第6話 おやすみなさい
「あれ――??もう戻って来たのか??」
シーヴァが部屋に戻ってくると、ベッドの上でだらしなく寝そべっていたイアンは顔だけ上げて呼びかけた。
『今、貴女が一番優先させるべきことを疎かにしちゃ駄目、って、ミランダに叱られちゃった』
「……そうかぁ……」
『ごめんね』
「何が??」
『お客さんのイアンをずっと放っておいて』
「俺が行ってもいいって言ったんだから、気にしなくてもいいのに」
よっこらしょっ、と起き上がるイアンにシーヴァが『イアン、年寄りくさい』と顔を顰めて注意してきた。
「おっさん通り越して爺さん扱いかよ……」
声が出ずとも憎まれ口は健在なシーヴァにげんなりするが、苦界で生きる中でも以前と変わらない様子に、内心イアンは安堵している。
イアンが週に三、四日の割合でシーヴァを買うようになってから、すでに四カ月半が過ぎていた。始めのうちは、ミランダにしていたようにイアンの掌にシーヴァが指で文字を綴って意思の疎通を量っていたが、いつしかシーヴァの唇の動きを読んで会話するようになった。最も、慣れるまでに少し時間を労したので、今みたいに会話が滞りなくできるようになったのはごく最近の事だけれど。
「じゃあ、今日はこの本を一緒に読むか」
枕元に置かれた本を広げると、待ってましたとシーヴァはベッドの上に乗っかり、イアンの隣で共にに頬杖をついて寝そべった。
『今日はどんな本??』
「救貧院を脱走した少年がたくさんの困難にもめげず、幸せを掴み取るって話らしい」
『らしいって何よ。イアンは読んだことないの??』
「この本は知らん。貸本屋のオヤジに、十歳くらいの子供に読ませるにはどれがいいか聞いたら、これがお勧めだと言われて借りてきただけだ」
『ふーん』
シーヴァはまだ何か言いたげな顔をしていたが、イアンがページを捲り出すと文面に目を落とし、それからは本を読むことに集中し始めた。イアンは文字を何となく目で追う程度に軽く読んでいただけだが、シーヴァは真剣そのもの。夢中になって本を読んでいる。時折、読めない字や意味の分からない言葉が出てくると質問するくらいで、あとはずっと黙っていた。
もしも学校に通っていたら、シーヴァは勉強が好きになったかもしれない。そんなことをボーッと考えていると、シーヴァがイアンの目をじっと見つめてきた。
「また分からない言葉が出てきたか??」
『イアンは意外と頭良いよね??』
「意外って……。失礼な奴だなぁ」
『これでも褒めてるのよ。だって、字の読み書きどころか難しい言葉もたくさん知っているし。学校に行ってたの??』
「いいや??ただ、俺がガキの頃、学校の教師をしていたっていう爺さんが近所に住んでいてさ。棺桶作りの手伝いの合間に、その爺さんに字の読み書きや計算とか、色々教えてもらっていたんだ」
『そうだったの』
質問が済むとシーヴァは再び本を読み始めたが、睡魔に襲われ始めてもいた。その証拠に、大きな欠伸をやたらと繰り返している。
「シーヴァ、眠いんだろ??この本はしばらく借りているし、次に俺がここへ来た時にまた読めるから、今夜はもう寝るぞ」
本を閉じてカンテラの灯りを消し、向かい合う形でベッドに横たわる。シーヴァは余程眠たかったのか、横になった途端すぐに深い眠りに落ちてしまった。
(やれやれ、こうやって寝ている分には可愛いんだけどなぁ。口を開けば、すぐに憎まれ口ばかり叩きやがる)
すぅすぅと規則正しい寝息を立てるシーヴァを起こさないよう、彼女の額にかかる前髪を指先で払いのけると柔らかい黒髪を優しく何度も梳いた。自分の前では安心しきって眠っているが、そうじゃない時はちゃんと眠れているのか。幼い寝顔を見る度、いつも不安に駆られる。本当は毎晩でもシーヴァを買いたいと思っているが、正直な話、シーヴァは他の娼婦と比べると値が張るので、週三、四回でも少々無理をしているくらいだ。
もしも自分がもっと裕福であったなら、今すぐにでも身請けしてやりたい。娼館のマダムにも直談判してみたが、提示された身請け金が自分の稼ぎでは到底及ばない程のとんでもない額だった。
こうなったら、何年かかってでも金を溜めるしかないとも考えた。しかし、その間にシーヴァの身に何か起こらないとは限らない。万が一梅毒などに罹患してしまったら最後、娼館を追い出されるし、最悪死に至ってしまう。
悩んだ末にイアンが出した答えは、毎晩は無理でも週の大半を自分がシーヴァを買うことで、彼女が安心して眠れる時間を少しでも与えてあげることだった。
ふいにシーヴァがイアンのシャツの襟をキュッと掴んできた。寝ぼけてんのか、こいつ。可愛らしい行動に思わず目を細めていると、シーヴァがゆっくりと目を開いた。
「おっ、悪ぃ。起こしたか……」
次の瞬間、イアンの眠気は一気に吹き飛ぶこととなった。シーヴァが顔を近づけてきたかと思ったら、不精髭がぽつぽつ生えた頬に自身の唇を押し付けてきたのだ。それはほんの一瞬程度の短く軽いものだったが、彼を驚かせるには充分であった。
「シーヴァ。これは一体、何の真似だ??他の客はともかく俺に対してこういうことは無理してしなくてもいいんだぞ??」
イアンは努めて冷静に諭したが、シーヴァは目をとろんとさせて(おそらく半分寝ぼけている)こう言った。
『おやすみなさいのキスだよ』
「は??」
『小さい頃に、死んだお父さんによくしていたの』
「…………」
ただの挨拶代わり、親子間のスキンシップをしたかっただけのようで、思わず拍子抜けする。
「まぁ、そういうことなら別に良いけど……って、すでに寝落ちかよ」
イアンのシャツを掴んだまま眠るシーヴァは、さっきよりも幾分幸せそうな顔をしていた。
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