第133話 限界と無限

 直史は昨年のポストシーズンの試合の中で、地平線まで何もない形而上の世界を感じた。

 あれこそがまさに、無限の世界ではなかったのか。

 ただ実際は、やはり限界はあったのだと思う。

 あの世界を知った自分が、今はこんな状態にあるのだから。

 おそらくあの地平線の彼方が、死の世界だ。

「とまあ、ゾーンの世界のさらに先に、そういう世界が待っている」

「それはまた」

「そもそもゾーンってなんなのさ」

「あれ? 英語でもなかったっけ?」


「ボールが止まっているように感じた」

「時間がゆっくり流れているようだった」

「相手選手の動きを手に取るように把握できた」

「考えるまでもなく体が勝手に動いた」

「戦っている自分の姿を空から俯瞰しているようだった」


 こういった感覚が、俗に言われるゾーンである。

「ああ、フローのことか。ゾーンっても言ってたな」

 昇馬はそう理解した。

 たとえばキャンプ中に崖から落ちかけて、超高速で思考するのと同じようなものであろう。

 咄嗟に草や木の枝を掴んで、死なずに済んだものである。

「集中力を自分自身で制御するんだな」

「多分司朗は、もうそれを経験してる」

「あ~、俺もバッティングの時、そういうのあるかな」

 直史と大介に言われて、昇馬もそれを思い出す。


 集中力が極まった時に起こる。

 昇馬の場合はだいたい、バッティングの時である。

 ピッチングの時は、特にそんな集中をしなくても打たれないのだから。

「ゾーンのさらに先が無限って、なんだか面白い感覚だな」

「うん? ああ、ゾーンって確かに範囲のことだもんな。どうしてこういう名前になったんだろ」

 大介としては少し不思議だが、直史にはどうでもいいことだ。




 直史がトランスと呼んでいるあの状態は、ゾーンとは少し違うような気がする。

 それでも本質的には、同じものなのかもしれないが。

 万能感、森羅万象の把握。

 そんなものが出来ていたら、確かに無敵の能力に近いだろう。

 だが人間の脳が、そんな情報量を処理できるはずもない。

 しかし集合的無意識などが本当に存在しているなら、それを通じて全てを把握出来ていてもおかしくはない。

 あくまで仮定に仮定を重ねた上の話だが。


 スポーツとは本来、人間の肉体の限界に近づくものであろう。

 だが直史は脳というか、脳をコントロールする精神の限界に、近づいているものだと思う。

 全く別のやり方で、野球をやっている。

 もちろんそんなものが可能な、技術を持っているのが前提であるが。

 なるほど他のピッチャーやバッターが、敵わないはずである。

 おそらく野球というか、スポーツの領域の一つを突破してしまったのだ。

 他に真似できる者が、いつかは出てくるのだろうか。


 しかし昇馬としては、それにどうしてバッターが手も足も出ないのか、それがちょっと分からない。

 それにこの間は、司朗が簡単に打っていた。

 つまり必殺技のようなもので、安易には使えないということだろうか。

 男の子としては燃えるものがある。

 とは言ってもまず、昇馬は変化球を使えるようになっていく。


 あの両親の息子なのだから、なんでも出来ても不思議ではない。

 ただスイッチヒッターでスイッチピッチャーという時点で、既におかしいのか。

 長打力を考えれば、あまり大介に似たバッティングではない。

 しかし高校までであれば、四番でピッチャーというのが務まるであろう。

 大介はほとんど四番など打ったことはないが。




 直史の今年の調整は、なかなか上手くいかない。

 去年のシーズンで消耗した分を、確かに回復させようとした。

 しかし休みすぎた面もあり、実戦感覚が戻らないと言うべきか。

 モチベーションの低下というのも、その一つにはあるだろう。

 もう直史には、ただ自分が勝ちたいという以外に、野球をする意味がない。

 そして去年、負けた瞬間は腹が立ったが、今はもうその感情はない。


 打算があって、野球に向かっている。

 そんな自分を直史は理解して、やはりモチベーションの問題だと結論付ける。

 ある程度の惰性すらもあるだろう。

 ただし妥協はないので、3Dとは言わない。

(体力が想像以上に落ちていたというか、これは筋力か)

 体重はしっかりと、元の通りに戻っている。

 そのくせ体が上手く動かないのだから、筋肉が落ちて贅肉が増えている。

 正月明けなので、ある程度は当たり前のことかもしれないが。


 直史の肉体は、これまではおおよそ正月明けだろうが、即座に臨戦態勢に入っていた。

 そう、去年の五年ぶりの復帰の時も。

(これは思っていたより深刻な事態なんじゃないか?)

 アメリカの病院では、過労と診断されたが。

 血液検査の結果では、少なくともそう診断された。


 SBCの施設を使って、身体能力の検査を行う。

 去年の復帰前のデータなどと比較してみれば、瞬発力やバランス感覚が、かなり落ちているのが確認された。

 上杉と約束した、この球界の未来を次につなぐという役割。

 だがそれは今の自分では出来ないのではないか。

(参ったな。これで八億もらってたら金の無駄じゃないか)

 去年の分の働きだと思うべきかもしれない。




 圧倒的なフィジカル差は、多少の技術差を凌駕する。

 これに対して圧倒的な技術差と、駆け引きで試合をしてきたのが直史である。

 しかしそれでも、最低限のフィジカルは必要になるだろう。

 現在の球速は、MAXで145km/h。

 大学入学時の直史と、ほぼ同じである。

 また去年のシーズンは、かなり終盤になるまで150km/hを突破しなかった。

 球速だけを見れば、去年と状態は似ている。


 かつては完全に、自分の感覚で調整をしていた直史だが、今はもうそんなことはしていない。

 主にピッチングのフォームなどから、何が問題かを考えていく。

 まず測定から、純粋に筋力が低下している。

 特にインナーマッスルが問題であろう。

 ここからバランス感覚も低下し、パワーがボールに伝わりきらない。

 ただそれなら、145km/hも出ている方がおかしいと言える。


 全身の連動した動作は、肉体のパワーがどれだけ効率よく、ボールに伝わっているかというのも計算してくれる。

 コンピューターと測定器を使ったところ、それは93%という結果が出た。

 MLBのトップクラスのパワーピッチャーでも、90%オーバーというピッチャーは一人もいない。もちろん全員を測定したわけではないが。

 つまり直史は、ストレートにはもう伸び代がないということだ。

 既に分かっていたことだが。


 比較的低い身体能力だが、パワーロスが少ない。

 もちろん直史もプロ野球選手である以上、平均的な一般人よりもはるかに高い身体能力を持っている。

 だがそれよりもずっと、肉体を使うのが上手くて効率的ということだ。

「へ~、これってバッターのやつはないんですか?」

「そっちは今、作成中だなあ」

 大介も関心を示していたものである。

 なお大介が試したところ、150km/hで81%という結果が出た。

 バッティングが通用しなくなったら、ピッチャーに転向したらいいかもしれない。




 それはそれとして、もう二月のキャンプインまで、半月を切っている。

 この間に佐藤家では、真琴の滑り止めの結果が出ていたりする。

 本命は公立の白富東。

 だが他の選択肢も、最後まで残しておきたい。

 埼玉の高校も、一応は受けておくことにしている。

 女子野球の世界なら、真琴は無双してもおかしくはない。


 ただスピードの話をすると、昔は140km/hオーバーのピッチャーがいたというのが信じられない。

 恵美理と組んでいたので、間違いはないのだが。

 上杉と明日美の間には、五人も子供が生まれている。

 長男は野球をやらずに柔道をやっているが、次男は野球をやっているという。

 なんと真琴や昇馬と同学年である。


 あえて名門シニアには入れなかったが、シニアのU-15日本代表には選ばれている。

 全国では当たる機会がなかったが、ピッチングにもバッティングにも、非凡なものを見せているらしい。

 さすがにネットの時代であっても、シニアの試合まではなかなか出回らない。

 また他には、親がスーパースターという分類では、真田の息子も同学年である。

 こちらは双子のバッテリーであるという。


 司朗と昇馬という、超能力めいた力を持つバッターに、150km/hオーバーを平気で出すピッチャー。

 他の二世選手まで含めて、この年代はとんでもないものになりそうな気がする。

 なお、鬼塚の息子は三人もいるが、高校まで野球をやってくれる子はいなかったそうな。

 ぴえん。




 直史は測定の結果を見て、逆の思考をした。

 93%もパワーを上手く使っているのではなく、まだ7%もボールに伝わりきっていないのだと。

 しかしセイバーの声で開発されたこのシステム、ピッチャーの評価についてはまた別の基準で測定をしたりする。

 試しに直史が、試した結果が85と出た。

 これは70がMLBの平均的なピッチャーとした場合の数字である。

 100に達すると、パーフェクトが出来るというものだ。


 現在の直史は、まだまだ力が戻っていない。

 それでもMLBの平均的なピッチャーより、まだ上であるのだという。

 100というのは理論上存在しないが、去年の終盤当たりの直史のピッチングを測定すれば、またこれも95とかになるのではないか。

 確かにパーフェクトを何度も達成するというのは、これぐらいの数値が必要なのかもしれない。


 こういった測定器と、診断ソフトをすぐに作ってしまうのが、MLBと言うべきかアメリカと言うべきか。

 ただこれはまたピッチャーの評価基準にすぎない。

 何よりピッチャーのメンタルや駆け引きが入力されていないものなのだ。

 単純に今の数字なら、武史の方が高く出るのではないか。


 その武史は神奈川のSBCを使っているが、そちらでもう一月から、160km/hオーバーを連発していた。

 もっともそれは武史にとって、最低限の数字である。

 全盛期は170km/hのボールを投げていた武史であるが、今はややその力を落としてきている。

 それでも160km/h台の後半は出るのだ。

 上杉が去り、そして多くのピッチャーがMLBに移籍している今、武史のスピードは圧倒的であった。




 スターズの本拠地である神奈川スタジアムは、恵美理の実家から車で30分ほどの距離にある。

 恵美理の両親、特に父親は今でも、ヨーロッパやアメリカを訪れて仕事をすることが多い。

 そのため武史はこちらにマスオさん状態であるのだが、使用人が数人いるので、生活に不便は全くない。

 もっともこの生活を維持するには、それなりの収入が必要となる。

 武史がMLBで10年以上投げてきたのは、そのためであると思えば必要なものであった。


 通勤にまで運転手の運転に任せる。

 なんだかセレブ的で嫌だなと思うが、武史は誰が見ても立派なセレブ階級である。

 直史や大介はそうならないのは、やはり武史の場合妻の恵美理にしてからが、そもそもセレブ階級であるからだろうか。

 あの美人はいったい誰なんだ、とは今でもよく言われる。

 ただここしばらく、武史は恵美理のことを心配している。

 ちょっと日本での生活のために盛り上がったため、しっかりと避妊に失敗していたのである。

 四人目の子供の性別は、まだ分かっていない。


 神奈川SBCは施設も人材も、基本的には千葉のそれと変わらない。

 もちろん同じ人間がいるはずはないが、トレーナーなどの質もしっかりと厳選してあるのだ。

 この時期からもう、160km/hを出している武史を、心配する声がないわけではない。

 だが本気を出せば165km/hは軽く出せるのが武史だ。

「久しぶりのkm/h表示に安心するなあ」

 なにしろアメリカはマイル表示であったのだ。

 世界標準には合わせてほしい。


 肩を作るのに時間がかかり、しかもそれを試合の緊張感の中で行わないと、必要な球数が増えてしまうスロースターター。

 だが根本的な部分は、メンタルが試合用に変化するのに、時間がかかるのだろう。

 センターに所属しているキャッチャーは、元プロの再就職組であったりすることも多い。

 だがそれでもキャッチに失敗するほど、いまだに武史のストレートは常軌を逸している。




 上杉は故障後にやや奪三振率が落ちた。

 なので武史が規定投球数に達したら。歴代のピッチャーの中でナンバーワンの奪三振率となるかもしれない。

 元々大学時代から、明らかに奪三振率では、武史が直史を上回っていたのだ。

 スピードボールに強いバッターが多いMLBでさえ、武史のストレートはそう簡単に打てるものではなかった。

 NPBのバッターは、単純なパワーピッチャーには弱い。


 パワーピッチャーの代表というとノーラン・ライアンであろうが、彼のキャリアは中盤まで、高い与四球率と共にあった。

 また暴投の数もリーグナンバーワンであったことが多い。

 それに比べると武史は、圧倒的にゾーンに投げ込み、しかもミットを外さないコマンドの能力に優れている。


 上杉も使っていたセンターのこのキャッチャーは、少なくとも同年齢の時の上杉よりは、武史の方が上であろうという感想を抱いた。

 武史はそもそも、肩と肘の深刻な故障をしたことがない。

 これだけのパワーピッチャーがと不思議に思われることもあるが、一つには少年期の水泳の影響がある。

 より腕を大きく旋回させ、稼動域を広くすることは、間違いなく今のピッチングの基礎を形作ったものである。




 武史はマイペースに調整をしている。

 MLBなどはNPBと違い、キャンプ中から積極的に紅白戦などを行う。

 なのでマイナーから上がったばかりの選手はともかく、ある程度の中堅となると即座に試合が出来るよう、体を作ってから参加する。

 これが出場機会が間違いないベテランだとまた話は別で、体力のことを考えた上で

徐々に仕上げていく。

 

 武史はもちろんベテランであるが、NPBの流儀は久しぶりである。

 なのでキャンプインに合わせて、体を万全に整えるようにしていく。

 NPB時代からずっと、武史はほぼ先発しかしたことがない。

 スロースターターなのは、誰もが分かっているからだ。

(上杉さんの記録はともかく、歴代二位にまでは勝ち星を増やせるかな?)

 現在の武史は日米通算の勝ち星が366勝。

 上杉の436勝には、さすがに届かないとは思う。


 そもそも勝ち星の数だけを言うのは、現在のMLBでは完全に時代遅れだ。

 それにMLBの試合スケジュールを考えれば、むしろMLBの方が勝ち星は増やしやすいとまで言える。

 直史はNPBでは最高でシーズン27勝した。

 しかしMLBでは30勝以上のシーズンが四度もあったのだ。

 武史もシーズン最多勝は、MLBで記録している。

 それでも28勝であるが、メトロズ時代は打線の援護が強力であったため、勝ち星が付きやすかった。

 またシーズン最多投球イニングピッチャーとしては、長くリーグに君臨したものだ。


 スターズが自分に期待しているものを、ある程度武史は理解している。

 戦力的には、上杉の穴を埋めることは出来るだろう。

 しかし精神的な支柱としては、無理な話である。

 あれは上杉だからこそ出来ただけで、他の誰にも出来ることではない。

 実力だけではなくスター性とカリスマ性。

 直史や大介でも、そこは及ばないところだ。




 フィジカルでは及ばない。

 直史はそう、自分を判断している。

 だがフィジカルというのは、単純な出力だけでもないはずだ。

 直史のストレートは、体感速度が5km/hほどは速い。

 また奪三振率もリーグトップクラス。

 クローザーに混ざっても遜色ないくらいだ。

 それなのに、打たせて取る技巧派という側面も持っている。


 フィジカルが果たして、ここから回復するのか。

 それは難しいだろうと考えている直史であるが、あの測定によって得られた全身のパワーの使用率。

 あと7%の力は、まだ伝わりきっていない。

 しかし去年にしても、シーズン序盤は145km/h程度のストレートをメインにしていた。

 スピードは確かに重要だが、ならばなぜ160km/hを簡単に打つ大介を抑えることが出来たのか。

 そのあたりが重要なのである。


 ピッチャーの球というのは、コンビネーションを別に単体として考えると、どれだけ平凡から離れているか、が重要になってくる。

 直史のストレートは、スピードでは平均かそれ以下。

 ならば平均から逸脱した部分は、どこであるのか。

 スピン量が多く、スピン軸がしっかりとしている。

 そして他には、リリースポイントの違いなどもある。

 下手にパワーだけに頼るよりも、そちらが重要であったりするのだ。


 直史のストレートがホップするのは、体の柔軟性による。

 また時々、ほぼサイドスローで投げてたりもする。

 リリースポイントが低いストレートは、高目を狙って投げれば、ホップするように見えるのだ。

 もちろん逆に、落ちるストレートを使うことも重要だ。

 スルーの原理的には、元はあれは落ちるストレートであったのだ。

 なにせホップ成分がまるでないのだから。




 毎日のように、カメラでストレートの軌道を確認する。

 もちろん他の変化球も、そのキレなどを確認するが。

 ストレートにしろ変化球にしろ、単独であれば限界が存在する。

 しかしコンビネーションを駆使していけば、それはほぼ無限となっていく。

 あとは直史が、どれだけのコンビネーションを、頭の中で想像出来るからだ。


 直史はコントロールが一番の武器で、二番目が変化球の種類だと言われたりもする。

 だが実際のところ一番の武器は、そのインテリジェンスだ。

 単純に頭がいいというわけではなく、対戦するバッターの思考などを読み取っていく。

 駆け引きなども含まれるこの思考力が、直史の武器である。

 もっともこれも限界があるのは、去年感じたことである。


 一緒に自主トレをしている大介は、直史が去年に比べて、かなり身体能力が落ちているのでは、と感じた。

 もちろんそう思わせておいて、本番で裏切るのが直史である。

 もっともその無限とも思える想像力も、本当は限界がある。

 肉体が想像力によるピッチングを、再現できなくなった時だ。

 どれだけイメージしても、体がそれについていかない。

 今の直史の状態は、それにかなり近い。


 脳がだんだんと、自分の肉体の状態を理解していく。

 やはり去年のレギュラーシーズン終盤から、ポストシーズンに原因があったのだろう。

 骨の中や、内臓といったあたりから、必要なエネルギーを得るために、ボロボロにしてしまったのだ。

 それでも回復するのは、直史が最後の力を振り絞らなかったからだ。

 あの、大介との幻の打席の対決で。




 毎日などは行えないが、血液や尿の検査によって、数字的に直史は自分の状況を理解する。

 肉体の回復のために、今は内臓の機能などがフル回転している。

 あの最後の試合から、もう二ヶ月以上経過していてもだ。

 回復するなら、まだマシであると言えよう。

 だが果たして、どこまで回復する余地があるのか。

 完全な状態にはならないだろう。


 去年の今頃も、同じようなことを言っていた気がする。

 ただ去年の場合は、前年に大介との対決のような、過酷な対決をしていなかったのだ。

 衰えた肉体を、最盛期までどう回復させるか。

 それが去年の直史であった。

 今年の直史は、損傷した肉体をどう回復させるか。

 今度こそ本当に、最盛期にまでは戻らないと思う。

 そう他人に予想されても、何度となく覆してきたのが直史だ。

 しかし今は、自分自身がそう思っている。


 自分に残された役割。

 上杉に託されたそれを考える。

 球界の未来などというものは、正直どうでもいい。

 だが日本の野球のレベルが落ちるというのは、いささかならず郷愁を感じさせる。

 直史は自分の体験した国際大会では、無敗を誇っている。

 人気があるのはMLBだが、本当に強いのはNPB。

 そんな無茶な状態にしてしまったとも言えるだろうか。


 日本人選手が当たり前のように挑戦し、そしてかなりの人数が成功しているMLB。

 もっともそれがピッチャーであったりすると、大介に打たれて自信を喪失したりもするが。

 大介は大介で、巨大な壁となっていた。

 NPBのみならずMLBでも、大きな怪我はなく毎年活躍していた。

 この大介を試金石にすれば、ピッチャーの実力が分かるとまで言われたものだ。

 直史のように大介を封じた者は、結局出なかったが。

 



 直史という存在は、歴史的に見てもバグである。

 多くのスポーツを見ても、一人の選手がある程度の期間、圧倒的な強さを示したことはあっても、ここまでの例はないだろう。

 アメリカの四大スポーツや、世界的な競技であるサッカー。

 またボクシングなどの格闘技。

 ボクシングならたまに、生涯無敗の人間はいたりする。

 ただ格闘技は基本的に、肉体のダメージからの回復に時間がかかるので、生涯にそれほどの試合が出来るはずもない。

 直史は既に、200勝を達成している。


 強いて比較できるなら、総合格闘技初期のブラジリアン柔術であろうか。

 あれはそもそも、存在しなかった戦法であったため圧倒的に勝つことが出来た。

 しかし今では、その技術を多くの選手が身につけて、吸収しているのだ。

 だが直史と同じスタイルのピッチャーは一人もいない。

 強いて言うなら、星や淳がそれに近かったのかもしれないが、直史はアンダースローなどではない。


 この年からでも、まだ学びはある。

 直史がそれに気づいたのは、キャンプインがさすがに近づいてきた頃だ。

 バッティング練習をしていた大介は、さすがにぎょっと驚いたが。

 しかしそれを見たのは、初めてではない。

 直史のアンダースロー。

 カーブを効果的に投げるための、アンダースローである。


 そういえばプロではほとんど使ってないよな、と思う大介である。

 直史としてみれば、これまではほぼ必要なかっただけであり、使おうと思えば使えるのだ。

「まさかアンダースロー転向するんじゃないだろうな」

「それこそまさかだけど」

 直史の柔軟な体は、本来アンダースローに向いているのだ。

 またこのフォームから投げるのであれば、必要な球速も落とすことが出来るだろう。

 技巧派アンダースローといったところか。




 ただこれを大介で実験することは出来ない。

 マウンドを守るネットに、そんな専門のものがなかったからだ。

「けれど体の新しい使い方は分かった気がする」

「早いな!」

 大介も驚きである。

 だがこういったコツは、ほんのわずかな気づきであったりするのだ。

「スピードアップするのか?」

「むしろ落ちるかも」

「ダメじゃねーか」


 直史は確かに、140km/h程度の球速で、大学時代は正しく無双していた。

 だが最終的には、MAX154km/hまでは投げられるようになったのだ。

 もっともそのスピードを出したのはほとんどなく、だいたい速いボールでも152km/h程度であった。

 重要なのは球速ではない。

 ただ今さらながら、サウスポーであればもっと楽だったかな、とは思う。

 なので真琴は、サウスポーになっているわけだが。 

 おかげでポジションが限られる。


 直史のピッチングは、そこから少し変わったのかもしれない。

 機会の計測する評価値が、90近くにまで上がったのだから。

 何をしたのか、大介には分からない。

 だがわずかに、フォームが変わったことには気づいた。

(だけど、どこが変わったんだ?)

 違和感はわずかでしかないのだ。


 いくら大介であっても、そう簡単に見破られたら意味がない。

 大介にも通用するものであってこそ、新たな知見と言えるのだ。

 測定すれば分かるのは、このボールのホップ成分がさらに高いということ。

 ただ、多用はしない方がいい、ということも動作解析で分かった。

 肘にかかる負担が、これまでの投げ方よりも、かなり大きなものとなるのだ。

 直史は肘を一度、損傷して引退した。




 大介自身は、センターではとにかく、スピードボールに目を慣れさせていた。

 170km/hのボールでも、投げられるピッチングマシン。

 ただ武史のストレートは、それに近いスピードが出る。

 そしてマシンと違って、人が投げるボールであるのだ。

 マシンのボールは打てても、人の投げるボールは打てない。

 不思議なような感じもするが、事実ではあるのだ。


 基本的に人間というのは、同じ球を投げることは出来ない。

 直史のコントロールでさえ、スピン軸がわずかに変わるのは普通なのだ。

 ミリ単位で直史はコントロールをする。

 だがそれでも、全く同じボールはない。

 マシンのボールだと、直史のボールに比べれば、ある程度は雑である。

 直史はマシン以上の正確さを誇るからこそ、バッターの弱点を突くことが出来るのだ。


 そんな直史が、今は苦しんでいる。

 新しい知見を得たといっていたが、それはつまり今までのままでは、通用しないと分かっていたのであろう。

 41歳になるシーズン、大介は前年の能力を維持できるか、今のところ微妙である。

 少なくとも一番重要な、動体視力が問題ないようであるが。

 いずれはショートも、守備負担を減らすために、誰かに譲ることになるのか。

 最後までショートで、野球人生を終わりたいとは思っているが。


 あとどれぐらい出来るのか。

 おそらく他の人間が、10周しても出来ないほどの人生を、大介は生きてきた。

(燃え尽きたい、ってのは分かるな)

 直史や上杉と違い、大介は野球をやっていない自分に、何かの価値を見出すことが出来ない。

 もっとも爺になるまでずっと、野球を見続けることは確かであろうが。

 野球少年は、いずれ野球爺になるのだ。



×××


 次話「異なる限界」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る