第8話 姉妹喧嘩に巻き込まれ
六華に襲われた狭霧は架室の詠唱転移で一旦魂の管理棟の医務室に運ばれていた。
血と水でぐっしょり濡れた上に泥だらけになった白装束を脱がしてみて、改めて傷が深い事が分かった。
傷口に軟膏が張り付いた様な形になっている救命玉が金色の光を放ちながら組織の再生を続けているが、身体を斜めに打ち付けてしまった際に折れた肋骨が肺に刺さり、血胸が起きていた。
「生身の人間の身体の事など分からん。
意識が朦朧としていて、慌てて指示を出す誰かが遠くにいる様に聞こえる。
「急げ。精魂の儀に間に合わせないと…」
そこからどうなったかはもう分からない。
「…そんな…本当にもう、打つ手がないのですか?」
水姫の声がする。風通しの良い縁側のすぐ隣にある部屋の、自分が床に臥す側にいる。
この娘は小さい頃に出会ってから、しばしば家に来る様になった。両親も兄達も彼女の正体を知った後でもまるで家族の様に接してくれていた。彼女と自分は一緒に育った様なものだった。
床の近くには父母も兄達もいる…。皆んな悲しそうな顔をしている。
何かを言いたかったが、息が苦しく、起き上がる事も出来ない。
「貴女も知っているでしょう。この子には幼い頃より肺の病があって、薬師にももう出来る事はないと…これでも十八のこの歳まで持った方なのです」
母が目に涙を溜めて言う。
「父様、母様、私なら…私と一緒に来てくれたなら狭霧は死なずに済みます。今まで蛇身の私に我が子の様に接してくださった御恩をお返ししたいのです」
「それは…狭霧をここではなく神界に連れて行くと言う事か。人間である私達とは住む世界が異なると聞き及んでおるが…」
父が聞く。
「神界の気に触れれば身体は回復します。そして人間が神になれる方法が一つだけあります。…長い苦難の道ですが、私が側に着いています。狭霧には未来永劫、私と共に生きて欲しいのです…」
――場面が変わった。
自宅の縁側に面した庭園の奥にはいくつもの巨大な庭石があり、枯山水として滝と小川が造られていたのだが、その先には自然のままの裏山があった。
その庭石と山に続く木の間に隠れる様にして誰かが立っていた。その人物は水姫と話をしている。
身体は動かせず横になったまま目を瞑っていたので寝ていると思ったのだろう。その日は風もなく静かだった為に、二人の話し声は聞くつもりではなくとも耳に入って来た。
「…本気なのか?あんな人間の男を神にするなど」
「姉様。私の気持ちは変わりません」
水姫の相手はふうと大きな溜息を吐いた。
「我らが人間を神にするには、その者の体に魂を入れて浄化する『精魂の儀』を三百年の時をかけ一千回させねばならない。その間、お前は彼を傀儡に変化させると共に身体の時間も止め続けてやる事になる。人間はすぐに歳を取るからな。お前の他の、
顔をそちらに向けて目を凝らして見ると、美しい顔立ちの女性が立っていた。髪は漆黒で、白銀の髪の水姫とは真逆だった。
「水姫。お前こそ大蛇とは似ても似つかぬ弱い体で生まれて来ている。それに水神としての仕事もある。神界に戻っても、更にこれからもあいつの身体に力を使うと、本来ある筈の三百年分の神力を失くすのだぞ?お前こそどうなるか分からない。最悪命を落とすだろう」
「でも私は狭霧といたい。千年の間閉じ込められた後、初めて会った優しい人間だったんだもの」
「…愚かな妹だ。お前に何かあったらそれこそ意味がないのが分からないのか」
「姉様…」
「…人間は恐ろしい生き物なのだよ。自分の保身の為に平気で立場の弱い者を生贄として差し出す。そやつ等がどんな目に遭って死んでも食われても、神の仕業だと崇むのだ。あの父母も病弱の狭霧をお前に生贄として捧げようとしているのではないか?現にこの地一帯はお前の力で水害から護られているからな」
「あの者達はそんな人間達とは違う。本当に狭霧の事を愛し、案じてくれている。私も同じです」
「何をのぼせているのだ。人間の愛など信じる者の方が馬鹿を見るというのに」
女性がやれやれという風に頭を振った。
「何もかもあの男が存在していることが悪いのだ。私が殺してやろう。そうすればお前も諦めが付くだろう」
「嫌!絶対にやめて」
「ただの人間ではないか。今でも密かに命を繋いでやっているのは知っているぞ。辛いだろう。殺せばお前にも力が戻る」
女性が手を挙げ水姫の頬に触れようとした。彼女はその手を振り払い、怒りの声を挙げた。
「辛くなんかない!力なんかいくらでも注いであげる!」
そして下を向き肩を震わせた。
「…狭霧を殺すつもりなら、もう姉様の事は姉とは呼ばない…二度と会わない。私の目の前から消えて。六華」
胸の痛みが昔の事を思い出させたのだろうか。
…水姫には姉がいた。あんな目に遭わされてやっと思い出した…。
人間を神界に連れて行った後には、神がその者の身体の時間の進み方を極力遅くするそうだ。
それでも自分の場合は精神と身体への影響が凄まじく、数ヶ月間傀儡のまま意識が戻らない事が何度もあったと彼女は言っていた。だから三百年はそんなに長い時間だと思わずに済んでいた。それも全て水姫の神力があってこその年月だった。
…人間界にいた時は死にたくなかった。毎日咳き込み血を吐いてどんどん弱り、臥すしかないこの身体が嫌だった。
だから水姫に一緒に神界に来ないかと言われた時には行くと即答した。…俺の方こそ彼女に
でも、このまま水姫の生命を吸い取って神になっても良いのだろうか…
いや、神になる事を彼女が望んでくれているのだ…俺はそれに応えるだけだ…
――どの位時間が経ったのだろうか。意識が戻ると知らない場所に寝かされていた。
「お、目が覚めたか。大丈夫か?」
輪我が声を掛けて来る。彼はやや身体を起こしてみた。傷に包帯と
まだ痛む所はあるが、なんとか立ち上がれそうだった。
「…大丈夫です。ありがとうございます」
そしてふと気が付いた。
「すみません、貴方は…六華の事を妹と言ってたって事は、水姫の…?」
「え?ああ…兄だ。人間のお前が怖がるだろうから今まで会わなかったけど…なんせかつては
「…ひ、人食いオロチ?」
狭霧はドキリとした。昔話で似た話を聞かされた事があった気がしたのだ。
六華に襲われた際にはこのまま食われるのではないかと思ったが、実際有り得る事だった様だ。
「今は改心させられて魂の番人をやっている。毎回お前の身体に入れる魂を振り分けしたりしていてな。今回の不具合の件は済まなかったが…どうするのかな、水姫が判断するだろう」
「…はい…」
「もうすぐ最後の精魂の儀だ。そこの浄衣を着てくれ」
と、彼は側に畳んで置いてある白い儀式用の浄衣を指した。
「…」
狭霧は自分の胸の辺りに手を当てて暫く固まっていた。
「どうした。痛むのか?」
輪我が聞いてくる。
血と泥にまみれた身体が清浄され、全ての衣類が変わっていると言う事は、気を失っている間に自分がどんな姿にさせられたのかが容易に想像出来てしまったのである。
一体誰に…恥ずかしさで顔が火照る。
「…いえ、なんでもありません」
仕方がないと諦めつつも、今日は本当になんて日なんだ、と思いながら狭霧は浄衣に袖を通した。
そんな彼の様子を戸の辺りから遠慮がちに見ていた執務室の女性陣が、何故か顔を背けて頬を染めた。
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