第124話 無限の世界

 八回の裏、ライガースの攻撃は七番から。

 つまり一人でもランナーが出ると、大介に回る。

 この試合でライガースはまさに、直史の呪縛によって、まともなヒットがほとんど打てていなかった。

 しかし大介だけは、その呪いから解放されかけている。

 直史自身との対決では、やはりこのファイナルステージ、まともに打てていない。

 それでも他のピッチャーからなら、決定的な役割を果たしているのだ。

 結局のところ、全ての奇跡は二人に集約する。


 誰が責任を背負うべきなのか。

 レックスベンチでは、それを考えている。

 いや、全ての勝敗は、選手がどう活躍しようと、監督に責任は帰結する。

 直史に勝負をさせるのかさせないのか。

 それを決断した時点で、既に責任が発生している。

 ピッチャーに勝負をさせないという申告敬遠という手段がある以上、それを使わない首脳陣に、最終的な責任は全て集約している。

 まだ任期は残っているが、こんなにストレスがかかるならば、任期半ばで辞任もいいかなと、貞本などは考えている。


 勝ちパターンのリリーフを使って、八回の裏のライガースの攻撃も、なんとか三人で終わらせることが出来た。

 そこで代打も使わせて、ライガースの攻撃力もさらに落ちてくる。

 ここから九回の表に点が入ったりしたら、最終回に最大戦力を投入することが出来る。

 少なくとも大介を抑えられる戦力を。


 九回の表、レックスの攻撃は二番から。

 左右田が負傷離脱する前であれば、レックスの攻撃力はかなり違っただろう。

 今のレックスは、色々なケースバッティングが出来る緒方を、一番に置くしかなかった。

 これだけの不利があっても、まだ試合の趨勢は分からない。

 少なくとも九回の裏、レックス首脳陣は直史を使うつもりであるが。




 ブルペンの直史も、しっかりとゆっくりと肩を作っていく。

 交代の直後、いきなり大介との対決と考えていい。

 肩だけではなく、意識を全て最終決戦モードへと移行させる。

 全ては集中力が問題だ。

 相手のことを、全神経で感じ取る。

 この直史の感覚の拡大は、ブルペンの他の選手にまで伝わっていく。

 直史が投げるとして、まだレックスが点を取っていなかったら。

 直史の後に、誰か投げることが出来るのか。


 豊田はブルペンコーチとして、最善を尽くさないといけない。

「オーガス、準備を始めてくれ」

 直史の体力は、おそらく2イニング程度が精一杯だろう。

 普段は先発のオーガスに加えて、他のピッチャーも用意をさせる。

 左へのワンポイントリリーフなども考えられるからだ。

(しかしもし12回まで延長になったとしても、白石には絶対にもう一打席回ることになるぞ)

 そのあたりの計算を、ベンチはどう考えているのか。


 九回の表、レックスはまたもチャンスを作る。

 ワンナウトからツーベースヒットが出て、勝ち越しのランナーとなる。

 この試合はここまで、大介にホームランを打たれた以外は、レックスの流れで進んでいるのだ。

 最終的にはやはり、純粋なヒットが必要となるらしい。

 それがなければなかなか、一点に結びつかない。


 四番の一打は、深いところに外野フライを持っていった。

 これでセカンドランナーが、三塁までタッチアップで進塁に成功。

 ヒットならもちろん、エラーでもボークでも、レックスが待望の勝ち越し点を奪うことになる。

 とにかく決定的な一点がほしい。

(なんなら白石を歩かせてもいいんだ)

 そんなことを、貞本は考えたりもする。




 打球は高く遠くに上がった。

 三塁ランナーは当然スタートして、ホームに到達する。

 果たしてボールの行方はどうか。

 センターが追いついて、しっかりとキャッチしていった。

 これで九回の表の、レックスの攻撃は終了。

 結局九回もあって、ヒットは5本で得点は一点。

 もっともヒット2本のライガースよりは、まだマシな結果であるだろう。


 ここで点が入ってほしかった。

 ただそれは、攻撃ごとにライガース側も思っていたことだろう。

 貞本はピッチャーの交代を告げる。

 直史の名前が呼ばれた。

 マウンドに貞本に加え、内野陣も集まる。

 そこへ直史がブルペンから登場。

 その体はこの長いシーズンの中でも、特に細く見えてしまった。


 マウンドに到着した直史に、ボールを渡す貞本。

「白石は申告敬遠するか?」

 それは監督が決めることなのだが、貞本には試合の流れをはっきりと感じる力が弱い。

 理論や統計で作戦を考えても、こんな場面では役に立たないと分かっている。

 ぎりぎりの修羅場ならば、何度も体験している直史。

 その判断に、貞本は従う。

「勝負でしょう」

 直史は言った。


 試合の流れ、特に攻撃側が停滞している。

 そんな中では、やはりエラーからの集中の途切れや、一発による終了が可能性としては高くなる。

 直史ならばあっさりと、申告敬遠を選択するかも、と思った。

 だが直史は、ここで勝負を選んだのだ。

「分かった」

 ボールを手渡して、貞本は普段に言っているものとは、全く違う感情の色を込めて、直史に言った。

「頼んだ」

 それがエースへの言葉である。




 試合が動かないようになった。

 レックスはむしろ、ヒットの数では上回っている。

 それを上手く、進塁させるのにも成功している。

 あと一歩というところまで、何度もチャンスはあったのだ。

 しかしそのあと一歩が、常に足らなかった。

 チャンスを逃せば逃すほど、プレッシャーは逆にかかってくる。

 むしろ常に後攻であるライガースの方が、ここからは圧倒的に有利だ。


 クローザーではなく、同点の場面でのリリーフとして出てきた直史。

 それに対するのは、まず一番の大介である。

 ここで直史を打ってしまえば、試合が決まる。

 ホームランを打てば、ここで終わるのだ。

(今、どういう状態なんだ?)

 先発で投げてくる直史は、完全に集中力を登板に合わせていた。

 だが今日はクローザーですらない、リリーフの直史である。


 高校時代はともかく、プロや国際大会においては、直史はパーフェクトにクローザーとしての役割を果たしていた。

 しかしこれはリリーフであり、また状態が圧倒的に悪い。

 打席で対戦してきた大介には、直史の消耗がはっきりと分かるのだ。

 ただ消耗はしていても、底が見えた気がしない。

 不思議な感じだが、肉体と魂を削っていって、それでもまだ奥に何かがあるように感じる。

 これはどういうことだろうか。


 ともあれ、舞台は作られた。

 まずはこの九回の裏である。

(ここで終わらせたい)

 直史の消耗は、敵としてはありがたいものであるのだろう。

 しかし大介にとっては、義兄でもあるのだ。

 取り返しのつかないことが、もしも起こってしまったらどうなるか。

 その取り返しのつかないことの、内容すらも大介は分かっていないが。




 初球からどう入ってくるか。

 遅い球なのか、それとも速い球なのか。

 コントロールか緩急なのか。

 直史の考えは分からないが、大介としてはノーアウトのランナーとして出ても、どうにか出来るかと考える。

 ただ実際は、どうにもならなかったのがこれまでの記録である。

 直史を相手にすると、大介の足はほぼ封じられる。

 そして直史の投げるボールに対して、大介はただのヒットであっても、かなり打つのは難しいと今は思っている。


 完全に力は削れていっているはずだ。

 だが削られれば削られるほど、その力の刃は鋭くもなっている。

 限界に近い状態で、直史はさらに高いところまで至っている。

 その先端もまた鋭く、とても普通の人間では至れないところであろうが。

(さあ、どうする?)

 初球、直史の足が上がる。

 そしてそこから、左足が踏み込む。

 スムーズな体重移動から、投げられたそのボール。

 大介の内角に、しっかりと投げ込まれた。


 ストレートであった。

 だが大介の知る直史のストレートとは、明らかに違う。

(154km/hか、確かにMAXではあるんだろうけど)

 それ以上の何かに感じた原因はなんであろうか。

(もっと速いと感じたのは、何が原因だ?)

 軌道は確かに、フラットに近いストレートであったが。


 ここにきてまださらに、どこか成長しているのか。

 いや、それは成長でもなく、変化か進化といったあたりであろうか。

 細く見える直史の体から、こんなストレートが投げられている。

 それを脅威と感じて、体が一瞬硬直したぐらいである。

 投げるイニングが短いと思って、全力をここに注いでいるのか。

(けれどまだ、何かがあるはずだ、と思うのは考えすぎか?)

 大介よりも高く、直史の実力を評価している人間は、おそらくいないと思うのだ。

 選手に限らなければ、セイバーや瑞希といった存在がいるが。




 この一打席を必ず抑える。

 貞本は申告敬遠でもいいと言ったのだ。

 だがここで大介を抑えなければ、レックスの打線が動くことはないだろう。

 せっかく一点を取ったものの、そこからボール球をバックスクリーンにまで運ばれてしまった。

 あれでレックスの打線は、やるせなさを感じたのかもしれない。

 粘り強い攻撃というのは、ホームランの一発には及ばないものであると。


 直史はここから、大介を打ち取る必要がある。

 大介を打ち取ることによって、どれだけ優れたバッターであっても、それだけで点が取れるとは限らないと、レックス打線陣に示すのだ。

(真田が現役だった頃は、それも難しかったな)

 過去を思いながら、直史はボールを受け取る。

 過度の集中により、大介の穴を見つけるのだ。


 そこに穴があるのが分かる。

 しかしその穴は偽物であり、本物は違うところにあるその、点のような穴だ。

 ツーシームを投げ込んだら、ボール一つ外したところを、大介のバットが捉えた。

 だがボール球は、左に大きく切れていく。

 大きく上がりはしたが、それでもファールでストライクカウントが増える。


 カウントはツーナッシングと、あっという間に有利な形を作れてしまった。

 直史が交代直後で、まだ集中し切れてないとでも思ったのであろうか。

 それは甘い考えだろう。

 直史はこの試合、フルイニングを投げる必要はない。

 とにかく集中して、短いイニングを抑えてしまえばいい。

 長くても、最大で4イニングまでだ。




 初球のストレートはともかく、二球目のツーシームは明らかにおかしい。

 大介のスイングスピードなら、レフトに放り込めていてもおかしくないのだ。

 それが大きく左に切れて、ファールになってしまった。

 二球で追い込まれている。

 ただこれは、直史の焦りでもないのか。

 下手に大介を確実にと考えるなら、球数が嵩んでしまう。

 それを防ぐために、無理な組み立てをしている。


 直史の思考を、下手に深く考えすぎたため、スイングスピードが鈍ったのか。

 これはもう読み合いというレベルですらない。

 お互いの呼吸を意識するかのような、間が存在する。

 集中力の波を感知して、その瞬間に投げる。

 ピッチャーの方が、圧倒的に有利な境地。

 好きなタイミングで投げることが出来るからだ。


 ただこのタイミングでは、何を投げても打ち取れない、ということも感じてしまう。

(ボール球を投げるしかないのか)

 シンカーを、大きく外に外れるように投げた。

 もちろん大介はこれを簡単に見切る。

 バットを大きく伸ばしたら、当てることは出来る。

 だがファールを重ねても、意味はない。

 さすがにスタンドに持っていくほどには、パワーが足りないだろう。

 当てるだけなら見逃しておいた方がいい。


 ボールカウントが増えた。

 外に投げたからには、次は内というのは定番であろう。

 定番すぎてやってこないだろうとも思うが、そう思っていたらやってくる。

 それが直史のコンビネーションであり、恐ろしいところなのである。

 相手の心理を洞察してくる。

 わずかな構えの違いから、何を狙っているかを見抜いてしまう。

 なので全方位への集中と、ゾーン内なら何を投げられても打つという意識がいる。

 そんなことは不可能なのだが。




 速球はなんとかカットしていける。

 変化球もそれは同じであろう。

 そう考えていたら、ストレートで打ち取られてしまったのだ。

 一点取れば、それで試合は終わる。

 延長戦になれば、果たして直史はまだ投げてくるのか。

 多くても最大で4イニング。

 それを投げきる程度の力は、おそらく持っている。

 なかったとしてもどうにか投げてしまうのが、直史というピッチャーである。

 ピッチャーとしてよりは、人間としてのありようであるだろうか。


 どれだけ意識を拡散して、偏りなく打っていこうと思っても、肉体が前のボールの残像に反応してしまう。

 ならばいっそのこと、速球狙いに見せて変化球を狙うというのも手なのだが、直史はそういった考えすらも見通してくる。

 蓄積したデータならば、大介の方がずっと多い。

 しかし直史の場合は、そのデータから回答を導き出す計算力が、誰よりも優れているのだ。


 計算だけで野球は出来ない。

 特にピッチングのコンビネーションなどは、いかに相手の想像を上回るかが、凡退させる手段となるのだ。

 計算ならば内と外のコンビネーションや、緩急のコンビネーションが効果的であるとは分かっている。

 だがたまにはあえて、そういった定番の組み合わせを外さないと、簡単にバッターには読まれてしまう。


 直史はそういった相手の心理を読むのが、決定的に優れている。

 また投げられる球種やコースも完全にコントロール出来るので、選択肢が多いのだ。

 特に速球系の選択肢が多いことは、圧倒的に有利である。

 これにスローカーブなどを混ぜたり、チェンジアップを混ぜたりも出来る。

 普通のバッター相手ならば、無限のコンビネーションで封じることが出来る。




 大介は普通のバッターではない。

 無限のコンビネーションのはずが、決め球になるようなボールが、ほんの数種類に限られている。

 ストレート、スルー、スルーチェンジの三つ。

 三つもある時点で、かなり有利ではあるのだが。

 ホップする球と落ちる球があれば、基本的にコントロール次第で、それだけで充分に勝負が出来る。

 大介から見るとスピードのあるタイプのカーブも、相当に厄介なのだが。


 カウント的にはまだピッチャー有利。

 だが直史は、ここで決めてしまおうと思っている。

 まずはスルーチェンジでの空振りを目指してみる。

 それで大介が振らなければ、次はストレートだ。

 あまりにも見え見えのコンビネーションであるが、シンカーとスルーチェンジの後に、これに上手く対応出来るのか。


 セットポジションからの、直史のピッチングフォーム。

 区別がつかないほど全て同じ、というわけではない。

 確かに同じようにも投げられるが、あえてフォームを変えているという時もある。

 肉体にかかる負荷が最適化されないので、かなり苦しいこともあるが、それを体全体で調整するのだ。

 肉体の柔軟性はそのために必要なのだ。


 ここで投げたのはスルーチェンジ。

 大介はスイングを開始していたが、足腰を固定してスイングを止める。

 そして一気に力を抜いて、ボールにかろうじて当てる。

 ファールグラウンドをころころと転がるボール。

 カウントはそのまま、ツーストライクではある。

(これで遅いボールが意識に刻まれている)

 それは分かっているが、対応出来るかどうかは別の大介なのだ。




 直史は錯覚を利用している。

 最初に気づいたのは、スルーを投げた時であった。

 落ちるボールは基本的に伸びない。

 だがスルーというボールは、その性質上減速が極めて小さいのに、ストレートよりも落ちる。

 これがバッターの脳に与えるバグが、スルーが打たれなかった理由だ。

 しかしどんなボールも、いずれは対策されるようになる。

 スルーはまともには打てなくでも、どうにかカット出来るようになるバッターは増えていく。

 そこからスルーチェンジが生まれていく。


 この沈むボールに絡めて、さらに効果的になるのがストレートだ。

 普通のストレートではなく、ホップする要素の強いストレート。

 スピン量とスピン軸以外にも、リリースポイントを変えるなどして、よりホップ成分を多くする。

 それによってストレートが魔球化する。 

 特に高めに投げたストレートは、格段にバットに当たりにくくなったのだ。


 大介を多く打ち取っているのも、このストレートだ。

 三振か、あるいは外野フライでのアウトが多い。

 つまりバットが、ボールの下を通過する傾向にあるということだ。

 直史はシンカーにスルーチェンジと、遅くて沈む球を投げた。

 当然ながらここからならば、ストレートを投げるのが一番効果的である。

 だがそれは、あまりにも当たり前すぎる思考だ。

 直史が果たして、そんなストレートを投げてくるだろうか。


 いや、投げてくるだろうな、と大介は思った。

 以前にもインハイのボール球などで、大介は打ち取られている。

 高めの力のあるストレートを投げるというのが、MLBの今のピッチングでは重要とされていることだ。

 直史はその思考は、最先端である。

 そして大介は前年までMLBでプレイしていた。

 ここで直史がストレートを選択するのは、ある意味で当然である。

 問題はそのストレートが、ボール球になる可能性が高いということであろうか。




 ボール球を投げるカウントの余裕が、直史にはまだある。

 大介はボール球でも、バットが届けば打ってしまうが、それでも高めのボール球であるとミスショットしやすいと言えるだろう。

 へたに当たってしまうと、外野フライになってしまう。

 もちろん当たらなければ、そこで三振なのだが。


 投げるボールが分かる。

 それは予測とか直感とかではなく、ある意味においては相手に対する信頼。

 そして想像する力を、上回るボールが投げられるかどうか。

(フライを打たせてもいい)

 空振りでもいいが、ここまで落ちる球を使っているので、確実にこのストレートで決めたい。

 今日一番のボールを投げるのだ。

 それはスピードではなく、球威としての今日一番。

 ライジングファストボール、とでも言えばいいだろうか。


 完全な脱力状態から、直史は足を上げる。

 力の全てを、指先に込める。

 そして強い踏み込みをしながらも、そこで勢いを落としたりはしない。

 全身の筋肉や腱が悲鳴を上げるが、まだ限界には達していない。

 リリースの瞬間は、1cmでも前で。

 そしてボールは、直史の指から離れた。


 ストレートだ。

 それもほぼど真ん中。

 大介のスイングは、そのボールに向けて真っ直ぐにバットを振るった。

 ほんのわずかな手ごたえがあった。

 だがボールは前に飛んでいかない。

 わずかに軌道は変わったが、そのままキャッチャーミットの中へ。

 チップはしたが、そこまでが限界であった。




 たった一人のバッターを打ち取っただけである。

 だがそれだけで、直史は大きなエネルギーを消耗した。

 本当の、物理的な限界まで、おそらくはあと一歩。

 それ以上先に進んでしまえば、おそらくもう後戻りは出来ない。

(壊れる程度で済むなら、それは問題ないんだけどな)

 直史はやっと、肉体と脳の状態を、オーバークロック状態から、通常へと戻す。


 戻りきらない。

 完全に制御が利かなくなっている。

 これは肉体の限界なのか、それとも違う部分の限界なのか。

(次はうちも下位打線か……)

 10回のイニングでも、まだ試合は終わりそうにない。

 それよりはまず、このイニングの他の二人を、どうにかしないといけない。

 今の状態ならば、どうにか打ち取ることは可能であろう。


 10回の表、レックスは一人でもランナーを出すことが無駄にはならない。

 そうすると直史にまで打順が回ってくるのだ。

 そして11回の表は、上位打線からの攻撃となる。

 この極限の領域であっても、直史は自分の出来ることを間違えない。

(11回か、12回か)

 どちらかまで、自分は投げなければいけないだろう。

 他のピッチャーであっては、それまでに失点する可能性がある。

 そして、もしも12回まで試合が続くなら。

(大介の第五打席が回ってくる)

 そこは敬遠してしまってもいいのかもしれないが。


 直史は続くライガースバッターを打ち取っていく。

 ほんのわずかに精度が下がっているので、より多くの球数が必要になってくる。

 あの極限の世界というのは、長くいるべきものではない。

 それよりは球数が単純に増えた方が、まだマシだ。

 そうは言っても、平均よりはずっと少ない球数で、直史は九回の裏を制圧した。




 延長戦に入ってしまった。

 試合の半ばからは、その可能性もあるかも、と双方が思っていたことだ。

 普通なら延長戦は、後攻の方が精神的に有利だとされる。

 だがピッチャーが鋼鉄よりも頑丈なメンタルを持っていれば、あまり関係はない。

 どんなプレッシャーにも負けてこなかったピッチャーが、レックスにはいるのだ。

(あと九個のアウトを取れば、俺の役割は終わりか)

 直史はそう考える。

 もしも首脳陣が、他のピッチャーを頼るなら話は別だが。


 七回にオースティンを使ってしまって、これ以上のリリーフはもういない。 

 少なくともイニングを三者凡退で抑えるようなピッチャーは。

 一人でもランナーが出れば、11回に大介に打順が回る。

 するとレックスは、もう12回の攻撃が回ってこない可能性がある。

 直史はベンチの中で、ぐったりと座るのみ。

 差し出された飲み物を、わずかに頭を下げてから受け取る。


 ツーアウトになって、直史はネクストバッターズサークルに立つことになる。

 もしもここでヒットが出たとして、直史がバッターボックスに入れば、ほぼ自動的にアウトである。

 さすがに今の直史には、ボールにバットを当てることさえ期待するのも無理である。 

 ただでさえレギュラーシーズンの打率は一割を切っている。

 そもそも直史に、打撃を期待してはいけないのだ。


 あるいはライガースは、わざとランナーを出すかもしれない。

 そうすればレックスが、代打を出してくるかもしれない、などと。

(それはないか)

 歩かせてランナー一塁としても、既にツーアウトなのだ。

 そこから点を取ることは難しい。

 実際に、直史の前でレックスの攻撃は終わる。

(次のイニングも、ワンナウトから始まるのと同じか)

 ベンチにバットを戻して、グラブを受け取る。

 やはり自分が出来るのは、ひたすらに相手を打ち取ることだけだ。

 バッティングに関しては、間違いなくブランクが長すぎた。




 10回の裏、ライガースの攻撃。

 ここにもまだ、長打力を持つバッターが残っている。

 四番から始まる打順は、甘く見ていいものではない。

 直史は集中力を高める。

 そうすると自分の肉体が、どのように消耗しているかも分かってくる。

(膝が痛いが、これはまだどうにかなるな。ただあまり負荷はかけたくない)

 次の大介との対決まで、この体がもつかどうか。

 いや、大介との対決で、それを封じるまでもつかどうか。


 大介をどうにかしてしまえば、あとは他のピッチャーに任せてもいい。

(わざと一人ランナーを出して、ツーアウトで大介と勝負する環境にするか?)

 それもそこそこありだとは思う。

 だが大介との勝負など、ない方がいいのは決まっているのだ。

(11回の表に、こちらの攻撃で点を取ってくれればいい)

 そうしたら、その裏を封じればいいのだ。


 自分の肉体の崩壊へ、耐久力のゲージがどんどんと減っているのが分かる。

 なので遅い球を、積極的に使っていく。

 スローカーブを使えることが、これだけありがたいことになるとは。

 思えば昔から、ずっとこのカーブが一番の得意な球種ではあった。

 これによって、まずは先頭打者をサードゴロに打ち取った。


 どうするべきか。

 直史はほとんど無意識のうちに、正解を選んでいる。

 続くバッターも、長打力の高い外国人助っ人だ。

 だがライガースで危険なのは、とにかく大介なのである。

 あれを一番バッターに置いたこと。

 果たしてそれは、正解であったのだろうか。

 全ては結果が、その選択の価値を、正誤を決めてくれる。




 力を抜いた投げ方からも、理想的なストレートが投げられる。

 スイングしてきても空振りか、せいぜいが内野フライであるという結果に終わる。

 ストレートに意識が囚われていると思えば、そこからは変化球を投げる。

 大きなカーブで、そのままストライクを取るのだ。

 基本的には三振を狙う。

 だが状況によっては、打たせて取るというのも選択肢に入れている。

 カーブをミスショットするバッターが多い。


 ツーアウトまではどうにか、最低限の消耗で抑えることに成功した。

 だが体のあちこちから、限界を訴える声が聞こえる。

 それでも投げるしかない。

 問題は、やはり大介をどうするかだ。

 あのMLB、ワールドシリーズ最終戦のように、自分の力で負けるなどはとても受け入れられない。

 それならまだ、敬遠をした方がいいだろう。

 自分から言い出すのは業腹であるが。


 六番バッターに対しても、直史はストレートを投げる。

 150km/hのストレートを、打つことが出来ない。

 160km/hを打つよりも、直史の150km/hを打つ方が難しい。

 その理屈についても、一応は分かっている。

 だが分かっていても、他のピッチャーの投げる球で慣らされた脳は、どうしても錯覚するのだ。


 クローザーの直史が恐ろしいのは、そこにあるのかもしれない。

 それまでのピッチャーが投げていた、一般的なストレート。

 それと直史のストレートは、大きく質が違う。

 いいか悪いかではなく、もっと単純に性質が違うのだ。

 ここで三振を奪って、スリーアウトチェンジ。

 いよいよ攻撃は、11回の表に入っていく。

 先頭の打者は直史であるが、もちろん代打などは出されなかった。



×××



 次話「不完全燃焼」

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