第120話 オーバーブースト

 球数を使いすぎたのは、最小限で打ち取る組み立てが出来なかったからだ。

 大介を相手に頭を使いすぎて、その後の組み立てには甘さが残っていた。

 ベンチで休む直史に、大丈夫か、などと声はかけられない。

 そんなもの、見れば大丈夫でないことは分かりきっているではないか。

 だが止めることも出来ない。

 四回を終えて、直史はパーフェクトを継続中であるのだ。

 ただ球数は既に、47球となっている。

 大介ならともかく、それ以外のバッターに対しても、かなり球数が嵩んでいるのだ。


 少しでも長く休ませようと、レックスの打線は考える。

 ただそれ以上に重要なのは追加点だ。

 直史がこんなピッチングをしているのは、まず大介の四打席目の可能性を排除するため。

 ただ一人ランナーを出しておけば、大介の四打席目が回ってくるのと引き換えに、ツーアウトから大介と対決することが出来たのだ。

 直史自身がランナーを出さないピッチングをしても、エラー一つでランナーは出る。

 一人でもランナーが出れば、大介の四打席目は回ってくるのだ。


 色々と考えはしたのだ。

 大介を単打程度に抑えることは、それなりに可能だと直史は言っていた。

 ツーアウトからなら大介がランナーに出ても、ライガースが出来ることは少ない。

 ただし四打席目の大介と引き換え、ということは常に頭にある。

 三打席で終わらせてしまうには、パーフェクトをするしかない。

 もっとも点差がもっと開けば、選択肢は増えてくる。


 ただこの五回の表も、レックスの追加点はない。

 二点差という微妙な点差で、試合は進んでいく。

 五回の裏、頭の冷えた直史が、マウンドに登る。

 圧倒的に消耗しているのは、やはり肉体の衰え以外の何者でもないだろう。

 心理的なプレッシャーというのも確かにあるが。




 マウンド上の直史の気配が、コロコロと変わっている。

 圧倒するかのような熱量を発したかと思えば、今は存在が希薄になっている。

 もちろんベンチからの大介には、はっきりとは分からない。

 だがそれでも伝わるほどの違和感が、直史の姿にはあるのだ。

(いったい何を考えてるんだ?)

 あるいは何も考えていないのかもしれない。

 ほとんど無我の境地で、ピッチングをしているのではないか。


 少なくとも対戦するライガースのバッターたちは、直史のピッチングを捉えることが出来ない。

 まるで空気を打つかのように、バットにボールが当たらない。

 何をどうやったら、こういう感触になってしまうのか。

 まるでオバケを相手にバットを振り回しているような。

 とにかく確かなのは、ミートが出来ていないということだ。

 中途半端には当たるので、それなりにカットは出来たのだが。


 しかしこのイニングの直史は、追い込んでからは一気に勝負を決めにくる。

 どういうことなのか、などライガースベンチはその変容に驚く。

 まるで向こうの攻撃の間に、中身が入れ替わってしまったかのようなピッチングのパターン。

 あるいは思考まで変えてしまっているのではないか、とさえ思う。


 中軸を相手にしながら、ツーストライクまでは当てることは出来るようなボールを投げてくる。

 だが追い込んでからは、ストレートかスルーで簡単に三振に取っている。

「悪夢だ……」

 ライガースベンチで誰かが呟いたが、大介は見慣れた光景である。

 三者連続三球三振。

 五回の裏はあっさりと終わり、そして直史の奪三振数は二桁に乗った。




 次の関門は七回の裏だ。

 なんなら今の回は、一人ぐらいは出してしまっても良かった。

 そうしたら次の大介の打席は、おそらくツーアウトで迎えることが出来た。

 だが万一にも、六回の裏にエラーでもあって、もしくは内野安打でもあって、ランナーがいる状態で大介を迎えたら。

 いっそ敬遠してしまえ、と思えるならばよい。

 直史としても、それが首脳陣の判断なら、従うほかはない。


 ただ実力でもって、対決するかどうかを、自分で決めるとしたら。

 それは第三打席も封じて、三回だけの対決で試合を決める。

 もちろんこれは、追加点を味方が取ってくれなかったら、という話である。

 しかしどうも味方の打線は、直史を休ませることに注力して、もっと重要な役目を忘れているように思える。


 直史を休ませるための、もっともいい手段。

 それは追加点をどんどんと取っていって、他のピッチャーにリリーフさせること。

 もちろんライガースの打線が、一気に復活する可能性はある。

 だがここまで直史が投げていない試合でも、ライガースの打線はビッグイニングを作る兆候が見えていない。

 完全にかどうかは分からないが、大介以外はかなり戦意を喪失している。


 いや、そういうわけでもないのか。

 ただひたすら、大介だけがおかしいのか。

 そしてそのおかしさのおかげで、ライガースはレックスを追い詰めている。

 この試合に勝ったところで、レックスはまだ明日の試合にも勝たなければいけない。

 大介を打ち取るために、直史は相当の力を使っている。

 もう計算などしていては、とても相手を封じきることは出来ない。

 調整弁が、壊れてしまっているのだ。




 六回の表、レックスの攻撃は粘りはしたものの、ランナーが出たのみで追加点には至らない。

 だが直史はほんの少し、休むことが出来た。

 回復とまでは、もういかない。

 せいぜいが補給といったところで、もう試合が終わるまではずっと、この肉体のエンジンは、壊れながら稼動し続ける。

(この試合を勝って、明日の試合も勝つ)

 戦力的には圧倒的に、レックスが不利な明日の試合。

 さすがに直史も、まだ先発できるとは思わない。


 肉体のコントロール自体は、しっかりと出来ている。

 だがそのために神経が参っていっている。

 筋肉はともかく、内臓や血管といったあたりが、どんどんとエネルギーとなって消費されていくのを感じる。

 おそらく骨の中身も、どんどんとスカスカになっていっている。

(日本シリーズは……今は考えない)

 そちらはもう、本番の終わった後のおまけのようなものだ。

 ライガースとの試合に、全てを使い切る。


 大介との勝負に、完全な決着をつける。

 上杉がいなくなったこの日本のプロ野球。

 次の巨大な力は、まだ出てきていない。

 野球を象徴するような、そんな圧倒的なカリスマ。

 なりたくもなかったものだが、もし今それが存在するとしたら、それは直史と大介しかいない。

 特に大介である。


 直史ではダメなのだ。

 どうしても野球を第一には考えられない。

 いや、考えてしまうことを嫌って、この世界から遠ざかろうとしていた。

 それでも運命は、直史をずっとこの世界に引っ張ってくる。

 おそらく大介との対決で、完全燃焼するしか、この呪いから解放される手段はない。

 そしてそのための対決で、負けて終わるのが嫌なのが、直史という存在である。

 



 直史は常に冷静で、論理的であろうとした。

 下の弟妹の非常識さに比べれば、その判断や根拠などは極めてまともであった。

 だがそういった表層的な部分の奥深くには、果たしていったい何があったのか。

 それは実績から予測すれば、ある程度の推測が出来る。

 悪魔と言われた双子の妹が、逆らわない数少ない存在。

 そんな人間がまともであるわけがないのだ。

 この本当の極限状態に至って、力を解放している。

 もう抑えられない。


 ここまで追い詰めたことを、賞賛すべきであろうか。

 だが直史があえてここまで、自分の力を解放してしまったこと。

 それは結果的には、大介との対決という理由がある。

 しかしそれ以前にあった理由は、もっと個人的で人間的なことだ。

 息子との約束。

 結局は家父長的な感覚で、自分の息子のために全ての力を使っている。

 そういう言い訳がなければ、最後のリミッターは外れなかったのだ。


 六回の裏、直史は三振を二つ奪い、そしてもう一人をセカンドゴロで完全に封じた。

 これまでの二試合に比べると、この試合は奪三振数が多い。

 そして序盤から中盤に入るまでは多めだった球数が、一気に少なくなってきた。

 圧倒的なピッチングで、打たせて取るのに失敗すれば、一気に三振を奪うようになってきたのだ。

 ライガースはもう強い代打を二人も出しているのだが、結果としてはアウトカウントを増やすだけであった。


 どこまで投げられるのか。

 本当にこのまま投げさせても大丈夫なのか。

 いや、もちろん止めるべきではあるのだろう。

 だが直史の発する雰囲気が、そのまま止めることを躊躇させている。

 これは野球のルール内で行われている、人体の限界を見極める実験ではないのか。

 そんなことを思ってしまうほど、直史のピッチングは人間離れしており、そして圧倒的である。




 七回の表、直史はベンチに戻ってくる。

 完全に壊れた調整装置が、ほんの少しだけ復活した。

 なるほど、壊れたというものは、直ったり壊れたりするものなのかな、などとも思う。

 水分補給と糖分補給。

 塩分は少し多めに補給しておく。

 さほど暑くもないのに、体がたくさん発汗している。

 その状態で飲むスポーツドリンクは、とても美味しい。


 目の前で繰り広げられているのは、レックスがさらに追加点を得ようという光景。

 しかしそれに対して、感情が動かない。

 もう今は、喜怒哀楽の感情さえもが、まともに感じられなくなっている。

 一時的におかしくなることはあったが、これは果たして回復するものなのか。

 もしも完全におかしくなっているなら、上杉との約束を果たすのは無理だ。


 あの日、二人きりで話したこと。

 上杉は公明正大な男だが、清濁併せ呑むことも出来る男だと、野球選手を辞めたために、ようやく知ることが出来た。

 まったく20年以上もずっと、理想のスポーツマンを演じていたというわけだ。

 その執念は確かに、ゆらゆらと境界をなんども行き来する、直史にはないものであったろう。


 大介と戦う。

 そこで直史は、逃げるわけにはいかない。

 もちろん申告敬遠などは、直史にはどうしようもないことである。

 だが直史自らが、大介との対決を避けることはない。

 それは言われる前から、当然のように考えていたのだ。

(あと一回)

 今日は、とりあえずあと一回。

 あと一回だけの対戦で、今日の試合は終わらせるのだ。




 七回の表も、追加点が入らない。

 大味なハイスコアゲームが得意なはずのライガースが、まるで違う野球をしている。

 単純にレギュラーシーズンでは、そこまで守備などに注力していなかっただけ。

 大味なゲームをしていれば、消耗が少なくて済む。

 だが意識改革をして守備に力を入れれば、当然他にかけていたリソースが削られる。

 それはこの場合、攻撃力であったのかもしれない。


 つまり双方が点の入らない状況にある。

 直史が投げなくても、ライガースの方で、得点を取る余力があるのは、ほぼ大介だけ。

 流される有象無象の中で、二人だけが主体的にプレイしている。

 この試合に関しては、ひどい言い方かもしれないが、ライガースのでたらめな継投を打っていけないレックス打線に、一番責任があるかもしれない。

 ハイスコアゲームにならない。

 ライガースにとってはもちろん、レックスにとっても予想外の展開である。


 七回の裏、ライガースの三巡目が回ってくる。

 ここまでにせめて、もう一点取っていれば、直史は楽が出来た。

 大介の第三打席。

 これは今日の試合の中では、一番苦しいポイントになるだろう。

 球数はまだ65球だが、重要なのは数ではない。

 どれだけの力を、ボールに乗せて投げてきたかだ。


 もう補給出来るより、ずっと多くの力を消耗していっている。

 補給して吸収するための力さえも、投げるために使っているのだ。

 とにかくこの大介の打席さえどうにかすれば、第四打席が回ってきても、おそらくはどうにかなる。

 ベンチの首脳陣が、もしもランナーがいるならば、申告敬遠をしてくれるだろう。

 してくれなければ、さすがに呆れるが。

 三度も真っ向勝負すれば、それで充分だろう。




 パーフェクトに抑えてしまえば、大介との対決はこれで終わる。

 レックスが勝って、勝負は最終戦に持ち込まれる。

 お互いの総力をかけた、まさに最終決戦となる。

 ライガースもこの試合は総力戦に近いのだろうが、先発に二枚のエースを使ってきていない。

 明日はおそらく、この二枚を継投で使ってくる。

 そしてもちろん、リリーフ陣も。

 だがまずは、この試合を勝たなければ明日もない。


 直史の初球、それはカーブであった。

 大介は元々、見逃すつもりであった球種。

 それは到達点と回転とで、二段階に変化しているようにも見える。

(二段ドロップか)

 気配がさほど攻撃的でないから、ストレートではないだろうと思っていた。

 このカーブで、ストライクカウントが取れる。

 わずかにずれていてば、ボールと判定されただろうが。


 速球系をどうにか、ジャストミートしてスタンドに運ぶ。

 大介はそう考えているのだが、上手くそういう組み立てにならない。

 二球目に投げられたのも、遅いシンカーであった。

 逃げていくボールには手を出さず、ボールカウントが増える。

 外に目付けさせて、次は内で勝負。

 それが常識的な組み立てではある。

(けれどそれは常識的すぎるか)

 集中し、次のボールに備える。

 意外とスライダーなどを投げてくるかもしれない。


 だが三球目に直史が投げたのは、アウトローへのストレートだった。

 ゾーンぎりぎりというボールは、大介であれば簡単にレフトスタンドに放り込むことが出来るものだ。

 そのはずだったのに、ミートのタイミングがわずかにずれた。

 左方向への打球は、距離は充分であったが、ポールの随分と左に着弾した。

 球威に押された、ということであろうか。




 緩急に騙された、というのが正解である。

 カーブとシンカーどちらも遅いボールだ。

 その後に速いストレートなどを投げられれば、タイミングが狂うのは当たり前である。

 もっともその当たり前のことを、大介はことごとく無視してきた。

 最初からストレートにタイミングを合わせていたのに、どうしてスタンドに放り込めなかったのか。

 球速は152km/hと、確かにそれなりのスピードは出ていたのだが。


 何かまた、おかしなことをやっていたのだろう。

 実際に何をやったのが、何かは分からないが。

 フォームも変わっていないように思えたし、リリースポイントも同じであった。

(スピン量が変わってたとか?)

 もしそうなら、確かに分からなかったかもしれない。

 ただそう上手く、バックスピンだけをかけられるのか。


 ともあれこれで、ツーストライクにまで追い込まれた。

 ストレートでくるか、あるいはスルーチェンジか。

 他のボールを投げてきたら、おそらくそれは緩急を作るための見せ球である。

 全力でもって、その見せ球を打っていくか。

 低めに外れたボールなら、ゴルフスイングでもスタンドには運ぶことが出来る。

 ただ、そんなことを考えていくと、いきなりストレートをMAXで投げ込んでくるのが直史である。


 速球にタイミングを合わせておいて、ボール球は見逃す。

 そしてゾーンに入ってきたボールは、遅い球ならカットしていく。

 問題はスルーチェンジといったところか。

 あのボールだけは、カットを考えても空振りする可能性がある。

 厄介なボールであるが、それだけに攻略できれば大きいだろう。




 直史が限界を超えて投げているのは分かる。

 大介の場合、そこまでのバッティングをした経験はない。

 確かにゾーンに入って打つことはあるが、直史の至る領域は、明らかにそれよりもさらに上だ。

 色々と話を聞いて、精神が肉体を凌駕して、脳のリミッターを意識的に外している、ということまでは理解出来る。

 理解は出来ても、自分もまたそれが出来るかというのとは、全く別の話になってくる。


 これだけ投げていても、まだ直史は壊れていない。

 人間の意識している限界というのは、思ったよりもはるかな果てにあるものであるらしい。

 踏み込みの歩幅が1cmでも違えば、普通は大きくコースを外してしまう。

 直史の中で、才能と呼べるものがあるとしたら、その一番のものはこの調整能力であろう。

 ほんのわずかな差の果てに、ミットに収まるボールがどう変化するか。

 それを正しく想像できる力だ。


 追い込んでからは、最終的にどんなボールで決めるかを考える。

 そこから逆算していって、どういう組み立てで投げるかを考えるのだ。

 内角で最後は決めたい。

 そのためにはどういったボールが必要になるか。

(まずは、これから)

 直史の投げたボールはスライダー。

 遠い、と大介は判断する。直史の変化量でも、ゾーンにまでは変化してこない。

 実際にどうフレーミングをしても、ストライクにはならないコースでキャッチされる。


 内角へのカットボールを投げてくるだろうか。

 あるいは純粋に、最も速く感じるインハイストレートか。

 スルーを投げてきたら、カットにさえ失敗するかもしれない。

 平行カウントから、次はいったいどのように投げてくるのか。

 大介ももう考えない。

 自然体で構えて、直前のボールのことを忘れる。

 思考によって肉体の反応を、コントロールするのだ。




 お互いがお互いの力を、よく理解している。

 その上で戦場の霧のような、計算不能な部分も存在する。

 ただ、直史にコントロールミスはない。

 それだけはお互いに信用している。

 大介からしてみれば、敵である直史を信用すると言うのも、おかしな話であるのかもしれないが。


 あと一球、ボール球を投げられる。

 なので直史が有利、と今ならば言える。

 しかしそのボール球を見極められれば、不利になるのは直史だ。

 ただしそうなった場合、敬遠してしまうという手段は存在するのだが。

 直史自身がどう思おうと、申告敬遠はベンチの判断によるものだ。

 

 この対決を、直史は他の誰かに任せるつもりはない。

 2-0というスコアのままであれば、むしろ他のピッチャーに代えることは難しい。

 一人でもランナーが出れば、大介に回るのだ。

 まったくフォアボールを出さないピッチャーなど、直史以外にはいない。

 ここで大介を抑えることが出来れば、一気に勝率は上がるのだ。


 ここで決める。

 このボールで決める。

 このボールならば、大介でも打っていくしかないはずだ。

 もちろん外のボールなどではない。

(ずっとこのボールは、投げられてこなかったんだよな)

 大介にとっては長打になりにくいが、逆に凡退もしにくいコース。

 それを直史は正しく理解しているのだ。




 ここまでまたおとなしくなっていた、直史の気配が大きくなる。

 闘気とでも言うのであろうか、常に抑制されていたそれが、今はもう全く隠されていない。

 最初からこのように使っていたなら、他のバッターの対応も色々と違ったであろうに。

 今までの試合でずっと、本気を出していなかったというのか。

 本人が意識的にか、それとも無意識にかは分からないが。

 必要なかったはずはない。一度は負けている勝負があるのだ。


 ただこれが、本当にこれ以上はないという限界であろう。

 もしここからさらに上があるとしたら、それはもうどうしようもないものだ。

 肉体の限界の前に、脳の限界がきている。

 そもそも直史にとっては、肉体の能力を最大限に引き出す、という思考はなかったのであろう。

 いくら鍛えたところで、その肉体の上限は定まっていたはずだ。

 なのでインナーマッスルを鍛えて、制御にその力を使っていった。


 肉体を制御するのは、脳である。

 これを鍛えるというのは、普通に筋肉を鍛えるというのとは違う。

 直史の体幹を鍛えて、体軸をしっかりとさせる訓練。

 それは他のピッチャーはやっていないものであった。

 また左で投げるという調整方法も、意味が分からないという人間は多かったはずだ。

 理解者は同じ野球界でも、それほど多くはない。

 だが直史は、理解してもらう必要はなかった。

 ただ、自分が必要だからやっていたのだ。


 ここで全ての力を、このストレートに込める。

 その後にまだ、次のバッターに投げる力が残っているだろうか。

 それもまた、一つの賭けである。

 今の直史には、試合全体を支配して調整するという思考がない。

 ただひたすら目の前の困難を排除するというのが、その頭の中に残っている選択であるのだ。

 セットポジションから、そのメカニックは始まる。

 わずかにいつもよりも、腕はサイドスローに近いか。

 そこから投じられるボールは、大介のインハイへと吸い込まれる。




 インハイストレートは、見極めやすい。

 バッターの目からは一番近いコースであるのだから、それは当たり前の話である。

 ただボールとの距離が一番近いため、一番速度も速く感じる。

 そういったことは承知の上で、バッターにとっては打ちやすいコースだ。

 しかし意外と、これを空振りするような場面も多い。

 実際に直史は、このコースで空振りや内野フライを、何度も取っている。

 大介にとっても、このコースは空振りを取られたことがある。


 遠心力が使えないので、パワーでスタンドに持っていくのは難しい。

 体を早めに開いて、よりミートの位置をバットの先端に近くする。

 バットのヘッドはなかなか出てこない。

 体で巻き込むように、バットを振るう。

 ボールの軌道がバットと交錯する。

 衝撃の予感に、体の細胞が沸き立つ。

「終わりだ」

 その声が、誰のものであったのか。


 大介のスイングが、ボールを捉えることはなかった。

 ゾーンから外れたボール球を、大介は振っていたのだ。

 意識としてはインハイ高めいっぱいの、まさにジャストミートする軌道でゾーンに入ってくると思われたのだが。

 バットに感じなかった衝撃のために、大介はそこで一回転した。

 そして尻餅をついたが、そこから見上げた直史は、その瞳に生気を宿していない。

 ただひたすら鋭く磨かれた、刃のような輝きを感じさせる瞳であった。


 生命としての力というよりは、もうひたすらアウトを取るための機械。

 馬鹿な考えかもしれないが、大介が感じていたのはそれであった。

(お前、大丈夫なのか)

 ラインを越えて、限界の果てに向かっている。

 そこまでは大介も分かっているのだが、そこからまたこちらに戻ってこれるのか。

 こんなものが、直史の求めたものであるのか?

 それは違うだろうと、大介は思うのだ。




 意識が飛んでいる。

 脳を肉体の制御に使いすぎたので、記憶するまで機能が働かなかったのか。

 だが結果として、大介はバットを持ったままベンチに帰っている。

 そして迫水が、こちらにボールを投げて渡してきた。

(勝ったのか……)

 かなりの博打ではあったが、それには勝利した。

 だがこのイニングは、まだあと二人抑えないといけない。

 そして一人でも出したら、大介の四打席目が現実になってくる。


 ダブルプレイなどという、都合のいいことは考えない。

 当然のように一人ずつ、アウトにしていくことを考えるのだ。

 まだ、なんとか投げられるはずだ。

(頭痛が少しするが、手足はしっかりと動いてくれるな)

 わずかに思考に、霞がかかったような感じがしている。

 だがそれでも、ピッチングをする余力は残っている。


 コンビネーションを組み立てていくのが、自前では難しくなっている。

 なのでここは、迫水にかなり任せてしまう。

 それが逆に、いい方に働いた。

 直史のピッチングというのは、これまでことごとく意表を突くものであった。

 だが迫水のリードというのは、基本的にデータに忠実なものなのだ。


 当たり前のいいピッチャーの、当たり前のいい配球。

 これによって続くバッターは、ファールを打ってストライクカウントを稼ぎ、そして三振になったり、内野フライで倒れたりした。

(よし、いけるぞ)

 迫水はしっかり、球数を数えている。

 まだ78球しかなげておらず、三振を14個も奪っている。

 これであと2イニングを抑えれば、この試合も勝てる。

 何よりここまで、パーフェクトに抑えているのだ。

 大介の第三打席を、抑えたのである。




 ベンチまで戻ってきた直史が、座った途端に大汗をかきだした。

 代謝機能の明らかな異常を、周囲も察している。

 これであと、2イニング投げられるというのか。

「佐藤、ブルペンの準備はしてある」

 貞本の言葉に、直史は反応しないように見えた。

 だがしばらく経ってから、言葉を洩らした。

「あと1イニング」

「投げられるか」

「そこまでは」


 直史としても、たったの二点の差というのを、甘く見ているわけではない。

 だがライガースはここまでに、かなり強い代打を使ってしまっている。

 ならば八回の攻撃さえ抑えれば、残りの1イニングはどうにかなるだろう。

 もしもそこでランナーを出し、大介に回ったとしても、解決する方法はある。

 申告敬遠してしまえば、ランナーが一二塁になっても、そこから二点差を追いつかれる可能性はそれなりに低いはずだ。


 直史は慎重な、慎重すぎる性質だが、それでもここはリスクを取ってでも、休みを取ることを考える。

 明日の最終戦、必ず出番が回ってくると考えるのだ。

(あと1イニング、誰も出さない)

 差し出された方を見もせず、直史は紙コップを取る。

 スポーツ飲料を胃に流し込み、そしてもう必要以上に糖分を補給するのは止めた。

 あと、1イニング投げるのだ。


 直史が限界に近いのは、味方の目にも明らかである。

 だがここで、リリーフに託さないというのが、傲慢でありながらも、エースに許されたことだ。

 自分以外の人間のピッチングは信じない。

 結局エースというのは、そういう傲慢さを持っていなければ、大成はしないのではないか。

 そして八回の表、レックスの攻撃が始まる。




×××



 次話「最終戦」

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