第9話 家には長女が待っている

 亜由美と道貴、七海の三人は病院からの家路に着いていた。到着すると誰かが居るのか明かりが灯っており、香が焚かれて良い香りがしていた。

「あれ?」

「おかえり~晩御飯出来てるよ」


 亜由美達の帰りを察したのか、元気よく玄関の扉を開けて迎えてくれた女性がいた。

 就職して一人立ちをしている長女の茉莉花まりかだ。


「茉莉花…」

「お姉ちゃん」

「おう、茉莉花。帰って来てたのか」

 道貴が笑顔で言う。

「うん。だってお母さんが大変な事になってるんだもの、有給申請したよ。暫く泊めてね」

 茉莉花が道貴の買い物袋を受け取りながら答えた。

「いいぞいいぞ、好きなだけ居てくれ」

 久しぶりの娘との再会にすっかり気が緩んだ彼は喜んで家に上がった。亜由美と七海も続けて家の中に入る。

「お母さんに七海もお疲れ様。今日はね、シチューにしたの。あ、私のお皿はお母さんの使わせて貰うね」


 亜由美は食事は出来ないが、久しぶりに揃った家族四人の団欒を楽しむ事が出来た。

 七海の学校での話、茉莉花の仕事先での話…ひとしきり話し終えると道貴は仕事の疲れもあり、部屋に戻った。

 リビングに残ったのは女性三人、その内七海と茉莉花が片付けを始めた。

 亜由美は最近新調した食器洗い機の使い方を二人に教え、七海が洗剤を入れてスタートさせたのを見届けると、三人でもう一度ダイニングテーブルに着く様に促した。


「それで…」

 三人が席に着くと、亜由美が茉莉花に向かって話し掛けた。

「…貴女、誰ですか?」

「えっ?」

 茉莉花は驚き、目の前に置いてある香炉の蓋を取って中を見た。

「あらら…しまった…」

 香が燃え尽きてしまっている。


「幻惑の香が尽きてました…あの、いつから気付いてました?」

 亜由美と七海は顔を見合わせた。

「まあ…ついさっきですけど、なんだかうちには娘は一人しかいなかったなって…」

「私もお姉ちゃんが欲しいと思った事はあったけど、本当はいなかったなって…」

 二人が答えた。


 茉莉花は、はあ…と大きく溜息を吐いた。その髪や洋服は段々と白くなり、目の覚める様な美しい女神の姿へと変わった。

 彼女の変貌ぶりに驚いた顔で見つめている亜由美と七海の前で、蓋をした香炉を指先でコンコンと叩く。

「もういいよ。お帰り」

 彼女の声がけで香炉は弾けたように飛び上がり、まるで周りを見回すかのように左右にくるくる回ると、開いた小さな空間に逃げ込んで行った。


 亜由美と七海は声も出せずに呆気に取られて眺めていた。彼女は特に気にもせずに言った。

「私は水姫と言います。…仕事は…主に水神をやっています。私がこちらに来たのは、篠塚亜由美さんにお願いがあったからなのです…」

「水神?お、お願い?私に?…情報量が多いんですけど…」

 亜由美は動揺を隠せない様子で言った。

 すると彼女は突然、テーブルにぶつけそうな程頭を下げて懇願した。

「篠塚亜由美さん、お願いです、死んでください!」


「ちょ、ちょっとどう言うつもりですか!いきなり人の家族の中に入り込んで来て死んで欲しいだなんて。警察呼びますよ?」

「そうですよ!お母さんはまだ死んでいません!私から取らないで!!」

 少し怒り気味に亜由美が言い、それを庇うように七海が言った。

 二人の怒りの声を聞くと水姫は顔を上げてじっと七海を見た。その目はそれまでの彼女とは違い、猜疑心に駆られた目であった。

「…死んでいない…やはり分かっているのですね。貴女こそ…いえ、ですよね?」

「!!」

 七海はギクリとした。水姫は続けた。


「篠塚七海さん…高校一年生。貴女は去年の修学旅行で溺れかけましたよね」

「そ、それは…」

「え?何、急に何の話…」

 亜由美は驚いた。同時に今日の病院でうたた寝をした時の夢を思い出していた。

 言われたように七海は中学三年時の修学旅行で、長野に行った際に川でラフティング体験をしていた。しかしその時、特に何かがあったとは学校から聞いてはいない。


「私は水神なので、水や川が記憶している事を読み取る事が出来るのです。ラフティング体験では緊急時訓練も兼ねて、スウェットスーツとライフジャケットを着たまま一度川に飛び込む実習をしましたよね。その時皆がすぐ川から浮き上がったのに、貴女はなかなか浮き上がらなかった…」

「…」

 水姫の話を七海は黙って聞いている。

 その通りだった。あの時、七海だけ川の中の岩に足を挟まれて抜け出せなかったのだ。


「あの時点で本当は貴女は溺れて亡くなっていた筈なんです。現に魂は抜けて『集魂の包み布』という神界の布に入っていました」

「あの時は、だ、誰かの大きな手が掬い上げてくれた感じで…信じられなかったけど、もう少しで危なかったみたいなんだけどなんとか無事に水面に上がれたの…だから先生にも何も言わなかった…」

 七海が負けじと説明する。

「そう。とにかく貴女は亡くならなかった。そして狭霧の身体には不完全な形の魂が入ってしまっていて…そのせいで彼は石化して…ううん、それはともかく、その時失った魂の一部により、貴女の身体と心は時に離れる事が出来るようになった…」

 水姫の話を聞きながら、七海は段々と青ざめて行った。亜由美は何が起こっているのか分からない。

「貴女の今のその姿、幽体離脱をした意識体の七海さんよね。そしてこの亜由美さんが信じている世界も、お母さんをこの世に繋ぎ止めておきたい貴女が作り出した幻…」

 そう言うと水姫は二人の前に円形の水鏡を現した。

「見てください」

「…」

 七海が観念した様に目を瞑った。


 水鏡の中には病院のベッドに横たわる亜由美の姿があった。だがそれは無傷の身体ではなく、全身に包帯が巻かれ、何本ものチューブが繋がれた痛々しい姿の彼女だった。集中治療室に収容されている様で、少し離れた所にある長椅子に肩を落として座っている七海が見える。夫の道貴はガラス越しに立ち、じっと亜由美を見つめていた。


 水姫が言う。

「篠塚亜由美さん。貴女はあの時本当は轢かれて瀕死の重傷を負っています。未だに意識も戻らない重体なのです。貴女は轢かれた時から七海さんが作り出した世界にいる。ここでは貴女が望んだ様な生活が続いていますが、それは所詮幻想なのです」

「そん…な」

 馬鹿な。亜由美はにわかには信じられなかった。七海は項垂れて黙っている。

 亜由美の動揺を見た水姫は申し訳なさそうにもう一度こう言った。

「お願いです。私と一緒に来てください…そして生きる事を放棄して貰えませんか」


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