされて行った。

「…貴方…っ!助けて…」

 亜由美が離れて消えて行く水鏡に向かって叫んだ。


 …一瞬、道貴がこちらを向いた様な気がした。



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