7 阿母(延光三年/124)

「恐れいります。そこをお通りになられるのは皇太子殿下ではございませんか?」


 東宮へ帰る車上の劉保を呼び止めた女性は五十がらみの中年で、優しげなたたずまいで微笑んでいた。後ろに三十ぐらいの女を従えている。どちらも美しく着飾っていた。


「お初にお目に掛かります。妾は野王君と申すものでございます」

「…ではあなたがち……陛下の?」


 謁者が応えようとするのを止めて劉保は直答した。曹騰もそのあくみょうは知っていた。この女性が皇帝劉祜の乳母野王君王聖であるなら、後ろの女性は王聖の娘だろう。であれば皇帝劉祜の乳兄弟として育った王伯栄かもしれない。


「はい。妾なぞのような何のとりえもない老婆に第まで用意して頂いて…陛下のお慈悲に感謝して余生を過ごさしていただいております」

「……よい心がけです」


 答えながら、劉保はまじまじと王聖を見つめていた。曹騰には劉保の視線の意味がわからず首を傾げた。

 その日は簡単な挨拶に終った。しかし、この日から時折、劉保の一行が外出すると王聖らと遭う、ということが重なった。

 劉保が外出するのは、皇太子としての儀式や勉学の時だけである。義母であり仇である閻皇后に伺候することはそもそもあり得ないし、父劉祜から呼ばれることもない。この数少ない機会を王聖らに狙われているのではないか?東宮の側近達はそう考えていた。しかし、王聖らは皇帝の側近ではあるものの、皇后派とは言い切れない。むしろ皇帝の寵愛を争うという意味で、皇后と対立していると言っていい。

 王聖らの権力の源は劉祜との個人的な関係である。劉祜が崩御した後、彼女らには何の後ろだてもなくなってしまう。この接近は、東宮が将来皇位を継いだ際も変わらず権勢を保つための布石なのだろう。周囲の大方はそう観測していた。

 曹騰自身は王聖に嫌なものを感じていた。彼女の柔和な微笑みが、さほど記憶のない自分の父に重なったからだ。表面的なやさしさの裏には、酷薄ななにかが潜んでいそうだった。

 劉保と王聖の邂逅も数を重ねた今は、二人は多少の日常会話をする様になっていた。


「時に殿下。目の下に隈がございますね。お体の調子が悪いのでは」

「寝られないのだ。夜中に目が覚めてしまう」


 ここしばらく、劉保は不眠に悩んでいた。夜中に突然叫びを上げ、起きてしまったことも一度や二度ではない。驚病ノイローゼであろう…何か御不安なことがおありなのではないか、と太醫令は診断した。

 無理もない、と宦官達は思っていた。四年前、鄧太后が劉保を立太子し東宮再建を命じた時、東宮の属官は欠員なく配属されていた。しかし、太后崩御の後は属官が辞任しても後任が配属されてくることがなくなった。

 例えば太子太傅、という皇太子の師となるべき役割は碩儒として知られた沛国の桓焉かんえんが就いていたが、彼が服喪で辞任した時、後任はやってこなかった。閻皇后のさしがね、と皆が了解していた。

 東宮はいまではすっかり寂しい状況になっていた。皇太子の食を司る太子食官令が転属した後、後任が来なかったため皇太子が飢えそうになる、という事態すら発生した。この為市井の料理人であった厨監の邴吉へいきちが家政のほとんどを切り盛りする羽目になっていた。

 父に疎まれ、義母に母を殺され、いつ廃嫡され殺されるかわからない。それでは心が弱り、病になっても仕方が無い。まだ十歳の子供に過ぎないのだ。曹騰達宦官は皆そう思ったが、だからといって現状を改善する力もなかった。


「そうですわ。妾の配領した第に行幸いただいてはいかがでしょう?寝所をお変えいただけば良く御寝おできになるかもしれませんから」


 ぱちん、と手を合わせて朗らかに王聖は言った。劉保がこくりと頷いたので曹騰は驚いた。

 劉保はこれまで、その立場を理解してか、自分の意志を示すことはほとんどなかった。悲しい程わがままを言わない少年だったのだ。


「お待ちくださいませ!」


 随伴の小黄門、籍建せきけんが声を荒げた。

「殿下、一度東宮にお戻りくださいませ。御行幸なさるにしても占って吉日を選び、随伴も皇太子の格を以ってなさるべきです。軽々に訪れられるべきではありませぬ」


「さようか…」


 劉保は明らかに落胆していたが、王聖も籍建に同意した。


「ですわね。気が急いて申し訳ありません。後程家令を訪ねさせますわ」


 その日はそれで話は終り、劉保は東宮へ戻った。話を聞いて激怒したのは乳母たちだった。


***

「行くべきでございません」


 乳母、王男の怒りは大きかった。


「妾ども乳母は貴顕の方で出産があった際に、たまたま子を産んでいて乳の出のよかったものから選ばれます。王聖も微賎の身から選ばれたものです。皇太子たる者がわざわざ親しくされる相手ではありません」


 高貴の家では実母が子を育てることはない。乳母に育てられた子にとって乳母は母代わりである。劉保ももはや乳を含むことはないが、王男には育てられた恩愛がある。だがこれはあくまで個人と個人の関係であって、父親の乳母と親しくするのは異例であった。

 また、厨監の邴吉も反対した。


「万が一あちらで毒でも盛られたらコトですぜ」


 鴆毒で母を殺された劉保にとっては、毒はもっとも切実な脅威である。邴吉はこれを持ち出せば皇太子を思い留まらせることができると信じていた。

 だが劉保は思い留まらないようだった。


「いやだ。行ってみたい」


 二人の阿母が代わるがわる説得していたが、劉保はふてくされ、横を向き、まるで聞く耳を持っていないようだった。

 劉保が父親の側近である野王君に親しんでいいのか、むしろそうすべきでないのか。曹騰には判断がつかなかった。

 大人たちは大多数が行幸に反対の様に思われた。

 自分はやっぱりただの子供なんだな、そう思った。

 だからこそせめて自分は劉保の意向に従おう。それが曹騰の判断だった。


「殿下!自分もお供させてください」


 曹騰が声を上げた。


「万が一の時には、毒も刃も自分が受けとうございます」

「うん、頼む」


 東宮の面々は子供の発言に毒気を抜かれてしまった。


「まぁ、野王君が我が君を害する理由はないか……」


 小黄門の興渠こうきょがつぶやく。

 結局劉保は反対を押し切って、王聖の第への行幸を決めた。招待の文が届いたのは翌日のことだった。

 数日後、吉日を選んでの行幸。だが、悶着があった。第の狭さを理由に、皇太子の随員の大半が野王君第への滞在を許可されなかったのである。


「申し訳ございません。狭苦しい住いですので」

 にこやかに謝絶する王聖に、随員達の不満の声を上げた。

 だが皇太子劉保は随員の声には一切耳を傾けず、こくりとうなずき、車を降りるとすっと門へ足を運んだ。

(置いていかれる?)

 曹騰はうろたえた。だが、劉保は門前でくるりと振り向くと

「騰!」

 そう呼んだ。曹騰は笑顔で駆けつけた。

 男にも女にも親にも、あらゆる者になれない自分は、劉保のそばに居てこそ宦官という存在になれる。そう思って曹騰は劉保の行くところ、どこへでも同行していた。劉保の方でも曹騰はどこへ行く時も連れて行くものなのだ、という認識があると知り、曹騰は嬉しかった。

 野王君の第は洛陽市街地の南端にある。人払いはしているものの、市井の者達の目がある場所である。皇太子を人目に晒し続けるわけにはいかない。宦官達は急いで随伴者を選び、続いた。


「野王君はすごいな!」

 野王君の第に入った劉保はその豪勢な内装を見てはしゃぎ始めた。

 そこは、各所がきらびやかに美しい布で飾られ、柱にはさまざまな彫刻が施され、甘やかな香が焚きしめられていた。

(どこが手狭なんでしょうか?)

 そもそも、天子の美徳は倹約である。

 食を削り、衣に継ぎを当て、宮殿の増築修繕をしない事で百姓に負担をかけないのが名君というものである…少なくとも建前上は。当然皇太子が贅沢をする、という事はあってはならない。鄧太后は孫に贅沢をさせる人ではなかったし、また、愛情薄い父は皇太子の住いに無関心であった。したがって皇太子の住む東宮は立派でありながらも瀟洒を戒められた地味な装いであり、野王君第の豪華さとは天と地の差があった。

 そよ風に揺れる二重三重の絹布の飾りに曹騰はめまいすら覚えた。

 こんな所に居ては皇太子に悪い影響があるのではないか?そうも思ったが、

「東宮もこうだといいのに……」

 にこにこと辺りを見回してはしゃぐ皇太子の姿を見ると、曹騰は何も言えなくなった。

 長い廊下を歩いた先には美しい花の咲く庭にたかどのが聳え立っており、ここでも上階へ誘われたのは皇太子ひとりだった。

「上に宴席を設けておりますが、手狭ですので、随行の方は一階でお待ちください」

 出迎えた王聖の下の娘、王永は無愛想にそういった。

「それでは毒味が出来ません!」

 籍建ら随伴は強く反発したが、

「及ばぬ」

 皇太子は答え、観の上階への梯子を昇っていった。

 梯子の下で待機する兵士に遮られ、宦官達は一階の土間に残らざるを得なくなった。ここでは曹騰も上を見上げるばかりだった。

 しばらくして上階より琴の音が洩れ聞こえて来た。

 天井の軋む音は上で舞っている者達が居るからだろうか。

 本館から次々と料理が運ばれ、上層階から紐で吊された籠に置かれる。

 籠は上へ上へと昇っていき、良い香りがあたりに漂う。

 いくばくか過ぎた頃。

 はじめは降りて来る時は空だった籠に、料理の皿が乗って降りて来るようになった。

 上から料理を下に降ろし、空いた籠に新しい料理を載せ上に運ぶ。

 そして降りて来た料理はそのまま曹騰達の前に並べられた。

 これらは観の上階での宴席に供されたが、置場を無くし溢れたものである。

 湘江の鱸や西方の葡萄。贅を尽くした品々だが、彼ら宦官達はその美食自体には驚かなかった。彼らとて長樂宮で皇太后の食事を毒味し、給仕し、時には余り物を下賜されてきたのだ。美食には慣れ親しんでいた。

 だが、下賜される食事が次から次に続き、階下をも溢れ出すと、籍建は軋り声でつぶやいた。


「……この…品数は」


 野王君の途方もない財力をみせられている。皆そう感じていた。

 野王領がこれほどの富をもたらす筈がない。皇帝の寵愛深い王聖に対し、その口聞きを求めて官民が大量の賄賂を贈っている。これはその証明なのだろう。

 小黄門の興渠がしわがれ声で答えた。


「長秋宮よりも上かもしれん」


 長秋宮は閻皇后の座する場所である。

 通常、皇后になった者はは、その親兄弟を重要な役職につけさせる。

 そして次の代で皇帝に代わり政治を専断させる。これが世に言う外戚であるが、必ずしも悪い点ばかりではない。皇后は次の皇帝の母であり、皇帝の親族が重職に就くことで皇帝の藩塀が築かれることにもなるからだ。

 しかし、閻姫の兄閻顯えんけんと弟達は朝廷を牛耳ることをせず、洛陽宮の禁軍の軍権を握るに留まっていた。閻姫の父閻暢が早くに亡くなり、閻姫の兄の閻顯達が重職を担うには若すぎたという事もあった。

 皇帝劉祜は、閻姫の親族よりも乳母である野王君王聖と、実母では無いものの、亡き父の正妃の兄である耿寶を重用していた。

 鄧太后が帝を廃そうとしている、と吹き込んだのも王聖たちである。鄧太后に飼い殺しにされてきた劉祜には、鄧太后への恐怖をまぎらわしてくれる乳母がもっとも身近な家族だったということになる。

 閻皇后は兄弟を重職につけたものの、皇帝をはばかり、賄賂を取って要職を切り売りするような事はしていない。

 そういった事は阿母の王聖や宦官の江京が専らとしていた。その為、長秋宮もまた地味な装飾のままであった。

 時が経ち、上層階は静かになった。随行の皆は姿勢を正し、上階から皇太子が降りて来るのを待った。だが降りて来たのは踊り子達のみ。彼女らは半裸に薄絹をまとっただけのあられもない姿で、籍建達は眉をひそめた。

 その後に続く者はなく、いつまでたっても彼らの主人は現れなかった。


 西の空が赤に染まりはじめた頃、痺れを切らした籍建が立ち上がった。


「失礼ながら申し上げます!」


 そして、皇太子の居る階上へ向け叫んだ。


「殿下は上に居られますか!?」


 上階へ向かう梯子に取り付こうとし、兵士に袖を掴まれた。

 男性らしい筋力の無い籍建の力では、兵士を振り解くことができない。だがそれをきっかけに宦官達は口々に皇太子に呼びかけはじめた。

 そのざわつきは、上層から女性が降りて来たことで中断する。王聖の長女、王伯栄である。彼女は口もとに人差し指を当てそっとささやいた。


「お静かに。殿下は御寝されておいでです」


 皆の目が彼女に集まり、場は静まり返った。

 その空白の一瞬に曹騰は駆け出した。兵士達は振り向き捕まえようとしたが、曹騰は小さな体で兵士達の間をくぐると、梯子をつたい上階に駆け昇る。

 上階は予想通り美しく飾られた部屋だったが、料理の皿などはきれいに片付けられ、がらんとしていた。

 窓から夕日の差し込み少し薄暗いその部屋の中央に、ぽつんと座る人影があった。

 少年のものではない。大人のものだ。


(野王君!)


 曹騰は回りを見回すが、主君の姿がない。

 王聖はこちらに気付き、無言でそっと曹騰を手招きした。

 王聖の膝の上に、皇太子が丸まって眠っていた。劉保の、いままで見たこともない安らかな寝顔を見て、曹騰は何も言えなくなった。

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