第2話 シーヴァという少女①
⑴
イアンが初めてシーヴァと出会ったのは今から三か月前、クリスマス時期の歓楽街だった。その日、仕事が早く片付いたイアンは日暮れまでには少し早い時間帯にも関わらず、いつものように娼館に向かうために歓楽街へと繰り出していた。
イアンは腕の良い棺桶職人で、この街の中産階級以下の人々の棺桶はほぼ彼が作っていた。裕福とまではいかないものの食うには困らない生活を送っていたし、彼は独り身だったのである程度の時間と金の融通が利く。安い娼館の、それほど人気のない娼婦であれば毎晩だって買えるし、実際仕事が立て込んでいない限り、イアンは毎晩のように娼婦を買っている。
この街の住居は赤煉瓦造りや白い石造りの建物が特徴で、歓楽街の娼館や酒場なども例外ではない。店に入る前に看板をしっかり確認しないと違う店に入り込んでしまう場合がある。とはいえ、イアンの場合、少なくとも二年はこの歓楽街に通い詰めているので滅多に間違えることはないけれど。
だが、その日に限って、彼はいつもならば右に曲がるはずの角を左に曲がってしまった。真っ黒に錆びついたドアノッカーが取り付けられた古いアパートと、小さな花屋との間の路地で、人だかりに囲まれた一人の少女が歌うクリスマス・キャロルが聞こえてきたからだ。
音楽には余り興味のないイアンですら思わず足を止めてしまう程、少女は歌が上手かった。声量や音程、抑揚などの技術的な部分は元より、子供が歌っているとは思えないくらいの深い情感が溢れている。歌の上手さに加えて、少女の真っ黒な髪と切れ長の瞳をしたエキゾチックな顔立ちという異邦人を思わせる容姿がまた人目をよく引いた。しかし、最初はもの珍しげに集まっていた人々だったが、少女が一曲歌い終わるごとに徐々に一人二人と去っていき、最終的にはイアン一人だけが彼女の歌に耳を傾けていた。
だが、イアンの目的は娼館に行くことであって、子供の歌を聴くために歓楽街に来た訳ではない。名残惜しいけれど、そろそろこの場を離れようか。
少女が歌い終えるとイアンは短い拍手を送り、ポケットから出した金貨を一枚、少女に向かって放り投げる。少女は慌てた素振りでそれを受け取ると、切れ長の瞳をぱちくりさせてイアンの顔を見つめた。よく見ると少女の瞳はハシバミ色で、肌も抜けるように白い。混血児かもしれない。
「いいもん聴かせてもらった礼だよ」
「あ、ありがとう……」
「お嬢ちゃん、家はあるのか??親は??」
「…………」
歌の感想ではなく、いきなり家や家族の有無といった込み入った話をされたからか、少女は途端に警戒心を剥き出しにさせて口を閉ざしてしまった。
「あぁ、別に深い意味なんかないよ。ただ、子供がこんな歓楽街で物乞いじみた真似をするのは、もしかしたら、家や親がいないのかと……」
「……別に、私に家や親がいようがいまいが、おじさんには関係ないでしょ」
「まあ、確かにそりゃそうだ。俺には関係ねぇなぁ」
どうやらこの少女は気が強く、ぶっきらぼうな口調も相まって少々生意気そうだ。そんな少女に向かって、イアンはやれやれと苦笑する。
「お嬢ちゃん、いつもここで歌っているのか??」
「そうだけど」
「じゃ、俺、これから毎日お嬢ちゃんの歌聴きに行こうかな。おじさん、お嬢ちゃんの歌、気に入っちまってさ」
「…………」
少女は眉根を寄せて、思い切り不信感を露わにさせている。
「…………おじさんさ、もしかして、幼女趣味??」
「……は??」
「大人の癖に、子供にしか興味持てない変態」
「……どこでそんな言葉覚えたんだ……」
まったく、最近の子供は……、と、イアンは額に手を押し当てて嘆いた。
「俺は大きいお姉さんにしか興味ないよ」
「ふーん。なら、好きにすれば??」
完全に、イアンは少女から馬鹿にされている。
「じゃあ、好きにする」
「その代わり、歌を聴いてくれる人の邪魔にならないようにしてね。こっちも商売なんだし」
「その割に、俺以外の見物人は金出してくれなかったよな」
このままやられっ放しなのも何だか癪なので言い返してやったところ、少女は口をへの字にひん曲げて睨み付けてくる。
(こういう部分はまだまだ子供だな。……そう言えば、娘も気に入らないことがあるとすぐに拗ねて怒る子だった……)
少女と接すれば接する程、自分の死んだ娘の姿と重ね合わせてしまう。
「お嬢ちゃん、名前は??名前くらいは教えてくれるだろう??」
一瞬沈みかけた心を浮上させるように、気を取り直してイアンは少女に尋ねる。
「……シーヴァ。シーヴァって言うの」
「変わった名前だな。あ、別に変ってことじゃなくて、あんまり聞かない名前だと……」
「……私、別に何も言ってないよ。……お父さんが付けてくれた。遠い昔の、異国の女王様の名前なんだって。お父さんは、その異国で生まれた人なの」
「何だ、ちゃんと親父さんがいるじゃないか……」
「今はいないよ」
イアンの言葉を遮って、少女ははっきりとした強い口調で吐き捨てた。
「一年前に死んだ」
「そうか……、それは辛かっただろう」
「…………」
大方、母親の稼ぎだけでは生活が苦しいので、こうして街頭で歌を唄って少しでも生活費の足しにしようとしているのだろう。
イアンはポケットの中から、もう一枚金貨を取り出してシーヴァに手渡そうとしたが、彼女は顔を強張らせて受け取らない。
「お金が欲しくて話した訳じゃない。それに、おじさんだって家族がいるでしょ??自分の家族の為に使いなよ」
「家族なんていない。妻も娘も三年前に死んじまって、今は独りだ」
「…………」
「俺が金持ってたって、どうせ娼婦を買うことぐらいにしか使わないから」
イアンは自嘲気味にシーヴァに笑いかけると、強引に彼女の小さな掌の中に金貨を押し込んだ。
「……ありがとう……」
シーヴァは複雑そうな表情を見せたが、今度は素直に受け取った。
「……ねぇ、おじさん。おじさんの名前は何て言うの??」
「イアンだよ」
「イアン……さん??」
「うーん、さん付けだと何だかお堅い紳士みたいでこそばゆいから、イアンって呼び捨てでいいや」
「大丈夫。イアンはどう見ても紳士じゃなくて、下町の、くたびれて疲れ切ったおじさんにしか見えない」
「……おい、やけに順応早くないか??」
物怖じしない強気な態度にたじろぐイアンを見て、初めてシーヴァは年相応の明るい笑顔を見せたのだった。
⑵
「……夢か……」
フェイと抱き合った後、いつの間にか眠ってしまったようだ。
「あら、起きたの」
イアンが眠っている間に衣服と化粧を整えたフェイが、彼の顔を覗き込む。
「あぁ、俺……、寝ちまってたけど……。やべっ、もう二時間経っちまったか!?」
イアンは焦ってベッドから飛び起きる。
この娼館の娼婦が客を相手する時間は一回につき二時間、それ以上は一時間ごとに延長料金を支払わなければならない。勿論、後に客が控えていたら延長は出来ないし、人気のある娼婦だと一回につき一時間、延長なしだったりもする。
「なぁ、フェイ。この後、明け方の五時まで延長できないか??」
現在の時刻は深夜一時過ぎ。五時までに四時間ある。
「別に出来ないことはないけど。また始まったのね」
「何が??」
「イアンの、『夜中に独りで家に居たくない病』」
妻と娘を亡くして以来、イアンは夜一人で家で過ごすことが苦痛で仕方なくなっていた。
仕事の注文が立て込み、夜通し棺桶を作っている時ならともかく、それ以外では一人で暗く長い夜が空けるのをひたすら待つことが辛かった。
夜の闇は大嫌いだ。考えなくてもいいこと、普段は忘れている、もしくは忘れたつもりでいることばかりが浮かんでは消え、浮かんではまた消え、それがずっと繰り返される。
特に、死んだ妻と娘のことーー、あれは不幸な事故だった、知識がなかったのだからーー、と何度人から慰められたことだろう。どんなに自分の不甲斐なさを嘆き、憤ったことか。だが、そんなことをしたところで二人は永久にもう戻ってこない。
娼館に通い詰めるのも、女好きが高じたから、なんかじゃない。
家以外の場所で誰かと――、例え金で買った女だとしても――、夜明けが訪れるまで誰かと一緒にいればこんな不安を感じるようなことは起こらない。
フェイはそんなイアンの気持ちを汲み取ってくれる、数少ない女だった。
だからこそ、イアンは彼女のことを一年以上もの間ずっと指名し続けている。
「多分、良いって言うと思うけど、マダムに延長の許可貰ってくるわ」
フェイがマダムに掛け合いに行くために部屋から出て行こうと、ドアノブに手を掛けた時だった。
隣の部屋から、「はうぅっ……!」という何とも間の抜けた男の大きな嬌声が聞こえてきたかと思うと(この娼館の壁は薄いので、大きな声は隣の部屋に筒抜けになってしまう)、「あぁ……、もっと強く叩いてくれぇぇ!!」と叫び出したので、イアンはぎょっとしてフェイと顔を見合わせた。
「ミランダの常連客の一人じゃないのーー??大方、布団叩きで尻でも引っ叩かれてるんでしょ。彼女、客のどんな要望でも応えるから、時々変わった趣向の客が来るみたいだし」
フェイは顔色一つ変えず、平然と答えるとドアを開けて部屋から出て行った。部屋にポツンと一人取り残されたイアンは急に気分が落ちかなくなり、ベッドから抜け出すと意味もなく部屋の中をグルグルと歩き回る。隣の部屋からは、相変わらず男の間抜けな嬌声が聞こえてくる。
何が悲しくて変態男の喘ぎ声を聞かねばならんのだ。そう思ったイアンは部屋を出て、手洗に用を足しに行くことにした。
確か、同じ階にも手洗があったはず……、と、それらしき部屋を探し回るとフェイの部屋から廊下を挟んだ五部屋先にあった。だが、すでに誰かが先に入っていて、僅かな扉の隙間からカンテラの灯りが洩れている。仕方なく、イアンは扉の前で先客が出てくるまで待つことにした。すると、思ったよりも早く、先客が出てきた。
「おぉ、まさかこんなところでお前さんに会うとはな……」
手洗から出てきたのはシーヴァだった。
イアンはなるべく動揺を悟られないよう、努めていつも通りの態度で接しようとしたが、彼の顔を見た途端、危うくカンテラを手から落としそうになる程にシーヴァは驚いていた。そして、慌ててイアンの前から逃げ去ろうとした。
「待ってくれ、シーヴァ!」
イアンは咄嗟にシーヴァの手首を掴む。シーヴァはイアンの手を必死で振り払おうとするも、大の大人の男の力に敵うはずもない。
「シーヴァ、俺だよ。イアンだよ。もしかして、忘れたのか??」
シーヴァは、身体をブルブルと震わせながらも、首を激しく横に振り続ける。
「覚えてるよな??」
今度は、こくこくと壊れた玩具のように縦に首を振り続けた。
「一か月半前に突然消えちまって……、心配していたんだよ。なぁ、お母さんはどうしたんだよ??」
シーヴァは答えない。
「なぁ、お前どうしちまったんだ??何とか言ってくれよ??あの生意気な減らず口でも何でもいいから……!」
すると、シーヴァはようやく口を開く――が、唇はパクパクと動いているものの、声が全く聞こえなくて何を言っているのかさっぱり分からない。それでも、シーヴァは唇を動かして、イアンに一生懸命何かを訴えかけてくる。
イアンは最初訳が分からないとばかりにただ茫然としていたが、次第に冷静さを取り戻していくにつれ、あることに気付く。
「シーヴァ……。お前……、もしかして、声が出ない……のか??」
シーヴァは、イアンのだらしなく伸び切った前髪に隠れている薄いブルーの瞳をしっかりと見据え、ゆっくりと首を縦に振ったのだった。
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