8 土公
その日から劉保は東宮に帰って来なくなった。野王君の第宅に寝泊りするようになったのである。
曹騰は劉保が側に居ることを望んだ為、野王君第へ出入りできたが、東宮の他の属官たちは立ち入りを許されなかった。しかたなく彼らは野王君の門前に列を為し、劉保のきまぐれな外出を待っていた。劉保が外出するときに身柄を確保しようとしたのである。
野王君第の守衛達はそれを不快に思い、追い払おうとした。当然、この二勢力で小競り合いが起きたが、それもすぐにやんだ。劉保自身が野王君から出て来ようとしないため、衝突する意味がないのである。
曹騰も複雑な立場になった。常時劉保に随行し東宮に帰らなくなった彼を、他の宦官達が裏切り扱いしだしたのである。
「東宮に帰るよう進言するのがお主の役割ではないのか?」
そういって詰られた事もある。
曹騰とて劉保にこんな場所に居て欲しいわけではわけではなかった。
「殿下、そろそろ東宮にお帰りになられては如何でしょう?皆心配しております」
そう説得しようとした事は何度もある。だが、劉保の楽しそうな姿を見ると、何も言えなくなった。
(殿下は皇太子として歩まれている方だが、まだ甘えたい盛りの子供でもある。それを皆が気付いてあげられなかったのが問題なんだ)
王聖に甘える劉保を見ると、祖母に甘える孫とはこんな感じなんだろうか?とも思える。
思い出せば鄧太后は厳しい方だった。
鄧太后が劉保にやさしい顔を見せたのは、最後に東宮に来た時だけだったかもしれない。
(ああ、野王君はあの時の皇太后に少し似ているかも)
祖母に優しくされる、という事に己の主人が飢えていたのかもしれない曹騰はそう思った。
劉保の乳母であった王男も宋娥も、鄧太后に見出された乳母である。彼をべたべたと甘やかす事は無かった。
幼い劉保を立派な皇太子にする。それを目標に東宮の皆が励んでいた。
しかし王聖は違った。いつも劉保によりそい、なんでも言うことを聞いた。
(甘えられる相手が居るなら甘えさせて上げてもいいのかな。立派になるなんて大人になってからでいいじゃないか……)
さほど年の差もない曹騰が、年上風を吹かせたくなるほどの甘えっぷりだった。
しかし、その平穏も長くは続かなかった。野王君にさらなる来客があったのである。
それに気付いたのは曹騰ではなく、劉保だった。
「騰。野王君が居らぬ。捜して参れ」
王聖とその娘、永と伯栄は、交替で劉保を甘やかしていた。だが、いつもなら来る時間に王聖が来ていないのに劉保は気付いたのだ。
「探して参ります。殿下はこのままここでお待ちください」
曹騰は部屋から抜け出すと、まず軽く深呼吸した。
部屋に立ち込めた脂粉の香りが、吐く息とともに抜けて、すっきりした気分になる。吸う息から、珍味佳肴の複雑な残り香が廊下に漂っていることが判る。
(来客かな?では殿下が接待された観に居られるか?)
曹騰は小走りで観に向かった。
廊下を抜け、中庭に至ると景色が開け、青空に観が聳え立っている。
見上げると、観の上階ではあわただしい人の動きがある。下僕たちが宴席の準備をしているのだ。王聖がそれを厳しく差配しているのも見えた。
だが、曹騰が目を奪われたのは上階ではなかった。
観の脇、美しく咲き誇った庭の花々に埋もれ、一人の女性がしゃがんでいた。
彼女は膝を曲げ笑顔で花々を眺めていた。
(やさしい感じの美人だな)
そう思った。
彼女が着ている服はさして派手なところのない紺色の普段着だが、曹騰の目には細部まで行き届いた高級な仕立てに思えた。
彼女は曹騰が見ていることに気付くと立ち上がり、
「可愛い宦官さん。準備は終ったの?」
にこにことそう尋ねた。盗み見のようになった為、曹騰は弁解せざるを得なくなった。
「申し訳ありません。自分は東宮のものでございます。殿下のご指示で、野王君を呼びに参りました」
「あら」
彼女は笑顔で答えた。
「東宮の宦官さんなのね。見ての通り、野王君は上の階よ。呼んであげましょうか?」
「いえ、御手を煩わすには及びません。お忙しいようですのでその旨お伝え致します」
曹騰は彼女の視界に入ってしまったことを後悔していた。野王君が手ずから接待をするような相手は限られている。
最初に気付くべきだったのだ。
「じゃぁ、たまには母に会いに来るように殿下に伝言をお願いね」
にっこりと微笑んだ。
曹騰は無表情のまま一礼すると静かに後ずさり、ゆっくりと皇后の前を離れた。
彼女の視界を外れるとくるりと向きを変え、小走りに駆け出した。恐怖に汗がどっと吹き出した。
(あれが閻皇后)
曹騰は皇太子の部屋を通り過ぎ、そのまま野王君の門へ向かう。
(──なぜここに?)
門では平静を装い静かに門番に会釈し、野王君の第を出る。
外には皇后の乗って来た金根車と供の車が列を為して待機していた。
その供回りの者達をかき分け、外へ出た。
周囲に待機しているはずの東宮の宦官が見当たらない。
曹騰は洛陽の市街に駆け出した。足は東宮へ向かっていた。
***
「皇太子を早くお戻ししないと!」
乳母の王男が叫ぶ。
「野王君に手放させる策が必要です!」
籍建も叫ぶ。
野王君第の外には、皇太子が外出して来た時に備え、東宮の宦官達が昼夜交替で待機していた。野王君第に閻皇后の行幸の車列が到着したという報せは彼らが先に伝えていた。
───野王君が閻皇后と結託していた。
これは大きな衝撃となって東宮を揺るがしていた。
現在、朝廷では閻皇后と野王君が皇帝劉祜の寵愛を巡り対立している。そして今のところは野王君側が優勢である、というのが東宮の観測である。
王聖の娘、王永には樊厳という夫が居る。彼は黄門侍郎として皇帝側近にある。もう一人の娘、王伯栄は見初めた美男の劉瑰を夫にし、朝陽侯かつ侍中として皇帝側近とした。つまり、皇帝劉祜の周辺は、野王君王聖の縁者で固められていた。
しかし野王君の権力の源泉は「皇帝の乳母として皇帝本人から愛されている」ということでしかない。これは今上に対する一代限りの立場でしか無く、不安定な立場であった。
東宮では、野王君が皇太子劉保に接近した意図を「皇帝が代替わりした後でも次代に親近し権力を保持し続ける為」と判断していた。
であれば、野王君にとって皇太子は大事な掌中の玉である。握った以上、皇帝になるまでは庇護してくれるはずだ。東宮の面々は、この方向で野王君の接近を受け止めようとしていた。つまり皇太子は野王君の手駒に落ちるが、安全は保証される、と。
しかし、閻皇后と接近している、ということは野王君の将来の権力に関し、なんらかの妥協が成立した、ということではないか。となれば、その妥協の為に取り引きされるのは?
──皇太子の命。
東宮の者が思い付くものはそれしかなかった。
「……曹従官」
呼ぶ声があった。小黄門の興渠である。
曹騰は息せき切って東宮へ帰って来たものの、既に事態が大きく動いていて大人達の激しい議論の中、割り込めずにいた。
「早く殿下のところへ戻れ。身を捨ててお護りせよ」
「逢わせますか?」
曹騰が聞いた。皇后と皇太子の関係をどうするか?曹騰が東宮へ戻った理由であり、判断できなかったことである。
「逢わせるな。知らせるな」
コクン、と頷くと、曹騰はきびすを返した。
東宮の門を出て夕日の沈む方向へ走る。
洛陽の南宮を出、市街の建物と建物の間を曹騰は走った。
(どうか御無事で!)
野王君第の前は、待機していた車列も居らず、閑散としていた。
(閻皇后はお帰りになったか?)
挨拶一つで門を通してもらうと、夕暮れの野王君第の中は弛緩した空気が漂っていた。微かに酒と油、そして食材の残り香が漂う。
(饗応の終った後の空気だ…)
橙色の暗闇が降りて来る廊下を小走りで通り抜け、曹騰が皇太子の居た部屋へたどり着いた時、皇太子は待ち疲れて眠っていた。
皇太子のやすらかな寝顔を確かめると、曹騰はすとんと尻餅をついて、その場へへたり込んだ。
***
翌朝、鄭の旋律が流れる美しい客殿に、朝食として珍味佳肴がずらりと並び、野王君王聖が手づから箸でそれを劉保の口に運んでいた。
曹騰は
(いずれ皇帝となる方にする接待ではない)
と思っていたものの、劉保がそれを喜んでいる以上、止めはしないつもりだった。
そこへ、ドタバタと足音が響き、中年女性が駆け込んできた。
「母様!」
王聖の娘、王永である。
「なんです、騒々しい。殿下の御前ですよ?」
母に注意され、王永は劉保の方へ向いて慌てて平伏し、願った。
「殿下、朝からお騒がせし申し訳ございません。母に裁可頂かないといけない緊急の件がございまして、少々母をお借りしたく」
王永が王聖になにやら目配せしたのを曹騰は見た。
王聖が言い添える。
「場を弁えぬ愚かな娘をお許しください。なにやら火急の用件の様です。少し座を外させて頂きますわね。すぐに戻ります」
劉保は少し不機嫌に答えた。
「…許す」
「ありがとうございます。永。あなたが殿下に給仕なさい」
そう言うと王聖は退出した。
平伏していた王永は頭を上げると、卓についている劉保ににじり寄り、置かれていた象牙の箸を手に取ろうとした。
劉保はうるさげにその手を払うと、自分で箸を取り、食事を続けた。
手を払われた王永は驚き、その場で平伏した。このやりとりに驚いた楽人たちが演奏を止めた為、部屋は急に静かになった。
「外がうるさい」
劉保は外の騒然とした気配を感じ、曹騰へ命じた。
「騰。見て参れ」
曹騰はその場で平伏し、答えた。
「殿下。ここでお側に控えさせてください」
曹騰は野王君とその配下を信じていなかった。
彼らが刺客に豹変したらと思うと、皇太子の側を離れたくなかった。結果的にこれは痛恨事となる。
その時、野王君第の前に、曹騰の知る二人の姿があった。劉保の阿母の王男と、東宮厨監の邴吉である。
日の出と共に活気を増して行く洛陽の街角で、二人は口々に叫んでいた。
「殿下!お願いします!東宮にお帰りください!」
「東宮の一同皆、お帰りをお待ちしておりやす!」
劉保に対し、帰還を願い、呼びかけているのだ。
野王君の守衛達はやめさせようとしたが、彼らは第の外に立って叫んでいるだけである。しかも東宮の人間である。手荒な対応をして後で処罰されてはたまったものではない。判断に困って王永にお伺いを立てた。王永も困り、仕方無く王聖につないだのである。
切々と二人は訴えかけ続けた。
しばらくして、内側から門が開いた。
王男と邴吉は笑顔で顔を見合わせたが、すぐに無表情に戻った。出て来たのが守衛達を引き連れた中年の女、野王君王聖だったからである。
「殿下はお食事中ですよ。お静かに」
王聖は困った顔で言った。
王男と邴吉は顔を見合わせ、うなづくと再び声を上げ始めた。
「殿下!お願いします!東宮にお帰りください!」
「殿下!こちらへお出ましくだせぇ!邴吉でやす!」
周囲を洛陽の庶民が取り囲み、見物している。
「殿下はこちらに居られたいそうです!疾く東宮へお帰り!」
王聖は声を荒げたが、二人はますます声をはりあげた。
「ここは殿下にはふさわしい場所ではございません!」
「新築のここは土禁を犯してやす!災いが降り掛かる前にお帰りくだせえ!」
土禁の言葉を聞いて王聖の血の気が引いた。
土禁とは、土地の神である土公に関する禁忌である。家を新築するとその土地が荒れる。しばらくの間は土公が怒り、災いを撒き散らす。そう信じられていた。
これは王聖は皇太子を新築の建物に誘い込み土禁の災いを与える呪詛を行なっているぞ、と言っているのに等しい。
「妖言です!捕まえなさい!」
王聖がこれを看過したらそれを認めることになってしまいかねない。止む無く守衛に命じ捕縛させた。
他人に呪詛を向けるのは、他人に刀で切り掛かるのと同じく、罪に問われる。
王聖としては降り掛かる火の粉を払っただけで、これ以上二人をどうこうする気はなかった。これで東宮の宦官達が少し静かになれば、としか思っていなかった。衛士を呼ぶと二人を引き渡し、それで終わったと思った。
だが、閻皇后の手は長く、素早かった。一刻を待たずして、大長秋江京と中常侍樊豐が訴状を持ち、劉祜の前に参上したのである。
「こちらが野王君様と伯栄様からの訴状でございます。御裁可を」
そこには王男と邴吉の二人が、野王君が呪詛を行っている、と町中で妖言を振りまいたと書かれていた。
皇帝劉祜は江京と樊豐の訴えを聞くと、衛尉を管轄する太尉の馮石を呼び、言った。
「阿母が困っておるようだ。適切な刑を与え、二度と同じ事が起きぬようにせよ」
王永の夫で黄門侍郎として列席していた樊厳は事情が掴めず、とり急ぎ野王君にこの話を知らせた。
王聖は二人を告発までする気が無かったため、慌てて参内し、皇帝劉祜にすがった。
「何かの間違いでございます。ちょっとした行き違いで皇太子の阿母を衛士に引き渡しましたが、頭を冷やして欲しかっただけでございます」
劉祜は、馮石に命じた。
「阿母がこう言っておる。衛士に赦免してやるよう伝えよ」
馮石は答えた。
「先程衛士令より報告が参りました。二人は既に獄中で死亡しておりました」
尋問は拷問と同義である。刑罰を与えるまでもなく尋問の段階で獄死する者がいるのは不思議でもなんでもなかった。
「阿母を害さんとした者達です。衛士達が張り切ってしまったのでしょう」
馮石は、自分と部下達にとばっちりが来ない事だけを心配していたが、おくびにも出さず応えた。
皇帝劉祜は深いため息をついた後、野王君に言った。
「阿母、こういうことらしい」
王聖はその場にがっくりと膝をついた。
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