第133話 限界と無限
直史は昨年のポストシーズンの試合の中で、地平線まで何もない形而上の世界を感じた。
あれこそがまさに、無限の世界ではなかったのか。
ただ実際は、やはり限界はあったのだと思う。
あの世界を知った自分が、今はこんな状態にあるのだから。
おそらくあの地平線の彼方が、死の世界だ。
「とまあ、ゾーンの世界のさらに先に、そういう世界が待っている」
「それはまた」
「そもそもゾーンってなんなのさ」
「あれ? 英語でもなかったっけ?」
「ボールが止まっているように感じた」
「時間がゆっくり流れているようだった」
「相手選手の動きを手に取るように把握できた」
「考えるまでもなく体が勝手に動いた」
「戦っている自分の姿を空から俯瞰しているようだった」
こういった感覚が、俗に言われるゾーンである。
「ああ、フローのことか。ゾーンっても言ってたな」
昇馬はそう理解した。
たとえばキャンプ中に崖から落ちかけて、超高速で思考するのと同じようなものであろう。
咄嗟に草や木の枝を掴んで、死なずに済んだものである。
「集中力を自分自身で制御するんだな」
「多分司朗は、もうそれを経験してる」
「あ~、俺もバッティングの時、そういうのあるかな」
直史と大介に言われて、昇馬もそれを思い出す。
集中力が極まった時に起こる。
昇馬の場合はだいたい、バッティングの時である。
ピッチングの時は、特にそんな集中をしなくても打たれないのだから。
「ゾーンのさらに先が無限って、なんだか面白い感覚だな」
「うん? ああ、ゾーンって確かに範囲のことだもんな。どうしてこういう名前になったんだろ」
大介としては少し不思議だが、直史にはどうでもいいことだ。
直史がトランスと呼んでいるあの状態は、ゾーンとは少し違うような気がする。
それでも本質的には、同じものなのかもしれないが。
万能感、森羅万象の把握。
そんなものが出来ていたら、確かに無敵の能力に近いだろう。
だが人間の脳が、そんな情報量を処理できるはずもない。
しかし集合的無意識などが本当に存在しているなら、それを通じて全てを把握出来ていてもおかしくはない。
あくまで仮定に仮定を重ねた上の話だが。
スポーツとは本来、人間の肉体の限界に近づくものであろう。
だが直史は脳というか、脳をコントロールする精神の限界に、近づいているものだと思う。
全く別のやり方で、野球をやっている。
もちろんそんなものが可能な、技術を持っているのが前提であるが。
なるほど他のピッチャーやバッターが、敵わないはずである。
おそらく野球というか、スポーツの領域の一つを突破してしまったのだ。
他に真似できる者が、いつかは出てくるのだろうか。
しかし昇馬としては、それにどうしてバッターが手も足も出ないのか、それがちょっと分からない。
それにこの間は、司朗が簡単に打っていた。
つまり必殺技のようなもので、安易には使えないということだろうか。
男の子としては燃えるものがある。
とは言ってもまず、昇馬は変化球を使えるようになっていく。
あの両親の息子なのだから、なんでも出来ても不思議ではない。
ただスイッチヒッターでスイッチピッチャーという時点で、既におかしいのか。
長打力を考えれば、あまり大介に似たバッティングではない。
しかし高校までであれば、四番でピッチャーというのが務まるであろう。
大介はほとんど四番など打ったことはないが。
直史の今年の調整は、なかなか上手くいかない。
去年のシーズンで消耗した分を、確かに回復させようとした。
しかし休みすぎた面もあり、実戦感覚が戻らないと言うべきか。
モチベーションの低下というのも、その一つにはあるだろう。
もう直史には、ただ自分が勝ちたいという以外に、野球をする意味がない。
そして去年、負けた瞬間は腹が立ったが、今はもうその感情はない。
打算があって、野球に向かっている。
そんな自分を直史は理解して、やはりモチベーションの問題だと結論付ける。
ある程度の惰性すらもあるだろう。
ただし妥協はないので、3Dとは言わない。
(体力が想像以上に落ちていたというか、これは筋力か)
体重はしっかりと、元の通りに戻っている。
そのくせ体が上手く動かないのだから、筋肉が落ちて贅肉が増えている。
正月明けなので、ある程度は当たり前のことかもしれないが。
直史の肉体は、これまではおおよそ正月明けだろうが、即座に臨戦態勢に入っていた。
そう、去年の五年ぶりの復帰の時も。
(これは思っていたより深刻な事態なんじゃないか?)
アメリカの病院では、過労と診断されたが。
血液検査の結果では、少なくともそう診断された。
SBCの施設を使って、身体能力の検査を行う。
去年の復帰前のデータなどと比較してみれば、瞬発力やバランス感覚が、かなり落ちているのが確認された。
上杉と約束した、この球界の未来を次につなぐという役割。
だがそれは今の自分では出来ないのではないか。
(参ったな。これで八億もらってたら金の無駄じゃないか)
去年の分の働きだと思うべきかもしれない。
圧倒的なフィジカル差は、多少の技術差を凌駕する。
これに対して圧倒的な技術差と、駆け引きで試合をしてきたのが直史である。
しかしそれでも、最低限のフィジカルは必要になるだろう。
現在の球速は、MAXで145km/h。
大学入学時の直史と、ほぼ同じである。
また去年のシーズンは、かなり終盤になるまで150km/hを突破しなかった。
球速だけを見れば、去年と状態は似ている。
かつては完全に、自分の感覚で調整をしていた直史だが、今はもうそんなことはしていない。
主にピッチングのフォームなどから、何が問題かを考えていく。
まず測定から、純粋に筋力が低下している。
特にインナーマッスルが問題であろう。
ここからバランス感覚も低下し、パワーがボールに伝わりきらない。
ただそれなら、145km/hも出ている方がおかしいと言える。
全身の連動した動作は、肉体のパワーがどれだけ効率よく、ボールに伝わっているかというのも計算してくれる。
コンピューターと測定器を使ったところ、それは93%という結果が出た。
MLBのトップクラスのパワーピッチャーでも、90%オーバーというピッチャーは一人もいない。もちろん全員を測定したわけではないが。
つまり直史は、ストレートにはもう伸び代がないということだ。
既に分かっていたことだが。
比較的低い身体能力だが、パワーロスが少ない。
もちろん直史もプロ野球選手である以上、平均的な一般人よりもはるかに高い身体能力を持っている。
だがそれよりもずっと、肉体を使うのが上手くて効率的ということだ。
「へ~、これってバッターのやつはないんですか?」
「そっちは今、作成中だなあ」
大介も関心を示していたものである。
なお大介が試したところ、150km/hで81%という結果が出た。
バッティングが通用しなくなったら、ピッチャーに転向したらいいかもしれない。
それはそれとして、もう二月のキャンプインまで、半月を切っている。
この間に佐藤家では、真琴の滑り止めの結果が出ていたりする。
本命は公立の白富東。
だが他の選択肢も、最後まで残しておきたい。
埼玉の高校も、一応は受けておくことにしている。
女子野球の世界なら、真琴は無双してもおかしくはない。
ただスピードの話をすると、昔は140km/hオーバーのピッチャーがいたというのが信じられない。
恵美理と組んでいたので、間違いはないのだが。
上杉と明日美の間には、五人も子供が生まれている。
長男は野球をやらずに柔道をやっているが、次男は野球をやっているという。
なんと真琴や昇馬と同学年である。
あえて名門シニアには入れなかったが、シニアのU-15日本代表には選ばれている。
全国では当たる機会がなかったが、ピッチングにもバッティングにも、非凡なものを見せているらしい。
さすがにネットの時代であっても、シニアの試合まではなかなか出回らない。
また他には、親がスーパースターという分類では、真田の息子も同学年である。
こちらは双子のバッテリーであるという。
司朗と昇馬という、超能力めいた力を持つバッターに、150km/hオーバーを平気で出すピッチャー。
他の二世選手まで含めて、この年代はとんでもないものになりそうな気がする。
なお、鬼塚の息子は三人もいるが、高校まで野球をやってくれる子はいなかったそうな。
ぴえん。
直史は測定の結果を見て、逆の思考をした。
93%もパワーを上手く使っているのではなく、まだ7%もボールに伝わりきっていないのだと。
しかしセイバーの声で開発されたこのシステム、ピッチャーの評価についてはまた別の基準で測定をしたりする。
試しに直史が、試した結果が85と出た。
これは70がMLBの平均的なピッチャーとした場合の数字である。
100に達すると、パーフェクトが出来るというものだ。
現在の直史は、まだまだ力が戻っていない。
それでもMLBの平均的なピッチャーより、まだ上であるのだという。
100というのは理論上存在しないが、去年の終盤当たりの直史のピッチングを測定すれば、またこれも95とかになるのではないか。
確かにパーフェクトを何度も達成するというのは、これぐらいの数値が必要なのかもしれない。
こういった測定器と、診断ソフトをすぐに作ってしまうのが、MLBと言うべきかアメリカと言うべきか。
ただこれはまたピッチャーの評価基準にすぎない。
何よりピッチャーのメンタルや駆け引きが入力されていないものなのだ。
単純に今の数字なら、武史の方が高く出るのではないか。
その武史は神奈川のSBCを使っているが、そちらでもう一月から、160km/hオーバーを連発していた。
もっともそれは武史にとって、最低限の数字である。
全盛期は170km/hのボールを投げていた武史であるが、今はややその力を落としてきている。
それでも160km/h台の後半は出るのだ。
上杉が去り、そして多くのピッチャーがMLBに移籍している今、武史のスピードは圧倒的であった。
スターズの本拠地である神奈川スタジアムは、恵美理の実家から車で30分ほどの距離にある。
恵美理の両親、特に父親は今でも、ヨーロッパやアメリカを訪れて仕事をすることが多い。
そのため武史はこちらにマスオさん状態であるのだが、使用人が数人いるので、生活に不便は全くない。
もっともこの生活を維持するには、それなりの収入が必要となる。
武史がMLBで10年以上投げてきたのは、そのためであると思えば必要なものであった。
通勤にまで運転手の運転に任せる。
なんだかセレブ的で嫌だなと思うが、武史は誰が見ても立派なセレブ階級である。
直史や大介はそうならないのは、やはり武史の場合妻の恵美理にしてからが、そもそもセレブ階級であるからだろうか。
あの美人はいったい誰なんだ、とは今でもよく言われる。
ただここしばらく、武史は恵美理のことを心配している。
ちょっと日本での生活のために盛り上がったため、しっかりと避妊に失敗していたのである。
四人目の子供の性別は、まだ分かっていない。
神奈川SBCは施設も人材も、基本的には千葉のそれと変わらない。
もちろん同じ人間がいるはずはないが、トレーナーなどの質もしっかりと厳選してあるのだ。
この時期からもう、160km/hを出している武史を、心配する声がないわけではない。
だが本気を出せば165km/hは軽く出せるのが武史だ。
「久しぶりのkm/h表示に安心するなあ」
なにしろアメリカはマイル表示であったのだ。
世界標準には合わせてほしい。
肩を作るのに時間がかかり、しかもそれを試合の緊張感の中で行わないと、必要な球数が増えてしまうスロースターター。
だが根本的な部分は、メンタルが試合用に変化するのに、時間がかかるのだろう。
センターに所属しているキャッチャーは、元プロの再就職組であったりすることも多い。
だがそれでもキャッチに失敗するほど、いまだに武史のストレートは常軌を逸している。
上杉は故障後にやや奪三振率が落ちた。
なので武史が規定投球数に達したら。歴代のピッチャーの中でナンバーワンの奪三振率となるかもしれない。
元々大学時代から、明らかに奪三振率では、武史が直史を上回っていたのだ。
スピードボールに強いバッターが多いMLBでさえ、武史のストレートはそう簡単に打てるものではなかった。
NPBのバッターは、単純なパワーピッチャーには弱い。
パワーピッチャーの代表というとノーラン・ライアンであろうが、彼のキャリアは中盤まで、高い与四球率と共にあった。
また暴投の数もリーグナンバーワンであったことが多い。
それに比べると武史は、圧倒的にゾーンに投げ込み、しかもミットを外さないコマンドの能力に優れている。
上杉も使っていたセンターのこのキャッチャーは、少なくとも同年齢の時の上杉よりは、武史の方が上であろうという感想を抱いた。
武史はそもそも、肩と肘の深刻な故障をしたことがない。
これだけのパワーピッチャーがと不思議に思われることもあるが、一つには少年期の水泳の影響がある。
より腕を大きく旋回させ、稼動域を広くすることは、間違いなく今のピッチングの基礎を形作ったものである。
武史はマイペースに調整をしている。
MLBなどはNPBと違い、キャンプ中から積極的に紅白戦などを行う。
なのでマイナーから上がったばかりの選手はともかく、ある程度の中堅となると即座に試合が出来るよう、体を作ってから参加する。
これが出場機会が間違いないベテランだとまた話は別で、体力のことを考えた上で
徐々に仕上げていく。
武史はもちろんベテランであるが、NPBの流儀は久しぶりである。
なのでキャンプインに合わせて、体を万全に整えるようにしていく。
NPB時代からずっと、武史はほぼ先発しかしたことがない。
スロースターターなのは、誰もが分かっているからだ。
(上杉さんの記録はともかく、歴代二位にまでは勝ち星を増やせるかな?)
現在の武史は日米通算の勝ち星が366勝。
上杉の436勝には、さすがに届かないとは思う。
そもそも勝ち星の数だけを言うのは、現在のMLBでは完全に時代遅れだ。
それにMLBの試合スケジュールを考えれば、むしろMLBの方が勝ち星は増やしやすいとまで言える。
直史はNPBでは最高でシーズン27勝した。
しかしMLBでは30勝以上のシーズンが四度もあったのだ。
武史もシーズン最多勝は、MLBで記録している。
それでも28勝であるが、メトロズ時代は打線の援護が強力であったため、勝ち星が付きやすかった。
またシーズン最多投球イニングピッチャーとしては、長くリーグに君臨したものだ。
スターズが自分に期待しているものを、ある程度武史は理解している。
戦力的には、上杉の穴を埋めることは出来るだろう。
しかし精神的な支柱としては、無理な話である。
あれは上杉だからこそ出来ただけで、他の誰にも出来ることではない。
実力だけではなくスター性とカリスマ性。
直史や大介でも、そこは及ばないところだ。
フィジカルでは及ばない。
直史はそう、自分を判断している。
だがフィジカルというのは、単純な出力だけでもないはずだ。
直史のストレートは、体感速度が5km/hほどは速い。
また奪三振率もリーグトップクラス。
クローザーに混ざっても遜色ないくらいだ。
それなのに、打たせて取る技巧派という側面も持っている。
フィジカルが果たして、ここから回復するのか。
それは難しいだろうと考えている直史であるが、あの測定によって得られた全身のパワーの使用率。
あと7%の力は、まだ伝わりきっていない。
しかし去年にしても、シーズン序盤は145km/h程度のストレートをメインにしていた。
スピードは確かに重要だが、ならばなぜ160km/hを簡単に打つ大介を抑えることが出来たのか。
そのあたりが重要なのである。
ピッチャーの球というのは、コンビネーションを別に単体として考えると、どれだけ平凡から離れているか、が重要になってくる。
直史のストレートは、スピードでは平均かそれ以下。
ならば平均から逸脱した部分は、どこであるのか。
スピン量が多く、スピン軸がしっかりとしている。
そして他には、リリースポイントの違いなどもある。
下手にパワーだけに頼るよりも、そちらが重要であったりするのだ。
直史のストレートがホップするのは、体の柔軟性による。
また時々、ほぼサイドスローで投げてたりもする。
リリースポイントが低いストレートは、高目を狙って投げれば、ホップするように見えるのだ。
もちろん逆に、落ちるストレートを使うことも重要だ。
スルーの原理的には、元はあれは落ちるストレートであったのだ。
なにせホップ成分がまるでないのだから。
毎日のように、カメラでストレートの軌道を確認する。
もちろん他の変化球も、そのキレなどを確認するが。
ストレートにしろ変化球にしろ、単独であれば限界が存在する。
しかしコンビネーションを駆使していけば、それはほぼ無限となっていく。
あとは直史が、どれだけのコンビネーションを、頭の中で想像出来るからだ。
直史はコントロールが一番の武器で、二番目が変化球の種類だと言われたりもする。
だが実際のところ一番の武器は、そのインテリジェンスだ。
単純に頭がいいというわけではなく、対戦するバッターの思考などを読み取っていく。
駆け引きなども含まれるこの思考力が、直史の武器である。
もっともこれも限界があるのは、去年感じたことである。
一緒に自主トレをしている大介は、直史が去年に比べて、かなり身体能力が落ちているのでは、と感じた。
もちろんそう思わせておいて、本番で裏切るのが直史である。
もっともその無限とも思える想像力も、本当は限界がある。
肉体が想像力によるピッチングを、再現できなくなった時だ。
どれだけイメージしても、体がそれについていかない。
今の直史の状態は、それにかなり近い。
脳がだんだんと、自分の肉体の状態を理解していく。
やはり去年のレギュラーシーズン終盤から、ポストシーズンに原因があったのだろう。
骨の中や、内臓といったあたりから、必要なエネルギーを得るために、ボロボロにしてしまったのだ。
それでも回復するのは、直史が最後の力を振り絞らなかったからだ。
あの、大介との幻の打席の対決で。
毎日などは行えないが、血液や尿の検査によって、数字的に直史は自分の状況を理解する。
肉体の回復のために、今は内臓の機能などがフル回転している。
あの最後の試合から、もう二ヶ月以上経過していてもだ。
回復するなら、まだマシであると言えよう。
だが果たして、どこまで回復する余地があるのか。
完全な状態にはならないだろう。
去年の今頃も、同じようなことを言っていた気がする。
ただ去年の場合は、前年に大介との対決のような、過酷な対決をしていなかったのだ。
衰えた肉体を、最盛期までどう回復させるか。
それが去年の直史であった。
今年の直史は、損傷した肉体をどう回復させるか。
今度こそ本当に、最盛期にまでは戻らないと思う。
そう他人に予想されても、何度となく覆してきたのが直史だ。
しかし今は、自分自身がそう思っている。
自分に残された役割。
上杉に託されたそれを考える。
球界の未来などというものは、正直どうでもいい。
だが日本の野球のレベルが落ちるというのは、いささかならず郷愁を感じさせる。
直史は自分の体験した国際大会では、無敗を誇っている。
人気があるのはMLBだが、本当に強いのはNPB。
そんな無茶な状態にしてしまったとも言えるだろうか。
日本人選手が当たり前のように挑戦し、そしてかなりの人数が成功しているMLB。
もっともそれがピッチャーであったりすると、大介に打たれて自信を喪失したりもするが。
大介は大介で、巨大な壁となっていた。
NPBのみならずMLBでも、大きな怪我はなく毎年活躍していた。
この大介を試金石にすれば、ピッチャーの実力が分かるとまで言われたものだ。
直史のように大介を封じた者は、結局出なかったが。
直史という存在は、歴史的に見てもバグである。
多くのスポーツを見ても、一人の選手がある程度の期間、圧倒的な強さを示したことはあっても、ここまでの例はないだろう。
アメリカの四大スポーツや、世界的な競技であるサッカー。
またボクシングなどの格闘技。
ボクシングならたまに、生涯無敗の人間はいたりする。
ただ格闘技は基本的に、肉体のダメージからの回復に時間がかかるので、生涯にそれほどの試合が出来るはずもない。
直史は既に、200勝を達成している。
強いて比較できるなら、総合格闘技初期のブラジリアン柔術であろうか。
あれはそもそも、存在しなかった戦法であったため圧倒的に勝つことが出来た。
しかし今では、その技術を多くの選手が身につけて、吸収しているのだ。
だが直史と同じスタイルのピッチャーは一人もいない。
強いて言うなら、星や淳がそれに近かったのかもしれないが、直史はアンダースローなどではない。
この年からでも、まだ学びはある。
直史がそれに気づいたのは、キャンプインがさすがに近づいてきた頃だ。
バッティング練習をしていた大介は、さすがにぎょっと驚いたが。
しかしそれを見たのは、初めてではない。
直史のアンダースロー。
カーブを効果的に投げるための、アンダースローである。
そういえばプロではほとんど使ってないよな、と思う大介である。
直史としてみれば、これまではほぼ必要なかっただけであり、使おうと思えば使えるのだ。
「まさかアンダースロー転向するんじゃないだろうな」
「それこそまさかだけど」
直史の柔軟な体は、本来アンダースローに向いているのだ。
またこのフォームから投げるのであれば、必要な球速も落とすことが出来るだろう。
技巧派アンダースローといったところか。
ただこれを大介で実験することは出来ない。
マウンドを守るネットに、そんな専門のものがなかったからだ。
「けれど体の新しい使い方は分かった気がする」
「早いな!」
大介も驚きである。
だがこういったコツは、ほんのわずかな気づきであったりするのだ。
「スピードアップするのか?」
「むしろ落ちるかも」
「ダメじゃねーか」
直史は確かに、140km/h程度の球速で、大学時代は正しく無双していた。
だが最終的には、MAX154km/hまでは投げられるようになったのだ。
もっともそのスピードを出したのはほとんどなく、だいたい速いボールでも152km/h程度であった。
重要なのは球速ではない。
ただ今さらながら、サウスポーであればもっと楽だったかな、とは思う。
なので真琴は、サウスポーになっているわけだが。
おかげでポジションが限られる。
直史のピッチングは、そこから少し変わったのかもしれない。
機会の計測する評価値が、90近くにまで上がったのだから。
何をしたのか、大介には分からない。
だがわずかに、フォームが変わったことには気づいた。
(だけど、どこが変わったんだ?)
違和感はわずかでしかないのだ。
いくら大介であっても、そう簡単に見破られたら意味がない。
大介にも通用するものであってこそ、新たな知見と言えるのだ。
測定すれば分かるのは、このボールのホップ成分がさらに高いということ。
ただ、多用はしない方がいい、ということも動作解析で分かった。
肘にかかる負担が、これまでの投げ方よりも、かなり大きなものとなるのだ。
直史は肘を一度、損傷して引退した。
大介自身は、センターではとにかく、スピードボールに目を慣れさせていた。
170km/hのボールでも、投げられるピッチングマシン。
ただ武史のストレートは、それに近いスピードが出る。
そしてマシンと違って、人が投げるボールであるのだ。
マシンのボールは打てても、人の投げるボールは打てない。
不思議なような感じもするが、事実ではあるのだ。
基本的に人間というのは、同じ球を投げることは出来ない。
直史のコントロールでさえ、スピン軸がわずかに変わるのは普通なのだ。
ミリ単位で直史はコントロールをする。
だがそれでも、全く同じボールはない。
マシンのボールだと、直史のボールに比べれば、ある程度は雑である。
直史はマシン以上の正確さを誇るからこそ、バッターの弱点を突くことが出来るのだ。
そんな直史が、今は苦しんでいる。
新しい知見を得たといっていたが、それはつまり今までのままでは、通用しないと分かっていたのであろう。
41歳になるシーズン、大介は前年の能力を維持できるか、今のところ微妙である。
少なくとも一番重要な、動体視力が問題ないようであるが。
いずれはショートも、守備負担を減らすために、誰かに譲ることになるのか。
最後までショートで、野球人生を終わりたいとは思っているが。
あとどれぐらい出来るのか。
おそらく他の人間が、10周しても出来ないほどの人生を、大介は生きてきた。
(燃え尽きたい、ってのは分かるな)
直史や上杉と違い、大介は野球をやっていない自分に、何かの価値を見出すことが出来ない。
もっとも爺になるまでずっと、野球を見続けることは確かであろうが。
野球少年は、いずれ野球爺になるのだ。
×××
次話「異なる限界」
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