第7話 それぞれが抱える罪

 ⑴


「神の慈しみを信頼し、貴方の罪を告白してください」


 細かい網目の格子戸を隔てて年老いた神父が語りかけてくる。告白を促されたイアンは軽く深呼吸をした後、口を開く。


「俺は……、至らない自分のせいで妻と娘を死なせてしまいました。だから、今後の人生で大切な人間は絶対に作るまい、ずっとそう思って生きてきたのに……。この手でどうしても守ってやりたいと思う人間が現れてしまったんです。こんな俺を、死んだ妻や娘が許してくれるとは思えません。家族を守れなかったお前がどうして赤の他人なんか守れる、思い上がるなと、天国で怒っているかもしれない。自分でもそう思っています……。なのに……、家族を死なせた罪を一生背負っていかなきゃならないのに、そいつを守っていきたい気持ちが日増しに強くなっていくんです。俺の罪は……、家族の死を忘れつつあることです……。そして、そのことを許されたいとすら思い始めてしまったことです……」


 イアンは妻子を亡くしたのは自分の至らなさが原因だと強く思い込んでいる。時々、その罪の意識に耐え切れなくなっては教会の告解室に訪れていた。

 彼は決して信心深い人間ではなかったが、この時ばかりは神にすがりたくなるのだ。実に身勝手なものだと思うし、こんな調子の良い奴など神も呆れ果てて救いなどしないだろうと、矛盾も感じている。それでも、イアンはどこかで何かしらの救いを求めては教会へ赴く。

 しばらくの間、告解室の中を沈黙が支配していた。やがて、しゃがれてはいるが凛としたよく通る声で、神父はイアンに問いかける。


「貴方は、一体誰に許されたいのですか??神ですか??亡くなられたご家族の魂ですか??それとも、今の貴方が大切にしたい方ですか??」

「分かりません。でも、多分、その全てかもしれません」

「貴方は今、神に試されているのです。ご家族を守れなかった分、その大切にしたい方を守ることは、神が貴方に与えた課題なのです。余計な邪念は捨て、与えられた課題を懸命に取り組みなさい。そうすれば神も、亡くなられたご家族も、貴方の罪を許すことでしょう。神の赦しを求め、心から悔い改めの祈りを唱えて下さい。神が教会の奉仕の務めを通して、あなたに赦しと平和を与えて下さいますように。私は、父と子と聖霊の御名によって、あなたの罪を赦します」

「アーメン」


 告解が終わると、イアンは神父から指示された償い――、再び悔い改めの祈りを捧げるべく、礼拝堂に足を踏み入れる。左右対称に七脚ずつ並ぶ長椅子の間、深紅の絨毯が敷かれたヴァージンロードの上を歩き、聖壇の前まで辿り着いた時だった。

 イアンより先に、聖壇に祀られた十字架の下で祈りを捧げている女がいた。

 シャツブラウスとえんじ色のスカート、服装は地味だが癖のないプラチナブロンドの長い髪に小柄で華奢な体つき、琥珀色の大きな猫目でやや童顔のその美女はミランダであった。

 ミランダは大きな瞳を更に拡げて真剣に祈りを捧げているので、隣に立ったイアンに全く気付いていない。イアンもイアンで、祈りを捧げるミランダの横顔が余りに美しく、不謹慎ながらつい見惚れてしまっていた。


「神様、私は何もいりません。その代わりに、彼を……、彼だけは幸せになって欲しいんです。それだけが、私が唯一願っていることです」


 彼とは、一体誰の事か。

 ダドリー・R・ファインズ男爵のことなのか。


 ファインズ男爵は爵位を引き継ぐと同時に、婚約していた伯爵家の令嬢と結婚した。すると、それまでの放蕩振りが嘘のように落ち着き、夫人とは仲睦まじいおしどり夫婦だともっぱらの評判だ。その証拠に、結婚四年目にしてすでに二人の子息を儲けている。

 富も地位も権力も美貌も生まれながらにして持っている上に、家庭まで上手くいっている恵まれた男、それも自分を捨てた男の幸せなど願ったりするだろうか。 少なくとも、もしイアンが彼女の立場ならば絶対に願わない。それとも、ファインズ男爵ではない、別の男性を想って祈っているのか。

 どんなに考えたところで、本当のことはミランダしか知りえないことだ。

 イアンは無駄に考えることをやめようと頭を切り替え、祭壇に祀られた十字架に向かって祈りを捧げた。


「イアンさん??」

 イアンの祈りが終わると共にミランダの方から声を掛けてきた。

「いつの間にここへ??こんなところで会うなんて奇遇ね」

「教会に来たのは二十分程前だが、ほんの少し前まで告解室にいたんだ」

「私は十分程前かしら。シーヴァも一緒に来ているわ」

「シーヴァも??」

 だが、シーヴァの姿は礼拝堂内を見渡してもどこにも見当たらない。

「あの子、『神様なんか信じていないから、私は中に入らない』なんて言って、入り口の前で待っていてくれてるの」

「なるほどねぇ。あいつらしいや」

 イアンは軽く鼻を鳴らして笑った。

「じゃあ、せっかくだから、あいつに会ってから帰ろうかな」

「そうしてあげて。絶対喜ぶと思うから」

「それはどうだろう」


 表情こそあまり変わらないものの、意外にミランダは話しやすい人物だった。ひょっとしたら、本当は気さくな性格なのかもしれない。

 二人は礼拝堂を後にして、外で待っているシーヴァの元へと共に向かった。


「シーヴァ、お待たせ」

 シーヴァは白い石畳で出来た入り口の階段に腰掛け、退屈そうに足をぶらぶらと遊ばせていたが、ミランダとイアンの姿を目にするとすぐに立ち上がった。

『どうしてイアンがここにいるの??』

「シーヴァとミランダが来る少し前に、告解室に来ていたから」

『意外。イアンって神様なんか信じるんだ』

「まぁ、そこまで信心深くないけど。それより、休みに一緒に出掛けるなんて、お前とミランダって本当に仲が良いんだな。まるで歳が離れた姉妹みたいだ」


 まだ幼いのに身を売らざるを得ないシーヴァを、自分以外で気に掛けてくれている人がいる。それが少なからず、彼女にとって救いになっていてくれればとイアンは願う。


「ねぇ、イアンさん。私とシーヴァ、これから教会の近くにある広場まで行くんだけど、良かったら一緒にどう??」

「こんなおじさんでいいのか??そりゃ、俺は両手に花だからウハウハだし、良いって言うなら尻尾振りまくってついていくけど」

 ミランダからの誘いに、迷うことなくイアンはすぐさま乗った。

『イアン、きもい。おじさんが尻尾振るとかって、想像したら怖いよ』

 すかさずシーヴァが眉間に皺を寄せてイアンの言葉の揚げ足を取る。

「おーまーえーなぁーー!!最近、どんどん言葉に棘が増してるぞ?!」


 目の前で繰り広げられる、親子程歳の離れたイアンを適当にあしらうシーヴァと、シーヴァにいちいち振り回されるイアンのやり取りにミランダは唖然としていたが、そのうちに「……ふふっ……」と噴き出した。その笑顔は、あどけない少女のようだった。


  教会から広場へと続く道沿いに長い銀色の幹をしたブナが並んでいる。ブナの遊歩道を三人は肩を並べて歩いた。真夏のこの時期、太陽の日差しを受ける緑の葉は光を反射し、光沢を放つ。眩しくてイアンは手を額に翳して目を細める。

 広場に到着後、イアンは屋台で自分とミランダにはビール、シーヴァにはサンドイッチと紅茶を買い、イアン、シーヴァ、ミランダの順でベンチに座った。シーヴァは空腹だったようで、がつがつと勢い良くサンドイッチにかぶりつく。


「こりゃ、いい食べっぷりだなぁ。でも、喉に詰まらすなよーー」

 笑いながらビールの瓶に口をつけるイアンにミランダは、「シーヴァはともかく、私の分までありがとう」と礼を述べた。

「いいって、いいって。この歳になってから綺麗なお嬢様方を引き連れて出歩くことなんて滅多にないし。俺はそれだけでも嬉しくてね」

『ひあん、だはりゃ、おひはんふはいっへ(イアン、だから、おじさんくさいって)』

「……シーヴァ、食べるか喋るか、どっちかにしろ……」


 口の中一杯にパンを詰め込んだ状態でもなお突っ込んでくるシーヴァの頭を、イアンはこつんと軽くげんこつで小突く。


「綺麗ねぇ……」

 ミランダが小さな声で独り言をそっと呟く。

「何か言った??」

「いえ、何でもないわ。あら、シーヴァ、左のほっぺたにパンくずがついているわ」

 ミランダはシーヴァの頬のパンくずを指で撮み、払う。

『ありがとう』

「いいえ」

 シーヴァはミランダの手を取り、彼女の掌に文字を綴る。

「いいわよ。行ってらっしゃい」

 シーヴァは幾分はしゃいだ様子で、中央にある大きな噴水に向かって駆け出した。

「あの噴水の周辺にいる、ジプシーの楽団の演奏が聴きたいんですって」

「そうか」


 イアンとミランダの二人だけベンチに取り残されたものの、会話が続かない。

 けれど、イアンはこの沈黙が決して苦痛ではなく、むしろ心地良いとすら感じていた。

 傍から見たら、自分とシーヴァとミランダは家族に見られてもおかしくないし、実際この場にいる人間の大半はそう見ているだろう。自分自身、気を抜くとそんな錯覚に陥りそうになる。そのくらい、シーヴァとミランダといると心が安らぐのだ。こんな気持ちは家族を亡くして以来、初めての事だった。


「イアンさん」

「何だ??」

「シーヴァのこと、大事にしてあげてくださいね。あの子はあんな場所娼館になんかいちゃいけない子だし、もっと幸せになるべき子だから」

「あぁ、分かってる。だけど」

 イアンはミランダの顔を覗き込み、大きな瞳を見据えた。

「お前さんは幸せになりたくないのか??」


 琥珀の双眸に一瞬、動揺が走る。それを悟られたくないからか、ミランダはイアンからさっと目を逸らした。


「私には……、そんな資格は、ないから……」

「娼婦だから??自分が汚れているから、そんな資格がないとでも??娼婦が汚いなんて誰が決めたんだ。少なくとも、俺には我が身を削って必死に生きるお前さんが汚いだなんて思ったりしない」

「……貴方は、とても真っ直ぐな人なのね。だから、シーヴァは貴方をあんなに慕っているのね」

「どう見ても、馬鹿にされているとしか思えんが……」

「照れ隠しみたいなものよ」


 ミランダはうっすらと微笑む。だが、すぐに表情を曇らせた。


「昔……、一人だけ、たった一人だけ、心から愛した人がいたの。でも、当時、私はあの男爵の囲われ者だったから……。彼と一緒にこの街から逃げ出そうとしたけど……、結局捕まって連れ戻されてしまった。その時、彼はあの男爵の手下に酷い暴行を受けて……」

「まさか……、殺されたとか……、って、すまん。嫌なことを聞いた」

 ミランダは力なく首を横に振る。

「分からないの。生きているのか死んでいるのかも。生きていたとしても酷い怪我を負ったかもしれないし。彼は娼館の客でも何でもない、この広場で知り合った人だった。私と関わらなければ、あんな目に遭わなかったのに」


 ミランダも大切な人を失い、そのことを自分のせいだと自身を責め続けて生きていた。彼女が酒に溺れ他人に心を閉ざしがちなのは、イアンと同じく人生に失望しているからに違いない。


「ごめんなさい、貴方にこんな話して」

「いや、気にすることはないさぁ。俺も似たようなもん抱えているし……って、いってぇ!!」

 いつの間にかベンチまで戻ってきたシーヴァが、イアンの背後に周り込んで頭を思い切り叩いてきた。

「おーまーえーはぁ……、俺が何したっていうんだよ?!」

『いくらミランダが美人だからって、鼻の下伸ばしてきもい!昼間からみっともない!!』

「あのなぁ……」


 もはや言い返す気力も失せているイアンを無視して、シーヴァはミランダの掌に『そろそろ夕方になるから、もう戻ろうよ』と綴って帰りを急かす。


「そうね、じゃあ店に戻ろう。イアンさん、今日は色々とありがとう」

「いいえーー、って、俺は別に何もしちゃいないけど。あ、良ければ店まで送らせてくれ」

『何??そんなにミランダが気に入ったの??』

「違うって……。どうでもいいけど、お前、今日はいつになく俺に突っかかってくるよな……」

「たぶん妬いてるんじゃない??」

『ちょっ……、ミランダ!!そんな訳ないでしょ!!やめてよ!!』

 シーヴァはミランダの掌に文字を綴るのも忘れて、泡を吹きそうな勢いで口をパクパク動かした。

「シーヴァ、ごめん。私は唇の動き読めないから……」

「まるで姉妹喧嘩だなぁ」


 焦るシーヴァと、シーヴァを揶揄うミランダの姿をイアンは呑気に眺めていた。




(3)


 

「あら、珍しい組み合わせ。イアンってば、シーヴァの次はミランダを買うつもりなのぉ??あんた、いつの間に移り気な男になったのよー」


 店まであと少しで到着、というところで三人はフェイとばったり出くわした。

 何が可笑しいのか、フェイは一人でケラケラ笑ってみせたが、直後、ゴホゴホと苦しげに激しく咳込んだ。


「フェイ。大丈夫か??」

「ありがと。ちょっとした夏風邪かもねー」

「医者は行ったのか??」

「風邪くらい、何てことないわよ。それにダンテがね、今度良い医者に診せてあげるって言ってくれるし」


 ダンテとは、フェイの元へ通っている豪商の跡取り息子の事だ。

 フェイのことを相当気に入ったようで、今では自分の専属娼婦として破格の待遇で扱っている。もしかしたら、身請けされる日も近いのでは……、と噂になる程に。


「それなら良いけど……。フェイ。咳が出て辛いかもしれんが、阿片チンキだけは使うなよ、絶対に!」

 いつになく切迫した様子で忠告するイアンの姿に、フェイもミランダもシーヴァも息を飲んで押し黙った。

「分かってるって。あんたから話を聞いてからは使わないようにしているし、他の人にも伝えているわ。勿論、イアンの名前は言わずに」

「そうか。わざわざありがとうな」

「いいえ、どういたしましてー」


 フェイはスカートの裾を翻し、ミランダ達より一足早く店の中へと入っていった。


「貴方は本当に優しい人なのね」

「そうか??」


 店の手前まで二人を送り届けると、イアンは二人に別れを告げて立ち去っていった。店先でイアンと別れる直前、ミランダは彼に告げようと思いつつ、結局告げられずにいたことがあった。


 フェイには気を付けた方がいい、彼女は貴方が思っているよりずっと複雑な人間だ、とーー

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