第127話 昇華

 人間は苦境の中でこそ成長する、というのは誤りである。

 苦境の中で成長する人間もいる、というのは誤りではないが。

 当たり前だがしっかりと準備をした方が、試合も仕事も戦争も成功する。

 その意味ではライガースは、完全に調子を崩していた。

 むしろレックスの打線を抑えたことの方が、奇跡であったと言えるのかもしれない。

 左右田の離脱という要因もあったわけであるが。


 先発した大原も、六回三失点と悪い内容であったわけではない。

 だが打線による援護が、一点もなかったというのが痛い。

 首脳陣としてもこの試合、重要なのは打線の復調の気配を探ること。

 しかし大介の他にヒットまでは出たが、とても得点には結びつかない。

(長打につながる打球が打てていない)

 ファイナルステージでは一人で点を取っていた、大介でさえも調子を落としている。

 最後に直史との決着がつかなかったのが、原因であるのだろうか。


 大介としてはモチベーションの低下から、集中力が低下しているのが分かる。

 ほんのわずかなタイミングの違いが、ただのフライとホームランを分ける。

 それでもバットコントロールで、野手のいないところに落とすことは出来る。

 だがそれは、大介の期待されていることではないのだ。

 大介はやはり長打を、ホームランを狙っていかないといけない。


 この集中力の低下を、どうすればいいのか。

 日本一を目指す、ということがどうでもよくなってしまっている。

 普通にクライマックスシリーズを勝ちあがったなら、自分も確信をもって戦うことができたであろう。

 しかし今の自分には、誇れるものが何もない。

 ライガースの打線陣が、ほぼ総崩れとは別の次元で、目的を見失ってしまったのだ。




 大介が日本に戻ってきたのは、直史との対決のためである。

 おそらくわずか一年だけとなる、直史の日本球界復帰。

 それに合わせて、かつてほとんど敗北に終わったという記憶を、どうにか塗り替えたかった。

 結局のところはチーム力の違いで、直史を削っていくという勝負になっていったが。

 それでも直接対決で、完膚なきまでに負けていればよかった。

 実際にあの時点で、個人としての成績で言うなら、圧倒的に負けていたのだ。

 しかし最後の打席と思ったところで、引き分けのまま日本シリーズ進出が決定。

 サヨナラ勝ちのような結果になってしまった。


 大介は直史を一度も打てなかった。

 ホームランを打った試合も、勝敗と言う意味では直史がチームとして勝った。

 またライガース打線の自信を、徹底的に折ってきた。

 普通ならばあの連戦は、レックスが勝っていたものであったのだ。

 そのあたりの割りきりが、大介としては出来ていない。


 あの幻になった打席。

 あれにこだわりすぎているため、自分までもがバッティングの形を見失っている。

 なんとかバットに当てて、ヒットで出塁などはしている。

 しかしピッチャーの球筋を見極めて、確信をもったスイングというのが出来ていない。

 それでは大介のバッティングとは言えないであろう。


 こだわりを捨てて、今の試合に集中すべきなのだ。

 だがこだわりを持っていたからこそ、大介はここまでやってこれたのだ。

 ファンやチームメイトなど、期待してくれる人々は多くいる。

 だが結局大介は、自分自身のために野球をやっている。

 なので自分が満足していなければ、それは結局意味がないことになってしまう。

(ナオのいなくなったMLBでは、どうして野球をしてたんだっけ)

 それは直史が引退試合をしたことと、MLBで多くの新人が大介に挑戦してきたからだ。

 前の試合の終わり方は、あまりにも中途半端なものであった。




 直史は今、日本にいない。

 敗退した今、既にアメリカに渡って、手術を終えた息子と過ごしている。

 大介もそのあたりまでは、普通に連絡を受けていた。

 そんな今の直史に、大介が語ることはないと思う。

 今の直史にとっては、息子と過ごすこと以上に、重要なことはないであろう。

 それは大介にも分かる。


 大介の感情が、どこに持っていけばいいのか分からなくなっている。

 そのため地元開催のこの日本シリーズも、二試合連続で落としてしまうことになったのだ。

(俺だけが悪いわけじゃないけど、長打が打ててないからなあ)

 投手陣もレックス戦での負担が大きかったのか、それなりに点を取られている。

 打線に比べれば、まだその状況はマシと言えるだろうが。


 かつてライガースは、日本シリーズで歴史的な大敗をしたという。

 それに比べればまだ、マシと言ってしまえばマシである。

 だが負けることが続くというのは、結局負けという結果においては同じことである。

 屈辱的な大敗であっても、惜敗であっても負けは負け。

 プロならやはり勝ってこそ。


 甲子園から始まり、連敗の後はアウェイの福岡へ。

 敵地であるが、問題はそこではない。

 まず打線がリフレッシュ出来なければいけないのだ。

 アウェイであっても、環境が変わればどうなるか。

 そこに期待して、福岡へと移動するライガースの選手たちであった。




 後の世では、この年のライガースは、レックスとの試合において、完全にバッティングの調子を崩されていた、と言われている。

 確かに全体を見れば、あまりにもヒットの数などが少なすぎる。

 それはクライマックスシリーズのファイナルステージから続いているもので、それを果たしたのが直史であるというのも定説というか、事実関係から見れば明らかなことなのだ。

 一人のピッチャーの所業とは思えない、圧倒的な支配力と言えるであろう。

 全盛期の上杉をも上回る。


 福岡に移動してからも、ライガースの調子は上がらない。

 四連敗は問題だと、誰もが思っている。

 ただ普通なら使わない、予備の燃料タンクにまで、穴を空けられた感覚と言えば分かるだろうか。

 なんだかメンタルへのダメージが大きく、どうしてもモチベーションが上がらない。

 大介でさえ狙って長打が打てず、素振りをずっと続けているのだ。


 不調と言うよりは、まるで病気である。

 レギュラーシーズン、ずっと殴り合いで勝ってきたライガースが、完全に打撃に対する自信というか、バッティング感覚を狂わせている。

 それはもちろん、直史によって異様なまでに、抑えられ続けた末のことであろう。

 だがプロならば、抑えられたとしてもそこから、どうにかしてスランプを脱しないといけない。

 この状況でスランプにした、怪物ピッチャーはともかくとして。


 一応スモールベースボールの作戦で、無得点ではない試合はある。

 またピッチャーもここまでは、比較的抑えてくれたと言っていいだろう。

 だがこのシーズン、ずっと続けてきた野球が出来なくなっている。

 これは致命的な問題であると、首脳陣などは分かっている。

 首脳陣ではないが、大介も分かっているのだ。

(これがあいつの本気なんだなあ)

 引退するまでは、ここまでのおかしなピッチャーではなかったと思うのだ。




 三戦目までホームランのなかった大介。

 打順は二番と、比較的常識的なものとなっている。

 だがこの四戦目で、ランナーが二人もいるところで、ようやく一発が出た。

 このままストレート負けはさすがに嫌だと、内なる戦闘民族の血が叫んでいるのだ。

 このホームランを無駄にしまいと、ピッチャーたちも頑張ったし、さらに出塁した大介がホームを踏んで、ようやくライガースはまともな点が取れた。

 四戦目にして、ようやく一勝したのである。


 意地とでも言ってしまえばいいのだろうか。

 とにかく一勝したライガースは、第五戦もようやくまともに点が入っていく。

 ただここで、それまで頑張っていた投手陣が崩れた。

 点の取り合いという、また大味な試合になってきたのである。

 この空気のまま戦うなら、むしろそれは望むところだ。

 レギュラーシーズン中の、ライガースのスタイルであるからだ。


 福岡も、このままではまずいと思ったかもしれない。

 ただライガースはやはり、本調子ではないバッターが多かった。

(するべきことは、ベンチメンバーとの大規模な入れ替えだったな)

 ここに至ってようやく、山田は作戦のミスに気づいた。

 スタメンの復調に期待するのではなく、呪いの重くないベンチメンバーを使う。

 失敗すれば大きな批判を受けたであろうが、今から考えるならそれが一番であったろう。


 スタメンより弱いベンチメンバーで戦っても、結果は同じであったかもしれない。

 だがさすがにこの劇薬を用いたショック療法なら、一試合だけで効果が出たのではないか。

 ともかく確実なのは、ライガースをこの短時間で立て直すには、まともな手段では不可能であったということだ。

 とても採用できない戦略であったかもしれないが。




 結局ライガースは、福岡ドームにおけるこの第五戦に敗北し、日本一の座を逃したのであった。

 第一戦からのスコアは、3-0、5-1、4-1、3-5、7-4というもので、特に三戦目までのロースコアが目立った。

 レギュラーシーズンとは相手も違うし、ピッチャーの起用法も違う。

 先に日本シリーズ進出を決めていた福岡の方が、運用においても有利であったということはある。

 だがとにかく、点が取れなかったのだ。


 最後の二試合は、ある程度の復調の兆しがあった。

 だが重要なところで、一打が出なかった。

 根本的な自信の喪失は、短期間で戻してこれるものでもない。

 もっともそれでも、大介は二本のホームランを打っている。

 一人気を吐く、という表現が似合っていたことであろう。


 レックス相手には、六試合で八点しか取れず、それでも日本シリーズには進出した。

 しかし福岡との試合では、五試合で終わったのに11点を取っている。

 明らかにレックスの投手陣、要するに直史が異常であったことが分かるのだ。

 もしもレックスが勝ち進んでいたらどうなっていたか。

 やはり負けていただろうな、と大介は思っている。


 直史はあの四試合の中で、完全に燃え尽きるように投げていたのが感じられた。

 スーパーエースのいないレックス、そしてリードオフマンのいないレックス。

 主力のジョーカーを欠いてしまっていては、とても勝てなかったろうと思っても、この日本シリーズで完敗したのは、ライガースに違いない。




 なんとも尻すぼみに思えるシーズンになってしまった。

 原因としてはやはり、ライガースがレックス戦で、全ての力を使い果たしたかのように見えたからだろうか。

 あるいはレックス戦の試合の方が、圧倒的に日本シリーズよりも注目されたからであろう。

 直史と大介がセ・リーグのチームにいる以上、どうしても日本シリーズへの注目度は低くなってしまう。

 これは上杉のいたスターズと、大介のいたライガースが、五年連続でクライマックスシリーズのファイナルステージで当たっていたのと、同じようなことであろうか。


 ただこの日本シリーズが終わってから、予測はしていたが衝撃的な発表がされた。

 上杉の引退が宣言されたのだ。

 ポストシーズンで交代して、その後の経過などが公表されていなかったのは、発表するとまだ続いているポストシーズンへの注目が、下がってしまうかもという配慮があったからである。

 間違いなくNPB史上最高のピッチャーと言えるだろう。

 唯一それを上回る可能性があるのは、ほぼ故障知らずの武史であるが、あちらは途中からMLBで投げているので条件が違う。


 上杉はNPBにおいて、実働22年であった。

 途中の二年、治療とリハビリでアメリカにいたが、あちらでも一年クローザーとして投げていた。

 NPBでの記録は、622登板600先発436勝56敗20セーブ。

 MLBでの記録は、63セーブ。

 NPB史上第二位の先発数であり、最多勝利。

 そして勝率では、完全に誰も及ばない。

 それこそMLBを含めた直史ぐらいである。


 七年連続を含む、15回の沢村賞受賞。

 質ならば直史、量ならば昭和のピッチャーに負けることはあるが、質と量の両方を等しく持つなら、上杉は間違いなく最高のピッチャーであった。

 その実力は国際大会や、一年間のMLBでの生活でも明らかである。

 ポストシーズン後の成績を加えていいなら、多くの分野で一位となるであろう。

 もっともクライマックスシリーズがなかった時代と比べるのは、それはそれで不公平であろう。




 直史がこの時期、まだ日本に戻っていなかったことも、上杉の引退が注目された理由であるろう。

 42歳で引退というのは、充分に長く活躍したと言える。

 主にネットでのニュースを見ていて、直史は一つの時代の終焉を感じる。

 上杉の時代と言われるのは、おおよそ彼の一つか二つ上から、五つ下ぐらいまでの年齢層である。

 直接は対決しなくても、上杉と対決し人間が、どれだけの実績を残したか、ということがあるからだ。


 上杉の相棒であった樋口や、その弟の正也、また大阪光陰と白富東の連覇の時代ぐらいまでの年代が、影響下にあったと言われている。

 これぐらいの年代で、まだ現役でいる選手は、それなりにいないでもない。

 だが40歳以上で現役ともなれば、ほとんど直史や大介といったあたりになる。

 MLBで現役の織田や武史は含まないであろう。

 武史の場合はそもそも、あれだけスタイルが似ているのに、上杉に全く影響を受けていないのだが。


 歴代でもほぼトップレベルの選手となると、武史と悟あたりがまだ、チームの主力にはなっている。

 しかし織田もさすがに全盛期は過ぎているし、緒方などもショートのポジションを今年で譲った。

(MLBの選手にしても、あとは毒島……はもう離れすぎてるか)

 それなりにいないでもないのだが、甲子園で年代が重なった選手などは、ほとんどが引退しているか、それでなくてもスタメンではなくなっている。

 そう思うと上杉がいかに超人であったか、という話になる。


 大介も超人の類であろう。

 すると自分はどうなのだ、という話にもなるが。

 NPBの歴史を見ても、MLBの歴史を見ても、40代の前半までは主力であったという選手は、それなりにいるものだ。

 だが40代の後半になってくると、ほとんど見なくなる。

 バッターは動体視力が落ちてくるし、ピッチャーも筋力はともかく柔軟性や回復力が落ちてくる。

 これは直史も感じたことだ。


 昔であればもっと簡単に出来たことが、脳をオーバークロックしてやっと出来る。

 いや、昔は出来なかったことすらも、今は出来るようになっていたりする。

 球速も落ちていないし、変化球にも問題はない。

 だが体力と回復力は、確実に落ちている。


 せっかく病院にいるので、直史も検査を色々としてもらった。

 そして出てきたのが「過労」である。

 関節の腱や靭帯などに加え、筋肉にも随分と無理の痕がある。

 この一年間の中でも、特にレギュラーシーズン終盤から、ポストシーズンの無茶を考えれば、それなりにダメージがあるのは当たり前のことなのだ。

 もっとも医者としては、あちこち血液検査などもした結果、しばらくの休養を命じてきた。

 スポーツがどうとかではなく、もう純粋に肉体が弱っていると断言されてしまったのだ。


 客観的に見て、データの数値を見せられて、納得するしかない。

 試合から数日経過していたにも関わらず、そんな結果が出ていた。

 少なくとも一ヶ月は激しい運動はしないこと、とまさに病人のような言われ方をしたのであった。




 10月が終わって、直史は一度、日本に帰らなくてはいけない。

 NPBのセレモニーに、出席しないわけにはいかないからだ。

 それを別にしても、長女は今年受験である。

 本来ならこの時期、完全に家族全体のサポートが必要なのだ。

 もっともこれは、瑞希の両親やアメリカから帰って来た大介の家族が、それなりに交流してはいるらしい。 

 幸い真琴は、第一志望の公立は充分に合格圏内にある。

 両親のどちらに似ても、頭だけは良くなることは確定していた。


 直史の人生の中では、高校生活が一番充実していたというか、忙しかったと言えるだろうか。

 大学時代も忙しかったが、自由度は高かった。

 高校時代は野球にかける労力と時間が多かった。

 また金銭的な面や地理的な事情から、出来ないことも多かった。

 大学に入ると一気に、世界が広がった気がした。

 自前の野球の能力で、実質的に金を稼いでいたということもある。


 人間は大人になれば、当然ながら働くことになる。

 その中では子育ての中で、青春を追体験することもある。

 直史はその点、あまりいい父親ではないなという自己認識がある。

 もちろん明史の病気という、どうしようもない事情はあった。

 だが長女である真琴には、我慢をさせている部分が大きかったと思う。


 地元の振興についても、かなり他の人間に任せてしまっているところがある。

 もっともそのあたりは、直史の活躍が宣伝効果にもなるので、ある程度迷惑とは相殺と考えてもいいのであろうが。

(しかし帰ってからは、また大変なことになりそうだな)

 だいたい直史が動くと、世の中も大きく動いてしまうのだ。

 それはもう、野球の神様に愛されてしまったように。

 束縛の強い神様だなと、直史はため息をつくしかない。




 11月にはNPB AWARDSがある。

 その年のNPBでの活躍をした選手を、表彰するものである。

 沢村賞なども、選出は既に終わっているが、改めてここで表彰される。

 直史は先発投手のタイトルを全て取っているし、ベストナインにも選ばれるだろう。

 今年で引退の上杉が、記念的に選ばれる可能性もあるかもしれない。

 実際に上杉は、打撃でははるかに直史より、チームに貢献しているのだから。


 もっともさすがに、それはないであろう。

 選ばれるとしたら特別表彰の方であろう。それなら充分に可能性がある。

 キャリア22年で、20勝以上が13回。

 全てのキャリアで20勝以上どころか、MLBでは30勝以上が四回もある直史の方が、短期的な活躍では上だろうが。

 上杉は象徴という意味が強い。


 日本の野球はやはり、ピッチャーが主役と言っていいだろう。

 その中でも上杉と佐藤兄弟の時代は、異常であったと言えるのだ。

 この数年では上杉の支配力も落ちたが、それでも今年は復活。

 最後の輝きという結果に終わってしまったが。


 直史は千葉のマンションに戻っている。

 球団の広報を通じて、取材の申し込みなどはあったが、対応するのが面倒であった。

 そもそもやらなければいけないことが多いし、何より家庭の中が大変である。

 真琴がいよいよ受験ということで、我がことのようにそわそわとしてしまう。

 思えば武史の受験の時も、自分の時よりもそわそわしたものだ。

 ツインズに関しては、全く心配などしなかったが。




 大介も千葉の方に戻ってきている。

 セレモニーは東京で行われるし、あとは今年の契約更改があるぐらいだ。

 それもわざわざ関西に行くのは面倒なので、ある程度は代理人に任せている。

 もっとも大介は今回のライガースの復帰にあたって、一つの条件を出している。

 契約金などをもらわない代わりに、一年ごとにFAとして扱うという特別な条件だ。

 MLBであれば単年契約なら、当たり前のことである。

 しかしNPBではそうはいかないので、こんな契約になっているのだ。


 上杉がいなくなったことにより、大介が本気で戦える相手は、さらに減ってしまった。

 もっともMLBに戻ったところで、それはさほど変わらないのだが。

 MLBはチーム数が多いのと、選手交代の新陳代謝が激しいので、より多くのピッチャーと対決する機会がある。

 とは言っても、大介の満足するようなピッチャーは、ほとんどいないわけであるが。


 金銭的なことを言うなら、MLBの方がよほどいい。

 しかしモチベーションの低下というのは、大介にとってもどうしようもない問題だ。

 直史が復帰するのは、今年一年の限定。

 だからこそ日本に戻ってきたわけである。

 直史がいなくなれば、上杉もいない日本には、本当は価値を見出せない。


 ただ子供たちもそろそろ、日本の環境に慣れさせてやりたい。

 そう思うともう、あの甲子園を本拠地とするチームに、骨を埋めようかというきもちにもなっているのだ。

 他のチームにしても、大介がフリーであるという条件を聞けば、交渉は行ってくるだろう。

 絶対にほしい戦力であり、大介は基本的に単年の契約しかしない。

 今年もセ・リーグのMVPであることは間違いない。

 三冠王をまたも獲得したバッターに、需要がないわけもない。

 それでもライガースにいるとしたら、それはただの愛でしかないだろう。




 NPB AWARDS以前に、直史に取材をしようとした記者などは多かった。

 だが日本に戻ってきた直史は、そんなものに対処している暇はない。

 まずこの一年で自分が無茶をしたために、様々なところにしわ寄せがいっていた。

 もちろん代わりとなる人材はしっかりと、紹介してはいったのであるが。

 そして帰ってきてみれば、自分の居場所がなくなっていたりする。

 これも仕方のないことであろう。

 そもそも自分も瑞希も、明史のことでどうしようもなかった、というのはある。


 ただそのあたりのことを確認してみると、なんだかんだと上手くいってはいる。

 だいたいの社会においては、本当に替えのきかない人間などは滅多にいないのだ。

 直史の場合は、野球の世界においては、他に誰も比較にならない人材ではある。

 実際のところ選手として活躍していた方が、他の社会の上層部などとつながりが作れたりして、自分の出来ることが増えていく。

 弁護士としての自分よりも、野球人としての自分の方が、社会的には価値があるというのは切ない。


 都内のホテルにおいて、セレモニーが開催される。

 レックスから選出されるのは、投手タイトルで直史とオースティン、そして新人王として迫水といったところである。

 また直史はベストナインや沢村賞にも選ばれる。

 なおシーズンMVPは、やはり大介が選ばれることとなった。 

 ただ一位票が満票ではなかった。

 負けはしたが直史に投票する人数も、相当に多かったらしい。

 そして一位票と二位票は、この二人で独占したのである。


 さすがに上杉には、同情票でも一位票と二位票は入らなかった。

 ただこの三人に、ほとんどの票が集中したのは確かである。

 クライマックスシリーズに進出したチームの、主力三人であるので妥当なところだろう。

「当然のように上杉さんは特別表彰されてるな」

「右腕吊るしてないし、来年までに治らないかな」

「無理だってはっきり言ってたぞ」

 直史と大介は、そんなことを会場で話している。




 セレモニー自体は、それほどの事件も起こることなく終わった。

 そしてその終わる前に、上杉が直史と大介を呼んだのである。

「少し、話が出来んか」

 二人とも上杉に対しては、一定以上の敬意を持っている。

 そして二人は、上杉と一緒にホテルの最上階にあるバーなどに案内された。

 記者や他の関係者もいないあたり、完全に三人で話す流れである。


 三人全員が、アルコールを頼まなかった。

 いまだにアスリートとしての本能が、全員に備わっているわけである。

「二人とも、来年のことは決まったのか?」

「そういう上杉さんは?」

「代議士先生の秘書をして、次の衆議院選がタイミングよくあれば立候補する」

 なんとも話が早い上杉である。

 ただもう40代であるのだから、知名度などを考えるなら、早い方がいいのかもしれない。


 大介としては迷うところである。

「俺は、まだ現役は続けるけど、どうするかな」

 一年ごとの契約という特殊な契約を結んでいる大介としては、単純に金のためならアメリカに渡った方がいい。

 MLBでは一年のブランクだが、今年の成績を見れば拒否するチームはないだろうう。

 ただもう、アメリカに行ってあの日程をこなすのが、面倒になってしまってはいる。


 NPBならある程度、日程の自由は利く。

 もっともモチベーションが下がっている状態で、どれだけのことが出来ることか。

 ただ家族に何かがあった時、国内であれば比較的すぐに駆けつけることが出来る。

「だいたいMLBの打撃成績、面白いところは更新したし」

 12年間の間に、どれだけ非常識なことをしでかしたことか。

 そして直史は迷っている。




 以前に直史が上杉と話し合った、秘密の談合。

 それは上杉が政治家になってからなら、直史の関係者に便宜を図れるというものであった。

 もちろん選挙区は離れているが、代議士の中に味方がいるというのは、正直に言って大きな力となる。

 上杉の場合は国民的な人気があるのだ。

 選挙の応援にでも来てくれたら、絶大な効果があるだろう。

 選挙というのは、知名度なのである。


 直史の住んでいるあたりの選挙区は、現在野党議員が選ばれている。 

 正直なところ、問題はむしろ県知事や議会にあるのだが、そちらの選挙で応援にでも来てくれれば、直史としてはありがたい。

 直史は清廉潔白な人間ではなく、かなり自分の周囲への利益を重要視する。

 もっともこれは人間であれば当たり前のことで、身近な人間であっても無理筋で庇うことなどはしない。


 上杉は直史に、自分の代わりとまでは言わないが、次の新しい野球界を牽引する者が出てくるまで、現役であることを望んでいる。

 そこまでは無理だとしても、野球界をまだ縮小させたくはない。

 直史としては確かに、数年後に出てきそうな人間には心当たりがある。

 しかしながらそこまでに、どれだけの時間がかかるか。

 また今はトップレベルの選手は、MLBに移籍してしまう。

 そのあたりのことを、上杉はどう考えているのか。

「無理にとは言わんが、出来れば限界が来るまではな」

 技巧派の直史の場合、その限界はかなり遠い未来のような気がする。



×××



 次話「球界の未来」

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