6 楊震
盛大な葬儀が終り、劉祜による皇帝親政が始まった。
つまり復讐の始まりである。
新帝劉祜にとって、亡き義母鄧太后は自分を皇帝に引き上げてくれた恩人であると同時に、実権を与えず飼い殺しにしていた仇でもあった。その怨みが、皇帝親政開始と同時に噴出した。
鄧太后の親族である
復讐は遡っても行なわれた。
劉祜の祖母は章帝に寵愛された宋貴人であり、呪詛をしていたとして自殺に追い込まれ、父劉慶もこの事件が原因で皇太子を廃されていた。この件に調査の手が再び入った。
宦官の蔡倫が宋貴人の巫蠱を証言していた事が蒸し返され、紙の発明者として知られるこの宦官は自殺に追い込まれた。
鄧太后の生前、一つの噂があった。鄧太后は不出来な劉祜を廃し、新たに平原王
そして新しい政治体制が確立された。その中心になったのが尚書の
陳忠、字は伯始。代々法律を家業とする一族の生まれで、鄧太后の時代に苛酷な肉刑を廃止させるという刑の緩和と、同時に法の厳格な遂行を進めると言う二つの政策を同時に進めたことで知られる法家である。
肉刑の廃止は彼の慈悲の心から生まれたが、それがそれは曹騰のような刑罰によらない宦官を生んだとも言えるし、また本来肉刑で済んだ罪でも死刑にされる者が出る、という皮肉な現象も起きるようになった。
陳忠は鄧太后体制を支えていた人物を弾劾し、逆に鄧太后親政に反対し劉祜に肩入れしていた人物を次々と推挙した。例えば
杜根はかつて、鄧太后に引退し、政権を劉祜に渡すよう上書をしたことがある。鄧太后は激怒し、杜根を袋に詰め撲殺する様命じた。刑吏が手加減してくれていなければ彼はそこで死んでいただろう。袋に詰められたまま、杜根は場外へ運ばれ、そこで蘇生した。
しかし鄧太后は念のために死体を確認するよう、検死者まで派遣した。杜根は眼球に蛆を這わせて死体の振りをして難を逃れ、鄧太后が崩御するまで市井へ潜伏していた。
鄧太后に見出された人物を免職し、杜根の様な人物を重職に就けて行く、というのが劉祜の復讐であった。
そもそも、それを取り仕切る陳忠自身、父陳寵の代から鄧一族と対立し冷や飯を食わされていたのであった。
九月には地震で壁が崩れたのを口実に長樂宮も取り壊された。太后に属していた宦官達は、太后の言葉を百官に伝える、という役割で権力を得ていたため失脚したが、これを境に散りぢりになった。
太后崩御二カ月にして政権中枢にあった鄧一族は一掃された。
粛正の嵐が吹き荒れる中、一人の老人が廷尉の元へ出頭した。
老人は諸肌脱いで上半身裸だった。背には大きな棺桶を背負っていた。老人の名は
諸肌脱ぎは謝罪を意味し、棺桶持参は死罪の覚悟を意味していた。その死の覚悟をもって、彼は鄧太后の徳と鄧騭らの無実を訴えた。
「彼らの死骸が散り、魂がさ迷った為、辺境は気を喪っています。なにとぞ彼らの遺骨を戻し、どなたかに家を継がせてやり祀りを絶やさぬようにし、もって亡霊に謝させてください」
この訴えを聞いた陳忠は、朱寵を洛陽から追放することで応えた。決死の覚悟に対し命を奪うに忍びなかったからである。
朱寵は故郷である長安に帰って行った。
劉祜は鄧太后体制を支えていた人物を粛正し、不遇だった人物を採用した。朝廷から急速に鄧太后の色は薄れていった。
…それだけであれば問題は無かった。
次いで劉祜は、自分の身の回りの人物には功績がなくとも爵位を与え始めた。鄧太后派の宦官達を排除し、閻皇后派の江京や李閏を侯に封じたりもした。
劉祜は不遇だった鄧太后時代を支えてくれた身内を優遇し、彼らの言うことにしか耳を貸さない皇帝となりはじめた。
特に優遇されたのが王聖である。乳を飲ませ育ててくれた彼女を劉祜は大変慕っており、異例にも野王君として封じた。野王県は洛陽から北に向かい、黄河を渡った河内郡にある。野王君はここに領地を拝領したことになる。
何一つ業績があるわけでもない単なる乳母に封号を与えるという常識外れの厚遇である。士太夫のほとんどは不満に思いながらも口を閉ざした。だがひとり気を吐いた士太夫が居る。司徒の
楊震は上表文を書き上げ、尚書台に提出した。
尚書は上表文を取捨選択し、皇帝の前で読み上げ、裁可を求める役職である。尚書令陳忠が読み上げた楊震の上表は、故事と易や経の引用、形式や美辞令句を除くと、このような内容であった。
「阿母王聖の出自は微賎で、幸運にも天子を養い育てる勤めを果たしただけで、過分に報い過ぎです。婦人が政治に関与してよいことはありません。阿母とやらを追い出し、娘伯栄とも絶交してください」
皇帝劉祜の対応は少し変わったものだった。
「読むがよい」
上表文の竹簡を受け取るとそれをわざわざ当事者の王聖らに渡し、読ませた。彼女らの自制を促したかったのか、楊震との対立を煽りたかったのかは判らない。結果として彼女達は憤り、楊震を怨んだ。だが楊震は気にも留めず上表を繰り返した。
王聖の娘、
「なんの功績もない劉瑰が朝陽侯となったのは、ただ阿母の娘を妻にしたからというだけです。しかも聞いたところでは侍中にもおとりたてとか。侍中でありながら侯国に封じるなど旧制に反します。お考え直しを」
読み上げた尚書の陳忠は、退出すると司徒府の楊震の元を訪ねた。
書き物をする楊震の背中に、陳忠は静かに声を掛けた。
「……省みていただけませんでした」
楊震は振り返りもせず言った。
「次もよろしく頼む」
楊震は高祖劉邦の時代にまで遡れる名家の出身である。八代前の祖先の楊喜は垓下の戦いで項羽の遺体の一部を得て爵位を得、高祖父楊敞は西漢の丞相にまで昇った。楊震は欧陽尚書を沛国の桓郁に学んだ朱寵と同門である。
その学識で頭角を表し、若くして「関西孔子は楊伯起」とまで呼ばれるようになった。孔子は函谷関の東、豫州魯国の出身であり、楊震は函谷関の西、司隷の弘農郡に本籍があったからである。
母に孝養を尽くすため州郡に出仕することはせず、家で弟子達を育て、出仕したのは五十を過ぎた頃である。鄧騭に辟されて茂才に挙げられ、荊州刺史などを歴任し、三公に昇った。
こんな話がある。
楊震が荊州刺史の任を終え、青州は東莱へ太守として赴く旅の途中、兗州の昌邑県の、とある亭で宿を取った。
十里毎に置かれる亭は、一帯の治安を維持する拠点であり、また、公用の者が泊まる場所となっている。
その亭へ夜更けに見知った顔が訪れた。名を王密という。荊州でも優秀と評判があり、楊震は彼を見込んで荊州刺史の時に茂才に推挙してやった経緯があった。
茂才に推挙された者は都へ呼ばれ、まず郎となる。そして次の赴任先は、大概全国のどこかの県の県令になる。王密はここ昌邑の県令になっており、楊震の旧恩に感謝の意を表そうと懐に二斤もの金塊を入れやって来たのである。
王密の懐に、小さいがずしりと重い「何か」があるのを察した楊震は首を横に振って拒絶の体を見せて、言った。
「私は君を知っているのに、君が私を知らないとは」
王密は親しげに、そして悪びれもせず、小さな声で言った。
「もう夜も暮れ、誰も知る者なぞいませんよ」
そう言ってこっそりと懐の物を取り出そうとした。楊震は一喝した。
「天が知り、地が知り、私が知り、君も知っている。誰も知らない、などとどうして言えるようか」
楊震の拒絶を王密は恥じて逃げ出したという。
その後王密がどうなったかは楊震は知らない。楊震と王密しか知らない筈のこの話は、楊震の四知として世間に流布し、楊震の名を高らしめていた。
神童として育ち、多くの後進を育て、儒学者としてこれ以上ないという名を成した。忠孝の道でもその名を知られ、清廉についても人に恥じることはない。そして今や楊震は三公である。
楊震こそ当代の儒者の中の儒者である。その彼にとって王聖達の専横が許せるものではなく、次々と上表を続け、劉祜を諌め続けた。
決定的な事態は、劉祜の常識外れの詔から始まった。
洛陽の街の南西にある津門の近くに阿母王聖の為の
楊震は上表した。
「今、国家の金蔵に蓄えが乏しく、社稷は安寧とは言えませぬ。阿母の邸宅を城門内に建てよ、との詔ですが、この盛夏に山から採石するのに巨億の費用が掛かっております。周廣と謝惲兄弟等は無用の佞人で、樊豐と王永は威を借り州郡や大臣すら動かし、賄賂をもらって貪汚の者を採用させています。財貨は上流へ吸い上げられ、民は怨んでおります。このままでは反乱が起き兼ねませんぞ」
皇帝はこの諌言も無視した。
三公という人臣として最上位にある楊震の諌言が無視されたことで槍玉に挙がっていた樊豐らは、もう何も恐いものが無いとばかりますます悪事に手を染めるようになった。
楊震は司徒から太尉に遷されたが、彼は告発・諌言をやめなかった。
そんな折である。皇帝劉祜が天子として泰山へ天地を祀る為、東方に巡察に出発した。多くの側近がそれに同行したが、洛陽に残留した者もまた多かった。
彼らは皇帝不在の都で箍が外れた様に放埓の限りを尽くした。
特に宦官の
樊豐は偽の詔を書き、大司農から銭や穀物を、大匠府からは木材を徴発し、自宅に美しい庭や景観を作らせ始めた。無論、近隣の民に労役を強いて、である。
楊震はそれを知ると部下に証拠を押えさせた。
「陛下がお戻りになられたらこの件で連中を告発する」
楊震からそう告げられた陳忠は大きく頷いた。
春の終り頃、カワセミの羽で美々しく飾った傘を差した皇帝の車がゆっくりと洛陽へ戻って来た。
大勢の随伴の車が前後を固めた長大な行列は洛陽城外の南にある太學で足を止めた。皇帝が都への帰還に際し、洛陽の城門をくぐる最適な吉日を待つ為に城外で待機するのである。
楊震は万全の体制を整えた、そう思った。
(お戻りになられたらその時が宦官の最後だ)
だがその時は来なかった。
その夜、陳忠と尚書台の随員が太尉府に残る楊震の元へやって来た。
背中を向けまま書き物を続けていた楊震を、陳忠は一喝した。
「詔である!謹んで拝受なさるよう!」
振り返り、慌てて直立する楊震に対し、陳忠が詔を読み上げる。
「楊震よ、汝、太尉の職を解く。謹み印綬を返すよう──」
楊震の顔はみるみる蒼白になっていた。
(先を越されたのだ楊太尉。奴らは一枚上手だったのだ)
読み上げる陳忠の声は震えていた。
樊豐は楊震が自分の行状を訴えようとしている、という情報を各所から入手していた。誰もが宦官に阿ろうとしているのだ。
そんな折り、樊豐は太史寮で星に逆行が観測された、という報告を聞いた。樊豐はこれを三公楊震の逆心の証として太學の皇帝へ讒言しに行ったのである。
陳忠が帰った後、楊震は自宅に帰って門を閉ざし、賓客との交遊を断った。周囲に対し反省している、という体をとったのである。
樊豐は当てつけと取った。
帝の義理の叔父である大将軍
楊震の帰郷の旅は洛陽を出てすぐ西の夕陽亭で終わりを告げた。
洛陽の都が眺められる最後の場所で楊震は息子と門人たちに告げた。
「死ぬは士として当然のことだ。私は恩顧を受けながら、奸臣を誅することもできず、悪女が国を傾けるのを止めることが出来なかった。これ以上、日月と相いまみえようか!」
士太夫は、評判や名声を支えに生きる。皇帝を正せなかった三公。彼の名声はこの敗北により汚された。楊震はこの不名誉を背負って生き続けることに耐えられなかった。楊震は鴆酒をあおり、悲劇の人として死ぬ名誉を選んだ。
楊震は自分を雑木の棺で薄葬せよと遺言した。楊震の家族門人達は泣きながら楊震の遺体を運び帰郷への旅を続けた。棺は故郷の華陰にたどり着く直前、樊豐の意を受けた弘農の太守が棺の移動を禁じた。
楊震の棺と屍は道端で野晒しになり、道行く人達も涙した。
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