第5話 ミランダという女

 ⑴


  ある日の夕刻――、店が開く少し前の出来事だった。


 ちょっとした野暮用で外出していたミランダが二階の自室兼仕事部屋に戻ると、何者かが部屋の中を勝手に物色していた。背中をこちら側に向けてしゃがんでいるので誰かまでは特定できないが、どう見ても店の娼婦仲間のようだ。

 女は、部屋の隅に置いてあった大きな黒いトランクの鍵を無理矢理こじ開けようと試みていたが、上手くいかず目に見えて焦っている。早くしないとミランダに見つかってしまうと思っているのだろう。(すでに見つかっているけれど)


「そのトランクはダイヤルロック式なの。暗証番号の数字をダイヤルで回さない限り、何をしたって無駄よ」 

 背後から突然ミランダに声を掛けられ、女は飛び上がらんばかりの勢いで驚き素早く後ろを振り返った。そこには、冷ややかな表情で女を見下ろしているミランダが佇んでいた。

「えっと……、今月、私、部屋代の支払いがヤバくてさ……。ほんのちょっとでいいんだ、ちゃんと来月返すしさ、ね??」

「何で、事後報告な訳??普通は、私に事前に話して許可を得なきゃいけない話でしょ??」

「だって、あんた、部屋にいなかったし……」

「で、勝手に私の部屋から金を持ち出そうとした訳。それって、ただの泥棒よね??」

「あんたが戻ってきたら言うつもりだったし!後で金も返すよ!!」


 女は謝りもしないどころか、何処までも自分の行為を正当化しようと食い下がってくる。ミランダは余りにも情けなくなり、まともに相手をするのがだんだん馬鹿らしく思えてきた。ミランダの気持ちを知ってか知らずか、女は尚もまくし立てる。


「いいじゃないか、ちょっとくらい!どうせ、トランクの中身は男爵様からの手切れ金なんだろ??四年も前に貰った金をいつまでも後生大事に取って置くことに何の意味があるのさ??墓場まで持っていくつもり??」

「えぇ、そうよ。悪い??」

 はっきりと肯定するミランダに、女は信じられないと言わんばかりに口をあんぐりと開け、間抜け面を晒した。

「何それ?!信じられない!!未練がましいにも程があるんじゃないの?!あんた、意外と重たい女だね。そんなんだから男爵様に捨てられたんでしょ……」


 女がみなまで言い終わらない内に、一本の酒瓶が眼前に飛び込んできた。咄嗟に身を竦めた瞬間、瓶は真横の壁にぶち当たり真っ二つに割れた。その二つの破片は更に床に落ちた衝撃で粉々に砕け散る。


「それ以上男爵の話題を続けるようなら、今度は貴女に向けて瓶を投げるわよ」

「……なっ!……」


 扉の近くのテーブルの上、大量に並んだ酒瓶の中から空瓶を一本掴むと、ミランダは大きな猫目を吊り上げて女を睨み付ける。以前、イアンに向けたものとは比べ物にならない程の獰猛さに加え、とてつもない狂気を孕ませていた。


「ちょっと!今の音は何なのよ!!……って、あんた達、一体何やってんだよ!!」

 騒ぎを聞きつけた何人かの娼婦仲間がミランダの部屋になだれ込んできた。

「聞いておくれよ!ミランダってば、酷いんだ!!ちょっと話があって部屋に入っただけなのに。ろくに話も聞いてくれずにいきなり酒瓶を投げつけてきたんだ!!」

「はぁ?!貴女、何を言って……」

「この女、アル中だろ??もしかして、すでに酒が入っていたのかもしれないけど、それにしたって……」

 女はわざとらしく身震いする振りをして、これでもかと嘘を並べ立てる。

「さっきから黙って聞いていれば、嘘ばっかり……。元はと言えば、貴女が……!!」

「嘘つきなのはどっちだか」

「えっ……」


 気付くと、その場に集まった娼婦全員がミランダを白い目で見下しながら、彼女の一斉に取り囲んでいた。


「言っておくけど、この店であんたの味方する女は誰もいないよ」

「別にクララの言っていることが本当か嘘かなんてどうでもいいのさ。あんたを痛い目に合わせることが出来ればいい」

「娼婦同士の諍いは罰としてマダムに鞭で打たれるのよ。今回の場合、傍から見たら完全にあんたに非があるし、あんた一人で罰を受けることになるわね」


 娼婦達は厭らしい笑みを浮かべて目配せし合うと、一斉にミランダを取り押さえにかかった。ミランダは必死で抵抗を試みるも多勢に無勢では到底敵うはずもない。引きずられるようにして一階のマダムの部屋へと連れていかれてしまった。







 ⑵


『僕はリカルド。君は?』

『ミランダかぁ……。綺麗な君にぴったりの名前だね』


 違う。私はちっとも綺麗な女なんかじゃない――

 綺麗だったのは、貴方の瞳と真っ直ぐな心だった――


『……違うよ。君は傷つきやすい綺麗な心を守ってるだけさ』



 彼に会いたい。


 でも、私にはもうそんな資格すらない。








 意識を取り戻したミランダが最初に目にしたものは使い古されたシーツとぺしゃんこに潰れた枕、自室のベッドにうつ伏せで寝かされていた。

 目線だけでベッドの周りを見渡そうとして、頬にひやりとした感触を受ける。枕元には水を張った洗面器が置いてあり、ベッド脇に座るシーヴァが濡らした布でミランダの額や頬に浮かぶ汗をそっと拭っていた。


「……シーヴァ??」


 ミランダはシーツを捲り上げて身を起こそうとしたが、皮膚が引き攣るような、激しい痛みが背中を襲ったため小さな声で呻く。そんな彼女をシーヴァは無理をするなとでも言うように、両手でミランダの肩を軽く押さえながらそっとベッドに寝かし直す。


 あの後――、娼婦仲間達にはめられてマダムの部屋へと連れていかれたあげく、「酔った勢いで、何の罪もないクララに暴力を振るった」と言う嘘をまんまと信じ込んだマダムから罰として二十回も鞭で打たれたのだった。

 確かに、ミランダは稼ぎの大半をつぎ込むくらい酒に依存していたし、クララに酒瓶を投げつけたのは事実なので言い逃れの余地などない。しかし、元を質せば、クララがミランダの隠し財産を盗もうとしたことが原因なのに、元凶である当のクララは何のお咎めなしなのだ。

 それだけ自分は周りから嫌われているのだろう。ミランダは自嘲気味に鼻を鳴らした。


「シーヴァ、私はもう大丈夫だから。貴女は自分の仕事をしに行きな」

 シーヴァは首を横に振ると、ミランダの掌に文字を綴る。

「今日の客はイアンさんなの??」

 シーヴァはこっくりと頷き、再び文字を綴る。

「そう……。自分のことはいいから、私の介抱をしていろと、彼が言っていたのね……」

 シーヴァは再び、頷く。

「だけど、いくらイアンさんが許可したからと言っても、彼は決して安くない金を払ってわざわざ貴女に会いに来ているのよ。なのに長時間放っておくなんて、彼に対して余りに失礼だわ。私を気遣ってくれるのは嬉しいけど、仕事は仕事。そこはちゃんとしなさい」

 ミランダの厳しい言葉に、シーヴァは見るからにシュンと落ち込んでしまった。

「そんな顔しないで。貴女の事が憎くて言っている訳じゃないの。ただ、今、貴女が一番優先させるべきことを疎かにしちゃ駄目、ってことが言いたかっただけ。シーヴァは賢い子だから、分かってくれるわよね??」

 シーヴァは、コクコクと小刻みに首を何度も揺らして頷く。先程までの落ち込んだ様子はすでに消えている。

「その顔つきからすると、分かってくれたみたいね。じゃあ、早くイアンさんの所へ戻りなさい」


 大袈裟なまでに大きく頷くと、ミランダを気に掛けるように何度も何度もベッドを振り返りつつ、シーヴァは部屋から出て行ったのだった。

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