第5話 幽霊とは呼ばないで

 気が付くと、水の中にいた。

 自分の背丈より少し深い何処かの川の中。早く水から上がらなければ。

 でも、足が…

 早く…早く…!誰か!

 

「え?七海⁈」

 亜由美は思いがけず出た自分の声に驚いて目を覚ました。


 ——ピッ…ピッ…ピッ…


 機械の音が規則正しいリズムを刻む。

 目の前に柔らかいリネンのシーツと、プラチナの指輪が光る手が見えた。

 その手の持ち主の女性は、ベッドで小さな寝息を立てている。

「夢…あの子が溺れる夢なんて…」

 いつの間にか眠っていたのか…彼女は身体を起こした。


 ここは家の近くの南田総合病院だ。

 アルバイトの面接に行く途中の交差点で、ベッド上の女性、篠塚亜由美が倒れてからもう三日になる。彼女はまだ意識が戻らない。

 車に轢かれたのか当たったのかとも思われたが、倒れた時に出来た打ち身以外に体に外傷は無く、MRIやCT検査をしても特に異常はなかった。とにかく眠り続けている。

 彼女はベッドに横たわる自分の顔をじっと見つめた。


「まあまあ老けたな…悲しみ」


 その時、病室のドアをコンコンと叩いて看護師が入って来た。亜由美を見るとギョッとしたが、すぐに平静を装って言った。

「い、いいいらしてたんですね。て、点滴の交換に来ました」 

 恐怖が声に出てしまっている。

「ああ、どうも…お願いします」

 亜由美はつまらなさそうに言った。

 当然の反応だが、皆んな自分を幽霊か何かを見る様な怯えた目で見て来る。

 冗談じゃない、幽霊がうたた寝なんかする?どちらかと言うと身体から意識が外に出て来てしまっている様な感じだ。

 医者も言っていたけど、意識体。うん、その方がカッコいい。


 それにしても意識体とやらになってから物に触れられない姿になってしまい、自分の存在価値が分からなくなった。一体何故こんな事になってしまったのだろう。この状態はいつまで続くのだろう。

 七海…娘は私がこんな風になっても健気に日常生活を送っている。泣いたのも初日だけだった。普段から我慢強い子なのだ。実際彼女の泣き顔を見たのも数年ぶりな気がする。


「ショックだったんだろうなぁ…七海」

 三日前の娘の様子を思い出していたら、ちょうど彼女と道貴が病室に入って来た。夫の手には食材が入った買い物袋が下がっている。

「やっぱりいた、お母さん」

「またここにいると思ったよ。七海とは病院の前で会ったんだ。一緒に帰ろうか」

「うん。頑張ってマキシスカートイメージして着て来ちゃった。何も触れないし、ご飯も作れなくてごめん」

「良いの良いの。俺も妻の事情で早く帰らせて貰える様になったからさ」


 夫の道貴は最寄りの駅まで自転車で行き、電車通勤をしている。今日も早帰りで食材を買って帰って来てくれた。家族に迷惑を掛けている…亜由美は引け目を感じたが仕方がない。

 彼女は道貴が引く自転車のサドルに座った形にして側を七海が歩き、その日も三人で家路に着いた。

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