第131話 双極星
直史のピッチングについて、司朗は研究したことがある。
そして気づいたのは、データが役に立たないということだ。
世界最高の技巧派であるのだから、世界最高のコンビネーションであると、調べる前には思っていた。
だが実際に調べてみれば、そのコンビネーションは様々である。
これについて司朗は、高校時代に直史とバッテリーを組み、今では監督であるジンに尋ねた。
「そんなもん分からん」
何かを隠しているとかではなく、純粋な感想であるらしい。
おそらく大学からNPBの時代に、そのコンビネーションは完成している。
だがその後も高速のツーシームや、大きく変化するスライダー、俗に言うスイーパーを身につけているため、もはや自分の想像では追いつかない。
「理想的なコンビネーションなんて、単純に打ちにくいものじゃないしな」
天才的なバッティングセンスを見せる司朗に対して、直史だけはちょっと例外に考えておけと、ジンはアドバイスしたつもりである。
どうせプロで対戦するまでに、向こうは引退しているのであろうし。
ただ司朗は、武史の息子でありながらも、佐藤家の長男の気質を受け継いでしまったものらしい。
こだわりをもって、直史のピッチングを分析する。
そのコンビネーションの多彩さに比べれば、普通の高校野球のピッチャーなど、まともにコンビネーションを使えているとは言わない。
読みが充分に可能なので、感覚的に予知して打ってしまうのだ。
これが特殊な能力だとは、なかなか自覚しなかった。
なぜなら小学生ぐらいであると、そもそもコントロールなどゾーンにさえ入ればいい、というものであったりするからだ。
なのである程度のコントロールがついてくる中学ぐらいから、司朗はよりそのバッティング技術を開花させていった。
「何を投げてくるかなんて、キャッチャーをやっていれば分かるでしょ」
女子野球でキャッチャーをやっていた母は、そんなことを普通に言っていた。
それは特殊能力である。
せっかく直史に投げてもらっているが、調子が悪いというのは間違いなさそうで、それなりにヒット性の当たりを打ってしまっている。
考えてみれば、五年以上のブランクがある40歳のピッチャーが、あのスケジュールで投げたのだ。
まさに甲子園を一人で完投するぐらいの能力。
実際は高校生の頃は、トーナメントを確実に勝っていくために、他のピッチャーと役割を分担していた。
実際に甲子園の頂点に立ったからこそ分かるのは、父である武史の異常さである。
重要な試合ではフルイニング投げることは珍しくなく、真田との投げ合いでは兄の直史もやったような、伝説の名勝負を繰り広げている。
甲子園出場機会五回のうち、全てに出場してそのうちの四回が優勝。
MLBに行ったアレクや、現在もタイタンズで四番を打つ悟がいたとはいえ、やはり高校野球でのエースの重要度は高い。
試合では50球投げてからようやく肩が暖まる、というスロースターター。
しかしそれでも、ノーヒットノーランなどを達成している。
大学野球ではノーヒットノーランだけではなくパーフェクトも複数回達成。
ピッチャーとしての才能は、明らかに及ばないなと悟ったものだ。
だが帝都一の監督であるジンは、ピッチャーとしての司朗にも、かなりの期待をしてくれている。
「俺らの一個上に、MLBに行った本多さんがいたんだけど、あの人一年の夏に甲子園の優勝を経験してるし、三年の時には四番でピッチャーやってたからな」
そんなとんでもないチームに、白富東は勝っているのだが。
別にもったいぶっているわけではなく、直史はやはり復調していない。
プロであの日程を投げるというのは、こういうことなのだ。
壊れかけた肉体を、時間をかけて再生させて、また新しいシーズンを戦う。
「せっかくだけど、満足させることは出来なかったな」
「いえ。父さんはどうして平気なの?」
「そんな限界まで投げなかったしな」
ポストシーズンに進出していないので、酷使されなかったということだ。
MLBは普段は投球制限などが厳しいのだが、ポストシーズンでワールドシリーズぐらいまで勝ち上がってしまうと、ピッチャーの限界を超えて酷使するということが普通にある。
優先順位が明確に決まっているということであるのだ。
チームスポーツという意識が高いので、個人タイトルに無理に固執することも嫌われる傾向にある。
全体的には大味な野球であり、論理的な野球である。
緻密にやりすぎていると、とても162試合のシーズンを戦えないからだ。
そして全てはポストシーズンに注ぎ込む。
なので開幕からしばらくは、あまり客が入らないということもあったりする。
もっとも大介レベルのスーパースターがいれば、毎試合満席になるということは当たり前であった。
直史や武史の登板する試合も、普通に観客動員は増えたものだ。
特に直史の登板試合は、チケットの抽選がひどいことになっていた。
パーフェクトを見たければサトーの投げる試合を見ろ、とはよく言われたものである。
せっかく足を伸ばしたのに、あまり面白いことにはならなかった。
だがここで、昇馬が声を上げたのだ。
「タケ伯父さんには勝てないとして、俺と勝負したらどうなるかな?」
ほうっておいた場合、この両者の対決が一番早く実現する可能性があるのは、春の関東大会である。
もしも二人が共に、野球の世界で生きていくとする。
どちらかが故障でもしない限り、長いライバル関係になる可能性がある。
「左右両投げってのは聞いたけど、夏休みの話も聞いてるぞ。しょーちゃん随分過激になったよな」
「いやあ、俺は平和主義者よ。相手が金属バットなんて持たなければ、無事に殴り倒すぐらいで済んださ」
おそらくであるが、この場にいる人間で一番喧嘩が強いのは、一番年下の昇馬である。
これがツインズなどがいると、性差や体格差などまるで無視して、ぼこぼこにしたのだろうが。
アメリカでの正当防衛の条件から、昇馬は後遺症が残らない程度に相手をぼこぼこにした。
そもそも真琴が一緒にいたので、自分がぼこぼこにされた場合、彼女に魔の手が及ぶと考えたのである。
棍棒で猪を殴り殺すぐらいには、過激なのが昇馬である。
それでも熊相手に戦おうなどとは思わない。
猪が相手であっても、武器がなければ戦おうとは思わない。
素の人間が、素手で相手に出来る動物の上限は、猫だなどとも言われている。
そんな過去の話はどうでもいいとして、今は司朗と勝負するかどうかだ。
「当てるなよ」
「大丈夫、俺コントロールはいいから。左なら」
右だとちょっと、アバウトなコントロールになる。
それでも同年代の中では、圧倒的なピッチングをしたものだ。
「親父、続けてキャッチャーしてくれる?」
「親父とは、お前も偉そうな口を利くようになったな」
だがどうやら、二人の対決は成立しそうである。
ネットをサウスポー用のものにして、昇馬はマウンドに上がる。
「次は俺と勝負してみるか?」
「まだ親父に勝てるとは全然思えないよ」
大介と勝負するには、まず最低100マイルの速球が必要になるだろう。
しかし球速よりはむしろ、変化球をマスターしなければいけない。
丁度ここに、世界で一番の変化球投手がいるので、冬の間に一つか二つは使えるようになりたい。
ツーシームとチェンジアップだけでは、やはり限界がある。
佐藤家の血を引く、二人の対決である。
完全に他人事として見ていた直史は、ふと思い出した。
あの夏、大介と上杉の、試合ではない勝負を。
(あれで上杉さんに完敗してから、大介は本当に怖いバッターになったよな)
一年の夏には甲子園に行っていないにも関わらず、30本以上のホームランを甲子園で打ち、二位にダブルスコアをつけることになったのだ。
もちろんそれは、チーム力がなければそもそも、勝ち進むことが難しいのだが。
今の千葉県は、チーム数が多い割には、甲子園で多く勝ち進むことがあまり出来ていない。
白富東の全盛期のような、異常事態ではないのだ。
ただ昇馬一人の力で、県大会のベスト4ぐらいまでは行けるであろう。
怪我などがなければ、という条件はつくが。
あとは真琴がちゃんとキャッチャーとして最後まで捕れるか、という問題もある。
将来のライバルになるかもしれない、二人の実質的な初対決である。
シニアも硬球を使っているため、投げる方に特に問題は感じない昇馬である。
そしてキャッチャーは、引き続き大介がやることとなる。
「そういえば甲子園でもちょっとだけキャッチャーやってたな」
「あれはきつかったなあ」
アクシデントで本職のキャッチャーがいなくなった時のことである。
「そういえば俺の初登板の時も、ジンが怪我して大変だったんだよ」
今だから笑い話に出来るが、当時は本当に大変だったものだ。
中学時代の直史は、ほとんどの変化球を封印していた。
コントロールと、わずかな緩急だけでどうにか試合を組み立てていた。
そしてその結果が、公式戦未勝利である。
負けた試合の多くが、自責点が一点以内であったりした。
もう20年以上も昔のことなのに、いまだに自分の根底にあるものだ。
ちょっと執念深いのは、さすがに自覚している。
人間は敗北から学ぶ生物であるらしい。
そこでもう投げ出すということを、出来ないのが中学時代のチーム事情で、直史の長男気質であったのだ。
そういった挫折というか苦境があっても、逃げないのが直史という人間であった。
果たしてこの二人には、そういうものがあったであろうか。
幼少期にあちこち移動するという経験は、直史にはいっさいなかったものではある。
(訳の分からん経験値なら、むしろ昇馬の方が上だろうな)
直史はそう思っている。
「三打席勝負な。スイッチで投げるなら、アウトを取ったタイミングだけで」
「了解」
なにしろこんなつもりはなかったので、右用のグラブしか持ってきていなかったりする。
だがセンターの備品で、左用のグラブはちゃんとある。
まずはサウスポーで勝負する昇馬だ。
基本的に、サウスポーが標準であるので。
新しい世代の対決である。
上杉から武史あたりの年代が、まさにNPBの才能の黄金時代である。
このあたりの大活躍を見て育った現在も、まだ大きな影響を与えられてはいる。
ただしこの黄金時代を上回るような才能は、一人も出てきていないと言っていい。
一人のスーパースターの出現によって、そのスポーツ全体のレベルが上がるというのはあることなのだ。
野球の場合はそれが上杉であった。
上杉の願った、次の世代の本当のスーパースター。
それは結局彼が引退するまで、プロには入ってこなかった。
空前絶後の才能が、この数年間に集中している。
悟ぐらいまでが、この世代と言っていい。
だが目の前の二人は、まさに才能の塊であり、次の野球界を担う存在であるかもしれない。
もっとも司朗はともかく昇馬は、野球が一番という価値観を持っていないが。
シニアの現状からすると、実は他にも何人か、そのスーパースター候補が、存在していたりする。
司朗がその中の最年長で、役割としては上杉なのか。
もっともさすがに、上杉ほどのカリスマ性はない。
それでも一年生の大介が甲子園に出ていたら、と少しは思わせるほどの成績は残している。
なにせ甲子園で優勝しているのだから。
来年の甲子園で、この二人は対決するのかもしれない。
帝都一は夏の甲子園以降の、神宮大会の結果を見ても、充分に春夏連覇までは可能性が高い。
いくら強くても絶対勝てるわけではないのが、高校野球というものであるが。
もしも白富東が勝ちあがるとしたら、ほとんど昇馬のワンマンチームになるだろう。
(一人で勝ちあがるには、千葉にはチーム数が多いからなあ)
直史などは難しいだろうな、とは思っている。
もっとも真琴も、高校レベルならそれなりに通用するとは思う。
司朗が昇馬に感じるのは、巨石のような圧迫感だ。
別にこちらを威嚇しているわけでもないのに、なぜこんなものを感じるのか。
人間よりはずっと野生的。
獣のような、それも大型肉食獣のような、危険なものを感じる。
ライオンは眠っていても危険である、というイメージだろうか。
生物として、本能的に感じる危機感。
父や伯父と対戦した時も、こういったものは感じていない。
だが負けるかと思うと、それはそうでもない。
「じゃあ、やろっか」
「もういいのか?」
「俺、肩を作るの早いから」
スロースターターの武史などは、それに苦笑していた。
果たしてどちらが勝つのか。
正確にはこんな勝負は、まず勝敗の定義から作らなければいけないが。
とりあえず三打席の間に、どちらかが負けと思ったら負け。
その程度の認識でいいだろう。
そして親の世代は、どちらが勝つと考えているか。
「まあピッチャー有利だろうから、昇馬だろ」
「俺は親の欲目で司朗だと思うけどな。甲子園で経験も積んでるし」
「それでもピッチャーの方が有利かな」
直史夫妻は昇馬有利で、武史は息子を信じている。
あとはキャッチャーをやっている大介であるが、正直なところ分からない。
(司朗のバッティングフォームって、すごく自然なんだよな)
ゾーン内のボールであれば、どんなボールでも打ててしまうような、そんな自然体である。
一流の貫禄がもうあるな、と超一流の大介は思った。
もっとも昇馬の持つ気配も、大介は似たようなものを感じている。
本当の勝負の時に発する、直史の気配である。
まずは第一打席。
(とりあえずシロちゃんは、今の高校野球だとほぼトップレベルなんだよな)
それを考えた上で、昇馬は考える。
大介はキャッチングだけなら、いくらでも捕れるだろう。
ただ全くリードはしてくれない。キャッチャーではないのだ。
自分で組み立てていくなら、果たしてどうすればいいのか。
(とりあえずストレートが通用するか、試してみるか)
昇馬の目的はあくまでも、現在の日本の高校野球のレベルを知ることである。
初球のストレートは、150km/hオーバーである。
充分に高校野球の全国レベル。
それをほぼど真ん中に投げられたのだが、司朗はそれを振らなかった。
「振らないのかよ~」
「打ち頃すぎて驚いたんだよ」
それは半分だけは本当である。
司朗はピッチャーの狙いを、ほぼ完全に予測出来る。
今の昇馬の場合は、ストレートを投げてくるな、とは感じていた。
だがあまりにも、気持ちが真っ直ぐに伝わってきていた。
まさかど真ん中かと思って待っていたら、かなりのホップ成分があった。
おそらく打っていても、ファールかフライにしかならなかったであろう。
司朗の読みには、限界というものがあるのだ。
大介のゾーンに近い状態であるので、大舞台であれば大舞台であるほど、チャンスであればチャンスであるほど、相手が強ければ強いほど、その精度は上がっていく。
今の場合はまず球筋を見たかったのは確かだ。
(球速もあったけど、球威がそれより大きかった)
ホップ成分に加えて、減速も少なかったように思う。
集中力が高まって、ゾーンに入っていく司朗。
本気、というのはこういうものだ。
昇馬の球種は、ツーシームとチェンジアップ。
それに最近はスライダーを使うようになった。
これは遠く、真田の影響である。
高校時代に父の大介を苦しめた、一番のピッチャーは確かに真田であったろう。
特にそのスライダーが、左打者相手には魔球としてもいい効果を持っていた。
既に引退してしまったが、途中でそれなりに長い故障があったにもかかわらず、かなりの短期間で200勝に到達したというのは、歴代で見ても相当の上位に位置するピッチャーである。
最近のバッターは、相変わらず左の割合が多くなってきている。
それに対してサウスポーのスライダーは、かなりの効果があると言っても間違いではない。
腹に当たりそうなところから、一気にゾーンに入ってくる。
もしくはゾーンから大きくボールに逃げていく。
これは強力な武器になることは間違いない。
ただしまだコントロールが微妙なので、当たる可能性がある内角への変化としては使えない。
(もっかいストレートを、今度は少し高めに)
左腕からの、150km/hオーバーのストレート。
確かに司朗は、サウスポーも苦手にはしていない。
だがサウスポーでの本格派の、こういうストレートはなかなか体験できるものではない。
(それでも父さんの方が速い)
そのはずなのに、当たった打球は後ろのネットに突き刺さった。
ホップ成分が相当にある。
そしてこれで、ツーストライクとなってしまったわけだ。
追い込まれれば、臭いところにも手を出していかなければいけない。
ただしそれは実践の話であり、これは三打席勝負なのである。
(割り切って考えることが出来たら、もっと簡単なんだろうけどな)
自然体の司朗の構えが、少し変わった。
長打狙いとも言える、ややトップを先に作った姿勢。
試合において、勝負をかける時の構えである。
本気になった司朗の気配を、昇馬も感じている。
ただそれは、初球から狙っていくべきだったと思う。
(さて追い込んだし、あとはどう料理していくかか)
高めのストレートに、普通に当てていくぐらいでも、かなりの強敵だと昇馬は感じている。
少なくともシニアの試合なら、あれを当てるのはよほどボールの軌道を見てからであったのだ。
さすがは暫定一位の高校生バッターと言うべきか。
(まあ落ちるボールを続けてみて、それからもう一回か)
そう昇馬は判断し、チェンジアップを投げた。
少し落ちるボールと、大きく落ちるボール。
ツーシームとチェンジアップ。
もっともツーシームは、ほぼストレートと球速差がない。
そして投げ方によっては、普通のストレートよりもホップするように見えることもあるのだ。
ただここで昇馬が投げたのは、やはり完全なストレート。
ボール一個外れた高めの球を、司朗は空振りして三振である。
一打席目は昇馬の勝利。
それも空振り三振なのだから、分かりやすい勝利である。
ただあくまでも、余興のようなもの。
(本番の試合じゃないとやっぱり、予知能力は働きにくいな)
司朗の持っている、特殊な能力である。
対戦相手に集中し、状況に集中し、周辺と同化する。
それによってあたかも予知のように、次に何が起こるかが分かってくる。
ゾーンに入ったとか、あるいはトリップしたとか、そういう次元の力である。
だがそこに至るには、極限の集中力が必要となる。
また、舞台が整わないと、そこに力を入れられるわけではない。
甲子園こそがその舞台であった。
チャンスで回って来た時、司朗はあの状態に入って、打点をつけてきた。
ピッチャーを崩すために打ったホームランも、特に極限状態から自分を追い込んで、静止したように見えた球を、全力で打っただけである。
武史との対戦では、父との対戦ということで、ある程度は緊張感があった。
直史の場合はそれよりも緊張したが、むしろ向こうの調子が悪すぎた。
そして昇馬である。
順当にいけば、来年からの二年間、昇馬とは対戦の機会が発生する。
神宮大会に関東大会まで含めれば、甲子園以外での対決もありうるのだ。
さすがに一年春の関東大会には、出てこないと思われるが、昇馬は今見た限り、現時点で既に即戦力だ。
春は関東大会で当たる可能性があるし、夏は普通に甲子園まで勝ち抜けば当たるかもしれない。
もっともトーナメントを勝ち進めば勝ち進むほど、ピッチャーである昇馬の方が消耗していく。
それを考えれば有利なのは、バッターの司朗ではあるのだが。
この疲労がない状態の昇馬と、テンションが上がってない状態の自分。
どちらが有利かとなると、それはもちろんピッチャーの昇馬の方が有利なのは当たり前ではあるのだが。
残り二打席分、どうすればいいのか。
昇馬は野球に対して、それほど固執している人間ではない。
そのあたりはむしろ、父である武史に似ているかな、と司朗は思う。
だがどこか抜けている感じの父に対して、昇馬はまとっている空気が違う。
どれだけリラックスしていても、すぐに戦闘体勢に入れるような感じがするのだ。
まさに野生の獣に近いのか。
出来れば野生の獣であっても、肉食獣ではなく草食獣であってほしい。
昇馬は昇馬で、ピッチャーとして司朗の危険さを感じていないわけではない。
野生の中に踏み込むことを好む昇馬は、直感に優れている。
だがあくまでも、人間である。
そもそも人間も、動物であることにかわりはない。
(変な感じだな)
バットを構えている司朗からは、不思議な空気を感じる。
危機感知能力が、ゾーンに投げるのと危険だと伝えている。
これが日本の高校野球の、ほぼトップの打者なのか。
ただ長打力などであったりすると、司朗よりも打っているバッターはそれなりにいる。
(ホームランは価値が高いからな)
ヒットはもちろんスリーベースでさえ、それが点に結びつくかは分からない。
確実に点になるのは、ホームランだけである。
ただそれ以外のバッティングが、必要ないというわけでもない。
ランナーが三塁にいる時の犠牲フライ。これを安定して打てるバッターは、とても価値が高いと言える。
三塁ランナー絶対返すマンなども、その価値は高いだろう。
司朗の持っている気配からは、一撃で相手を粉砕するような、そんなパワーは感じられない。
だが必要なところで一閃し、相手の命を断ち切るような、そんな感じのイメージが感じられる。
ナイフのような……いや、これが日本刀のようなものなのだろうか。
父である大介の持っている力は、まさにハンマーのようなもの。
そのパワーによって数多くのピッチャーの心を折ってきた。
それが通用しなかったと言えるのは、直史だけであろう。
あとは上杉も、充分な力を持っていたと言えるだろうか。
だが自分の投げる球は、まだまだ全く通用しない。
アメリカの近隣校の中では、圧倒的なピッチングが出来たのであるが。
二打席目、昇馬はツーシームから入った。
インローのボールであり、下手をすれば当ててしまうかもしれないというコースである。
しかし司朗はそれを、完全に見送った。
「ボールかな」
大介がそう宣言し、座ったままほとんど手首の力だけで、昇馬へとボールを返してくる。
バッティングで偉大な記録を残した父であるが、ピッチャーとしての才能も相当にあったろう。
実際にMLBでは、消化試合でピッチャーとして投げたことがある。
ただ高校時代は同じチームに、ずっと優れたピッチャーがたくさんいたので、自分の出番はなかったのだという。
ミットを流さずに止めてくれれば、今のボールはアマチュアならストライク判定になったかもしれない。
だが来年以降のことを考えると、キャッチャーの問題は大きい。
シニアでは真琴がキャッチャーをしてくれていたが、昇馬のボールはいまだに、球速が成長を遂げている。
いくら女子としては傑出しているとはいえ、真琴の肉体でキャッチャーというのは、苦しいのは確かであろう。
いずれは誰か、専門のキャッチャーが必要になると思うのだ。
ただ大介は、ミットを流してはいるが、ツーシームなどを簡単にキャッチしている。
このあたりキャッチャーというポジションも、フィジカルが重要なものである。
専門職であるので、大介でさえ試合においては、プロでもやらなかったことだ。
(全力のストレートだけじゃなくて、他にしっかりとバッターを抑えることが出来るボールが必要になる)
それを直史から、入学までに教えてもらう。
高校生になれば、学生野球憲章で、教えてもらえなくなるからだ。
ツーシームも当初は、他のムービング系と同じく、打たせて取るためのボールであった。
今でもムービング系は、そういう球だという印象を持っている人間もたくさんいる。
だがアメリカでは三振を奪うための、重要な速球という面もクローズアップされている。
あとは価値がまた見直されてきたのは、カーブであろうか。
緩急の他に、ストライクを取るボールとして。
直史が一番得意とするボールは、カーブであるとも言われている。
実際にカーブで、落差や球速、角度などを自由に操っている。
そこまでは求めていないが、昇馬はカーブを二種類身に付けたい。
ストレートだと威力がありすぎて、キャッチャーが危険になることもあるだろう。
もちろん真琴自身は、さらにキャッチングの技術を上げて、バッテリーを組むつもりであろうが。
むしろ真琴は今のところ、二番手ピッチャーとして働くのが重要なのではないか。
サウスポーのサイドスローから投げるボールは、左打者には相当に打ちにくいものだ。
昇馬のように右でも左でも打てるというバッターは、そうはいない。
まして右でも左でも投げられるというピッチャーは、自分以外にはいないと思う。
そんな昇馬は、二打席目も左で投げた。
そして司朗はアウトローへのボールを、ほぼジャストミートしたのであった。
レフト前ヒット。
三塁にランナーがいる状況なら、確実に一点が入るというものだ。
ただそういった状況は全てなしで、この勝負をしてはいる。
単純に三打席で一本のヒットを打たれたら、それはバッターの勝利であると言えそうであるが。
だが三打席目は行われる。
そしてここで昇馬は、右用のグラブを手にした。
三打席目の勝負は、右腕で投げて行われる。
×××
次話「新星」
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