第111話 解放
ピッチングに極意などはない。
直史にそう言われてしまうと、色々な人が困ってしまうだろう。
ただ直史としては、一つだけ確実に言えることはある。
極意とか、基礎とか、鉄板などというものに囚われた時、ピッチングは限界を迎えてしまう。
ピッチングというのは、ただひたすらに自由なものである。
バッティングが投げられたボールに対応するものであるのとは、全く逆のものであるのだ。
(だから投げる方が好きなんだな)
一方の大介はおそらく、そのピッチングによって、ピッチャーが自分を抑え込むことに対して、抵抗するのが楽しいのだろう。
同じ野球の中でも、ピッチャーは一番ボールに触れている時間が長い。
それだけボールを支配している時間が長いとも言える。
野球というスポーツは、九人でプレイする。
その中でピッチャーは、交代の可能性が高い。
MLBであると試合が決まると、他のポジションもそれなりに交代することが多かった。
バッターはおよそ一試合に四打席。
守備についても、果たしてどれだけボールが回ってくるか。
それを考えれば、ピッチャーは特別なポジションである。
最も長くボールを持ち、最もボールを扱う。
そのためには最も、ボールに触れている必要がある。
少なくとも直史はそう考えている。
指先がしっとりと、ボールに引っかかるのが理想的だ。
四回の表、レックスはランナーこそ出したが得点にまでは至らず。
1-0のまま、四回の裏を迎える。
そして先頭打者は大介。
ライガースはこれで直史の前に、三試合連続でランナーを一人も出せていない。
もちろんこの試合は、まだ序盤が終わったところであるが。
しかし二回と三回の凡退で、直史の玉数は27球となっている。
偶然であろうが、全てのバッターを三球三振で打ち取ったのと同じ数である。
大介はちょっと悩んでしまう。
(なんだかまた、変なところに行ってねえか?)
マウンド上の直史の気配が、希薄になっているように感じる。
(さすがにこれ以上遠いところに行かれると、追いつくのが苦しいんだが)
アドバンテージを考えれば、ライガースは最悪、直史を打てなくても日本シリーズに進めなくはない。
理論的にはそうなのであるが、実際のところは違うであろう。
もしもそれで進めたとしても、さらにその先の日本シリーズではボロ負けするような気がする。
(勝つなら勝つで、責任持って日本一にならないといけないからな)
そう思って対峙するのだが、直史の気配が掴めない。
大介も年齢的には全盛期は過ぎているのだが、今はまだ経験や直感で勝負出来ている。
だが直史は、本気を出せばさらにその先にまで行ってしまう。
正直なところ、どうしてこうなるのかが分からない。
ブランクだとか年齢だとか、そういうものが全く当てはまらないのか。
他のスポーツに絡めて考えるなら、経験と技術、そしてメンタルが別格になるのだろう。
ただ大介は、直史が維持ではなく成長、あるいは変化しているのが本当にすごいと思うのだ。
もはや壊れてしまっても、全く問題のない状態。
そこに至って直史はリミッターを全部外して、それが肉体だけではなく思考や精神にまで及んでいるような気がする。
(気持ち良さそうに投げてるの、気がついてるかなあ)
試合を支配するピッチャーというのは、どういうものであるのか。
上杉はチームを向上させるピッチャーであった。
彼と会った直史が、果たして何を言われたのか。
直史は解放されている。
大介に対する複雑なコンビネーションは、確かに厄介なものである。
だがその厄介さを楽しむことが出来るのは、上杉のおかげであろうか。
ピッチャーである自分。
マウンドの上では、それだけの存在であればいい。
相手が誰とかは関係なく、とにかく打たれないピッチングをすればいい。
単純な話なのだ。
単純な目的に向かって、複雑なラインを辿っていく。
これはとても面白いものだ。
そして心地いいものだ。
(苦しいからこそ楽しいっていうのは、マゾの思考かと思ってたけど)
苦しいからこそ、その先の勝利は楽しいのだろう。
(多分今の俺は、俺史上最強だぞ)
初球のストレートを、大介は空振りした。
球速表示を見る。
(154km/h……確かにMAXだけど、それをここで出すのか)
それに体感としては、それよりも5km/h以上は速いと感じた。
キャッチャーからの返球に、すぐまた直史はセットポジションに入る。
(迷いがない)
判断力の早さは、確かに直史に特有のものではある。
(だけど早すぎないか?)
二球目のストレートも空振り。
同じスピードが出ているのに、それでも空振りしていた。
レギュラーシーズン終盤のピッチングから、あるいは今日の第一打席と比べても、明らかに変化している直史のピッチング。
大介はこれに対して、とりあえずこの打席で勝つのは諦めた。
バットのブリップを余して持つわけではないが、構えがバットを寝かせるようにする。
(よし)
そしてツーナッシングからのピッチングに、対応しようとした。
ただのストレートをキャッチするのが難しい。
もちろん直史のストレートに近いスピードのボールは、ムービング系にスルーと、厄介な球が多い。
だがこの打席に投げているストレートはなんなのだろうか。
迫水もまた、表示以上の球速を感じている。
(つまり減速の少ないボールなんだろうけど)
ライフル回転には至っていない。
ライフル回転になれば、それはジャイロボールである。
そしてわずかな変化があれば、それはムービング系の変化となる。
どういうスピンがかかっているのか、それがさっぱり分からない。
単純なバックスピンではないはずだが、ホップ成分がないなら大介が空振りするわけがない。
振り遅れではなく、ボールの下を振ってしまっているのだ。
(何をどうすればこういうストレートになるんだ?)
別にこれは、おかしなものでもないのだが。
ツーシーム回転をホップする形でかけているだけだ。
MLBではもうずっと前からやっているし、NPBでも普通に使われている。
ただ直史がここまで、使ってこなかったというだけで。
そのあたりを説明せずに投げている直史は、率直にいって極悪である。
ただ実際に迫水はキャッチ出来ているのだ。
大介のバッティングフォームが、わずかに変わる。
バットを寝かせて、より当たりやすい軌道になるようにしているのだろう。
(そこまでやるか)
当てるためのスイングなのだろう。
このとてつもないバッターが、そこまでやる覚悟で挑んでいる。
そのピッチャーと自分は、今組んでいるのだ。
幸運であると思うよりも先に、どこか怖くなってきたりもする。
大介のわずかなフォームの変化に、当然ながら直史は気づいている。
(そうなると)
次のボールで空振りを奪うことは出来ない。
なのでスルーを使うことにした。
パスボールだけは問題であるが、あとはなんとかなるだろう。
どうせ大介は、このボールは振らないであろうから。
リリースされたボールを、確かに大介は瞬時に見切った。
そして打とうと思えば打てるかな、とも思った。
もっともバウンドしたボールなど、どう微妙に変化するかは分からない。
しかしムービング系のボールを打つのと比べたら、さほどに違いはないのではないか。
ここまでを瞬時に考えて、結局はスイングせずに見送った。
迫水はミットでキャッチング出来ず、どうにか体で前に落としていた。
(そういや、パスボールでパーフェクトがなくなった試合もあったか)
まったく、さっさとパーフェクトを達成していたら、今の直史をもっと早くに見られただろうに。
これでカウントはワンツー。
まだピッチャー有利のカウントである。
ただ直史の狙いは、大介に落ちる軌道を見せることであったのだ。
ここからならば、ストレートがまた有効に使うことが出来る。
それどころかカーブなども上手く使って、より効果的にすることが出来る。
遊び球ではなく、念入りに仕込むためのボール。
迫水は大介に対しては、完全に直史にサインを委ねている。
そもそもMLBなどでは、何を投げるかというのは、基本的にミーティングで決めてしまうのだ。
しかしそれを実際に投げるかは、ピッチャーに委ねられる。
打たれてもキャッチャーのリードのせいにはならない。
そもそもキャッチャーのリードを重要としたのは、一つには野村克也、もう一つは水島新司の功績と罪業と言えるだろう。
直史は打たれるのはピッチャーの責任だと考える。
キャッチャーのリードに頷いたら、その時点でもうピッチャーの責任なのだ。
場合によってはあえて、間違いだと思ってもキャッチャーのサインに頷き、想像以上のボールを投げないといけないこともある。
もっとも直史はずっと、そういうキャッチャーとは長く組んでこなかった。
高校時代に倉田などに教えるために、そういうピッチングをしたことはあるが。
キャッチャーはパスボールと盗塁阻止が責任事項。
そして直史は盗塁などはさせない。
ランナーを牽制で刺した回数は、それほど多くない。
だがそもそも、出たランナーの母数が圧倒的に違うのだ。
牽制で殺したのを確率にするなら、圧倒的な高さになるだろう。
試行回数が少なすぎる、というのがネックになるが。
ここで直史はもう、他のボールは使わない。
ストレート一本で勝負する。
本格派に転向したわけではない。単純にこの場面は、これで抑えられると思ったからだ。
自分と相手の呼吸を、合わさないようにする。
完全なスイングが出来るタイミングになど、持って行ったりはしない。
ほんのわずかなタイミングのずれで、勝負出来るのだ。
ストレート。
日本の野球であれば、まず最初に教えられるボールである。
アレクなどは投手専門ではなかったが、基本的にカットからスライダーの変化のボールばかりを投げていたが。
直史はゆっくりと足を上げて、大介の呼吸を見定める。
(ここ!)
そして投じられたボールは、まさに高めへのストレート。
大介のバットは、それを捉えた。
右中間に上がったフライ。
それは高く上がりすぎたボールであった。
右中間の一番奥深く。
甲子園でホームランが出にくいのは、この右中間と左中間が広いからだ。
それでも大介の本来のスイングから生まれる打球なら、軽々とスタンドに入っていたであろう。
走ったセンターが、悠々と追いつくだけの高さがあってしまっていた。
フェンスにまであと二歩と行ったあたり。
外野からの野次がうるさかったが、問題なくキャッチする。
これで二打席目も、直史の勝利である。
勝利した方としては、かなりぎりぎりだったな、と飛距離が想像以上であったことを認める。
三打席目をどうするか、それを考えないといけない。
ただその前に、まずはこのイニングを抑えないといけないのだが。
(あと二点取ってくれたら、四打席目もしっかり勝負出来る)
一度は落としてしまった、脳の処理速度をまた上げていく。
ピッチャーにはギアを上げるという言葉があるが、直史の場合はオーバークロックとでも言った方がいいだろう。
五感から入ってくる情報を、より精度高く吸収し、それを脳で高速で分析する。
投げたボールは、想定通りに変化して、バッターのミートをわずかにミスさせる。
ただこのあたり、ライガースのバッターも粘って、カットしてくるようになった。
大介が二打席連続で凡退したことで、もうパーフェクトされる危険すら考えるようになったのだろう。
何がなんでも勝つ。
そういった意思を、ライガース全体から感じる直史である。
そこに投げるのは、ストレートである。
打てると思ってスイングすれば、ボールはかろうじて外野まで飛んでいく。
大介以外に対しては、定位置で守っている外野陣。
それが前進して、ツーアウトである。
(だいたい想定通りか)
もうちょっと飛距離の出るフライになるかな、とは思ったのだが。
球威が相手の予想以上で、わずかにおかしければポテンヒットになってもおかしくはなかった。
あと少し、調整の必要がある。
四回の裏が終わった。
レックスはわずか一点だがリードしている。
そして直史は得点を許さないどころか、ランナーが出ることも許さない。
今日もパーフェクトかと思わせるようなピッチングだが、以前に連続でライガース相手にパーフェクトを達成した時と違うのは、奪三振の少なさである。
ここまでにわずか四つの奪三振。
あの時はそれぞれ20個以上の三振を奪っていた。
今日は全くピッチングの内容が違う。
ピッチングの幅の違い。
今日の打たせて取るというものは、エラーなどの可能性や、それこそ上手く内野の間を抜いたり、ポテンヒットの可能性が出てくる。
しかし今日は、それをやっている。
ストレートはそれなりに、カウントを取るのにも決め球にも使っている。
だが圧倒的なものではない、気がする。
ライガースとしては、とりあえず当たらないほどのストレートではない、と直史の今日の出来を分析する。
もっとも大介に対した時だけは、ちょっと別のようであるが。
レギュラーシーズンとはやはり、ピッチングの内容が違う。
もちろんも大介も過去を見れば、ポストシーズンの成績は格段に違うのだが。
大介はレギュラーシーズン、直史から連続ホームランを打っている。
しかしその後、二試合連続でパーフェクトに抑えられている。
この実力差というのは、どう判断するべきなのか。
大介自身は、直史に追いつこうとしているのが、首脳陣からも分かる。
もっとも二人の差というのは、ごくわずかではあるが、それでも決定的なものだと感じたりもするが。
このまま一点差で進むのだろうか。
そうなるとレックス首脳陣としては、直史を降ろすことが出来ない。
せっかくオースティンといういいクローザーがいるのに、それでも直史ほどの確実性はない。
それにこの調子で投げれば、最終回に大介の四打席目が回ってくる可能性が高い。
そういうチャンスにものすごく強い大介相手に、直史以外を当てるのか。
敬遠するのならば、まったく問題ないのだが。
レックスの首脳陣は考えるが、とりあえず現状のまま展開するなら、動きようがない。
継投よりも考えるべきは、まず追加点である。
三点差あれば相手の打順にもよるが、リリーフする余地が出てくると思う。
ただ直史が三振を取らないのと引き換えに、球数を減らしているのは分かる。
四回まで投げて37球。
この先の試合までをも、投げる覚悟で組み立てているのか。
ピッチングに球数制限という枷をつけて、それでもこんなパフォーマンスを発揮している。
それは驚きと言うよりはもはや、残酷ですらある。
抑えられてしまうライガース打線もであるが、頼られないレックスの他のピッチャーたちも。
直史は傲慢であるのかもしれないが、それよりはやはり現実が残酷なのだ。
とにかく追加点が必要だ。
レックス打線はちゃんと、1イニングに一人程度の割合では、ランナーを出している。
しかしそれが点につながらないというのが、問題であるとは言える。
ライガースの大味だった守備などは、どこにいったのかとさえ思える。
それぐらいに点が入らない、緊張した試合となってきていた。
五回の表にも、レックスは出したランナーをホームに帰すことが出来ない。
こういったぎりぎりで抑えられるというのは、いい流れではない。
直史はパーフェクトを続けているが、スターズ戦と似た空気になっている。
もっともあれは、双方がパーフェクトという異常な空気の中の試合であったが。
ピッチャーの投球内容には圧倒的な差がある。
さらにレックスは、一点リードしている。
それなのに気配が似ているというのは、直史のピッチングでエラーでも出れば、その集中力が途切れてしまうと心配されるからか。
実際は緒方のエラーの後も、直史は崩れなかったが。
ライガースはスターズよりも、ずっと打線は強烈である。
一発が出れば即座に同点というこの状況は、緊迫したものだ。
ホームランの出にくい甲子園でも、そこをホームにしてライガースは、最多のホームランをリーグで打っているのだ。
もっとも直史としては、そこはあまり重要ではない。
データが揃っていれば、あとは人間コンピューターで計算するだけだ。
五回の裏は、当然ながら四番からという打順である。
序盤の3イニングパーフェクトはともかく、二巡目の大介を含むパーフェクトというのは、当たり前の危機感を抱かせる。
まずはなんとかノーヒットをどうにかしなければいけない。
実際に前のイニングでは、外野フライにまでは持っていっているのだ。
あと一歩何かがあれば、どうにかなるのではという期待がある。
奪三振をあまり狙ってきていないような、今日の直史。
ならばライガースの強打の打線で、遠くに飛ばすことは出来る。
そう考えてしまったのは、甘い見方であったのだろう。
直史はまず二人を三振で打ち取った後、六番を変化球で内野ゴロにしとめる。
まるでこちらの思考を読んだかのように、高めのストレートの釣り球で、三振を奪っているのだ。
極意とまでは言わないが、ピッチングのコツというのはあると思う。
圧倒するボールを持っていないなら、あとはバランスだ。
だいたいのバッターは対応の得意なボールと、苦手なボールを持っている。
苦手なボールを効果的に使って、得意なボールをわざと打たせる。
そうやってコンビネーションの幅で勝負する。
直史はその幅が広いので、相手を完封することが出来る。
ただそのボールを投げるところでピッチングの技術が終わらず、さらに深いところまで掘っていく。
元はと言えば、キャッチャーがちゃんと捕れる程度のボールで、どうバッターを抑えるかを問題としていたのだ。
それに比べればまずパスボールのない今の環境は、恵まれているとしか言えない。
あまり過去のことを考えすぎるのは、感傷的になってよくない。
もっとも甲子園が舞台であれば、ある程度は仕方がないと言えるのかもしれない。
ベンチに戻ってきて、水分と糖分、塩分を補給する。
いつものルーティンであるが、ただのルーティンではなく必要なことなのだ。
(消耗はどうなってるかな)
自分の体に訊いてみても、正しい答えが分からない。
一つ目の限界は超えてしまっているのだろう。
今は未知の、二つ目の限界に迫っている。
限界がいくつもあると思うのも、不思議なものだ。
むしろこれは限界ではなく、ただの壁であったのかもしれない。
あるいは道を塞ぐ、厄介な障害物。
その先にはちゃんと、まだ道がつながっている。
あるいは道ではないとしても、先が存在するのだ。
どこまで進めるかは、分からないとしても。
六回の表、とっくに三巡目に入っているレックス打線であるが、得点にはつながらない。
1-0のまま試合は続いていく。
次は下位打線からだと思いつつも、直史はベンチの中で集中力のコントロールを続ける。
このトランス状態を、ずっと続けるために。
おそらく試合の時間は、もう一時間はかからない。
上手くスイッチの切り替えをしないと、あらゆるところにダメージが残る。
まったく、もう誰のためでもないだろうに。
自分のために投げているのだろうか。
結局人間が、自分よりも他の誰かを大事にすることさえも、自分自身のためである。
それを考えれば、誰のために投げるかなどというのは、結局全ての人のためのものでもあるのか。
なんだか哲学的になってきて、逆に抽象的になってきた。
もっと形而下で考えればいい。
この試合に勝つことは、自分が勝ちたいと思っているから。
自分が勝つことが、息子のことにつながっていると感じるから。
他には大介が、全力での対決を望んでいるから。
チームのファンが望んでいるから、チームメイトが望んでいるから。
チームが望んでいるからなど、色々と希望を背負ってはいる。
だがそれは相手側も同じであり、そして別に勝つことを最終的な目標にしているわけでもない。
ピッチャーの直史と違い、大介は負けることと逆襲することに慣れている。
直史はもう、個人としては一度も負けたくない。
そしてこの個人の勝利が、チームの勝利にもつながるなら、それは幸いなことである。
(六回の裏か)
結局追加点はなく、ライガースの下位打線へ。
パーフェクトはいまだに継続中である。
「まさか、また狙ってるのかな」
早朝のニューヨーク。
明史の呟きに、一緒にテレビを見ていた瑞希は、その横顔を少しだけ見た。
人は本当に、奇跡のようなものを見ると、喜びと共に泣きそうになってしまう。
「狙っているかも」
「もう条件は満たしているのに?」
「お姉ちゃんの時も、同じだったから」
「姉さん?」
「そう、心臓の手術をした時」
明史には瑞希の言っていることが分からないし、瑞希もまたなぜ直史がそう考えるのか、はっきりと分かるわけではない。
ただ、ずっと一緒にいて、ずっと見守ってきたのだ。
ずっと観察してきたのだから、瑞希にも分かる。
「お父さんはね、たぶんパーフェクトをすればするほど、明史の手術の成功確率が上がると思ってる」
「いや、お父さんってそういう人じゃないでしょ」
「子供が親のことを分かるようになるには、とても長い時間が必要だから」
「非科学的だよ」
「あの人は昔から、非常識で、自分の力で奇跡を起こす人だったから」
全く父のことを疑っていない母の言葉に、明史は驚きを隠せない。
明史はかろうじて、直史の引退までの試合を憶えている。
だがそれがどれだけ凄いことか、当時は分からなかったものだ。
成長するにつれて、それがどれだけ人間としておかしなことか、分かるようになってきた。
100年以上の野球の歴史の中で、他に一人もいないピッチャー。
同時に今の野球の流れを考えると、今後も二度と出てこないであろうピッチャー。
それが自分の父親であるということ。ただその真価を知った今は、もうその奇跡を見られないということ。
明史は普通に死にたくないので、手術は避けられないかなと思っていた。
すぐにでも手術は受けるべきだと、理性では分かっていたのだ。
それでも恐怖はあったから、直史が奇跡を起こしてくれるなら、自分も大丈夫だと思いたかった。
それをポンポンと、こんなことは普通のことだと、日本のピッチャーの中でただ一人ということをやっている。
史上最高と呼ばれる上杉すらをも上回り。
これが、自分の父親?
自分の半身は、この人の遺伝子出来ている。
おかしな話だ。
親がどうであろうと、その子本人の価値を保障するものではない。
競走馬でさえも、実際に走ってみるまでは、どれだけ優れた親から生まれていても、その能力の保証はされない。
だがそういった理屈の全てを超越して、明史は感じている。
己があの人の、血を継いでいるという誇りを。
その明史の横顔を、紅潮した頬を、瑞希は見つめる。
おそらく子供たちの心臓の異常は、自分の遺伝子からのもの。
全く違うものであるが、瑞希にはある特定の遺伝子の珍しさがある。
それを受け継いでしまったのだと、上の二人のことは思っていた。
三人目は全く異常がなくて、そうとも限らないかと思ったものだが。
まだ小さな弟は、素直に父の活躍を喜んでいる。
真琴は一緒にそれを見て、率直に言って感動している。
こんなピッチャーが、本当にいるのだ。
もちろん記録を見て、映像を見ればそれは明らかだ。
だがこの瞬間に、直史は新しく伝説を更新していっている。
(私が馬鹿みたいだ)
こんなピッチングが出来るのに、どうして野球の世界から遠ざかっていたのか。
たびたび話題に出るのは、一つには故障したからであるという。
そしてもう一つは、家族との時間を取りたいというもの。
明史の病気がはっきりしてからも、まだ関係はそれほどおかしくはならなかった。
父と娘の間に、一方的な確執が出来てしまったのは、明史の未来に明確な断絶が見えてしまってから。
両親がそんな弟を優先するのは、当たり前のことだ。
だから自分は、何も邪魔などしなかった。
分かりやすくグレたり、犯罪をしたり、学校に呼び出されるようなこともしなかった。
それでも距離が出来てしまっていたことは感じていたのだ。
それなのに――。
(ずるいなあ)
こんなものを見せられてしまったら。
世界で一番かっこいいお父さんを見せられてしまったら、変な意地を張っているのが馬鹿みたいだ。
もう充分に、明史に手術を受けさせることには成功した。
そこからさらにやっていることは、誰のための、なんのためのものなのか。
もちろんたった一つの目的のためではないだろう。
しかし少なくとも、真琴には伝わってくる。
(頑張れ、お父さん)
お父さん、頑張れ。
相手は世界一のバッターがいるチームである。
それをここまで完全に封じている。
レギュラーシーズンの終盤から数えれば、もう24イニングも一人のランナーも出していない。
こんなこと、実力差の激しいシニアのチームの間でも、とても成立しない。
この光景を、絶対に忘れないようにしよう。
どれだけの時間が経過しようと、この時の気持ちを忘れないようにしよう。
いくら言葉を尽くしても、この感情を上回ることはない。
人間が成し得る、究極の姿の一つ。
空前絶後の大記録を、直史は続けている。
(私たちの中には、同じ血が流れている)
だから、と今なら思える。
(明史は絶対に大丈夫だし、私たちも絶対に大丈夫)
その確信を抱かせることを、奇跡と呼ぶ。
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