第113話 短い休日

 体が軽い。

 踏ん張りがきかない、あってはならない軽さだ。

 体重を量ってみれば、なんと4kgも落ちている。

 一日の試合でここまで落ちたのは、生まれて初めてである。

(甲子園の時でも3kgまでだったぞ)

 それだけ体を削りながら投げているということなのか。

 中一日で投げるというのは、ちょっと無茶であったかもしれないな、と今さら思う直史である。


 朝食から大量に食べていく直史。

 今日はさすがに投げないとはいえ、そんなに食べて大丈夫なのか、と周囲は心配している。

 だが幸いと言うべきか、直史はこの年齢になってもまだ、脂っぽいものを平気で食べられたりする。

 サプリメントでも補充はするが、圧倒的に量が足りない。

 とにかく蛋白質が足りない。

 腹が重くなってでも、懸命に食べていく。

(さすがに連投は無理だな、これは)

 スタミナとか耐久力とか、そういうレベルの問題ではない。

 とにかく消耗が激しすぎる。


 ヒーローインタビューですら、かなりふらふらで受けていた気がする。

(中三日と言っても、延長まで投げての結果だしな)

 その前も、中六日たっぷり休めたという日は少ない。

(今から思えば失敗だったんだな)

 もしも今年、ライガースが優勝することがあればその理由としては、シーズンの最後まで競ったからこそ、と言えるであろう。

 シーズンの終盤、二位通過で良しとして、スタミナを温存すべきであったのだ。


 直史としては充分に、体調管理には気をつけていたつもりであった。

 しかしこの体を削っている感覚は、MLBの二年目に敗北した時よりも、さらにひどいものだ。

(俺も年を取ったもんだなあ)

 ここからあと二年、上杉は投げたわけである。

 よくもまあと思うが、鉄人上杉であっても、限界を超えたピッチングをしていれば、そこで終わってしまうのだ。




 上杉は限界を超えて肩を壊した。

 ならば直史ならば、何を捧げればいいのであろう。

 肩や肘に負担がないように、全身に負荷を分散させている。

 その中では股関節が辛いものがあるが、そのあたりは柔軟性でどうにか受け止めている。

 肉体全体に負荷を分散させているということは、どこが壊れてもおかしくないということだ。

 さすがに左腕が壊れることはないだろうが。

 今日はほぼノースローだな、とさすがの直史も思う。


 スローペースのジョギングとウォーキングを繰り返し、血流をよくしていく。

 摂取した養分が少しでも早く、全身に行き渡るように。

 もっとも肉体のバランスも重視しなくてはいけない。

 バイオリズムの低下も、深刻な問題である。

 過剰な集中力の反動か、今日は五感が鈍くなっている。


 自分から言い出したことだが、もしも今日の試合、負けたら明日には投げることになるのだろうか。

 最初のNPB時代とも、MLB時代とも違う、圧倒的な肉体の劣化。

 出力自体は、それほど落ちていない。

 だが明らかに、耐久力と回復力は落ちている。

 世間のピッチャーは、こういうことがあって引退していくのか。

 気持ちが分かってくる。


 上杉も衰えていたし、武史も以前と比べれば衰えている。

 そろそろ日本に帰りたい、とこの数年は言っているが、毎年サイ・ヤング賞候補の票が入っているのであまり深刻には思われない。

 もっとも武史の場合、年金条件も殿堂入り条件も満たしたので、さすがに日本に帰ってきたいというのは本当のことだろう。

 日本食に飢えているがゆえに、日本食を作れるハウスキーパーを雇っているそうだし。




 直史は昼食も大量に食べる。

 一流のスポーツマンに必要な要素の一つには、実は強力な消化器官というものがあったりする。

 まさに食べた物をどれだけ吸収し血肉にするか、その代謝は若い間の方が当然ながら優れている。

 もっとも直史の場合、野球選手としてはかなり細い。

 もう少し体重を増やすなりした方が、この先を考えればいいのかもしれない。


 高校時代などは、かなり体重増も考えたものだ。

 もっともセイバーの分析により、それはまだ後回しでいい、と結論が出ていたが。

 今ならば体重は増やすべきだろう。

 正確にはシーズン中に、もっと体重を増やすべきであったか。

 それをすればバランスの変化によって、ピッチング全体が狂った可能性もあるが。

 直史のピッチングは一般的に、繊細で精密なものだと思われている。


 昼食後は、消化の助けになるように、プロテインドリンクを手にしながら散歩をする。

 年齢による衰えというものは、本当にどうしようもない。

 直史はこの半年ほどであるが、上杉や大介はずっとこれを続けてきたのか。

 バッターはそれほどでもないかもしれないが、この年齢でこんなことをやっているのは、ちょっと常識から離れすぎている。


 などと直史は思っているが、自分のことを理解していない。

 その誰よりも人間離れしたことをしているのが自分だ。

 この半年ほどなどと言っても、逆に言えばブランクがあったのだ。

 そのブランクを乗り越えて、今まさに最終決戦を行っている。

 よりにもよってそんな人間が、常識を語ってしまうのだ。




 夕方、ファイナルステージ第二試合。

 昨日から連戦であり、レックスの先発は三島、ライガースは津傘となっている。

 直史が投げる試合は、援護が少なくなるというデータを、まさに証明したのが昨日の試合であった。

 初回の緒方の一発がなければ、果たしてどうなったのやら。

 さすがにレックスの攻撃も、もう少し動いたとは思うのだが。


 この試合のポイントは、やはり先取点であろう。

 大介は二番に戻っていて、ランナーがたまったところを打ってもらう、という考えの打順であろう。

 もっとも出塁率などを考えれば、ランナーとしての活躍も期待されているのだろう。

 あとはハイスコアになるか、ロースコアになるか。

 大味な点の取り合いになれば、おそらくライガース有利。

 チャンスを上手く活かすロースコアなセットプレイ重視なら、レックスが有利。

 もっともこれはあくまでも、一般的な目安でしかないが。


 昨日の試合、レックスは何度もチャンスを作りながらも、ライガースからは結局緒方の一発しかなかった。

 それを反省したのか、初回から左右田がしっかりと出塁する。

 緒方は進塁打を打ち、最低限の仕事。

 そしてここから中軸が、左右田をホームに帰す。

 まずは一点、簡単に入ってしまった。


 ベンチにいる直史は、これが昨日あればな、と思わないでもない。

 そうすればもっと楽に、消耗せずに投げられたのだ。

 今日一晩で、どれだけ回復しているか。

 明日の試合は先発したとしても、第一戦のようには投げられないだろう。

 完封を目指して、計算して投げることになるはずだ。

 あるいは点を取られても、負けないピッチングをする。

 それが出来なければ、より大きく消耗してしまう。




 初回、レックスの先制点は一点。

 その裏、ライガースの攻撃である。

 甲子園が揺れるほどの、凄まじいまでの圧倒的な応援。

 レギュラーシーズン終盤も凄かったが、それでも直史はパーフェクトをしたし、昨日の試合もパーフェクトをした。

(どういったメンタルをしてたら、この空気の中で普通に投げられるんだ)

 三島はそう思っているが、それは別にレックス側だけでもないようである。


 ライガースの先頭和田も、力が入りすぎていたようだ。

 昨日の直史に完全に封じられていたのも効いたのか、内野ゴロであっさりとアウト。

 とりあえず大介の前にランナーを出すという、その状況を避けることは出来た。

(本当ならここで歩かせるのが、一番いいんだろうけど)

 直史が采配を振るうなら、そうしているだろう。

 だが甲子園でそんなことをする度胸は、レックス首脳陣にはない。


 もしもそれをやっていたら、帰りのバスを止められてしまっていただろう。

 あとは生卵を投げられるぐらいのこともあったかもしれない。

 ライガースのファンは、本当に昔と変わらない。

 今時そんな、などと言われようが変わる気はない。

 全てがいいこちゃんになってしまえば、それはそれでつまらない。

 そうやって擁護してしまう人間もいるあたり、人間の本性は分からないものであるのだ。


 直史からすると、アレクから聞いているブラジルのサッカーファンなどと比べたりするので、充分におとなしい方だろう、と判断してしまう。

 実際に本場のフーリガンというのは、もう完全に暴徒であるらしい。

 ファンであるからこそ凶暴化するのではなく、単純に暴れる場所を探しているというものであるらしい。

 直史からすると、法治国家でそんな存在がいてほしくはないものだ。




 そんなライガースファンの期待を背負った大介は、果たしてどんなバッティングをするか。

(歩かせてもいい、ぐらいのピッチングをすればいいんだけどな)

 昨日の試合、直史は確かに、数字の上では大介に勝った。

 だが完全に勝ったとは言えない。つまり大介の心を折ることは出来なかったのだ。

 思えば大介は、負ければ負けるほど燃える人間であった。

 そんな大介に勝てたのは直史と、故障の危険までをも犯した上杉のみ。

 もちろん全ての打席でヒットを打つ10割打者などではない。

 だが重要な場面では、必ず打っているのだ。

 

 10割打つバッターなど、敬遠されてそれで終わりだ。

 そのあたりの勝負してもらえる境目が、おおよそ四割弱といったところなのだろう。

 もっとも大介は、四割を超えてしまうこともある。

 ボール球にまで手を出して、ある程度は打率を調整しているのだ。

 おそらく純粋に打率だけを求めれば、レギュラーシーズンでも五割は打てる。

 それを期待されていないから、そういったバッティングをしていないというだけで。


 外角にボール球を続けて、隙があれば内角に投げてもいいだろう。

 ただゾーンで勝負してはいけない。

 直史は事前ミーティングに参加して、そのあたりは説明している。

 もっとも迫水はともかく、三島はそれを許容しないだろうな、とは思っている。

 なにせ前日に直史が、完全に抑えてしまっているのだ。

 しかしあの二打席目の、甲子園の一晩深いところへのファールの意味が分かっていれば、上手く逃げていけるはずなのだが。




 勝負は一球でついた。

 アウトローへのボール。ほんのわずかに、ゾーンからは外れていたはずだ。

 しかし大介の特注の長いバットは、重心がその先にある。

 スイングしてバレルで、その低目へバットを叩きつける。

 大介の打球としては珍しく、フライ性の打球となった。

 だがそれでも、充分な飛距離でもって、ポール際に入った。

 いきなりの同点ホームランである。


 甲子園が唸りを上げる。

 直史に完全に封じられた、昨日の試合の鬱憤を晴らすかのように。

 大介も右腕を上げて、ベースを一周する。

 三島としては、確かに打てなくもないコースであったのかもしれないが、初球からボール球を、ああまで見事に打ってくるのか、という思いがある。

 もちろん大介の、NPBとMLBの、ポストシーズンの成績を見てから判断した。


 バッテリーの二人ともが、大介の危険さは分かってはいたはずである。 

 だがその危険さは、あくまでも数字上の理解であったのか。

 確かに二人は、レギュラーシーズンの大介しか知らなかった。

 直史のピッチングからは、あまり学んでいなかったのであろう。

 それをもって二人を評価付けるのは、ちょっと酷であるのかもしれないが。


 ホームベースを踏んで、これで1-1とスイング一振りで同点。

 これが野球の恐ろしいところなのだ。

 そして同時に、面白いところでもある。

 頑張って出塁して、ランナーを進めて、しっかりと打って返す。

 そんな段階をすっ飛ばして、バットの一振りだけで同点であるのだ。

 これではむしろ直史のパーフェクトが、ライガースの脅威度評価を下げてしまった可能性すらある。

 三島も最終盤に、その怖さを知っていると思ったのだが。




 緊張感に満ちた、美術館のような場所ではない。

 今日の甲子園は、間違いなくテーマパークだ。

 三島もちゃんと引きずらず、一点でどうにか抑えている。

 試合の展開自体は、今のところは互角に見えなくもない。

 初回なので様子見、といったところもあるだろう。


 二回の表、レックスの攻撃が始まる。

 一回の流れがどうやって持ってこれるか、直史は注視しながらも考えている。

 この試合は一点を争う試合になるかは、終盤まで見ないと分からない。

 少なくとも序盤は、上手く試合をコントロールしていく必要があるだろう。

(ただここで三者凡退とかしたりすると、こちらの勢いだけ止まる可能性もあるしな)

 勢いとか流れとか、そういったものを直史は無視する。

 だがそれは自分の投げている試合だけである。


 流れというものはある。

 具体的にセイバーが、統計でどういう時に、ビッグイニングが出やすいかなどは説明してくれたものだ。

 一点取られてでもワンナウトを取るとか、そういう本能に逆らったパターンも学んでいる。

 もちろんプロにまで来た野球エリートは、そのあたりのことも分かっているはずだとは思う。

 だがこの大舞台にライガースの大応援団という背景があれば、そのあたりの判断力も低下してしまうのではないか。


 ライガース打線相手にはとにかく、ビッグイニングを作らせないこと。

 その発端となるのが、大介の出塁であったりする。

 今年は166打点で文句なしの打点王となっているが、実は得点の方がずっと多い。

 昔からのことと言えばそれまでであるが。

 ランナーが多いと申告敬遠されてしまうため、どうしてもこういうことになってしまうのだ。

 ただホームランで一点だけで済む方がいいという考えもあるため、ランナーがいなければ勝負してもらえることもある。




 二回の表は、ランナーが一人出ただけで進塁させることも出来ずに終了。

 ある程度の点の取り合いが予想される試合で、この攻撃というのは微妙なところがある。

 だが裏のライガースの攻撃も、ランナーは出たがピッチャーの打順のところで止まってしまった。

 ある程度は分かっていたが、どこでピッチャーを入れ替えるか、その継投のタイミングが攻撃中に決定してしまう。

 だがライガースもまだ、エースクラスをこんな場面では交代させたりしない。

 結果が双方の無得点である。


 レックスは二遊間という、本来ならやや打力が低下して、守備力の高い選手を入れるポジションが、打力も高い選手で組まれている。

 一発の攻撃力はそこまで高くないが、バッターの平均値は高い。

 それも長打力よりも打率などのバッターであるため、作戦を立ててそこから点を取っていく。

 ライガースはとにかく長打偏重と言っていいのか。

 それで結果も出ているのだが。


 三回の表、レックスの攻撃が始まる。

 直史の見る限り、流れはまだどちらにも行っていない。

 甲子園の大応援団を敵にして、よくも平気だなと思ったりもした。

 しかしそれは直史のせいである。いや、おかげと言うべきか。

 特に守備の問題であるが、直史が何度もパーフェクトやノーヒットノーランを続けるピッチングをしていたため、プレッシャーには強くなってしまっているのだ。

 攻撃面にしても、直史と上杉の投げ合いで点を取れなかったあの試合に比べれば、かかっているプレッシャーなそれほどのものでもない。




 ロースコアのゲームであると、ライガースの不利。

 そんなことを言われていたが、チャンスメイクは圧倒的にライガースが多くなる。

 大介をどう使うか、が重要なことであるのだ。

 直史への一番大介という、変則的な打順はもう使わない。

 ただMLBで蓄積された、二番が最適という打順はしっかりと導入されている。


 なんなら一番でもおかしくないな、と直史は思っている。

 実際に一番を打っていたシーズンもあるのだ。

 ランナーとして魅力の走力を、大介は持っている。

 下手に塁に出してしまうと、引っ掻き回されてビッグイニングのきっかけになる。

 ソロホームランの方がまだマシだ、などという結論に至ることもある。

 今年の大介は、単打よりもホームランの方が多かったりもするのだが。


 追加点を得ることが出来ず、三回の裏。

 大介の二打席目が回ってくる。

 ランナーは一人もいないという、なんとか勝負出来る状態を作ってはいる。

 なにしろ大介はMLBでは、満塁からの敬遠というのが何度かあったのだ。

 日本ならブーイングがひどいだろうが、MLBでは普通にこれをやったりする。

 メンタリティがやはり、日本とは違うということなのだろう。


 もっとも日本でも、甲子園で松井は全打席敬遠という目に遭っている。

 水島御大の作品では、そこまで勝負を避けられるというバッターは珍しくない。

 直史であればどうであるか、という質問は無意味である。

 直史はそもそも、満塁などという状況を作ったことがない。

 ただクローザーとしてならば、そういう状況に対処しなくてはいけないかな、という場面も出てくるだろう。

 そこでどうするのか、直史は考えたことはない。

 避けても追いつかれないなら、直史は避ける。

 避けられない勝負なら、それこそ勝負する以外の選択肢はないだろう。




 ランナーのいない状態から大介は、外のボール球に手を出さない。

 結局は敬遠に近いような、歩かされる打席になってしまった。

(このままロースコアで進むなら、それはちょっとまずいよな)

 大介は一塁のベース上で少し考える。

 大介の場合は、走れると思ったら自由に走っていい、というグリーンライトを与えられている。

 実際にサインによらない盗塁は、95%ほどの確率で成功している。

 この状況も、その中の一つではあるだろう。


 盗塁をしかけることを、レックス側も充分に注意している。

 だが注意したからといって、大介を止められるはずもない。

 初球からスタートを切る……ように見せた。

 外されたボールを見て、すぐに一塁に戻る。

 カウントを悪くしてしまって、レックスのバッテリーは苦い顔になる。

(バッテリー、特にキャッチャーを狂わせたら、試合全体が終わる)

 大介は守備の要がどこにあるのか、よく分かっている。


 敗北した試合から学べ。

 一年の夏と、二年の夏。

 一年の夏はパスボールで、二年の夏はバッターとキャッチャーの読み合いで、敗北しているのだ。

 もっともあれは読み合いと言うよりは、執念の差と言えるものであったが。

 日本の野球の場合、キャッチャーを崩したらピッチャー全員が狂うことになる。

 それこそ直史ぐらいしか例外はいない。


 大介がやろうとしているのは、単純にこの試合に勝つことではない。

 ライガースはランナーを出しているのに、いまいち打線につながりがない。

 それは直史の手によって、打線全体が狂っているからだ。

 ならばこちらも、あちらをぐちゃぐちゃにしてこそ、勝機が見えてくるというものだ。 

 この試合だけではなく、このファイナルステージにおける勝敗だ。




 直史からすると、だいたい大介の考えていることは分かる。

 自分なら大介を、こんな面倒な場面で塁には出さないが、それでも出したらどうなるのか考えるからだ。

「スチールは警戒せず、バッター勝負でいいかと」

 そう進言すると、首脳陣も頷いてサインを出す。

 この状況では走られても、バッターを打ち取っていけばいい。

 もし点を取られても、まだ一点だと考えるのだ。


 事前のミーティングでも、今日はある程度の点の取り合いになるとは話し合っていた。

 それでも大介がランナーに出ると、こういう影響が出てきてしまう。

 打順調整でも出来るなら、そちらの方がいい。

 既にアウトカウントを一つは増やしているのだから、ここで二塁まで進まれることは想定内にしておくのだ。

 問題となるのは、ワンナウトの状況で三塁まで進まれてしまうこと。

 あるいはツーアウトであっても、三塁まで進まれれば失点の危機にはなるのだが。


 重要なのは三塁まで進まれても、失点にはまだ一段階あるということ。

 そして一点ぐらい取られても、まだ逆転の可能性はあるということだ。

 ライガースの投手陣には、絶対的なクローザーなどもいない。

 重要なのはとにかく、ビッグイニングを作らないこと。

 終盤まで何があるのか分からない。

 それが通常の野球であるのだ。

 直史や上杉が投げるような、次元のおかしな試合ではない。

 そのあたりを勘違いしない限りは、試合はツーアウトになってからでも分からないものであるのだ。




 野球は統計のスポーツであると同時に、偏りのあるスポーツでもある。

 この偏りの部分で、どのような判断が出来るか。

 それが超一流の選手や、超一流の監督と、それ以外の全てを隔てるものである。

 ライガースの山田が、そこまでの超一流であるか。

 少なくともこの数年のライガースの成績を見れば、勝負を上手くかけてくる指揮官であるとは思う。

 それに対して貞本は、まず安全策がある。

 保身と言うべきかもしれないが、これなら普通でしょうという選択をしてしまう。


 だから駄目なのだ。

 確かに当初は、育成型の指揮官として、チームを率いていたのだろう。

 しかし今のレックスは、もう完全に優勝を争っている存在だ。

 どこかでリスクを取らなければ、結局何もしないままに負けてしまうことになる。

(まあ俺には関係ないことはないんだが)

 直史としては、自分自身の目的は達成したのだ。

 だからここから先は、サービスタイムとなっている。

 サービスタイムにも全力を尽くしてしまうのが、直史という人間である。


 この回も、大介を無視して一点に抑えるのかどうか、そこが徹底出来ていない。

 もちろんイニングが進めば、失点の重要度も変わっていくだろう。

 だが今はまだ、それを恐れる場面ではない。

 大介を歩かせるなら歩かせるで、一失点ぐらいは覚悟しておくべきなのだ。

 ホームランでの確実な一点ではないのだから。


 ツーアウトになるまでに、大介は三塁まで進んでいる。

 だがツーアウトならもう、普通にファーストでアウトを取ればいい。

 なのにも関わらず、緊張のし過ぎであろう。

 野手たちがそうなのはともかく、ベンチはもっとどっしりとしていなければいけない。

 たとえば直史がそうであるように。

 内心ではかなり、この事態に危機感を抱いていたとしても。

(クリーンヒット、打たれてもおかしくないんだよな)

 そしてまさにクリーンヒットがタイムリーに出て、大介は二度目のホームを踏んだ。




 大介が絡むことによって、点が取られている。

 この認識は危険である。

 大介はホームランが打てるだけではなく、ランナーとしても危険なのだ。

 それは事実なのだが、考えすぎてしまうと逆にまずい。

 ランナーとなった大介を警戒しすぎるため、ピッチャーの集中力が削がれる。

 レギュラーシーズンと違いポストシーズンは、まさに神経戦であることが多い。


 直史から見ても三島は既に、ある程度消耗している。

 失点は一点だけにとどめているにも関わらず。

「迫水、失点を恐れすぎるなよ」

 直史はまず迫水に声をかけた。

「ある程度点を取られることは事前に言われていただろう。大介が絡んでいるならそれも当たり前なんだ。精神的なスタミナを削られると、そちらの方がまずいぞ」

 この言葉がどれほど、その心に届いていることか。


 やはり甲子園での試合というのは、そして相手がライガースというのは、どこか空気がおかしくなってしまう。

 直史は自分の冷静さを時々確かめているが、ベンチの内部の雰囲気が変わっていくのは分かるのだ。

 こういう時にこそ、采配を握る者が冷静でなければいけない。

(いや、ここで送りバントは)

 そうは思うが、あまり言い過ぎることはしない。

 その選択も、完全な誤りではないと思うからだ。




 しかし結果としては誤りで、得点機会が失われた。

 そこにドヤ顔で何かを述べたところで、内部の軋轢を生むのみである。

 なにしろ人間というのは感情で動く動物であるので。

(2-1のまま中盤が終わる)

 大介の三打席目が、得点に結びつかなかった。

 その事実だけを見て、良かったのだと結論付けるべきであろう。


 しかしロースコアゲームなら、レックス有利と思われていたはず。

 それなのにどうして、ロースコアなのにライガースが優位であるのか。

 もちろん昨日の試合で、結局レックスの方も、緒方の一発以外は点が取れなかったということはあるのかもしれないが。

 直史に封じられたライガースよりも、ランナーが点に結びつかなかった、レックス打線の方が深刻なのか。

 ただ直史の見る限りでは、単純に運勢の偏りが、この結果につながっているとしか見えないのだ。


 直史の場合は、その運勢の偏りさえも、自分でひっくり返すことがある。

 少なくとも周囲はそう見ているらしい。

 だがそれが無理で負けたことは何度もある。

 絶対的な差があれば、ピッチャー一人がどうしようと、その差をひっくり返すことは出来ない。

 それを否定するというならば、単純に不誠実なだけである。

 直史はレックスなら、ライガースに勝てると思っている。

 過去には二度クライマックスシリーズで勝ってきた。

 ただその時の舞台は、この甲子園ではなかったが。


 甲子園という舞台と、その観客席を埋め尽くす大応援団。

 それを相手にして、勝とうというのは難しい。

 まして甲子園で、とんでもない力を発揮する、大介がいるのであるから。

(どうやったら勝てる?)

 直史は明日の試合のことを考える。

 このまま流れがとどまったままなら、試合はライガースの勝利に終わるだろう。

 そうなった場合、第三戦は直史が投げるのだ。

(中一日で果たして、どこまで投げられるやら)

 それでも勝つためには、やらなければいけないことなのだ。



×××



 次話「耐久限界」

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