第130話 輝き
現在の高校野球においては、トップレベルのピッチャーは普通に150km/hを投げてくる。
150km/h台後半というものさえ、珍しくはなくなっている。
だが160km/hを試合で安定して投げるピッチャーというのはいない。
一応司朗は、マシンのボールであれば160km/hにも対応出来るようになってはいる。
しかし父のボールは、球速以上に軌道を捉えられない、とNPB時代から言われていたし、甲子園や大学野球でも圧倒的なピッチングと言われた。
全盛期ではないにしても、160km/h台後半は投げてくる。
それが父の武史である。
息子相手でも手加減をしないという、ある意味では大人気ない人間である。
(中学生の息子に160km/h投げてきたっけな)
今はその差が、どれだけ縮まっていることか。
武史は全盛期を過ぎているし、司朗は伸び盛り。
さすがに勝利と断言は出来ないまでも、健闘は出来るのではないか。
本来なら設備チェックの休日を、数時間だけ借りている。
これを見ているのは施設の責任者と、恵美理だけである。
見たがったが用事があったのがセイバーであり、さすがに映像に残すわけにはいかなかった。
(キャッチャーがいないのって、ピッチャーが不利じゃない?)
恵美理はそんな感想を抱いているが、そういうレベルの問題ではない。
三打席勝負で、ストライク判定はAIによるものだ。
もっとも機械のストライク判定というのは、実際のゾーンとはちょっと違ったりするものであるが。
武史はそのため、ナックルカーブだけは封印している。
それがなくてもチェンジアップがあれば、充分に打ち取れると考えているからだ。
果たしてどの程度の力を入れて投げればいいのだろう。
時間をかけて肩を作った。
今年の武史は、不本意なピッチングが多かったが、それでも勝ち星が負け星を大きく上回った。
司朗が甲子園のヒーローになったことはテレビで見たが、それも遠い日本のこと。
神奈川、正確には東京からなので、来年の夏からは神宮での息子のプレイが見られるということか。
(でも来年は、しょーちゃんが高校に上がるんだよな)
武史は昇馬のことを、とてもよく理解している。
司朗は自分にはあまり似ず、ピッチャーとしても充分に通用するが、それ以上にバッティングが優れている。
対して昇馬は、左右のどちらでも投げられる上に、バッティングでも場外弾を連発していた。
中学生の飛距離ではなかったし、司朗はバッティングセンスがいいと言っても、甲子園では二本しかホームランを打っていない。
パワーでは向こうの方が上なのだろうな、と思っている。
司朗の野球の選手というのは、どちらかというと伯父にあたる直史か、あるいは叔母であるツインズに似ているのではないか。
武史はそう思いながらも、マウンドの土を掘った。
「三打席だけど、この30球のボールがなくなったら終わりだからな」
頷いた司朗は、いつものゾーンの感覚に入っていく。
これは母の弟子である、妹のような存在の花音が、司朗がピアノをやっていた時に教えてくれた感覚だ。
空間を支配するのだ。
それによって、ピッチャーの投げてくる球種やコースまでも見通す。
もちろんノーコンのピッチャーであると、逆にそのコースなどは読めなかったりする。
(ストレート……)
子供と思って舐めているのか、コースはど真ん中。
左打者である司朗であるが、サウスポーを苦手とはしていない。
正確には、どちらの打席でも打てなくはないのだ。
ただ比較的、左打席の方が得意というだけで。
サウスポーの武史は、オーバースローである。
真っ直ぐに縦に、ボールが回転している。
(打てる!)
そう思ってスイングしたが、バットーはボールの下をかすっただけであった。
だいたい163km/h前後であろうか。
しかしスピードよりもまず、そのボールの軌道がおかしかった。
(予想よりもずっと上だった。けれど……)
司朗が構えるのを待って、武史は二球目を投げる。
これはアウトコース。アウトローからわずかにボール球になるカットボール。
見送って、宣言する。
「ボール球だよね?」
「よく見極めたな」
息子の成長に感心する武史である。
残りのボールは28球。
よく考えなくても、プロの自分が高校一年生の息子に、あまり真剣になりすぎるのも良くない。
だがストレートに当てて、ムービングを見極めた。
(じゃあこれはどうだ?)
今度はインローへの、ツーシームを投げる。
ギリギリのボール球とも言えなくはないが、大介ならば打つ。
司朗はそれをスイングした。
ミートしたボールは、ネットに絡まる。
ホームランではないが、おそらくライト前のヒットになったのではないか。
少し上がりすぎたので、前身守備を取っていれば、キャッチされたかもしれない。
「今のは……」
「う~ん、ライト前ヒットでいいだろ」
そう簡単に言ってくる武史に対して、むっとする司朗である。
「ちゃんと真面目に投げてよ」
「まあ、お前の力はだいたい分かったしな」
そう言った武史は、これから始まる二打席目、本気で投げるつもりになっていた。
大人げのない男である。
実の息子に対して、この仕打ち。
誕生日がまだなので、15歳の少年相手である。
しかし武史の常識において、夫は妻の前では、かっこいい男でないといけない、というものがある。
だからといって高校生に向かってそれでは、ドン引きではあるのだろうが。
真剣勝負と言ったのは司朗なのだから、これも仕方のないことなのだ。
単純に速いだけではない。
確かにその速さだけでも、とても目がついていかないが、それ以上の力がボールにはある。
(さっきのヒット性の当たりも、金属じゃなかったら)
そう考えると、あれも実質的には打ち取られたものではなかろうか。
シニアは木製バットであるのに、高校野球は金属バット。
プロではまた木製バットになるため、これに対応できずにプロで通用しない高校の強打者というのは、それなりにいるものなのだ。
二打席目、ボール球は見極められたのだが、ストレートが打てない。
チェンジアップの気配は察知して、ボールを振らなかったのだが。
ムービング系のボールであると、カットするのが精一杯。
(160オーバーで動かしてくるって)
気配は感じるのだが、それに肉体がついていかない。
これが世界のトップレベルなのか、と頂の高さを痛感する。
結局はヒット性の当たりのあと二打席は、三振で終わった。
三打席分で15球しか投げていないと言うべきか、15球も投げさせたというべきか。
世界のトップレベルを相手に、それなりに当てたのを誇るべきか。
(MLBに行ったら、これに近いピッチャーがそれなりにいるわけか)
少なくとも今年の武史は、サイ・ヤング賞を取れなかったのだ。一応票は入ったらしいが、上位三人にも入っていない。
やれやれ、と武史はマウンドを降りる。
もちろんちゃんと掘った穴は戻して。
「気が済んだか? そういやピッチャーとしてはどんな感じなんだ?」
司朗は甲子園でも、何イニングか投げているのだ。
「父さんを見てたら、ピッチャーでプロに行こうなんて思えないよ」
「いや、でも一年で150km/h近く出てるんだろ? 兄貴なんか一年の時、140km/hも出てなかったぞ」
それは事実であるが、事実の一部でしかない。
「ナオ伯父さん?」
「そうそう。俺も甲子園で150km/hは出したけど、それまでは145km/hぐらいが精一杯だったし」
ただ直史はもちろん武史も、コントロールはとても良かった。
司朗は甲子園においても、相手のボールを先読みすることで、高い打率を誇っていた。
あまりにも打率が高くなりそうだから、どうでもいい場面ではわざと凡退もしている。
そのせいで逆に、勝負強さが目立ってしまったが。
直史は二年の夏でもまだ、140km/hは出ていなかった。
だがその球速で、幻のパーフェクトを演出したのだ。
もっとも武史も改めて対決してみて、バッティングの方が才能はあるのでは、と感じた。
際どいボールは簡単に見極められたので、結局は球威で押すしかなかったからだ。
今のNPBには、160オーバーのムービングを投げられるピッチャーはいなかったはずだ。
いずれにしろ、まだこれからが長い野球道である。
武史は本格的にやり始めたのは、高校に入学してからだ。
司朗はそれよりもずっと前から、野球をやっている。
「野球ばっかりやらずに、水泳とかもした方がいいな」
アマチュアの息子にヒット一本を打たれても、気にしていない武史である。
司朗は実際のところ、甲子園でも全て本気で打てば、九割近くの打率は残せたのでは、と思っている。
ジャストミートして長打にしようとすると、どうしてもバットコントロールが上手く行かず、野手の正面に飛んでしまう打球があるのだ。
しかし武史のストレートには、全く手が出なかった。
いや、当たる程度ならば当たるのだが、本気のストレートは前に飛んでいない。
最初の打席はヒット性の当たりと言っていたが、最初に花を持たせて、そこから折っていくというスタイルだと思ったのだ。
自分から挑んでおいてなんだが、大人気ない父親だと思う。
(けどロジャー・クレメンスも遊びで奥さんに打たれたら、次は全力で当てていったとかいう話はあったっけ)
そんなドン引きの話に比べれば、武史はまともである。
あれがおおよそ、世界の頂点である。
随分と高いところにあるが、頂点が分からないほど高くはない。
この先をずっと登っていけば、いずれは到達することが出来る。
もっとも本物の頂点は、武史の見せたこの頂とは、全く違うものであるのだが。
武史が言う、本当の頂点のピッチャー。
それはもちろん、直史のことであろう。
クライマックスシリーズ、もちろん司朗も見ていた。
関東大会の前だったので、全てをしっかり見ていたわけではないが。
究極のピッチャーとバッターの対決。
画面の向こうということもあるが、司朗にはその全貌が分からなかった。
しかし二人の間には、何かとてつもない見えない感情が渦巻いているとは感じたものである。
(あれは、バッティングの頂点)
それを抑える直史こそが、ピッチングの頂点なのだろう。
直史が来年も現役を続けるというのは、仕方のないことだな、と周囲には受け止められた。
大賛成というわけではなかったのは、本人がそもそも現役続行に、固執しているわけではないと知っている者が多かったからだ。
ただ直史から、本当の理由を聞いている者は少ない。
なので中には、直史を妬むような人間もいる。
富や名声に加えて、社会的信用までも得ていると、どうしようもない。
それでも大半は、直史の業界における存在感が、空前絶後のものだと知っている。
史上最高のピッチャーは上杉だ、と言われても直史と比較する人間はいる。
蓄積された実績では、確かに上杉の方が上であると言えるからだ。
しかし史上最強のピッチャーならば、直史の方が上であると、基準をもって比較することが出来る。
それは史上最強のバッターである、大介との対戦成績の比較である。
上杉は大介に、故障前の全盛期でも、何度か負けている。
だが直史が大介に明確に負けたのは、MLBで二年目の、酷使されたワールドシリーズ最終戦ぐらいである。
大介を使って比較するまでもなく、ピッチャーとしての成績、絶対的安定感だけを言うならば、直史の方が上である。それこそMLBの評価システムを使えば明らかであるだろう。
ただし人間としての力は違う。
直史は勉強をして、資格などを得てきたため信用がある。
だが上杉にはそういったものを超越した、絶対的な信頼感があるのだ。
野球の場合は絶対的なエースの存在は大きい。
だがプロの世界では毎試合を投げられるはずもないので、バッティングをする野手の方が集客への貢献度は高かったりする。
点を取らなければ勝てないこの競技では、士気を鼓舞していくのは野手のキャプテンの方が重要だ。
エースはどれだけ投げても、基本的に孤高の存在なのである。
どちらの方が優れているか、などということは実際、どうでもいいことである。
直史が目指すのは、とにかく勝つことが第一。
五点も取っていたら、四点までは取られてもいい。
ただシーズンを通して投げていくためには、消耗を少なくしていくことが重要である。
アメリカに行った時に診断された、過労状態。
レギュラーシーズンの成績によるものか、その終盤からポストシーズンにかけてのものか、それは分からない。
だが血液検査で間違いなく、異常値は出ていたのだ。
練習、休養、食事のバランス。
明らかにレギュラーシーズン終盤からは、これが狂っていた。
アメリカから戻ってきて、セレモニーにも出席して、シーズン中には出来なかった仕事を行う。
完全にリソースが足りていない。
それでいて一番効果の大きそうなのは、やはりプロで活躍してもらうこと、などになるのだ。
年末までにはまたアメリカに渡り、三人で日本に戻ってくる予定だ。
もっともセットで、日本での主治医であった医師にも、同行してもらうのだが。
やはり医者の知り合いがいると、ありがたいことが多い。
直史にもそれなりに医者との伝手はある。
元はセイバーの知り合いであったり、あとは大学時代に少し交流した、村田との関係だ。
彼はもう、山口に帰って親の医院を継いでいるが、大学病院で働いていた頃は、内科医としても優れていたという。
なんだかんだ言いながら、司法試験は医者になるよりは簡単であったろう。
なにしろ実技というものが医学部は存在するのだ。
直史の場合は基本的に、シーズン中の土曜日だけに拘束されることが多かった。
なんであんなに練習をしていないのに、などとはよく言われたものだ。
実際はだらだら長いだけの練習をしなかった分、別のところで効率的に練習やトレーニングをしていただけなのだが。
オフシーズンでも休めていない直史だが、それでも以前の現役の時に比べれば、トレーニングの量は減らしている。
ミネラル成分が不足しているなどとも言われたため、食事には気をつけているのだ。
ちなみに直史は、それなりに料理は出来る。
ただ今年は、完全にホテル暮らしであったため、球団での食事をありがたく頂戴していたが。
なんだかんだ、忙しいことを充実と言うなら、たしかに充実した一年であった。
たださすがに、年末年始は実家に戻って過ごせそうである。
大介の一家が現在は住んでいるのは、いわゆる母屋と呼ばれる方。
年末年始や盆などは、直史も両親もそちらで過ごす。
これが田舎の一般的な過ごし方なのである。
クリスマスが終われば、実家に戻って大掃除。
数十年変わっていないルーティンである。
しかし直史はその前に、面倒なことを頼まれていた。
武史からの連絡で、司朗が直史と対戦したがっている、という話を聞かされたのだ。
直史は弁護士であるが、あまり遵法精神はない。
実際に法律というのは、状況によってある程度柔軟に解釈されることが多いのだ。
学生野球憲章がおかしいなと、常々感じている直史。
また学生への指導はともかく、投打の勝負というのなら、遊びの範囲内であろう。
もちろんおかしなことを言い出したな、とは思った。
高校に入る前には、直史と勝負したいなどと言っていただろうか、と記憶を探った。
12月に入ると、直史は諸々の手続きなども終えて、アメリカに渡った。
こちらで医師から最終的な説明を受けて、そして帰国である。
今後もしばらくの間は、日本にて定期的な診断を受ける。
だがおそらく、問題はないだろうとも言われていた。
まだ完全に体調が回復したというわけではないが、手術後に深刻な状態になったということもない。
これは完治したと言ってもいいだろう。
退院時に病院から渡された請求書には、かなりびっくりした。
さすがはアメリカの医療は金がかかるな、と思ったものである。
金で幸せが買える、などとは言わない。
だが金で買える幸せもあるのだ。
また金があるということは、ある程度の余裕ももたらしてくれる。
未来の選択肢は、金がある方が多くなるというのは確かなのだ。
そういったことを考えていくと、自分がMLBでプレイしたことは、悪かったことではなかったと思う。
今出資している事業についても、その原資は元は直史が稼いだ金である。
金を稼いだことで、大きく事業展開をして、大勢の雇用を作り出している。
これは間違いなくいいことである。
おおよそのアスリートというのはそういった考えがなく、引退後に破産してしまったりするわけだが。
普通に考えれば、スポーツ選手など大半は、引退してから後の人生の方が長いのである。
そういったことを考えず馬鹿騒ぎするというのは、本当に直史には分からなかった。
まだしもミュージシャンや作家などは、長くやれるという意識はあったが。
ただ日本のミュージシャンなどは、だいたい三年から五年が賞味期限であることが多い。
もちろんその後も活動はしているのだが、長く売れるということは難しい。
親子三人と医師に看護師と、五人での帰国となった。
これでもうアメリカに行くことはないかな、と直史は思った。
だがMLBが直史に特別に殿堂入りを許す可能性が高い。
あれは基本的には、10年以上をメジャーで送った選手のみが殿堂入りするというものである。
大介に武史、あとは織田などは殿堂入りが確実視されている。
樋口は少し期間が足りないので、これも微妙なところだ。
キャッチャーとしては何度も、シルバースラッガー賞やゴールドグラブ、オールMLBに選ばれているので、これも特例になるかもしれないが。
アメリカという国を体験したことは、直史の人生においては悪いことでなかったと思う。
だが五年間の生活の中で、はっきりしたのはやはり一つ。
自分は日本人である、という確固たる意識だ。
これは大介などに聞いても、同じような返答が戻ってきた。
かなり柔軟性に富んだ大介であっても、日本が一番、というわけである。
ただ武史は、金さえあればアメリカは過ごしやすいな、などと言っていた。
恵美理のアメリカへの拒否感で、全体的には否定的であったが。
世界的に見れば日本も含めて、移民などが増えていくと生活習慣の違いなどから、絶対に摩擦が起こる。
アメリカという国はむしろ完全に多国籍の移民国家なので、それを力にしてきたという部分はあるのだろう。
各国の文明に関しては、直史は専門家ではないので、あまりはっきりしたことも言えないのだが。
ともあれファーストクラスの飛行機で、日本に戻ってきた直史たち。
まずは千葉のマンションへと戻り、ようやく家族五人が揃う。
来年からはまた、直史の出張が多い生活になるが。
だが、ようやくこの一年が終わった、という感じがする。
まだ仕事の方は残っているし、実家に帰れば大掃除などがあるのだが。
それと今年は、あいさつ回りが多くなるだろう。こちらは年始の活動になるのかもしれないが。
それよりはまず、クリスマスである。
仏教徒であり神道を国家の宗教と認める直史であるが、クリスマスを否定するということもない。
ごく普通に、他宗教のイベントを受け入れる。
もっともこういったものがおおよそ、企業の戦略によるものだとも分かっているが。
あえて強く否定するのも、馬鹿な話だと思っているだけだ。
こういったイベントは、子供にとっては悪いことではない。
佐藤家は金はあるが、基本的に贅沢をしない。
もっとも平均的な生活を送れるということが、最近では贅沢になりつつある日本社会かもしれないが。
忙しかった今年であるが、来年もまた忙しいことになるだろう。
それは直史個人のことではなく、家庭内でのことだ。
クリスマスを祝いはしたが、真琴の受験が控えている。
滑り止めの私立としては、地元以外に埼玉の高校を受けるつもりである。
白富東に行くならば、野球部に入る。
それに失敗すれば、埼玉の女子野球の強豪に入る。
するとキャッチャーがいなくて、昇馬は困ったことになるが。
今の昇馬のボールをキャッチ出来るというだけで、真琴は女子離れした身体能力を持っていると言える。
フィジカル的にも170cmあるというのは、女子の平均を大きく上回っている。
もっともちょっと見ない間に、昇馬はさらに大きくなっていたが。
もうすぐ190cmというその身長は、父親である大介が嫉妬するようなものであった。
SBC千葉は、間もなく今年の営業を終える。
元はと言えばセイバーがかなり身勝手な理由で作った会社であるのに、随分と長く続いているものである。
日本に帰ってくるたび、大介や武史が使うので、千葉は特に必要ではあった。
だが埼玉も神奈川も、しっかりと採算が取れているのだ。
「まったく、バレたら面白いことになるわよ」
本当に面白そうに、セイバーは設備の最低限を起動させる。
室内練習場の照明がつき、凍えた空気がわずかに温められる。
今日のこの対決は、司朗が望んだものだ。
しかし野次馬のように、大介に武史、瑞希に昇馬が付いてきている。
なお真琴は、受験勉強のためにお留守番である。
そもそも出かけるとだけ言って、その内容を知らされていなかったのだが。
「兄貴、けっこう本気でやらないと打たれるぞ」
実際に打たれた武史が、面白そうにそう言った。
おそらく現役で世界一のピッチャーに、日本の高校で一番のバッターが、挑んだらどうなるのか。
もちろん直史は、まだ復調していない。
だが高校生レベルなら、コンビネーションで封じられるはずだ。
(ただ司朗、なんだか貫禄が出てきたんだよな)
甲子園や神宮大会で活躍した、圧倒的な自信からのものであろうか。
ただ武史には、打たせてもらった一本以外は、ほぼ封じられてしまっている。
世界トップレベルのパワーピッチャーの前には、まだまだ自分は歯が立たない。
ならば技巧派ならばどうなのか。
甲子園などでも司朗は、球威だけで押してくるパワーピッチャーよりも、技巧派と言われるピッチャーの方が相性が良かった。
もっとも武史は、確かに本格派であるが、技巧派と呼んでもいいぐらいにコントロールは良かったのだ。
可愛い甥っ子のお願いに、直史は応じた形になる。
「大丈夫なのか?」
今日はキャッチャーをやってくれる大介は、そう直史に声をかける。
「全力は出せないけどな」
あの最終戦から、既に二ヶ月は経過している。
だが直史の肉体は、まだ休養を必要としていた。
なので軽く投げる程度であれば、というのは最初に言って合ったことだ。
肩を作る時にも、全身の連動を確認する。
あれからほとんどの運動を行っていないので、筋力は落ちているのだ。
そういったことを全て踏まえた上で、司朗は願ってきたのだ。
このことが公開されるのは、学生野球憲章が変わった時か、あるいは関係者が全員引退してからとなるだろう。
もっとも100%の直史でないのに、打ってどうなるかという話はある。
それでもトップクラスではあるし、技巧派の極致ではあるのだが。
瑞希はこれを記録し、そして昇馬は目に焼き付ける。
来年の夏、あるいは早ければ春に、司朗とは対決することになる。
いつの間にか身長は、ほぼ並んでしまった二人。
だが体格を見れば、昇馬の方がずっと厚みがある。
(シロちゃん、いくらなんでもナオ伯父さんには勝てないと思うんだけどな)
あるいは敗北を知りたいのか。
夏場にシニアの全国大会が終わってから、昇馬はそれなりに甲子園の試合を見ていた。
そして感じたのが、アメリカのいわゆるベースボールに比べると、高校生レベルでも緻密であるなという印象だ。
一点が大きく試合を左右する、一つ負けたらそこで終わりのトーナメント。
シニアの大会も全国はそうであったが、日本の野球は一試合あたりのプレッシャーが大きすぎる。
だからこそ国際大会では強いのかもしれないが。
コーン、とヒット性の当たりが出た。
そしてそれが、もう一回続いた。
「伯父さん、手加減しすぎだよ」
「いや、肩がこれ以上は投げられないな」
直史はヒット性の当たりを打たれている。
もちろん本気でないというのは本当だが、これ以上は投げられないというのも本当のことだ。
「150km/hも出てないですよね?」
「シーズンの序盤はこれぐらいだったというか、終盤に入るまで150km/hはほとんど出てなかったぞ」
大介がそう言ったので、確かにその通りなのだろうな、と司朗は思う。
ただそれよりも納得出来ないのは、確かにヒット性の当たりにはなっているが、長打の当たりではないということだ。
ボールのホップ成分が多い。
それも並大抵ではなく、普通なら完全にミスショットするぐらいのものなのだ。
「変化球はどうですか?」
「じゃあカーブだけでも体験してくか」
直史の球種の中で、圧倒的に多いのは、ストレートの次はカーブ。
ただ球種の割合は、時期によって変化しているのだ。
かつては魔球と呼ばれたスルー、ジャイロボール。
今でもコントロールして投げるピッチャーはいないものの、プロではそれなりに対処されるようになっている。
だからこそ逆に、内野ゴロを打たせるには最適なのだが。
これを今では、あまり投げないようになってきている。
それよりも司朗が気にしているのは、ボールの持つ覇気のなさとでも言うべきか。
気合が込められていないので、むしろどこに投げられるのか分かりづらい。
ただ、カーブを投げられると、そのスローカーブにはバランスを崩された。
(遅い)
この緩急差こそが、世界一と言われる所以なのであろう。
×××
次話「双極星」
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