5 太后(永寧二年/121)
最初は風邪だと思われた。そして咳は止まらなくなった。鄧太后を突然、病魔が襲った。
鄧太后は東宮に劉保を移し、酷い咳が出るので皇太子は来ないように、と謁者経由で申し渡した。
東宮は洛陽南宮にある、皇太子の本来の住居である。だがここは先々代和帝が皇太子時代に使って以来、三十年以上使われておらず、庭は雑草が茂り、建物も荒れ果てていた。鄧太后は劉保の立太子と同時に東宮を修繕させていた。まだ修繕は完了していなかったが、住み慣れた長樂宮から劉保は移った。皇太子となった事で属官は増え、どちらにせよ長樂宮には居られなかっただろう。
元々鄧太后は朝廷にあまり来る方ではない。政務は基本的に長樂宮の奥から行なわれ、宦官達がそれを取り次ぐ。
鄧太后の代わりに宦官たちは大臣官僚達の集まる朝堂へやってくる。
宦官たちはまるで自らが政務を行なっているように鄧太后の詔を伝え、大臣達は苦虫を噛み潰すような表情でそれを受け取る。
三公も直接会う機会が少なく、なかなか直諌することは難しかった。それでもご尊顔を拝する機会がないわけではなかった。
だが、どうも今回は違う。鄧太后はピタリと人前に出なくなったのである。
本当に皇太后の病は重いのだな、多くの官僚達はそう思い、洛陽宮の雰囲気は暗雲に閉ざされたようだった。
東宮はそれ以上に消沈しきっていた。鄧太后は皇太子劉保の唯一にして最大の庇護者であったからだ。また、長樂宮の宦官達と東宮の宦官達は親交が深く、鄧太后の病状が伝わっていたからでもあった。
翌、永寧二年の二月の朝。
前庭に百官が並ぶ朝堂へ突然、十二人の宦官達が担ぐ輦に乗った鄧太后が現れた。
代理人として来る宦官達への上書を準備していた官僚達は驚きをもって出迎えたが、鄧太后の衰えた顔を見てこれが最後の朝見なのだと理解し、朝廷は静まりかえった。
鄧太后は、侍中や尚書たちを呼び、個々に謁見し、それぞれに細やかに後事を托した。朝見を終えると鄧太后を載せた輦は朝堂を去っていった。
官僚達にとって皇帝が即位しているにもかかわらず皇太后の親政が続く、というのは手続き上不本意なものであったが、鄧太后は時に癇癪を起こすものの、優秀で比較的公平で寛大な政治を行なっていた。彼女の親戚達もあまりのさばらず相対的には良い外戚と言えた。皇太后と皇帝の不仲も知られており、政権交替に伴う激動を予想するものも多かった。
そんなこんなで見送る百官達の背中からは、この安定した時代が終るのか…という残念な気持ちが滲み出していた。
皇太后の輦は朝廷を出ると次に皇太子の居る東宮へやってきた。
「陛下!」
劉保は門まで出迎えたが、鄧太后は無言で輦にのったまま東宮に入った。
謁者の宦官が東宮の修復状況を確認したいと告げ、劉保は鄧太后の輦の脇を歩き、東宮の謁者が先を歩き、案内をした。曹騰は皇太子に付き添い、輦の横を歩いた。
「──東宮の庭にはこんな虫が居て──」
「──ここの寝所の天井が高くて」
劉保は会えなかった間のあれこれを話したが、鄧太后は無言のまま、何も答えなかった、しかし弱々しい笑顔で頷いていたので、劉保は話し掛け続けた。
曹騰はこの光景に驚いていた。皇太后が皇太子に会って、なんの御説教もしないのは初めてのことではないだろうか?
一行が東宮を一周すると、鄧太后は輦を地面に降ろさせ、担いでいた宦官達を下がらせると劉保を手招きした。
鄧太后は、劉保が近付くとやさしく頭と頬を撫でた。
(こんな小さな人だっただろうか?)
曹騰は鄧太后をもっと大柄な女性と覚えていた。
そして再び輦は動き出し、そのまま東宮から去って行った。曹騰は門の外でひどく咳込む声を聞いた気がした。
長樂宮へ戻った鄧太后は、天下に大赦を告げ、貴人、王、官僚などに銭や布を下賜。そして詔を発した。
「朕は徳無くして天下の母を託されたが、天の佑け薄く、早い別れと大憂があった。先帝がお隠れになった時、海内に主無く万民は厄運に見舞われ、危うきは累卵の如しだった。苦心して勤め続け、万乗の楽を求めなんだは、上は天帝を欺いて先帝を愧かしめず、下は人に違えて志に背かず、心から万民の救済と劉氏を安んじることを想ったからだ。自分では福が来たることを天地に祈っていたが、内外に喪があり痛みは絶えなかった。この頃は病で政も立ち行かず、祭礼も久しく行えていない。原陵に行ってからは吐血も続き、治りそうもない。生死は年数によるものでどうにもならぬ。公卿百官はことごとく忠に努め、朝廷を輔左せよ」
翌月、鄧太后は崩御され順陵に合葬された。皇帝劉祜への遺詔は無かった。
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