第119話 ただ勝利のために
大介の今季のレギュラーシーズンでは、なんと三振が39回しかない。
この中にはボール球と思って見逃したものは、あまりないのである。
微妙なところは打ってしまうか、そのままカットしてしまう。
これでもプロ一年目に次ぐ、キャリアでは二番目の多さである。
そんな大介であるが、直史相手には、一試合に二度以上の三振を喫している。
そしてここでも、ストレートを空振り三振していた。
キャッチされたミットの位置を確認するが、確かにゾーンの高さである。
ほぼ真ん中近くのボールが、高めの限界までホップしたのか。
もちろんそれは錯覚で、実際には想像していたよりも落ちる量がずっと少なかった、と言うべきなのである。
(沈むボールに意識がいっていたのか)
おそらくはそうなのであろうが、脳が沈むボールにばかり、その軌道を辿るためにリソースを使っていたということなのだろうか。
大介としてはなぜ空振りしたのか、それを明らかにしなければ、次の打席に安心して挑むことが出来ない。
今の空振りがどういうものであったのか、今はすぐに確認できる時代だ。
もちろん詳細な分析などは、コンピューターの解析が必要になってくる。
直史のストレートは、速度の割には空振りが取れる。
そしてまず間違いなく、バットはボールの下を振っている。
スルーを使ってきても、最近は案外、空振りは取れていないことが多い。
ただあれは内野ゴロを打たせやすいので、有効な球種であることは間違いない。
確認して分かるのは、確かにボールの下を振ってしまっているということ。
結局はボールの球威か何かが予想以上で、軌道を見誤ってしまったということなのであろう。
別に魔法を使っているわけではない。
(けど、何か引っかかるな)
大介の視線の先で、直史は本日二つ目の三振を奪っていた。
三振が多いのはあまりいいことではない。
力が入りすぎていて、変化がかかりすぎているとも言える。
もっとも相手が大介であったりすると、どうしても100%以上の力が出てしまう。
そのあたりはコントロール出来ないぐらいのボールを投げないと、三振という結果にまではならない。
大介の足まで考えると、やはり奪三振か内野フライというのが、安全なアウトの取り方だと思うのだ。
ただ入りすぎた力が、簡単には抜けない。
続くバッターも三球三振で打ち取ってしまった。
ツーシームが思った以上に曲がって、危うく迫水がパスボールをしかけた。
(球速自体はそれほど出ているわけじゃない)
ただかかっているスピン量は、普段よりも多いのでは、という予測を指先が伝えてくれている。
痺れが取れないながらも、それなりにコントロールは出来ている。
どうにもおかしなことではある。
三人目をスライダーで内野ゴロに打ち取る。
10球以上を投げたが、それでもこのままなら充分許容範囲だ。
大介を相手に五球しか投げていないというのが大きいのだ。
最低でもあと二回、対決の場面がやってくる。
ただ状況によっては、申告敬遠がされるであろう。
たった一点のリードであるのだから、ランナーが一人でもいたならば、ホームランで逆転される。
直史もかつて味わった敗北だ。
まずは関門を一つ越えて、ベンチに戻る。
「ナオさん、目が……」
「え?」
そう言われて鏡で確認してみると、目が充血している。
こんなところは、人間がコントロール出来る部分ではない。
おそらく全身がもう、無理に近いのだろう。
直史の様子を見れば、誰もがその異常さに気づく。
だが本人のみは水分や糖分を補給して、ベンチにどっかりと座る。
早く援護点を取って、少しでも早く降板させなければいけない。
こんな症状が出るのは、野球では聞いたこともない。
(なんとか追加点を)
レックス打線陣に、その意思が伝わっていく。
この二回の表も、レックスは一点を追加することに成功。
何より攻撃時間が長かったため、直史を長く休ませることが出来た。
取り返しのつかないことが起こるのではないか。
そんな予感がしているが、直史は攻撃が終了すると、顔を覆っていたタオルをめくって、またマウンドへ向かう。
その歩みに乱れはなく、ただベンチに不安だけは残していく。
中一日が二度も続き、その前にも中三日しか空けていないのだ。
前の試合は途中で交代できたといっても、ノーヒットピッチングを続けている。
それが自分自身でも気づかない、自分へのダメージになっているのではないか。
だが止めるには、ピッチング内容が良すぎる。
全てが三振というわけではないが、無駄球を投げていない。
そして追い込んでからは、確実に三振を奪うように投げている。
球速はMAXで152km/hが出ている。
わずか八球しか投げず、二回の裏は終了。
このファイナルステージに入ってからの、三振をあまり奪わないというスタイルからは変化している。
空振りだけではなく、ゾーンぎりぎりを突くピッチングも出来ている。
その内容だけを見れば、まさに絶好調なのだ。
蝋燭の火の、最後の一瞬の燃焼を思わせた。
ライガースも三回の表から、ピッチャーを早くも継投体勢に入った。
左打者のところで、ワンポイントの左腕を使うなど。
試合の終盤でやるようなことを、この序盤でもうやってしまっている。
だがそれによって、この三回は失点を防ぐことが出来た。
レックスは直史の負担を少なくしたい。
それに対してライガースは、ピッチャーを総動員する覚悟である。
終盤までこの点差を維持すれば、今日は何かが起こる予感がする。
三回の裏のライガース打線は、下位打線である。
だが早くもピッチャーを代えてきたライガースは、代打を送ることも出来る。
(普段は2イニングぐらいは投げてるピッチャーだけど、この序盤で代えてくるか?)
さすがにそれはタイミングが早すぎるだろう、と直史は思っている。
そもそもライガースとしては、今日の試合は負けても明日があるのだ。
負ければ明日がないのはレックスだけである。
七番バッターを三振に打ち取り、そして八番のところで、次のピッチャーに代打が出ていることが分かる。
(どういうつもりだ? まだ明日の試合があるし、今日の試合をどうにかするにしても、さすがに動きが早すぎる)
こういう攻撃を拙速と言うのだろう。
確かにライガースは攻撃では速やかに動いていくが、これはあまりに普段と違いすぎる。
首脳陣の逸りすぎではないのか。
いや、と直史は考え直す。
とにかくライガースから感じるのは、直史に対する執着である。
どういったものかは正直、直史にもよく分からない。
いくらポンポンと点を取られても、三回で交代というのは早すぎる。
(今日の試合で何をするつもりなんだ?)
八番を打ち取り、代打とも対決する。
だがここでは、ミートを狙うかのようにカットをしてくる。
まさか、と思ったのはレックス首脳陣である。
普段から散々、消極的だと言われているその首脳陣。
だがその消極的思考から、ライガースの思考をトレースすることが出来る。
「明日のために、今日の試合を捨ててきたのか」
貞本の出した結論は、あまりに飛躍したものに思える。
だが純粋にここまでの動きを見れば、そういう考えが成り立ってもおかしくない。
レックスは今日と明日、連勝する必要がある。
そして今日の直史のピッチングを見て、早々に得点が難しいのを悟った。
二点取られたところで、おそらくこの試合は勝てないと判断する。
ならば勝てない試合では、何をするべきであろうか。
それはもちろん、明日の試合のための布石を打っていくことである。
現段階で直史は、中一日で三戦目を投げている。
二戦目は途中でリリーフに任せたが、それでも七回までをノーヒットで封じている。
レギュラーシーズン終盤からのピッチングを思えば、その酷使は明らかである。
つまりこの試合で負けたとしても、明日の試合で直史がまともに投げられないようになっていれば、普通に他のピッチャーを相手に投げあって勝つことが出来る。
レックスの首脳陣としても、さすがに連投で先発をさせることなどは考えていなかった。
ただリリーフでワンポイントぐらいなら、どこかで使おうとは思っていたのだ。
しかしこの試合で、とことん削ってくるとする。
あるいは直史の状態がどうなってるのか、あちらは分かっているのか。
大介と直史は義兄弟のため、お互いに対する理解が深い。
その大介が、直史を削れば勝てると見たのか。
代打にわずかに粘られはしたものの、ランナーを出すことはなく、直史はベンチに戻ってくる。
帽子を取って、汗を袖で拭いていた。
「ちょっとアンダー替えてきます」
直史の発汗量は、明らかにおかしい。
自律神経がおかしくなって、代謝機能が狂っているのではないか。
そんなことは聞いたことがないが、そもそも直史のようなことをやっているピッチャーが、これまでにいたことがないのだ。
直史の少しでも長い休憩のために、ここでレックスの攻撃は慎重になる。
もっとも一番いいのは、点差を大きくすることで、早めに直史を降板させてしまうことなのだが。
だが四回の裏は、先頭バッターが大介なのである。
どうにかこの打席は打ち取ってしまいたい。
残り二打席が回ってくるとしても、ホームランでも逆転の可能性が低くなる。
いざとなれば、歩かせてしまえばいいのだ。
アンダーシャツを着替えた直史は、アイスボックスから氷を取り出し、頭の上に乗せた。
おそらく血液の循環がよくなりすぎて、体全体が熱くなっているのだ。
頭は冷やさなければ、思考力が落ちてしまう。
それ以上に高熱は、肉体に大きなダメージを与えてくる。
このわずかな休憩で、どれだけ回復するのか。
直史としてはまだ、ほんの少しの余裕があるような気がする。
ただ限界と思っていたラインは、もうとっくに過ぎてしまっていた。
この先に待っているのは、完全に未知の領域である。
自分の肉体を完全に支配する、脳のコントロール。
だが結局は脳をコントロールするというのも、人間の精神ではないのか。
(精神論は嫌だな)
そう思う直史の前に、四回の裏のマウンドがやってくる。
ライガースは明日の最終戦に、中四日の畑と中三日の津傘を投げさせるつもりだろう。
そして他にも、リリーフ陣で使える者はどんどん使っていく。
これによってレックスの打線を出来るだけ抑える。
ただでさえ得点力は落ちているのだ。
そしてライガースは、ロースコアゲームを覚悟したのかもしれない。
ロースコアでも、どうにか勝ってしまう。
それを見通して、この試合も組み立てているのでは。
直史としては、自分を削りにきているのかな、とは少し思わないでもない。
ただレックスとしても、三島を中三日で使えるし、百目鬼を使ってきてもいい。
そうそう大量点を許すことはないと思うのだ。
(それでも一点か二点は取れるだろうけど、それ以下に抑える自信があるってことかな?)
終盤にリードしていたら、直史がクローザーかセットアッパーで投げてもいい。
日本シリーズがこのカードよりもきつい、というのは考えにくいのだ。
それより何より、今は目の前の対決に全神経を集中させる。
(二打席目か……)
一つの選択ミスによって、スタンドまで持っていかれる可能性がある。
だが一打席目は、ストレートを投げて三振を奪えた。
もちろんこの打席が、同じような結果になるとは思わない。
緊張感は常にある。
グラウンドで一番高いマウンドの上から見ているのに、その威圧感は見下ろされているよう。
深く潜っていって、わずかなその動作などから、狙い球を逆に探っていく。
危険な領域がどんどん狭まっていって、一番危険度の薄いところを見つける。
だが、あえてそこには投げない。
そこはおそらく、大介があえて作った偽りの弱点。
もちろんこれは、ただの直感であるのだが。
読み合い、という段階ではなくなっていると大介も思う。
もう直感的に、どこか気配を感じて、そこを狙っていくしかない。
わざとらしく構えたりはせず、自然体で直史には挑む。
おそらくこれが、最善の戦闘体制。
それに対する直史も、プレートの端に立つとか、そういったことは行わない。
ほぼ真っ向勝負と言っていいだろう。
初球から何を投げてくるのか。
脱力の極致から、一気に加速していく肉体の各所。
そしてその指先から、力の結晶であるボールが放られる。
(ストレート!)
内角寄りのそれに、大介はスイングを合わせていく。
だがわずかにかすっただけで、そのボールはミットに収まった。
ほんのわずかな、そして大きな差である。
ただファールにすらならず、ミットに収まってしまった。
これはやはり、ピッチャーに勝利の天秤が傾いているのか。
(限界が近いんじゃないのか?)
大介はそう思っているし、ライガースの首脳陣もそう考えている。
この日程で投げているピッチャーなど、時代錯誤もいいところである。
昔はいたじゃないかと言うのなら、その時代のピッチャーがどれだけ、肉体を完全には使っていなかったか、という話になる。
昔と今とでは、明確にピッチャーの球速が違う。
それは昔は使っていなかった、全身の筋肉を、しっかりと連動させて100%に近く使っているからだ。
肉体の出せる出力に対し、耐久力はそれほど上がっていない。
回復に時間がかかるし、少ない球数でも全力を使ってしまう。
150球などという球数を投げてしまうのを、美談にしてはいけない。
ただ結局、直史がそこまで投げられるのも、逆に負荷を全身に分割させていることと、力の抜いた球を多く使えているからというのはある。
まずはストライクカウントを一つ。
フライでアウトが理想的だったな、と直史は考えている。
大介に対しては、多く球数を使うだけで疲れる。
肉体ではなく、精神にかかる負担だ。
そして大介の前にランナーを出さないことも考えると、ここでも疲労してくる。
ただそう考えると、直前が打てないピッチャーでランナーがたまりにくい一番大介というのは、案外悪くないのかもしれない。
今日のようにピッチャーを大量に投入するなら、話は別だが。
代打に対しては直史のデータは少ない。
なので読みで相手を洞察し、分析して投げるしかない。
データがいくら多くても、大介相手は大変であるが。
(二球目は)
直史の投げたカーブは、大きな曲線を描いてミットに収まる。
だが審判のコールはボール。
(コントロールが甘かったか? いや、もっと分かりやすい球なら、大介に打たれている)
カウント的にはまだ、ピッチャーがやや有利。
三球目、膝元にカットボール。
だが大介はこれを、悠々と見逃した。
(打とうと思えば打てたんじゃないのか?)
しかしボール球なので見逃した。
バットの届く範囲なら打ってくれるのでは、と期待してしまった。
自分に都合のいい考えではある。
ただ、大介はこれまでに、そういったボール球をホームランにしている。
今のも上手く掬い上げれば、ライトスタンドに運べたはずだ。
しかし、単純にファールになると見越したのかもしれない。
ホームランへの確信はなかったのだろう。直史もそれには至らないと判断していた。
平然とボール球を見送る大介は、強い。
大介が本当にゾーンの球だけを見極めているなら、その出塁率は確実に六割を超えると言われているし、実際にデータ上はそう出ている。
だがフォアボールを選んでばかりだと、バッティング感覚が狂っていく。
それならば打てるボールは、打っていった方がいい。
ゾーンの外であっても、大介はかなりの数をホームランにしてしまう。
ほとんどのピッチャーは、それを計算の上でボール球を投げたりしている。
直史もある程度は、それを計算している。
純粋に大介は、ヒッティングゾーンが広い。
だが長打、特にホームランを打つためには、ゾーン内ならともかくボール球であると、かなり絞る必要がある。
単純に言えば外のボールであれば、遠心力を使ってボールを運ぶことが出来る。
内角は打ってヒットにするのはともかく、飛ばすことは難しい。
このあたりの情報は、直史は完全に共有している。
コントロールでコースを狙うだけでは、大介は打ち取れない。
それよりも重要なのはコンビネーションだ。
球速の遅い本格派と言われた、星野伸之。
ストレートはMAXでも130km/h程度で、しかもコントロールが格別にいいわけでもなかった。
だが緩急の大きさによって、三振をかなり多く取っていったのだ。
アメリカならマダックス、日本なら星野が、直史の参考にしたピッチャーである。
そう言うと「どこが?」という反応をされるのだが。
ツーボールでワンストライク。
ボール球が先行しているというのは、直史のピッチングではあまり良くない。
ただ大介とすると、逆にこれが何かおかしいと感じてしまう。
直史のやることには、ほぼ全て相手を誘導する意図がある、というのがこれまでの経験から分かっている。
そしてその目的というのは、直接味わってみないと分からないものなのだ。
大介がかなり狙いを絞っているというのは、直史には分かる。
ここまでの試合展開で、自分が一つ間違ったのかも、ということも分かってはいる。
大介の二打席目までに、ランナーを一人は出して、打順調整をするべきであった。
ならばツーアウトからの打順などにして、ホームランにだけはならないピッチングが出来たであろう。
その選択をしていないのは、冷静な判断力を欠いてしまっているのではないか。
パワーは確かに出ているが、それをコントロールする思考がダメでは、全く意味がない。
火事場の馬鹿力などではなく、常の冷静な状態を保ったままの、力だけを引き出す方法。
直史にしても、常に出来ているわけではない。
コントロールの極致というのは、肉体、頭脳、精神の三つ。
今は精神に引きずられて、頭脳が攻撃的な選択を取りすぎている。
それでもリミッターを外した肉体から投げるボールは、なんとかバッターを打ち取ってはいる。
奪三振が多すぎる。
こんな力を使っていたら、今日の試合はともかく、明日の試合で投げることは出来ない。
そこまで冷静に判断することは出来るようになってきたのだが、目の前の相手は大介である。
リミッターを外したボールでも投げなければ、打ち取ることは出来ない。
だがまずは、どうにかストライクカウントを増やしたい。
空振りを期待するのは、今の見極めに入っている大介には難しい。
ファールを打たせることも同様である。
本当に厄介なバッターが、厄介な考えになっている。
(もうちょっと甘く打ってきてほしいもんだな)
ただおそらくバッターからすれば、少しぐらいはコントロールミスしろ、と思われているのだ。
直史がストライクを取りたいはずだと、大介は分かっている。
ゾーンに投げてくるか、あるいはボール球を振らせるか。
この二つしか手段はないが、ゾーンに投げてきて空振りさせるかファールを打たせるか、というのも選択となってくる。
大介が空振りするかあるいはファールになる可能性が高いのは、あのストレートである。
しかしあれをここで使ってしまうと、決め球をどうするのか。
おそらくは変化球を投げてくる。
もしくはスルー。
ホームランにさえならなければいいと、直史は考えているのではないか。
点差が二点あるので、ほんのわずかだが余裕はある。
もっともライガースもピッチャーは総動員体制で、レギュラーシーズンからは考えられないほど、失点は抑えている。
これ以上の得点というのは、都合がいいものだと考えるはずだ。
特に直史は、楽観主義者ではないのだから。
四球目、直史の足が上がる。
気配が解き放たれて、大介は空気を読んで、その撓る腕の先を見る。
速球系であることは間違いない。
あとはどの変化なのか、それとも変化がないボールであるのか。
極限までの集中で、ボールの回転を見切る。
ライフル回転だ。つまりスルーかスルーチェンジ。
スイングをしかけていた大介は、そのボールの軌道を予測する。
そしてこのままスイングしても、ボールの上を叩いてしまうことに気づいた。
わずかにスイングの軌道を変えて、わざと空振り。
沈んだボールはキャッチャーミットの中に収まった。
直史の投げる一球ごとに、甲子園は振動する。
大観衆の呼吸音が、交じり合って重低音となっている。
この打席では大介は、バットにボールを当ててもいない。
ただ空振りといっても、考えたすえの空振りとなっている。
単純にヒットにするだけであれば、さっきのスルーを打っても良かったのだ。
地面に叩きつけるようなバウンドのボールとなって、内野の頭を越えてくれたかもしれない。
それも楽観視と言えるのだろうか。
直史を削っていくことに、大介としては忸怩たる思いがある。
ただここまで点を取れていないのだから、どうにかしてスペックを発揮できないようにするしかない。
削られるなら削られるで、それもまた野球の作戦の一つではある。
もっとも明らかに直史の場合、人間の限界を超えた程度では、なしえないことをやっている。
なので時々倒れたりするのだが。
追い込まれて、直史はあと一球ボール球を投げることが出来る。
際どいところはカットしていって、さらに狙い球も絞らなければいけない。
だが追い込まれると、逆に開き直ることも出来る。
大介はここで、速い球を狙いにいく。
遅い球はどうにか、カットしていけると思うからだ。
ただチェンジアップへの対応をどうするべきかは迷う。
普通のチェンジアップなら大丈夫であるが、スルーチェンジだとタイミングが分かりにくい。
わずかに球速が遅いだけで、むしろ打ちにくくなる。
他のチェンジアップなら、ある程度は見極めがつくのに。
スルーとスルーチェンジは、減速がより少ないのと、減速が多いのとぐらいにしか差がない。
ただこのわずかなタイミングの違いが、バッティングにおいては致命的な差となってしまうのだ。
五球目、決めにくるのか。ただ単純なボール球は投げないだろう。
大介はストレートが来るのを警戒している。
だがそう見せかけて、スルーチェンジがきても問題である。
同じピッチトンネルを通しても、かなり至近距離に迫るまで、どのボールか分からない。
極端に言えばストレートとスプリットだけで通用するピッチャーがいるのと、おおよそ同じような組み立てが出来る。
ストレートの軌道が変化し、またスルーも時々他の変化をする。
スライダーの極端な形である、という考え方は間違っていない。
他の球種であるとしたら、スローカーブの可能性が高いだろうか。
これで遅い球を印象付けておいて、最後にはやはり速いストレート。
効果的な組み立てであるが、直史がするには普通すぎる組み立てであるとも言える。
そして運命の五球目、直史はゆっくりと足を上げる。
脱力の極致から投げるのは、果たしてどの球種か。
(速球系!)
リリースの瞬間、大介はそこまでは見抜く。
ほんの一瞬の後には、この球が沈むとも見抜いた。
さらにこのボールはゾーンから外れていくとも。
全力でバットを止めて引く。
スルーチェンジはベースの手前でバウンドし、キャッチャーのミットに収まった。
これでフルカウント。
ボール球を投げることは出来ない、と大介は思う。
いや、ボール球を振らせるということを、いつもの直史ならさせるかもしれない。
だが今の直史には、その選択肢はないと思うのだ。
(ストレートのはずだ)
沈むボールが続いて、そこからホップ成分の高いストレート。
この配球はおそらく、分かっていても眼がボールに追いつかない。
ストレートと予測する。
そして実際のストレートを打つ。
ボールは大きく高く上がったが、スタンドにまでは届かなかった。
二打席目の大介も抑えたが、フルカウントまで投げることになった。
わずかなコントロールミスが、巨大な失敗につながる。
だが肉体の動揺を、強靭な精神力で抑え込む。
完全にコントロールされた肉体からのピッチング。
大介の後のバッターたちも、しっかりと抑えていく。
三振とファールフライ。
これで四回の裏も、三者凡退である。
ベンチに戻ってきた直史は、明らかに消耗していた。
大介の後のバッターに、やや球数を使ってしまっている。
変化球の多投というのは、直史には珍しい。
それにスローカーブをボール球と見せつつ使うなど、これまでとは違う運用が多かった。
この変化にさすがに、首脳陣も気づいている。
直史は水分と糖分を補給すると、首のあたりと頭を冷やす。
フル稼働していた人間鯤ピューターを、しっかりと冷却しなければいけない。
これでまだ投げることは出来る。
エネルギーをしっかりと摂取して、脳へと燃料を送り届ける。
だが肉体全体は、消耗しきって万全には回復しないようになっている。
これであと5イニングも投げなければいけない。
一点までならどうにかなる。
だが一度追いつかれれば、果たして再び突き放すことなど出来るか。
あとさらにもう一点取ってくれたら、継投の準備をしていってもいいだろう。
直史の消耗具合を見て、ベンチはブルペンに、既にリリーフの準備はさせている。
あるいは、と無茶なことも考えていたりする。
それは直史を一度、他のポジションに移せないか、というものである。
下位打線などの休める時には、外野かファーストなどで休ませる。
ピッチャーよりは消耗が少ないだろうと、それは確かにそうなのだが、集中力が途切れるのではないか。
下手な作戦はとても選択出来ない。
×××
次話「オーバーブースト」
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