第118話 彼方と此方

 地球をおおよそ半周した二箇所で、父と子のそれぞれの戦いが始まる。

 一晩眠った直史は、おおよそ充分なところまで回復したと思えた。

 完全には回復しきっていない肉体。

 だがこれをどう使って、ライガースを封じるのか。

 いっそのこと大介を敬遠しまくるか。

 そんなことも思うし、ここまでの自分のピッチングを思えば、やっても許されると思う。

 いや、やはり自分のみが、それをすることを許さないであろう。


 息子が負けられない戦いを行っている時に、自分が逃げていてもいけないだろう。

 あるいは最後になるかもしれない会話は交わした。

 そう、直史は楽観主義者ではない。

 むしろ最悪を想定するからこそ、数々の異常な記録を残してきたのだ。

(今までのことはもう、どうでもいい)

 大切なのは、今日のこの試合だけとさえ言える。

 自分の選手生命など、いくら削れても構わない。

 今日の試合だけは、勝たせてほしい。


 直史が祈るのは、神などではない。

 東方を向いて、手を合わせる。

 そちらにあるのは、佐藤家代々の墓である。

 名前の伝わるはるか以前の祖先まで、直史は祈るのだ。

 本質的には無神論者であるが、それでも何か特別な感覚が、直史にはあるのだ。


 貴方たちの血の裔が、これからさらに東の彼方で、とても恐ろしい勝負をします。

 こちらは自分で勝ちますから、どうかそちらだけをお守りください。

 それと様々なおかしな一神教だの、仏教と神道の神様も含め、祭られている全ての神々は、余計なことはしないでください。

 今日の試合は全て、自分の力でどうにかします。

 これは自分の戦いです。

 もしも余計なことをしてくるなら、神であろうとなんであろうと、絶対に許さない。

 これから行われることは、全て人間による争いである。




 何か、オーラのような雰囲気を感じる。

 今日の直史は特別だと、見ただけで多くの人間が感じる。

 もちろん普段から、生きた伝説として、プレッシャーがかかってくるようなところはある。

 だがそれでも今日の直史とは決定的に何かが違う。

 その違いが分かるのであれば、自分も同じようなステージに至ることが出来るのかもしれないが。


 試合前のミーティングが行われるが、じっと動かない直史に、なにかとんでもないエネルギーを感じる。

 高速で回転する独楽が、一見すると静止しているのに似ているだろうか。

 何を考えているのかなど、質問することすら愚かである。

 勝つためのこと以外を考えているわけがない。

 普段の無表情に、いつもよりも何かを読み取ってしまうのは、読み取ってしまう側の問題であるのだろうか。


 バッテリーに関しては、問題視はしていない。

 問題なのはやはり、打線の方である。

 ロースコアでも勝てるという確信を持たせてくれるのが直史だ。

 ただ重要なのは、ただ勝つことではない。

 どうやって勝って、明日の最終戦につなげるかというものだ。

 序盤から大量のリードを取って、少しでも早く継投に移りたい。

 直史を明日も使うのだとしたら。


 10月に入ってからの直史の球数と内容を考えてみる。

 2日のライガース戦は94球でパーフェクト。

 8日のスターズ戦は100球で延長ノーヒットノーラン。

 12日のライガース戦で85球のパーフェクト。

 14日は七回まで投げて72球でノーヒットピッチング。

 果たしてこれは、投げすぎになるのであろうか。

 単純に球数だけを言うなら、それほどでもないような気もする。




 だが登板間隔を考え、さらにその内容まで考える。

 四試合に投げて、しかもその中には延長まであるのに、一本もヒットを打たれていないのだ。

 またフォアボールも、申告敬遠による一つだけ。

 人間に可能な成績ではない。

 一試合だけが完璧なピッチングなのではなく、10月に入るその一つ前の試合からずっと、ノーヒットピッチングは続いているのだ。

 五試合のうち四試合でノーヒッター。

 そして途中交代の試合も、ノーヒッターなのである。


 最後に失点した試合から数えれば、もう一ヶ月以上が経過している。

 ローテーションピッチャーが、一ヶ月以上も無失点。

 この圧倒的な事実を考えれば、目の前の試合には勝てるように思える。

 だが勝ったとしても、さらにまだその次がある。

 明日の試合である。


 この試合に勝ったところで、ようやく勝ち星で並ぶ。

 明日の試合にも勝たなければ、日本シリーズには進出出来ないのだ。

 完全に打線が地蔵になっているとさえ言われるレックス。

 だが正確には見てみれば、一点も取れていない試合は、むしろないのだ。

 ここまでの四試合で、レックスとライガースは共に、合計で七点しか取っていない。

 完全なロースコアゲームである。


 ここまで極端な試合は、果たして過去にあったのだろうか。

 半分は直史のせいであるが、他の試合のライガースも、ほとんど最低限しか打っていない。

 またレックスなどはとにかく、直史が無失点に抑えている。

 その援護がほとんどなかったりして、さらに今は状態が悪くなっている。

 究極のロースコア展開の続くシリーズと言えるだろう。




 第一戦と第三戦、直史は勝利投手となっている。

 第一戦、レックスは一点差で勝利。第二戦は一点差で敗北。

 第三戦、二点差で勝利。第四戦、二点差で敗北。

 この法則が発揮されるなら、この第五戦は三点差でレックスが勝利するのだろうか。

 早めに三点差に出来れば、直史を継投で休ませることが出来る。

 ずっと昔の日本シリーズなど、第六戦を138球で完封し、その翌日に先発登板。

 そして80球でのパーフェクトを達成して日本一となっている。


 ぞの年の日本シリーズも異常なもので、直史は第一戦、第四戦、第六戦、第七戦に投げている。

 中三日、中二日、連投という具合である。

 その前のクライマックスシリーズでも、中四日と中四日という間隔で投げている。

 ほぼ昭和中期までのNPBの投球間隔と言えよう。

 異なるのはその、圧倒的なピッチング内容。

 最初の年のクライマックスシリーズと日本シリーズ、合計で六試合直史は投げたわけだが、五試合はフルイニング投げて、全て無失点である。


 今年の内容と比較するため、引き出してきた内容を確認して、改めて解説も実況もドン引きしていた。

 考えてみれば直史は、NPBでは引き分けはあっても、一度も負けはしていないのだ。

 つまりこの結果は、その事実からすれば当然のことなのだ。

 他の誰にこんなことが出来るのか、という疑問は出てくるかもしれないが。


 人間の出来るピッチングではない。

 上杉も似たようなことをしているが、あちらはまだそれなりに点は取られて、それでも試合には勝つという可愛げがある。

 だが直史のやっていることは、完全に対戦するバッターのみならず、見ている野球選手の心を折っていくものだ。

 悪魔と取引した程度では、絶対に届かない領域。

 ゾーンに入ったスポーツ選手の、さらに上の領域に達している。




 過去の幻影に怯える必要はない。

 直史は間違いなく、これまでになく消耗している。

 それはもう大介が保証するのだが、それなら打ってみせてくてと言われてしまう。

 実際に大介も、この数試合直史から、ホームランはおろかヒットも打てなくなっている。

 確かに直史から、一試合に二本のホームランは打った。

 だがそれがまるで火をつけたように、そこから圧倒的な成績が始まっているではないか。


 下手に触れてしまったがために、荒ぶる神として目覚めてしまった。

 もう生贄を捧げて鎮まるのを待つしかないのでは。

「確かにあいつは、なんだかもう神がかった状態になることはあるんだよな」

 大介はそう言うが、これに対して周囲は「あんたもな」という視線を向けた。

「それでもあいつ自身は、人間なんだよ」

 そう言われても「ほんとかよ」と思うしかない。

 そもそも今シーズン、ブランクのある40歳のロートルが、26勝0敗という時点でおかしいのだ。


 どれだけの名選手であろうと、いずれは衰えて去っていく。

 それは別に野球に限らず、多くの場合の常識である。

 だが直史に限っては、なんだかもうスポーツの範疇を超えているのではないか。

 上杉がほぼ引退と報道される今、あの時代を代表する選手は、もうほとんどがいなくなっている。

 悟などもだが緒方も、上杉とは高校時代がかぶっていないのだ。


 とにかくどんなバッターも封じてしまう直史を、果たして誰が打倒するのか。

 それはもう、大介以外にはどうしようもない、と他の誰もが分かっている。

 こちらはまだしも、前年もMLBで大活躍と、今年の成績にも納得はいくのだ。

 もっとも40歳でまた三冠王などというのは、ちょっとこれまた常識の範疇にはいない成績である。

 大介の場合、三冠王を取れなかった年がむしろ、一年だけしかないのだが。




 同時代に、究極の盾と矛が揃ってしまった。

 ただ今のところ、盾の方が優れているらしい。

 結局は究極のうんぬんというのも、それまでの記録との比較でしか言えないことだ。

 さらに大介の場合は、確かに同時代に匹敵するバッターがいない。

 だが直史は上杉に、実弟の武史という、ほぼ史上最強クラスのピッチャーと、同じリーグを過ごしている。

 その中でも一番の成績を残しているのは間違いない。


 キャリアの短さ、という問題はある。

 もしも直史が上杉のようなキャリアを送っていたら、今のような成績になったであろうか。

 ただ直史は高卒時、ストレートのMAXは145km/hも出ていなかった。

 それでも大学野球は制圧し、途中で球速も増してきた。

 大卒でもプロ入りすることなく、結局プロの世界では見られないのか、と思ったところからのプロ入り。

 その詳細について、大介は知っている数少ない人間の一人である。


 直史に敗北を教えてやりたい。

 一応は勝ったことはあるが、あれを勝利と強弁するのは無理がある。

 いや、今年のこの日程で勝ったとしても、ちょっと勝ったとは言えないか。

 中一日のピッチャーを打ったとして、それで勝ったとは言えないだろう。

 その一方で、スポーツにおいて両者が万全の状態で戦える状況など、そもそもまずないのだ、という考え方もあるだろう。




 直史は明史の手術のことを、大介には伝えていない。

 これを知ればむしろ、気にするのは大介の方であると思うからだ。

 大介は自分と違って、情の深い男である。ある意味では女々しくもあるのかもしれないが、人間的であるとも言える。

 単純に勝敗だけを考えれば、むしろ伝えても良かっただろう。盤外戦術という言葉もある。

 だが直史は、自分なりの基準でもって、それをしてはいけないと判断した。


 大介には必ず勝つ。 

 しかしそこに、自分が卑怯と感じる要素があってはいけない。

 誰がそれを断じるわけでもない。

 己が己に、信念に従って誓約を持つのだ。

 それを他の誰がどう思おうが、知ったことではない。

 自分はただ、ひたすら勝利のために尽くすのみ。


 そんな直史の周囲は、気温が少し上がっているようにも感じる。

 試合の前から、既に体が戦闘準備に入っている。

 他の選手であれば、それは逸っている、と思われるのかもしれない。

 だが直史は、自分の力をコントロールしているのだ。

(今日の試合は、必ず勝つ)

 勝たなくてはいけない試合、などというものはない。

 世界はどちらが勝って、どちらが負けたとしても、滅びることなく続いていく。

 それでもこの瞬間、レックスが勝つことに目を輝かせる人間がいる。


 誰かのために勝つというのは、結局のところただの責任回避か、モチベーションを上げるための手段であるのかもしれない。

 だが直史は今、自分以外の誰かのために、全力で投げると決めている。

 この全力というのは、無駄に力を入れて投げる、ということではない。

 全身全霊をかけて、今日の試合を勝っておくということだ。

 違いの分かる人間は、おそらく少ないのであろう。




 緒方は比較的、身体的才能には恵まれなかった選手である。

 ただそれは体格の話であって、体格の割には長打も打つし、高校時代は大阪光陰でかなりピッチャーもしていた。

 走力はそれほどでもないが、走塁は上手い。

 小回りが利くので、守備が一番得意とも言う。

 そして何より、直観力に優れている。

 直史の異常な気配を、感じている人間の一人だ。


 いよいよ試合が始まるが、今日も一番を打っている。 

 プロではそれほど先頭打者を任されたことはないが、このカードにおいては左右田のやっていた役割を、それ以上にこなしている。

 ただレックスの打線が全体的に弱くなってしまっているのは感じている。

 一人が抜けただけで、打線が弱くなるのか。

 長打偏重ではないレックスは、弱くなってしまうらしい。


 もっとも左右田は今季の中盤になってから、一番固定となっていた。 

 それ以前と以降では、確かにレックスの勝率は変わっている。

(もうショートをするのは厳しいな)

 守備の方の負担が大きく、バッティングに集中できない。

 そもそもショートでバッティングまで優れた選手というのは、今はさほど多くないのだ。

 大介は異常なのである。


 まずは出塁し、そこから先制点を狙っていく。

 今日は直史が先発なので、ロースコアになることは決まっているし、あるいはレックスの一方的な試合になる可能性すらある。

 首脳陣が直史を早めに継投させたがっているのは、ごく当たり前の判断である。

(何点ぐらい、それとイニングはどこまで)

 さすがに連投は無謀にしても、セットアッパーかクローザーとして短いイニングを投げることは充分にありうる。

 酷使にもほどがあるだろう、と緒方でさえ思うのだが。




 一回の表、レックスは緒方がまず出塁に成功した。

 高くバウンドしたボールが、センター前へと抜けていったのだ。

 ジャストミートではないが、上手くバットコントロールの出来たヒット。

 ノーアウトからのランナーという、重要な結果を出すことに成功する。

 そしてレックス首脳陣はここで、送りバントの姿勢を見せた。

 ライガースの内野は、これに対してダッシュして対応する。


 一点もやりたくないと、ライガースも思っている。

 直史が投げているのだから、点は取れても一点程度。

 あとは点差がつかなければ、なかなか直史を降ろすことが出来ず、明日投げるイニングを減らせるだろう、というしたたかな考えはある。

 きょうの試合自体に勝つのは、かなり厳しいとは思っている。

 だが中一日を続けているピッチャーは、絶対に消耗しているはずなのだ。


 ポストシーズンはその試合だけではなく、短期決戦ながら複数の試合に勝つ必要がある。

 一人のピッチャーの限界は、絶対にあるはずなのだ。

 実際にMLBでは、ワールドシリーズで最後に負けていることが一つある。

 ただ日本シリーズでは、一人で四勝していたりもするが。

 ライガースの首脳陣の狙いは非常にシンプルである。

 直史をこれ以上休ませることなく、削っていくのだ。


 これは興行であるが、同時にプロの試合である。

 卑怯なことをしてファンが離れては問題だが、そうでないならシリーズ全体を見て作戦を立てて、優勝を狙う。

 当たり前の思考であり、それに従って勝利のために直史を削る。

 次の試合ではなく、この試合の終盤にでも、打ち倒すことを狙う。

 もっとも打線陣は、かなり自信を喪失しているが。




 一回の表、レックスは先制点を奪うことに成功した。

 ただ、やはりここでも一点だけ。

 ライガースはそれほど強力なローテピッチャーを出していないのだが、レックスはビッグイニングを作るのが本当に下手だ。

 それでも全体を見れば、直史の投げていない試合を考えても、本来ならばこれで充分のはずではあるのだ。

 ポストシーズンでは、これでは足りないというだけで。


 それでも一点のリードをもらって、直史はマウンドに立つ。

 一回の裏、ライガースの先頭打者は大介。

 もう完全に、この打順が定着してしまっている。

 実際のところ、直史が投げない試合でも、最高で三点までしか入らないという、完全なロースコアゲームになってはいるのだ。

 チャンスメイクという意味でも、一発という意味でも、大介を一番に持ってくるのは当然であろう。


 極端な話レックスは、大介の前にランナーがいれば、即座に敬遠でいいのだ。

 長打力がほぼ10割という怪物は、ヒットを打てばその三割以上はホームランになっているのだから。

 計算によるとソロホームランはともかく、ツーラン以上のホームランは、無条件で敬遠することによって防げる。

 ランナーとしても厄介ではあるのだが、逆に前にランナーがいれば、その走力は発揮しにくい。

 あとは甲子園のブーイングを無視すれば、計算の上では一番失点の期待値が低くなる。


 もちろんランナーがいないこの場面では、当然ながら勝負ということになる。

 直史としては、大介にはホームランさえ打たれなければOK、という意識がある。

 ただ初回でノーアウトという場面を考えれば、もう少し危険度を下げておきたい。

 大介をランナーに置くというのは、他の誰がランナーでいるよりも恐ろしいのだ。

 どんな形でもいいから、凡退に抑えたい。

 表に取った一点を、無駄にするわけにはいかない。




 これで、三度目の先発。

 大介としては、直史の発する威圧感が、どんどんと高まっていくのを感じている。

 だが同時にそれは、肉体と魂を燃焼し続けているということでもある。

 表面に見える、殺気にも近い威圧感に騙されてはいけない。

(だからこそ、ここで終わらせる)

 直史のことだ、この試合に勝ってしまえば、明日の最終戦にも投げてくるだろう。

 さすがに先発ではないかもしれないが、リリーフで投げても長いイニングになる可能性がある。


 最終的な目標はもう、果たしたはずの直史である。

 パーフェクトを達成した時点で、それ以上の成績は必要がなかったはずだ。

 それがまだ、ここまで投げてくるということ。

 その意味を大介は、自分に都合よく受け取っている。

(俺に勝ったまま終わりたいんだろ)

 なんだかんだ言いながら、直史が負けず嫌いなのは間違いないのだ。


 バッターボックスの中で、直史の冷たい殺気を感じる。

 熱量を感じるが、それとは全く別の感覚で、直史の意識を感じるのだ。

 それは闘争心すら上回る、目の前の相手を全力で破壊するという、ピッチャーと言うよりは格闘家か何かのような、凍えるような闘争心。

 一つ一つの順序をおって、相手を破壊していこうとする、冷酷さを感じる。

(それじゃ格闘家ってより暗殺者だな)

 大介はそんな相手を前に、思わず笑ってしまう。


 色々な条件で、直史は不利になっている。

 削られ続けて、本来ならベストの状態ではない。

 だが削られて追い詰められているからこそ、その本質がむき出しになっている。

 極めて現実主義であり、そのくせ精神の強靭さをも併せ持つ。

 凶暴な肉食獣の戦意に、冷徹な機械の判断力。

 まったく、どうしてこんなものが育ってしまったのか。




 人間が育つのは、教育だけではなく環境だけでもなく遺伝子だけでもない。

 それら全てに加えて、ストレスという要素がある。

 悪い意味で使われる言葉だが、適度なストレスがないと、人間は甘いほうにばかり流されてしまう。

 克服できる程度のストレスがあれば、より人は成長しやすい。

 どれだけの才能があっても、ストレス、つまるところの壁とか言われるものがなければ、人はそれを越える力を身に付けることはない。


 直史がこうなった原因の一因は、間違いなく大介にある。

 同じチームであり、戦ったとしてもチーム内の紅白戦のみ。

 ただそれでも、圧倒的な強者として、お互いを認識していた。

 敵対してもいないのに、どうしてそれを超えることを考えていたのか。

 それはもう、男の子だから、とでも言うしかないのだろう。


 直史だけではなく大介も、ストレス以外に背中を押されたものがある。

 それはフルスイング、というセイバーの言葉であった。

 レベルスイングで、上手くボールを落とせば、ヒットに出来る足があった。

 しかしながら長打を要求されれば、それが打てるようにもなったのだ。

 求められなければ、大介のバッティングはここまでの、破壊力に到達したかは分からない。


 今、この場において、あの時代を同じ場所で過ごした二人が、ここを目指して共に歩んだ二人が、対決するということ。

 それは紆余曲折を経ながらも、大きな流れの果てにあるのでは、と思わなくもないものである。




 直史が投げたのは、初球から外に外れるカーブ。

 ゾーンで積極的に投げてくる直史としては、珍しい入り方である。

 もっとも直史の投げるデータを調べてみれば、そこに特徴が見られにくいことが分かるであろう。

 あえて得意なコースに投げてくることもあれば、普通に苦手なコースに投げてきたりもする。

 また試合中に、同じバッターに同じパターンで投げることは少ない。

 少ないというのは、忘れた頃に使ってくるからである。


 つまり直史のピッチングスタイルというのは、無形。

 枠を作らないがゆえに、予測は困難であり、反射で打っていくしかない。

 そしてそう思った瞬間、まともに飛ばせないボール球を投げてきたりもする。

 このピッチングにおける、相手バッターの読みを外す嗅覚は、おそらく天性のものである。

 経験だと言うなら、直史にはその経験が圧倒的に、他のピッチャーに比べて少ないのは明らかだからだ。

 一を聞いて十を知る、というぐらいの学習能力の高さはあるかもしれないが。


 そんな直史が投げた二球目は、インローへのストレート。

 本来なら引っ張れるはずのボールを、大介はミスショットした。

 大きく左方向、ファールスタンドの中へ入っていく。

 完全にミートポイントがずれていたのだ。

(ほんのわずかにツーシーム回転があったか? それとも俺の打ちミスか?)

 どちらにしろ、これでストライクカウントが一つ増えたのは間違いない。


 第三球、どこへ投げてくるか。

 直史は常に、ストライク先行で投げてはくる。

 だがこの打席、試合の最初の打席であるというのに、ボール球から入ってきた。

 ゾーンから外れるボールを投げるにしても、中途半端に外れるなら打ってしまう。

 力で押してくる、というのは考えにくい。

(カーブか?)

 初球にカーブを投げているので、ここでまたカーブを投げてくる確率は低い。

 だがその低い確率で、直史は組み立ててくるのだ。

 つまりここは、カーブに狙いを絞ってみる。




 直史のピッチングに形がないのは当たり前である。

 なぜなら、相手の形によって、自分の形を変えているからだ。

 狙い球を絞ってはいけない。

 どんなボールがきても対応する。

 そんな考えでいないと、裏をかく直史を打つことは出来ないのだ。

(何を狙っているのか、分かるんだぞ)

 直史の三球目は、ストレートである。


 大介はインハイストレートに反応した。

 バットにはわずかに当たったが、バックネットに打球は突き刺さる。

 直史としては逆に、もう少し前に飛ばしてもらった方が、フライになってよかったが、さらにもう少しだけ前に飛ばしていれば、大介の飛距離ならホームランになる。

 ほんの数mmの違いによって、結果は正反対になる。

 野球の中でもピッチングからバッティングまでの過程は、ひどく繊細なものであるのだ。


 これでツーストライクとなった。

 そしてまだボール球も使える。

 次で決めるか、あるいは布石を打っておくか。

 主導権は常にピッチャーの側にあるが、特に今は直史の方が優位である。

 ただファールを打たせてストライクカウントは稼げるが、この先はいくらファールを打たせても三振にはならない。

 傍から見るよりも厳しい状態である。


 直史はすぐにセットポジションに入る。

 大介はここは、まず様子を見たいと考えている。

 この一打で決めるのではなく、次のボールへの組み立てと考える。

 ストレートにタイミングを合わせておけば、他のボールはカット程度なら出来る。




 直史はここで、高めに外したストレートを投げた。

 ボール球であるが、タイミングを合わせていた大介は、わずかに当たってまたもバックネットにボールが突き刺さる。

 二球連続のストレートに、大介の意識は引きずられているはずだ。

 ここで一般的な考えなら、スルーかスルーチェンジを投げる。


 一般的な考え方というのは、誰もが効果的と分かっているからだ。

 下手に意表を突いたとしても、それが正解になるとは限らない。

 ボールに力があるならば、下手の考え休むに似たりで、ストレートでごり押しという手段も選択肢の中にはある。

 ホップ成分の高いボールを二球続けて、その後に沈む球。

 目がついていかず、空振りというパターンが多くなるだろう。


 正解などはない。

 ただ選択と、結果だけが存在する。

 直史には選択肢が多いから、結果的に正解を選んできたように見えるだけだ。

 あそこはああするべきであった、とは野球のファンは特によく言う。

 だが、正解は結果の判明した後に明らかになるだけなのだ。

 少ない選択肢の中から、無理やり正解を作り出す、上杉や武史とは違う。

 それでもここで、直史の投げる球は決まっていた。


 バッターの、能力を超える必要はないのだ。

 超える必要があるのは、バッターの想像力。

 想定していた以上のボールを投げれば、それで少なくとも長打になるような打球を打たれることは避けられるだろう。

 つまりこの場合、直史は全力のストレートを投げた。

 あえて外していたボール球のストレートではなく、ぎりぎりゾーン内には入っているが、さらにホップ成分が高いストレートを。



×××



 次話「ただ勝利のために」

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