第8話 フェイという女
(1)
フェイがイアンと出会ったのは約一年半前、冬の歓楽街の片隅で倒れていた彼に声を掛けたことが始まりだった。
その日のフェイは中々客が捕まらず、凍てつく夜気に身を震わせて通りを歩いていた。表通りは粗方当たってみたが全滅、危険を承知で裏通りに回って客を引こう、と、人気のない路地へ入り込んだ。すると、一人の男が壁にもたれかかった状態で倒れ込んでいる。酔っ払いだろうか。
酔っ払いは父親を思い出すから大嫌いだ。放っておこうと無視しかけてみたが、起こすだけ起こしてやることにした。
「ねぇ、お兄さん!こんなところで寝ていたら風邪引くわよーー??こんな真冬だし、下手すりゃ死ぬかもしれないわよーー??」
ダークブラウンのボサボサ頭、やたら大柄な癖に痩せっぽっちな男――、イアンの広い肩を激しく揺さぶって声をかけ続けた。よく見れば、目元と口許が赤く腫れ、切れた下唇には血が滲んでいる。
「何、お兄さん、喧嘩でもしたの――??ばっかねぇーー!!」
「……ち、がう……」
何度目かの大声での呼びかけに、イアンはようやく意識を取り戻した。
「……ふた、りぐみ……の、チンピラにぶつかっちまって……」
「で、因縁つけられて殴られたって訳ね……」
フェイはどうしたもんかと一瞬考え込んだ。
「とりあえずさぁーー、ここで寝てたって仕方ないんだし、私の部屋に行くわよ。傷の手当くらいならしてあげるから。お兄さん、立てる??」
イアンは頷くと、地面に手をつき、緩慢な動作で身を起こす。傷の痛みで顔を顰めながら。
「……お前さん……、娼婦か……」
「じゃなきゃ、こんな時間に歓楽街なんか出歩いていないわよ」
真っ直ぐ立つことなく、大きな身体を少しふらつかせるイアンを、フェイは腰に手を当てじろじろと不躾なまでに眺めた。
「……助け起こしてくれて、ありがとう。でも、手当までは遠慮しておくよ」
「何で??遠慮することないじゃない」
「いや……、それが……」
「はっきり言いな」
「…………」
初対面にも関わらず、フェイのきつい口調にたじろいでいるのもあるだろうが、他にも理由がありそうだ。イアンの気まずそうな顔から理由が何となく読めてきた。
「あーー!もしかして、チンピラに有り金を全部奪われちゃったとかーー??」
「…………」
徐に目を逸らすあたり、図星だろう。
途端にフェイはころころと、実に楽しげな笑い声を立てた。馬鹿にされたと感じたイアンはムスッと不貞腐れた顔で軽く睨んでくる。
「そりゃ、私の部屋に行くこと躊躇するわよねぇーー??」
「……笑いたきゃ笑えよ。確かに、今の俺は一文無しだよ……」
「あははは、ごめんごめん!!いやーー、お兄さん、真面目だねぇ。気に入ったわ!!」
「は??」
「今夜の部屋代は私が立て替えるから。だって、私があんたの傷の手当てがしたいだけだし」
「……いいのか??」
「さっきからそう言ってるじゃない。つべこべ言わずに、ついてきなって」
フェイは戸惑うイアンに構わず、半ば強制的に彼をルータスフラワーに連れ帰った。当然、傷の手当てだけで終わるはずがない。
「お兄さん、ついでにヤッてく??金なら次回でいいよ」というフェイの言葉をきっかけに、二人の関係が始まった。
フェイは、飲んだくれの父親が飲み代の金欲しさに十二歳の時に売られたという。
「それだけじゃないの。未だにあのクソ親父は飲み代をマダムに借りに来るのよね。おかげで稼いでも稼いでも借金は全然減らない。きっと私は永代稼ぎの運命なのよ」
いつも明るいフェイが父親のことを語る時、切れ上がった目尻をますます吊り上げ、薄茶の双眸に強い憎しみが籠る。だが、それも一瞬のこと。フェイは明るく笑いながら語りだす。
「だからね、私は絶対に金持ちに身請けされてやるって自分に誓っているの。私を不細工だと笑う奴も見返せるし、クソ親父にも復讐してやれるから。もしも私の身請け先にあいつが金を請求しに来たら、二度と私の前に姿を現せなくなるくらいとっちめてやるんだ。もちろんビタ一文だって金は渡さない!でもね、私はイアン達みたいな普通の客も大事に思っているの。私は器量が良くないから客が中々つかないけど、一度気に入れば皆、そう、みーんな、私だけを求めてくれる。他の女を買ったとしても、また私の所へ戻ってくる。私はそんな彼らが愛おしいの」
だからーー
私から離れていくなんて、絶対に許さないーー!
(2)
ミランダは自室でとてつもなく屈辱的な状況下に置かれていた。半裸で目隠しをされて、ベッドの上に跪かされ。両腕は後ろ手できつく縛られている。
「へっへっ、良い眺めだなぁ……」
豚のように肥え太った全裸の中年男がミランダの背後に立ち、舐め回すようにねっとりと眺めている。てかてかと脂ぎった顔をよだれを垂らさんばかりにニヤつかせては、彼女の小ぶりな尻を厭らしい手つきで撫で回す。
「おっ、この背中の傷は何だ??」
それは以前、マダムに鞭で叩かれた痕だ。
傷跡にわざと爪を立ててなぞり上げてくる痛みに、顔を伏せたままミランダはわずかに表情を歪めた。
「ははぁ、お前もそういう趣味があるんだなぁ。逆に都合が良いなぁ!」
男は手にしていた教鞭を勢い良くミランダの背中に打ち振るった。
叩かれた痛みだけでなく、まだ治りきっていない傷の痛みでミランダは小さく呻く。
「おっと、静かにしろよぉ??娼婦に無体を働いたことがバレでもしたら、出入り禁止になっちまうからなぁ!!」
男は狂った笑い声を上げながら、ミランダの白い背中に何度も教鞭を打ち続けた。マダムに叩かれた時は衣服越しだったけれど、今は素肌に直接鞭が当たる分痛みも強まり、傷も深くなる。
ミランダは男に言われるがままに息を漏らす程度で声を殺していた。しかし、次第に我慢の限界が訪れる。
「……痛いっ!!もうやめて……!!」
悲痛な涙声で悲鳴を上げてみたが、男は教鞭を振るう手を止めようとしない。それどころか、ミランダの苦しむ姿を見て悦に入ってさえいた。耐えきれなくなって膝がガクッと落ちる。
「おぉっと、ここで気絶されちゃ困るぞぉぉ」
男はベッドに突っ伏したミランダの腰を掴むと、唐突に後ろから突っ込んできた。
「……っっつ!!」
「痛いよなぁ!痛いだろうなぁ!!」
(そんなの当たり前でしょ!この状況であんたみたいな変態でない限り、無理よ!!)
背中の痛みに更なる痛みが加わる。完全に事が終わるまで、ミランダは何度か気絶しかけながらも仕事を切り抜けた。
そして一夜明け――、休憩室で煙草を吸いながら、ラム酒を瓶ごとラッパ飲みしているとフェイが話しかけてきた。
「ミランダってば、随分疲れた顔して。せっかくの美人が台無しねぇ。まぁ、大変だったみたいだから、無理もないわ。私の部屋まであんたの悲鳴が聞こえてきてさぁ、ダンテが一体隣の部屋では何が起きているんだって、しきりに気にしていたし」
「……それは悪かったわね。色々と邪魔したみたいで」
「いーえ。とりあえず、ダンテがマダムにあの変態男のことを密告したみたいだから、もうあんたの所には来ないと思うわよ」
「……そう。お気遣いどうも……」
ミランダは、酒瓶に映る自分とフェイの姿をそっと見比べる。
きちんと身なりと化粧を整え、明るい表情を浮かべているフェイに対し、下着の上にガウンを羽織っただけ、化粧は崩れて髪も乱れたまま、冴えない表情をしている自分。元の顔の造作は自分の方が遥かに優っているはずなのに、こうも変わるものなのか。
フェイを見ているとかつての自分を思い出してしまう。
五歳の時に母に売られ、十歳の頃から身を売る生活を送っていたミランダは、フェイと同様に金持ちに身請けされてこの世界から抜け出そうと必死に生きてきた。やがてダドリー・R・ファインズ男爵(当時はまだ爵位は継いでいなかったが)の専属娼婦となり、これで苦界から抜けだせるものだと信じて疑わなかった。
だが、実際は住む世界が百八十度違うダドリーの傲慢で冷徹な人間性に不信感と恐怖心ばかりが募っていき、彼と一緒にいると意思を抑え込まれた人形のような気分に陥る一方で。同時期に、ある青年と生まれて初めての恋に落ちたことも手伝い、金持ちに身請けされることが本当の幸せに繋がる訳ではない、と思い知らされたものだ。
高級娼婦ではない、吐いて捨てる程存在する一介の娼婦など、金持ちからしたらただの珍しい愛玩動物でしかない。飽きたら最後、いとも簡単に捨てられるのがオチ。
結局、一度娼婦に身を落とした女は一生娼婦として生きるしかない。
だから、ミランダは必死になるのは止めた。
わざわざ自ら命を絶つつもりはないが、かと言って、生きることに大して執着もない。ただ目の前にある物事を淡々とこなすのみ。それだけの話だ。
きっとフェイはまだ若いし、本気でダンテに身請けされたいと頑張っているのだろう。別に止めるつもりはサラサラないが、ミランダは無駄な努力に終わる気がしてならなかった。
「そうそう、イアンは元気――??」
「何で私に聞くのよ。彼は私じゃなくて、シーヴァの客なんだけど」
「だって、シーヴァはオシだから、まとも話ができっこないもの」
フェイの言葉にシーヴァへの侮蔑を感じ取り、ミランダは内心カチンときた。それでなくてもミランダはフェイのことが苦手だった。
一見、気風が良くサバサバした体だが、その実、得体のしれない粘着質な部分を端々に感じるから。
「まぁ、いいわ。もし、イアンと関わる機会があったら、たまには私を買ってよ、って言っておいて」
フェイは席を立つと右手をひらひらさせて、休憩室から去って行った。部屋を出る直前、ゴホゴホと妙な咳をこぼしながら。
二本目の煙草を吸い終わった後、ミランダは仮眠を取るべく二階の自室に戻ろうと階段を昇っていく。すると、一番上の手すり付近に若い男が立っていた。
あれは、フェイの上客であるダンテだ。
ミランダは軽く会釈を交わして前を通り過ぎようところ、突然ダンテに手首を掴まれた。
「まっ、待ってください!!あの、すみません!!ぼ、僕、一度貴女と話したかったんです!!」
「……はぁ……」
整った容貌、いかにも育ちが良さそうなダンテは、薄汚れた娼館には不釣り合いな程爽やかな雰囲気の青年だった。
「僕……、以前、大学の学友に誘われて歓楽街の酒場に繰り出した時、貴女の姿を見かけて……、一目惚れしてしまいました!調べたら、ここの娼館の方だと知って、貴女に会いたくて通い詰めているのです……」
ダンテはミランダから目を思い切り逸らしながら、頬を真っ赤に染め上げつつ尚も続ける。
「でも、僕は極度の恥ずかしがりで貴女を買う勇気がなかったんです。それで、この際、誰でもいいやと思ってたまたま買ったフェイの隣の部屋が貴女の部屋だと知って……。少しでも貴女の声が聞きたくて、姿を垣間見たくてここに入り浸るようになったんです!!」
ミランダは開いた口が塞がらず、ポカンと間抜け面を晒してしまった。晒さざるを得なかった。そうする以外、どんな反応を示せばいいのか分からなかった。
(……要するに、フェイは体よく利用されていただけだったのね……)
「……そうなの……。じゃあ、機会があったら、今度は私を買ってね」
「それは出来ません!!」
きっぱりと言い切るダンテにミランダはますます混乱するばかり。
「僕は、僕だけは貴女を汚してはいけない!!と思っているんです!!例えば、昨夜貴女に酷い事していた下衆な輩と同等になりたくないんです!!」
(やっていることは違えど、貴方がフェイにしていることも充分下衆よね……)
喉まで出かかった台詞を何とか飲み込むと、ミランダは無理矢理作り笑顔を浮かべてみせる。
「貴方のその気持ちだけで、私は充分嬉しいわ。ありがとう。でも、この話はフェイには絶対言っちゃ駄目よ??彼女が傷つくから」
「あの女の図太い神経が傷つくことってあるんですか??」
きょとんとした顔でミランダの顔を見つめるダンテに無性に腹が立つ。たまたまかもしれないが、富裕層の者は人を人と思わない、傲慢な生き物ばかりなのだろうか。
「彼女だって人間ですもの、傷つくこともあるでしょ。とにかく!貴方がフェイを差し置いて、私に声を掛けているところを誰かに見られでもしたら、私が困ることになるから。フェイが戻る前に早く部屋に入って頂戴」
「す、すみません!」
ミランダに諭されると、慌ててダンテはフェイの部屋に戻っていく。
「あぁ、面倒臭い坊やだわ……」
深い溜め息をつきながらミランダも自室に戻っていく。
そんなダンテとミランダのやり取りの一部始終を、洗面所の扉の隙間からフェイが覗き見ていたことを、二人は知る由もなかった。
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