4 立太子

 四月の、よく晴れた空の下を青い傘を立てた安車が行く。

 安車は座って乗れるよう工夫された馬車であり、屋根と壁で箱の様になっていて、小さな窓が付いている。安車の前後には従車が連なり、太子門太夫の護衛が左右を守る長い隊列は洛陽郊外に向かっている。

 安車の中では、小さな窓に貼付くようにして劉保が外を眺めている。一日を洛陽の南北宮内で終始する劉保にとって、広大な平原は初めての景色である。城門を出てからこのかたずっと、劉保は外を眺め続けていた。

 劉保が外を見ながらつぶやいた。


「外は広いなぁ、騰」


 曹騰は答えた。


「そうでございますね」


 劉保はくるりと曹騰の方を向いた。不思議そうな顔だった。


「騰は見ていないであろう?」


 同乗させてもらっている曹騰にとっても、外に出るのは初めての経験である。曹騰とて外を見てみたかったが、安車の窓は小さい。主人を押し退けてまで見る必要は感じていなかった。

 だが彼の主人は言った。


「こっちへおいで。一緒に見よう!」


 二人の少年は、頬と頬をくっつけて二人で外を眺めた。


「外は広いなぁ、騰」

「はい、広うございます」


 ゴトゴトと揺れる狭い窓から、二人は外を眺め続けた。


 安車の行き先は高祖劉邦と世祖劉秀りゅうしゅうの霊廟である。

 昨日、一つの儀式が洛陽北宮の朝堂で行われた。

 百官が見守る中、南面して座る鄧太后の前に座らされた劉保は、司空の李郃りごうが読み上げる詔によって、正式に皇太子となったのである。

 それを記念し元号も永寧と改元された。今日は劉保自身が、皇太子になった事を霊廟へ報告に行くのである。

 立太子の時、曹騰は劉保の背中を朝堂の後ろの柱の陰から見ていた。中常侍の蔡倫さいりんが劉保に皇太子の璽綬を授ける所では目頭が熱くなった。百官が万歳するのを聞いて、落涙を止められなくなった。

 静かに、そして満足げに微笑む鄧太后の顔を覚えている。

 劉保の父である劉祜は無表情で鄧太后の横に控えていた。

 母である皇后はというと──


***


「え?駄目よ。今は無理に決まっているでしょう?」


 洛陽南宮にある皇后の居所、長秋宮で、ほの暗い部屋の奥から明るい庭を眺めながらそう答えた。

 皇帝劉祜の正妻、閻皇后。同室しているのは長秋宮の中常侍である宦官の江京こうけいである。ついに皇太子となった劉保を、今後どのように扱うか、江京は方針を尋ねたのである。

 閻皇后……閻姫えんきは、皇帝劉祜の寵愛を勝ち取り、六年前の元初二年に皇后の位に就いた。閻姫は鄧太后に劣らぬ才色兼備で……そして強い野心を持った女性であった。

 実のところ皇太子劉保に母がいないのは閻姫の手によるものである。彼女は皇后となると、皇帝劉祜の寵愛を独占する為に他の貴人達を排除し始めた。その排除される中に、劉保の母である李宮人がいたのである。

 李宮人は閻姫が皇后の座に就くより前に皇帝の寵愛を受けており、閻姫が皇后の座に就いた頃、ひっそりと劉保を産んでいた。皇帝の李宮人への寵愛はすでに薄れていたが、長男を産んだ李宮人の立場が強くなったり、ましてや寵愛が李宮人に戻ってもらっては閻姫には都合が悪い。閻姫は江京に始末を命じた。

 鴆という全身が猛毒の鳥がいる。江京はこの鳥の羽毛を取り寄せてきた。この羽を酒に漬けると無味無臭の毒酒ができる。江京らは李宮人付きの宦官に命じ、この毒酒で李宮人を殺害させた。

 劉保にまで害が及ぼせなかったのは、鄧太后が皇子をすばやく保護したからである。皇太子となった今も劉保は今も鄧太后の庇護下にある。夫である皇帝劉祜すら逆らえない鄧太后の威勢に、閻皇后の力は及ばない。劉保が皇太子になったからといって、排除するのは避けるべきだった。ヘマをした場合皇后を廃位される危険すらあった。


「しかし……」


 江京は言い淀んだ。

 もし今、皇帝劉祜に何かがあれば、次の皇帝は劉保である。そうなれば、閻皇后一派は次代皇帝の実母の仇、ということになる。どの様な目に遭わされるかは考えるまでもなかった。


わらわの太子が産まれるまで、あの子には無事で居てもらわなくっちゃ」


 この六年、寵愛を一身に受けていたにもかかわらず、閻皇后は子を成す事ができていなかった。もし皇太子がいない状況で皇帝が崩御しようものなら、諸国に封じられた劉氏の中から後継を決めねばならなくなる。

 鄧太后が健在の今、閻姫の影響の及ばない者が皇帝を継ぐことになる。そうなると、実権を持つのは閻姫ではなく新皇帝の親族ということになる。

 閻姫が目論むのは皇帝の母として鄧太后の様に君臨することであって、前皇后としてひっそり生きて行くことではない。

 劉保を排除することは彼女の当面の問題を解決しない。劉保を皇太子に据えておくことで当面は後継者に関する議論を封じ、その間に自分が後継者を産んでみせよう、ということこそが閻姫の目論見であった。


 江京の見立ては違っていた。

 江京は宦官である。後宮での宦官の仕事の一つは、皇帝の夜の営みを記録することである。宦官は皇帝と妃の寝所を準備し、待機し、日時、回数、体位等の詳細な記録を作成する。これにより妃の不義密通は防がれ、場合によっては子の長幼の序を決めるのにも役立つからである。だからこそ江京はこの六年の閻皇后の涙ぐましい努力を知っていた。


(あれ程されても孕む兆しがない。もはやお子はご無理なのでは…?)


 これは長秋宮の宦官たちの共通認識であった。


「……申し上げにくいのですが」

「判ってるわ」


 閻姫も、考えたくはなかったがそのことには気付いていた。自分が子を成せない時の副案が必要だと。


「誰かいないかしら?誰にも文句の言われない血筋の子で、誰へも文句も言えない幼子で、誰の紐もついていない都合のよい子が」


 江京は答えた。


「濟北王が薨じられましたが、確か幼いお子が残されたとか」

「えっと……濟北王の子って事は章帝陛下の孫になるのね。なら血は申し分無いわ。紐はどうなの?」

「そこまでは」

「消しておいて」


 江京は平伏することで応えた。


「ただ、濟北王の喪が明けるまでは公表できません」


 親の社稷を継がさず、喪も明けず、という状態で養子とし立太子させるなど朝廷で非難を浴びてしまう。少なくとも三年は待つ必要がある。


「…まぁいいわ。どうせ今すぐは変えれないんだし」


 鄧太后がいる限りそんな勝手は許されないだろう。

 だが三年あれば鄧太后は死ぬかもしれないし、自分が皇太子を産んでいるかもしれない。自分はまだ二十代前半。焦る程の年増でもない。時間は自分の味方だった。

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