第10話 決意

「ちょいと、アンタ!!一度ならずとも二度もうちの娘に傷つけるなんて!!ふざけるんじゃないよ!!今すぐ出て行っておくれ!!」


 その日、イアンがルータスフラワーの玄関を開けた途端、マダムのヒステリックな金切り声が玄関の外まで響いてきた。直後、チンピラと見紛うような柄の悪い強面の用心棒が肥え太った中年男を羽交い絞めにして中から姿を現した。中年男は顔中痣だらけで真っ赤に膨れ上がっている。

 イアンはその二人とぶつからないよう、後ずさりながら入り口の端に寄る。

「てめぇはもう、うちには来るんじゃねぇぞっ!!」

 用心棒は中年男を地面に叩きつけるようにして放り出す。男は顔から地面に落ち、派手に転倒した。顔面を強打したらしく鼻の両方の穴から鼻血を垂れ流している。そのことに気付いた男は、聞くも無様な大声で叫んだ。

「ぎゃあぁぁぁ!!血、血がぁぁぁ!!」

「喧しいっ!!」


 用心棒に一喝された中年男はすっかり怯え、涙と鼻血と鼻水で顔中を汚しに汚した状態で醜い駄肉を揺らして一目散に逃げ返っていった。


「な、何だぁーー?!」

 イアンは訳も分からず、ただ目を白黒させて一部始終を見ていた。そんな彼の近くにいた、この店の娼婦らしき女が教えてくれた。

「あの人、ちょっと人と違った性的趣向があってね。この間、店の娘を教鞭で叩いて怪我させたのよ。その時にもマダムに散々怒られて、もう一回やったら出入り禁止にする、って言われてたのに。今日も違う娘にまた乱暴なことをしたみたいでさ。マダムが用心棒使って実力行使に出たのよ」

「へぇ、意外だな。あのマダムが、客よりも娼婦の身の安全を優先させるなんて」

「まぁ、傷つけられた娘が余り人気のない娘なら、見て見ぬ振りするだろうけど。よりによって、うちの稼ぎ頭のミランダとシーヴァだったからねぇ」

「何だって?!」


 イアンは我を忘れ、押し入るように入店した。今し方話をしていた娼婦やマダムが何か言ってくるのを無視し、店の二階に一気に駆け上がる。


「ちょいと、イアンさん!!」

 シーヴァの部屋の前まできたところで、マダムがぜぇぜぇと息を切らして二階まで追いかけてきた。

「指名もしないで勝手に店に入られちゃ困るんだよ!!」

「そんなもん言わなくったって分かるだろうが!!」

 普段は物静かで穏やかなイアンが珍しく言葉を荒げる。その迫力にマダムは思わず口を噤んだ。

「わ、分かったよ。シーヴァだね??今夜も一晩買うんだろ??」

 媚びを含んだマダムの語調に、イアンは「あぁ」とだけ短く答えた。

「だったら、これをシーヴァに塗ってあげて」


 聞き覚えのある、酒焼けで枯れた声――、いつの間にかミランダが自室から姿を現していた。飴色に光る小さな薬瓶を手にして。

 ミランダは、イアンの大きな手に押し込むように薬瓶を手渡す。おそらく、自分が使っていた傷薬だろう。

「じゃあ、あとはよろしく」

 ミランダはぶっきらぼうに告げると自室に戻っていく。


「マダム……。あいつは……、シーヴァは一体、何をされたんだ……」

「自分の目で確かめなよ」


 マダムは階段を下りて行き、イアンはあの時の感覚――、死んでいる娘の姿を目にする直前に感じた、心臓をギュっと鷲掴みされるような痛みを胸の奥に感じながらシーヴァの部屋の扉を開けた。


 カンテラの薄明かりが狭い室内に淡い光を落としている。シーヴァはシーツを頭からすっぽり被り、イアンに背を向けた状態でベッドの上に座っていた。命に関わるような取り返しのつかない事態ではなかったことに、イアンはひとまず安堵した。

 しかし、シーヴァが纏っているシーツに点々と付いているシミが血痕だと気付くと、彼の胸が息苦しいまでに締め付けられていく。


「……シーヴァ……」

 イアンの声で、シーヴァはようやくこちらを振り返った。殴られでもしたのか、左側の頬がひどく腫れている。

『イアン……??』

 血の気の引いた顔でふらふらとシーヴァの傍へと近寄っていく。イアンの顔色の悪さに目もくれず、シーヴァは無邪気に明るく微笑んだ。

『今日も来てくれたんだぁ……』


 シーヴァの笑顔を見た瞬間、気付くとイアンは彼女の小さな身体をシーツごと抱きしめていた。


「シーヴァ……、ごめん、ごめんなぁ……。助けてやれなくて……、守ってやれなくて……、本当にごめん……。すまなかった……」

『何でイアンが謝るの??』

 ひたすら謝り続けるイアンにシーヴァはただただ困惑していたが、傷が痛んだのか、おもむろに表情を歪めた。それを見たイアンはようやく我に返る。

「すまん……、傷に障ったか……」

 シーヴァは、ブルブルと首を横に振る。

「あぁ、そうだ。この薬を塗ってやってくれ、とミランダから手渡された」

『ミランダが??』

「だから……、そのシーツを取っていいか??」

 すると、シーヴァは纏っているシーツの端を両手でギュっと掴んで身構えた。

 いくら身を売っているとはいえ、父親的存在のイアンに肌を見せることは抵抗があるのだろう。特に、シーヴァは思春期に差し掛かる年頃なので尚更だ。

「シーヴァ。俺に肌を見られるのが恥ずかしいっていう気持ちは良く分かる。だけど、背中とかは自分じゃ上手く薬を塗れないだろ??」

 イアンに諭されるも、シーヴァは恥ずかしがって身をよじるばかりだ。

「シーヴァ……。神に誓って言うが、変な気なんて絶対起こさないから」


 シーヴァは上目遣いでチラチラとイアンに視線を送っていたが、やがて決心したのか、おずおずと纏っていたシーツを身体から取り外した。

 シーヴァの白い肌には丸い痣のような火傷痕が幾つも残っていた。浮き出た鎖骨ら辺、細い二の腕……だけでなく、おそらくシュミーズの下に隠れた部分にもあるかもしれない。更には手首と足首には縄で縛られた痕までもが。見るに耐えかね、思わず掌で目を覆う。

 

「シーヴァ、辛かったな……。痛かったな……」

 イアンは鼻をすすりながら、薬瓶の蓋を開けて薬を指で掬い取り、シーヴァの火傷痕に塗り込んでいく。薬を塗りこまれる度にシーヴァは眉根を寄せて表情を歪めるが、じっと我慢していた。

 身体の前を塗り終わり(さすがにシュミーズの中までは塗れなかったが)、シーヴァ、背中を向けてくれ」と言われて、シーヴァは背中を向ける。

「…………」


 鞭で叩かれたらしき痕を見たイアンはしばし言葉を失った。


「畜生……、畜生めが……」


 込み上げてくる激しい怒り、やるせなさ。吐き捨てるように呟き続けた。

 シーヴァをこんな目に遭わせたあの中年男に向ける以上に、彼女を守れなかった己に向けて発した言葉でもあった。








 (2)


 翌早朝、後ろ髪を引かれながら、眠っているシーヴァを起こさないようにそっとベッドから抜け出した――、つもりだったが、抜け出した瞬間、小さな掌に手首を強く掴まれた。


「悪い……、起こしたな……」


 むくりと起き上がったシーヴァは首を横に振ると、イアンの顔を穴が空きそうな程見つめていた。だが、そのうち、細い眉尻がどんどん下がってきたかと思うと、突然声にならない声を上げて激しく泣き出した。


『イアン、帰っちゃ嫌だ!ずっとここにいて。こんなところに置いて行かないで……』


 シーヴァは生意気だが賢くて芯の強い娘だから、どんなに辛い目に遭ってもひたすら耐えていたのだろう。だが、いくら強いと言っても彼女はまだ十歳の子供。限度と言うものがある。

 イアンは泣きじゃくるシーヴァを抱き寄せると傷のある箇所には触れないよう、大きな掌で背中を撫でさすった。


(何が、大事な人間を守りたい、だ!結局、俺はいつも肝心な時に限って何にも出来ないじゃないか……!!)


 不甲斐ない自分に対する苛立ち、嫌悪感に苛まれ、唇を噛みしめる。唇が切れ、咥内に鉄臭い味が拡がった。

 シーヴァが泣き止むのをイアンはひたすら待ち続けた。時間が経つにつれシーヴァも落ち着きを取り戻していき、しゃくり上げながらも自分から彼の腕を離れた。


『イアン、ありがとう。我が儘言ってごめんね』


 シーヴァはぐしゃぐしゃに汚れた顔で無理矢理笑うと、再びベッドに潜り込んだ。   

 彼女が完全に寝付くのを待ってから、イアンは部屋を出て家路を辿っていく。


 家に戻るとすぐさま、イアンは仕事もそっちのけで家中をひっくり返して金目になりそうなものを片っ端から探した。だが、清貧の職人の家財道具など大した代物なんてない。せいぜい着る機会が滅多にない仕立ての良い礼服、結婚祝いで貰った金の懐中時計、生まれた時に両親から贈られた銀の匙くらいか。


(これじゃあ、全然話にならねぇ!)


 イアンは頭をガリガリ引っ掻いて悩みに悩んだ末、自室にあるクローゼットの扉を開ける。奥にしまい込んでいた妻と娘の衣類、それぞれの銀の匙、娘が大切にしていた陶器人形、結婚前に彼が妻に贈った髪飾りや結婚指輪など――、云わば形見として残しておいたものを全て引っ張り出した。


(キティ、ジニー、すまない。俺は最低の男だ。お前達が残したものを、これから質屋に全部売りに行くのだから……)


 この際、二人に恨まれても構わない。

 それ以上に、イアンはシーヴァを救い出したい気持ちの方が遥かに強くなっていた。


 集めた家財道具や妻と娘の遺品を質屋で換金し、娘が結婚する時のために密かに貯めていた金、その他にも手元にある有り金全てを持ち出し、イアンはルータスフラワーまで再び足を運んだ。


「マダム、シーヴァを今すぐにでも身請けしたいんだが」

 到着早々、マダムにそう告げると金を入れた袋を机の上に叩きつけた。

 マダムは袋の中身を覗き込んだのち、鼻で笑いながらイアンに投げ返してきた。

「イアンさん、これっぽっちでシーヴァを身請けしようだなんて、ふざけているのかい??」

「ふざけてなんかいない」

「この金額じゃ、まるで話にならないね」

「分かってます。だから……、何年かかるかは分かりませんが、足りない分を少しずつ支払っていく……と言う形で身請け金を払うのは駄目でしょうか??」

「何馬鹿な事言ってるんだい!駄目に決まってるだろう!!」

「必ず、全額払いますから!」

「駄目だよ!一括で払ってくれなきゃ。でないと、身請けなんかさせないよ!!」

「そこを何とか……」

「えぇいっ、しつこい!!ちょいと、ビル!ビルはいないかい!!」


 マダムの呼び出しを受け、店の奥から出てきた用心棒がイアンの胸倉を掴んだ。


「こいつを追っ払っておくれ!」

「マダム!まだ話は終わっ……」

「お客さん、悪ぃが今日は帰ってくれ。でないと痛い目みるぜ」

「くっ……!」

 男はイアンより背は低いが屈強な体格をしているので、イアンを後ろから羽交い絞めにして軽々と担ぎ上げた。

「おい、放せ!!放せよ!!」


 イアンは必死で抵抗するが、力では圧倒的に敵わない。

 あの中年男と同様に、このまま玄関から放り出されてしまうのか――


 ガタンガタンガタン!!

 ガタガタガターーン!!


 

 突如、二階から激しい物音が聞こえてきた。

 何事かと、イアン、マダムは二階の外廊下を見上げた。用心棒までもが二階全体をぐるりと見渡し、音の正体を探っている。


  音の正体を突き止める前に、今度は階段がある方向からけたたましい音に続き、何かが転がり落ちてきた。


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